クロワッサン物語

コダーマ

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ひそむ闇

ひそむ闇(5)

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「ほっといてください。ちゃんと寝てますよ」

 しっしっと追い払う仕草をすると、ヨハンは「はいはい」と立ち上がった。
 正確には窓から下が見えないよう、怖々と中腰で後ずさる。

「やれやれ。司令官殿が笑って、泣いたので、ぼくは帰りますよ」

「あ、ああ」

 気を付けてくださいと言うべきか、それともここは礼を述べるべきなのか。
 シュターレンベルクがまごついている間に、ヨハンは下り階段に足を踏み出す。
 二段ほど降りたところで、こちらを振り返った。

「なに、寒くなったらオスマン軍は野営を続けていられず国へ帰るでしょう。冬になるまで壁の中で共に耐えましょうそ、防衛司令官殿」

 それまで、決して死んではなりませんよ──そんな呟きを残して、彼の姿は階段の下に吸い込まれる。

 ちょっと怪我をしただけなのに、これほど気遣われるとは。
 もしかしたら死相でも出ていたのだろうか。
 たとえそうだとしても、今崩れるわけにはいかない。
 自分が崩れればこの都市は滅びる。
 市民たちは死ぬ。
 己の無力さを突き付けられる。
 あんな思いはもう二度と御免だ。

 シュターレンベルクは一つだけ、市長に嘘をついていた。
 本当はこの数週間、眠っていない──一瞬たりとて。包囲が始まった時から、一睡もしていない。
 精神が高揚し、いつもより口数が多くなっていることも自覚している。
 脳内には明晰な思考が次々と浮かび、身体の動きもいつもよりずっと軽やかだ。

 すべてが現実のこととは思えない。
 時折、夢の中を漂っているかのような感覚に陥ることもある。
 とうに塞がったはずの腹の傷がシクシクと痛んで、我に返るのだ。

 可愛かったエルミアがあの夜、豹変したこと。
 揉みあっているうちに動かなくなってしまったこと。
 そして、そのまま消えてしまったこと。

 空に浮かぶ月の形は、あの夜とほとんど変わっていない。
 だって、あれからほんの数日しか経っていないのだから。
 なのに遠く感じる。
 そもそも自分は彼女のことを何ひとつ知らない。
 何歳なのか、どこ出身なのか、エルミアという名が本名なのかすら分からない。

 ──誇り高いあなたが好きだった。それは本当よ。

 彼女はそう言った。
 その声も、もはや思い出せない。
 美しかったはずのその姿さえも、記憶の中で薄れている。
 気付けば、エルミアを思う時間は減っていた。

 頬に滴の当たる感触。
 今度こそ本当に涙かと一瞬怯むが、すぐにそれが雨だと気付く。
 霧のような細い雨。
 風に煽られて塔の中に吹きこんでくる。
 いつ降り出したのだろうか。
 この様子では、すぐには止みそうにはない。

「奴らのトンネル掘りは、明日は休みだな」

 グラシの向こうの篝火に視線を送る。
 呑気なもので、彼らは雨天は作業を中断してくれるのだ。
 こういう時くらい兵らを休ませてやりたいものだが、そうもいくまいと考える。
 足元をすくわれて、また市内へ侵入されてはならない。
 敵は確実に中にも潜んでいる。
 一瞬たりとて気を抜くわけにはいかなかった。

 そろそろ行くか、とシュターレンベルクは立ち上がる。
 いつまでもここに居るわけにはいかない。
 塔から降りて、鬱陶しいがバーデン伯の様子でも伺ってやらねばならないか。

 右足を引きずりながら、先程市長が消えた階段の方へと向かう。
 登りはいいけど、下りがきついんだよなとぼやきながら一歩足を踏み出したその瞬間。

 グラリ。
 足元が揺らいだ。
 階段が崩れ落ちたのではないかというほどの振動。

 同時に爆音。
 空気の塊に側頭部を殴られ、シュターレンベルクは咄嗟にその場にうずくまる。
 そうでもしなければ、螺旋階段を下まで吹き飛ばされてしまいそうだった。
 足裏にビリビリとした振動が伝わってくる。

 視野の端に一瞬映った光景に、彼は驚愕した。
 息を詰めて振り返る。
 階段、小部屋、窓──さっきまで自身が座っていた窓枠が、完全に抉れているではないか。

 何が起こった?
 爆撃を受けた?

 シャーヒー砲では無理だ。
 ここまで届くはずがない。
 ならばコロンボルナ砲か。

 いや、それよりも何故この位置を?
 ピンポイントで狙ったとしか思えない。
 自分がいつもいる位置を、誰かが敵に流したのか。

 そう思った瞬間、シュターレンベルクは階段を駆け下りていた。
 塔から飛び出すと、周囲に詰めていた兵らが口々に何事か叫ぶ。
 指揮官の身を案じての事だろうが、シュターレンベルクは彼らを押し退けて走り出す。
 足や腕の痛みなど完全に消し飛んでいた。

 防衛司令官の居所を敵は熟知していた。
 そうに違いない。
 でなければ狙撃に近いあんな砲撃は不可能だ。

 ならば──ウィーンを陥とすうえで、もう一人の重要人物。

 あんな感じだが市長は人格者だ。
 市民をまとめ、団結させている。
 彼を慕ってカプツィナー教会への避難者は他の建物に比べて圧倒的に多いくらいだ。

 ヒュン──鉛の塊が高速で空気を切り裂く嫌な音。
 走るシュターレンベルクの頭上だ。

 次の瞬間。
 ドンと爆音が地面を震わせた。
 あちこちで悲鳴があがり、通りが人で溢れ返る。
 人をかき分けて走るにつれ、悲鳴は大きくなっていった。

 カプツィナー教会は王宮のすぐ側に位置し、皇帝一族の納骨堂とされている。
 そして、そこには市長がいる。
 多くの市民や避難民、そして娘のマリア・カタリーナも。

 今、シュターレンベルクの目の前でカプツィナー教会は瓦礫と化していた。
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