31 / 87
踊る炎
踊る炎(7)
しおりを挟む
「私はシュターレンベルク家の次期当主なのですから。上手くやらなくては。ええ、絶対に絶対に上手く切り抜けて……」
零れ落ちる涙。ぽろぽろと。
雫はすぐに大きな流れとなり幾筋もの跡をつくって頬を濡らす。
戸惑い気味に自分の名を呼ぶ同僚の顔を、リヒャルトは初めて真っ直ぐに見た。
「貴方なんて、敵じゃないんですから」
真顔に戻って、噛み締めるようにゆっくりと言葉を吐き出す。
今度はさすがにルイ・ジュリアスも不満気に声をあげかけた。
口をつぐんだのはリヒャルトが穏やかに、実に穏やかな口調でこう続けたからだ。
「ずっと敵だと思っていました。でも違うのですね。貴方は味方なんです。父にとっても私にとっても、貴方は大切な仲間なのですね」
ルイ・ジュリアスは微かな笑みを返した。
何を分かり切ったことを。自分たちが仲間なのは当たり前のことだろうがと小さく呟く。
視線を逸らしかけたのは、照れがあったからだろう。
だが、リヒャルトはそれを許さなかった。
「ではルイ・ジュリアス殿、お尋ねします。貴方が後をつけていたのは一体誰なのですか」
「そ、それは……」
聡明な青の眼が震えた。
躊躇する様子。
リヒャルトが催促の意を込めて頷いて見せると、彼は困ったように口元を結んだ。
「さあ、仰ってください。ルイ・ジュリアス殿」
対等という言葉が浮かんだ。
今の自分の言葉は力を持っている。
自分の手は無力ではない。
その証拠に、ルイ・ジュリアスはリヒャルトを信頼して何か言おうとしてくれているではないか。
──見間違いじゃない……しばらく前からおかしいと思って……閣下には言えないし。でも何かあってからでは遅いし……。
「何の話です、ルイ・ジュリアス殿?」
切れ切れの言葉。
独り言に近い。
声が低く、うまく聞き取れない。
名を呼ぶと、ようやくルイ・ジュリアスは切り出した。
「さっき自分が後を付けていたのは……落ち着いて聞いてくれ。間違いない。あれはリヒャルト殿の……」
突然。
オスマン軍の大太鼓の音が闇を裂いた。
何ですか、いきなり。こんな夜遅くに。
きょろきょろと周囲を見渡すリヒャルト。
太鼓は一音だけ。
楽団が後に続くことはなかった。
音楽なんかじゃない──そう悟るのに、さらに数秒の時を有する。
目の前でルイ・ジュリアスが小さく口を開けた。
ゴボと音たてて溢れ出る鮮血。
ずっとずっと憎んでいた男の黒目がぐるりと上瞼の裏に吸い込まれる。
ゆっくりゆっくり。
ルイ・ジュリアスの身体が崩れ落ち、しかしリヒャルトは手を差し伸べることすらできなかった。
ただ、その場に突っ立っているだけ。
何が起きたのです──その言葉ばかりが頭の中を巡る。
中身の詰まった樽が二階窓から街路に激突するかのような異音に、ようやく身体の硬直が解けた。
ルイ・ジュリアスが倒れたのだ。
どろりと濃い赤の液体がリヒャルトの靴を汚す。
それが血液であると、そしてルイ・ジュリアスから流れ出たものであると気付くのに、ゆっくりと一呼吸の時間を有する。
「だ、だ……だれかぁぁ!」
金切り声が迸った。
「誰か助けて! 助けてください。死んでしまう。このままでは死んでしまいます!」
それは感情が暴れる声であった。
倒れた男の身体を抱え起こすと、それが既にぐにゃりと力を失ってしまっていることに戦慄する。
助けてと叫びながら、リヒャルトの胸に去来する感情。
黒く立ち込める雲に周囲を覆われ、徐々に包囲を狭められていく恐怖。
この男が死んでしまったら──父はどうなる? ウィーンはどうなってしまうのだ。
「助けてっ!」
──誰も助けてなんてくれないわ。
幻聴か? いや違う。
左の耳に、呪いのような言葉が微かに響く。
幻聴なんかじゃない。
振り返る。
一番見たくない姿をそこに捕え、リヒャルトは絶望した。
零れ落ちる涙。ぽろぽろと。
雫はすぐに大きな流れとなり幾筋もの跡をつくって頬を濡らす。
戸惑い気味に自分の名を呼ぶ同僚の顔を、リヒャルトは初めて真っ直ぐに見た。
「貴方なんて、敵じゃないんですから」
真顔に戻って、噛み締めるようにゆっくりと言葉を吐き出す。
今度はさすがにルイ・ジュリアスも不満気に声をあげかけた。
口をつぐんだのはリヒャルトが穏やかに、実に穏やかな口調でこう続けたからだ。
「ずっと敵だと思っていました。でも違うのですね。貴方は味方なんです。父にとっても私にとっても、貴方は大切な仲間なのですね」
ルイ・ジュリアスは微かな笑みを返した。
何を分かり切ったことを。自分たちが仲間なのは当たり前のことだろうがと小さく呟く。
視線を逸らしかけたのは、照れがあったからだろう。
だが、リヒャルトはそれを許さなかった。
「ではルイ・ジュリアス殿、お尋ねします。貴方が後をつけていたのは一体誰なのですか」
「そ、それは……」
聡明な青の眼が震えた。
躊躇する様子。
リヒャルトが催促の意を込めて頷いて見せると、彼は困ったように口元を結んだ。
「さあ、仰ってください。ルイ・ジュリアス殿」
対等という言葉が浮かんだ。
今の自分の言葉は力を持っている。
自分の手は無力ではない。
その証拠に、ルイ・ジュリアスはリヒャルトを信頼して何か言おうとしてくれているではないか。
──見間違いじゃない……しばらく前からおかしいと思って……閣下には言えないし。でも何かあってからでは遅いし……。
「何の話です、ルイ・ジュリアス殿?」
切れ切れの言葉。
独り言に近い。
声が低く、うまく聞き取れない。
名を呼ぶと、ようやくルイ・ジュリアスは切り出した。
「さっき自分が後を付けていたのは……落ち着いて聞いてくれ。間違いない。あれはリヒャルト殿の……」
突然。
オスマン軍の大太鼓の音が闇を裂いた。
何ですか、いきなり。こんな夜遅くに。
きょろきょろと周囲を見渡すリヒャルト。
太鼓は一音だけ。
楽団が後に続くことはなかった。
音楽なんかじゃない──そう悟るのに、さらに数秒の時を有する。
目の前でルイ・ジュリアスが小さく口を開けた。
ゴボと音たてて溢れ出る鮮血。
ずっとずっと憎んでいた男の黒目がぐるりと上瞼の裏に吸い込まれる。
ゆっくりゆっくり。
ルイ・ジュリアスの身体が崩れ落ち、しかしリヒャルトは手を差し伸べることすらできなかった。
ただ、その場に突っ立っているだけ。
何が起きたのです──その言葉ばかりが頭の中を巡る。
中身の詰まった樽が二階窓から街路に激突するかのような異音に、ようやく身体の硬直が解けた。
ルイ・ジュリアスが倒れたのだ。
どろりと濃い赤の液体がリヒャルトの靴を汚す。
それが血液であると、そしてルイ・ジュリアスから流れ出たものであると気付くのに、ゆっくりと一呼吸の時間を有する。
「だ、だ……だれかぁぁ!」
金切り声が迸った。
「誰か助けて! 助けてください。死んでしまう。このままでは死んでしまいます!」
それは感情が暴れる声であった。
倒れた男の身体を抱え起こすと、それが既にぐにゃりと力を失ってしまっていることに戦慄する。
助けてと叫びながら、リヒャルトの胸に去来する感情。
黒く立ち込める雲に周囲を覆われ、徐々に包囲を狭められていく恐怖。
この男が死んでしまったら──父はどうなる? ウィーンはどうなってしまうのだ。
「助けてっ!」
──誰も助けてなんてくれないわ。
幻聴か? いや違う。
左の耳に、呪いのような言葉が微かに響く。
幻聴なんかじゃない。
振り返る。
一番見たくない姿をそこに捕え、リヒャルトは絶望した。
10
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる