30 / 87
踊る炎
踊る炎(6)
しおりを挟む
「フン! き、気にすることはありません。貴方がフランス人だからといってスパイ行為を行っているなどという噂は信憑性に欠けていますから」
「リヒャルト殿?」
「皇帝陛下や父に気に入られて、ここオーストリアで地位を得たと言っても、しょせんは異国人だと陰口を言う者も宮中にはいます。フランスの血が流れているというだけであらぬ疑いをかける者もいるでしょう」
オスマン帝国軍から、ハンガリーから、そしてフランスからも。
この街にスパイが入り込んでいるという噂は、リヒャルトも何度も耳にしていた。
事実は定かではないが、西の大国が東の大国を快く思わないのは当然で、信憑性を問うまでもなく多くの者が納得する話ではある。
ルイ・ジュリアスは気にしているのだろうか──そんな話を聞く度にリヒャルトは思っていた。
いい気味ですという気持ちも半分あったのは否定できない。
「父は実力主義者です。オーストリア人でも、ドイツ人でも、ハンガリー人でも、もちろんフランス人でも有能な人物を好みます。ですから、国籍など気にする必要はありません」
「……リヒャルト殿」
ルイ・ジュリアスの笑みが変わった。
リヒャルトの眼前で。目を細めて、顔を崩して。
それは全く邪気のない笑顔である。
「気にしてないって、そんなこと」
「そ、それならいいんですが……」
リヒャルトは戸惑いを隠せない。
いけません。動揺しては負けです、なんて自分に言い聞かせたりして。
そうだ、つられて笑ったりしてみろ。
たちまち懐に入られて、この男のお友達にされてしまう。
おお怖い。「閣下のお気に入り」のこのあざとさ。
おそらく父に対してもこの手法ですり寄っていったに違いあるまい。
「時々、妙なことを言う奴はいるさ。でも気にしない。少なくとも閣下は自分を信じてくれてるし、自分だって閣下を尊敬している」
「そ、そうですかね。父はどちらかというと人に嫌われる方かと思うのですがね」
命令は頭ごなしだし、えこひいきするし。
短気だし言葉がきついし。
それから……。
不思議なことに悪口はすらすら出てくる。
ルイ・ジュリアスが口元を妙に震わせたのは、笑みをこらえたに違いない。
思い当たる節があるのだろう。
「まぁ、口が悪いのはリヒャルト殿も大概だけど」
「な、何を! 私など可愛いものです。それに私は上品です」
「自分で言うし!」
ルイ・ジュリアスの笑い声に、リヒャルトは困ってしまった。
そんな風に笑うな。
頑なだった心がするすると解けてしまうではないか。
口元が緩み、喉が鳴る。
肺の奥からこみ上げる「ヒィヒィ」という呼吸音は「笑い」としか判断できなかった。
ルイ・ジュリアスなんて嫌いだ。
なのに何故、今こんなに楽しいのだ。
二人はその場で話をした。
地面に燻る火に足の裏を擦りつけながら、二人はこんな状況にも関わらず話をした。
グイードがことあるごとに歌いたがるので辟易していること。
あの音痴をシュテッフルの塔から歌わせたら、敵兵も逃げ出すんじゃないかなんて。
それから昼間出会ったあのおかしなパン屋は、何でも理想のパンを求めて旅しているらしいこと。
何だ、理想のパンって。このご時世でよく言うよ。
呑気な奴だなとルイ・ジュリアスが噴き出し、つられてリヒャルトも笑った。
「何なのですか、あの者は」
「相当の変人だな。一人で小屋に立て籠もってたし」
でも──。
リヒャルトの声が沈む。
「あのパン屋、父にすっと馴染みました。懐に入るのが上手いというのでしょうか。貴方だってそうですが……」
自分にはこんなに難しいことなのにと小さく続ける。
そんなリヒャルトを前に、ルイ・ジュリアスが口ごもった。
「リヒャルト殿……」
「集落の避難も火災防止のための活動も、父から与えられた大切な仕事なのです。私だって頑張っているのに。なのにちっとも上手くいかない……」
不意に声が掠れた。
今だってそうだ。
ルイ・ジュリアスの機転がなければ小火ひとつとして消すことは出来なかったろう。
「リヒャルト殿……閣下の役に立ちたいと思ってるんだな」
慰められようとしているのが分かって、リヒャルトは唇を噛む。
「自分だって同じ思いだ。閣下が今、孤立無援なら二人で閣下のお役に立とう。な?」
「な、何ですか。そんなこと貴方に言われなくたって分かって……」
視界がぼやける。
途端、何もかもこらえきれなくなった。
「リヒャルト殿?」
「皇帝陛下や父に気に入られて、ここオーストリアで地位を得たと言っても、しょせんは異国人だと陰口を言う者も宮中にはいます。フランスの血が流れているというだけであらぬ疑いをかける者もいるでしょう」
オスマン帝国軍から、ハンガリーから、そしてフランスからも。
この街にスパイが入り込んでいるという噂は、リヒャルトも何度も耳にしていた。
事実は定かではないが、西の大国が東の大国を快く思わないのは当然で、信憑性を問うまでもなく多くの者が納得する話ではある。
ルイ・ジュリアスは気にしているのだろうか──そんな話を聞く度にリヒャルトは思っていた。
いい気味ですという気持ちも半分あったのは否定できない。
「父は実力主義者です。オーストリア人でも、ドイツ人でも、ハンガリー人でも、もちろんフランス人でも有能な人物を好みます。ですから、国籍など気にする必要はありません」
「……リヒャルト殿」
ルイ・ジュリアスの笑みが変わった。
リヒャルトの眼前で。目を細めて、顔を崩して。
それは全く邪気のない笑顔である。
「気にしてないって、そんなこと」
「そ、それならいいんですが……」
リヒャルトは戸惑いを隠せない。
いけません。動揺しては負けです、なんて自分に言い聞かせたりして。
そうだ、つられて笑ったりしてみろ。
たちまち懐に入られて、この男のお友達にされてしまう。
おお怖い。「閣下のお気に入り」のこのあざとさ。
おそらく父に対してもこの手法ですり寄っていったに違いあるまい。
「時々、妙なことを言う奴はいるさ。でも気にしない。少なくとも閣下は自分を信じてくれてるし、自分だって閣下を尊敬している」
「そ、そうですかね。父はどちらかというと人に嫌われる方かと思うのですがね」
命令は頭ごなしだし、えこひいきするし。
短気だし言葉がきついし。
それから……。
不思議なことに悪口はすらすら出てくる。
ルイ・ジュリアスが口元を妙に震わせたのは、笑みをこらえたに違いない。
思い当たる節があるのだろう。
「まぁ、口が悪いのはリヒャルト殿も大概だけど」
「な、何を! 私など可愛いものです。それに私は上品です」
「自分で言うし!」
ルイ・ジュリアスの笑い声に、リヒャルトは困ってしまった。
そんな風に笑うな。
頑なだった心がするすると解けてしまうではないか。
口元が緩み、喉が鳴る。
肺の奥からこみ上げる「ヒィヒィ」という呼吸音は「笑い」としか判断できなかった。
ルイ・ジュリアスなんて嫌いだ。
なのに何故、今こんなに楽しいのだ。
二人はその場で話をした。
地面に燻る火に足の裏を擦りつけながら、二人はこんな状況にも関わらず話をした。
グイードがことあるごとに歌いたがるので辟易していること。
あの音痴をシュテッフルの塔から歌わせたら、敵兵も逃げ出すんじゃないかなんて。
それから昼間出会ったあのおかしなパン屋は、何でも理想のパンを求めて旅しているらしいこと。
何だ、理想のパンって。このご時世でよく言うよ。
呑気な奴だなとルイ・ジュリアスが噴き出し、つられてリヒャルトも笑った。
「何なのですか、あの者は」
「相当の変人だな。一人で小屋に立て籠もってたし」
でも──。
リヒャルトの声が沈む。
「あのパン屋、父にすっと馴染みました。懐に入るのが上手いというのでしょうか。貴方だってそうですが……」
自分にはこんなに難しいことなのにと小さく続ける。
そんなリヒャルトを前に、ルイ・ジュリアスが口ごもった。
「リヒャルト殿……」
「集落の避難も火災防止のための活動も、父から与えられた大切な仕事なのです。私だって頑張っているのに。なのにちっとも上手くいかない……」
不意に声が掠れた。
今だってそうだ。
ルイ・ジュリアスの機転がなければ小火ひとつとして消すことは出来なかったろう。
「リヒャルト殿……閣下の役に立ちたいと思ってるんだな」
慰められようとしているのが分かって、リヒャルトは唇を噛む。
「自分だって同じ思いだ。閣下が今、孤立無援なら二人で閣下のお役に立とう。な?」
「な、何ですか。そんなこと貴方に言われなくたって分かって……」
視界がぼやける。
途端、何もかもこらえきれなくなった。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる