クロワッサン物語

コダーマ

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【第一章 ウィーン包囲】パン・コンパニオン

パン・コンパニオン(8)

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 反射的に小僧の襟首を引っ掴んで、シュターレンベルクは小屋を飛び出した。
 右手は背のマスケット銃の持ち手を握る。
 こんな小屋の中にいて万が一、火矢など射かけられてはたまらない。

 馬の元へ走る一瞬の間に、敵方もこちらの存在に気付いたと分かる。

 距離にして僅か五十メートル。
 瞬時に数えた人数は十三名。
 全員徒歩だ。
 頭にターバンを巻き、各々形の違う貫頭衣を着ていた。

 そこにいた軍勢がオスマン帝国最強の精鋭部隊イェニチェリでないことを確認し、まずは安堵する。
 彼らは揃いの衣服を着ているのですぐ分かるからだ。
 おそらく偵察を兼ねて、市壁近くの打ち捨てられた小屋群の占拠にやって来たのであろう。
 人の姿を見付け、向こうにも緊張が走ったのが分かった。

 合図と共に剣が抜かれ、九名が突っ込んでくる。
 特徴的な小振りで逆反りの剣からは、独特の鉄臭さが漂ってくる。
 これは血を吸ったことがある刃だ。

 小僧を馬上に押し上げ、自身も騎乗してからシュターレンベルクは腿に力を込めた。
 心得たもので、戦場慣れした栗毛は速足で駆け出す。
 両手で銃を扱うため、手綱を取ることは出来ない。
 太ももで馬の胴をはさみつけるようにして平衡を保ちつつ、背にしがみつく少年も気遣ってやらねばならない。

「ルイ・ジュリアス、リヒャルト、先に走れ」

 馬の速度を活かして逃げ切るつもりだ。

 迂闊だった。
 不意の鉢合わせから交戦、双方に犠牲が出る。
 復讐心も手伝って本格的な戦闘に突入するというのはよくある話だ。

「ま、待ってくださ……」

 リヒャルトの悲鳴。
 騎乗したは良いが、本人の恐怖が伝わったか馬が暴れて、彼はその首にしがみついていた。
 手綱を取るどころではない。

 オスマン歩兵はまずはリヒャルトに狙いをつけたようだ。
 あろうことか、リヒャルトの馬はそちらの方向へとよろよろと進んでいく。
 指揮官の指示通りに馬を走らせていたルイ・ジュリアスが戻ってくるのが、視野の端で確認できた。

「くそっ、役に立たん息子だ」

 指揮官は馬首を転じた。
 ベルトに鞄が装着されている。
 そこから小さな包みを取り出した。
 手の平にいくつも乗せることができるサイズで、砂のようなものが入っていることが包み紙ごしに見てとれた。
 シュターレンベルクは歯で包み紙の端を切り破り、中に入っていた少量の黒い砂をマスケット銃の銃口へサラサラと流し込む。
 黒色火薬だ。

 それは弾薬と弾丸をあらかじめ計測して、適量をひとまとめにして包んでいたものであった。
 時間のかかる装填作業が、これで一気に短縮できるということで、マスケット銃を扱う武人にとっては戦場では必須の持ち物だ。

 使い方は至って簡単。
 マスケットの銃口に火薬を突き固め、包み紙ごと弾丸を放り入れる。
 あとは銃口を敵に向けて引金を引くだけだ。

「見てたな。俺が発砲している間に、お前はこの包みを破いて準備していろ」

 後ろの少年に向かって告げる。
 指揮官の有無を言わせぬ口調に、しかし小僧はブンブン首を振った。

「い、嫌だよ。僕はパン屋だよ! 火薬の臭いがついた手で生地をこねられないよッ」

「……そう言うな」

 ぶん殴ってやりたい衝動をとにかく堪える。
 時はない。
 一瞬だって時間はない。
 だが、それでもシュターレンベルクは短く、だが深く息を吸った。
 そして、吐く。

 若者に苛ついてはいけない。
 彼らはこう見えて繊細なのだ。
 戦場での経験も、宮中での忍耐と深謀遠慮も経験していない。
 彼らは我が強い。
 それなのに打たれ弱い。
 ここは大人がぐっと堪え……堪えて助力して……ええい、堪え、きれるかっ!

「死にたくないなら言うことを聞け!」

 軍人としての理性はこの一瞬、吹き飛んでいた。
 出来ないと言うなら俺が殺すぞ、小僧を怒鳴りつける。

「ひいぃぃぃん……!」

 少年が泣きながらもシュターレンベルクの鞄に手を突っ込んで包み紙を取る姿を確認し、今度はルイ・ジュリアスに目配せする。
 こちらは銃の装填は完了しているようだ。

「いいな、ルイ・ジュリアス。マスケット銃の精度は低い。だからこそ、だ。狙いすました最初の一発が重要だ。十分引き付けてから……よし、今だ、撃て!」

 低い爆発音と同時にリヒャルトに向かっていた先頭の一人が崩れ落ちた。
 尚も立ち上がろうとしているところを見ると、急所は大きく外したようだ。
 だが、それで良い。戦列に復帰できなければ十分だ。

 続いてもう一人。
 額を撃ち抜かれ、後方へ倒れる。
 今度はシュターレンベルクの狙いであった。
 少年から火薬を受け取り、もう一発。
 火皿から火花が散って銃身内の装薬に点火され、弾丸が発射される。
 これで三人。

 しかし思いのほか手間取ってしまった。
 装填はもう間に合わない。
 マスケット銃を後ろの小僧に押し付ける。
 シュターレンベルク、それからルイ・ジュリアスも剣を抜いた。
 飛距離も短く、更に弾込めに時間のかかる銃は、戦場の種類を選ぶ。
 だから敵も実用的な剣のみを装備しているのだ。
 そして、その刃は今しもリヒャルトの眼前に迫ろうとしていた。

 四対十──実質、二対十なわけだ。
 不利は明らか。

 その時だ。
 リヒャルトの元へと集中していた兵の足が、僅かに乱れた。
 シュターレンベルクの装いと馬から、高位の者と判断したのだろう。
 狙いをこちらに転じた様子だ。
 剣を振りかざして襲い来る。
 ならば好都合だ。
 シュターレンベルクは馬の腹を踵で蹴り、オスマン兵の中に躍り出た。
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