74 / 87
カーレンベルクの戦い
カーレンベルクの戦い(4)
しおりを挟む
「……エルミア?」
華奢な姿。
部屋の中央に立ち尽くす人物の髪の黄金色が、シュターレンベルクの魂を射抜く。
つややかな白い肌。
頬から顎、首にかけてのなめらかな曲線。
果実のように艶めく唇。
幻ではない。
確かな質感をもってそこに居る。
ゆっくりと近付いて。
「エ、エルミアなのか……」
恐る恐る手をのばし指先が触れると、細い肩はビクリと震えた。
構わず背に腕を回す。
様々な感情が、愛おしさと共に込み上がってくる。
「エルミア、エルミ……ア?」
抱きしめた身体の意外な薄さに、ふと手が止まった。
彼女が一言も喋らないことに訝しさも芽生える。
抱きしめたまま、その顔を覗き込んだ。
そこにあったのは、冴え冴えとした緑の光。
──違う!
弾かれたように身体を離したその瞬間。
「エルミア」が初めて口を開いた。
「……エルミア・マルギトは土の下にいたよ」
高い声。
だが、それは甘やかな女のものではない。
「誰だ、お前……」
エルミアに見える。
この人物は、紛れもなくあの女の顔をしていた。
幽霊? 呪い? そんな馬鹿な……。
そのとき、目の前の「女」がニヤリと笑ったような気がした。
誰だなんて、尋ねる間でもないでしょうに。閣下──と。
そう、ここはシュターレンベルク自身の部屋。
今ここにいるのは、あの小僧だ。
鍵のかかるこの部屋に、とりあえず閉じ込めておけとシュターレンベルクが自ら命じたのだから。
救援軍が近付いている。
どう転んでもウィーンには、じきに他国の軍が入って来ることになろう。
決戦に勝てば救援軍が。
そうでなければオスマン帝国軍が。
そのとき、こんな所に閉じ込められたままではややこしいことになりかねない。
こっそり逃がしてやろうと思い立ってここまで来たのだ。
ここに閉じ込めた人物は何かをやらかしたのかもしれない。
しかしシュターレンベルクが、フランツから悪意を感じたことはただの一度もなかったから。
「エルミア……いや、フランツなのか? 誰だ?」
思考がまとまらないのは疲れのせいもあるかもしれない。
何せこの二か月、ちっとも寝ていない。
よく見れば分かるのかもしれないな。
この顔をじっと見れば、この人物が誰で、何故こんな風にここに立っているかが理解できるはず──そう思ってその顔を覗き込んだときのこと。
胸に衝撃。
そいつの拳がシュターレンベルクの上体に叩きつけられたのだ。
見下ろすと、細い肩がわなないている。
整った顔を大きく歪め、緑の双眸からポロポロと涙をこぼしながら、少年は唇を噛みしめていた。
「なんで……姉さんが……」
無抵抗にその場に立ち尽くしながら、シュターレンベルクの思考はようやく鈍い回転をはじめた。
この者の名はフランツ・マルギト。
さっき彼は言っていたな。
エルミア・マルギトは土の下にいたと。
アウフミラーの描画を思い出す。
天使の顔はフランツにそっくりに見えた。
だが、待て。
あの顔を、シュターレンベルクは他にも知っている。
そう、天使は柔らかく、たおやかで女性のような容姿であった。
あの絵はきっとエルミアを思って描かれたものに違いない。
何故今まで気付かなかったのか。それほどに天使と彼女はよく似ていた。
それらが両立するのは、エルミアとフランツがそっくりだったからだ。
ようやく思い至った。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
二人は同じ明るい緑色の瞳を持っていたというのに。
「どういうことだ。お前は一体エルミアの何なんだ。土の下ってどういう……」
この部屋の窓には、外から板を打ち付けることになっていた。
捕えたフランツの脱走を防ぐためである。
しかし兵士らは皆、それぞれの仕事で手いっぱいだったのだろう。
窓はそのままになっていた。
だから内から簡単に鍵を外し、フランツは庭へ出たのだろう。
そのまま外へ脱出するには、さすがに王宮には兵士の数が多く、断念したと思われる。
しかし忙しい兵士らは皇帝の庭になど目を向けない。
フランツは何度も庭に出たのだろう。
もしかしたらこっそり手に入れたジャガイモを植えていたのかもしれない。
力を失ったフランツの身体を押しのけ、シュターレンベルクは立ち上がる。
フラリ。足をもつれさせながら窓辺へ。
部屋を出て数歩先の地面が不自然に盛り上がっていることには、すぐに気付いた。
その一部が抉るように削られていることにも。
ちらと後ろを振り返ると、フランツも強張った表情で同じ所を見ていることが分かる。
おりしもの雨で地面はぬかるみ、まるで何かを埋めたかのようにその山の一角は崩れていた。
吸い寄せられるように数歩。
シュターレンベルクはその場にしゃがみ込み、両手を使って土を払う。
黒い土の下に布のような白が、まず見えた。
違う、人の肌だと気付いた次の瞬間、白を縁取る金色の糸が目に留まる。
髪の毛であった。
土にまみれているものの、それは美しく輝いている。
次いで見えたのが、緑だ。
金のまつ毛に縁どられた目蓋がうっすらと開いており、そこから緑の瞳がこちらを覗いている。
「………………」
唇をかすかに震わせるものの、声は出なかった。
小刻みに振動して力が入らない両の手を懸命に動かし、土をきれいに払いのける。
無機質にシュターレンベルクを映す緑色の眼球は、硝子玉のようでピクリとも震えない。
細い身体をそろりと抱き上げると、土塊がぼとぼとと落ちた。
触れた肌は氷のように冷たく、四肢は硬直している。
「エルミア……こんな所に……」
──生きている筈がないとは分かっていた。
だが、現実にこうやってその亡骸を目の前にすると、例えようのない喪失感に苛まれる。
華奢な姿。
部屋の中央に立ち尽くす人物の髪の黄金色が、シュターレンベルクの魂を射抜く。
つややかな白い肌。
頬から顎、首にかけてのなめらかな曲線。
果実のように艶めく唇。
幻ではない。
確かな質感をもってそこに居る。
ゆっくりと近付いて。
「エ、エルミアなのか……」
恐る恐る手をのばし指先が触れると、細い肩はビクリと震えた。
構わず背に腕を回す。
様々な感情が、愛おしさと共に込み上がってくる。
「エルミア、エルミ……ア?」
抱きしめた身体の意外な薄さに、ふと手が止まった。
彼女が一言も喋らないことに訝しさも芽生える。
抱きしめたまま、その顔を覗き込んだ。
そこにあったのは、冴え冴えとした緑の光。
──違う!
弾かれたように身体を離したその瞬間。
「エルミア」が初めて口を開いた。
「……エルミア・マルギトは土の下にいたよ」
高い声。
だが、それは甘やかな女のものではない。
「誰だ、お前……」
エルミアに見える。
この人物は、紛れもなくあの女の顔をしていた。
幽霊? 呪い? そんな馬鹿な……。
そのとき、目の前の「女」がニヤリと笑ったような気がした。
誰だなんて、尋ねる間でもないでしょうに。閣下──と。
そう、ここはシュターレンベルク自身の部屋。
今ここにいるのは、あの小僧だ。
鍵のかかるこの部屋に、とりあえず閉じ込めておけとシュターレンベルクが自ら命じたのだから。
救援軍が近付いている。
どう転んでもウィーンには、じきに他国の軍が入って来ることになろう。
決戦に勝てば救援軍が。
そうでなければオスマン帝国軍が。
そのとき、こんな所に閉じ込められたままではややこしいことになりかねない。
こっそり逃がしてやろうと思い立ってここまで来たのだ。
ここに閉じ込めた人物は何かをやらかしたのかもしれない。
しかしシュターレンベルクが、フランツから悪意を感じたことはただの一度もなかったから。
「エルミア……いや、フランツなのか? 誰だ?」
思考がまとまらないのは疲れのせいもあるかもしれない。
何せこの二か月、ちっとも寝ていない。
よく見れば分かるのかもしれないな。
この顔をじっと見れば、この人物が誰で、何故こんな風にここに立っているかが理解できるはず──そう思ってその顔を覗き込んだときのこと。
胸に衝撃。
そいつの拳がシュターレンベルクの上体に叩きつけられたのだ。
見下ろすと、細い肩がわなないている。
整った顔を大きく歪め、緑の双眸からポロポロと涙をこぼしながら、少年は唇を噛みしめていた。
「なんで……姉さんが……」
無抵抗にその場に立ち尽くしながら、シュターレンベルクの思考はようやく鈍い回転をはじめた。
この者の名はフランツ・マルギト。
さっき彼は言っていたな。
エルミア・マルギトは土の下にいたと。
アウフミラーの描画を思い出す。
天使の顔はフランツにそっくりに見えた。
だが、待て。
あの顔を、シュターレンベルクは他にも知っている。
そう、天使は柔らかく、たおやかで女性のような容姿であった。
あの絵はきっとエルミアを思って描かれたものに違いない。
何故今まで気付かなかったのか。それほどに天使と彼女はよく似ていた。
それらが両立するのは、エルミアとフランツがそっくりだったからだ。
ようやく思い至った。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
二人は同じ明るい緑色の瞳を持っていたというのに。
「どういうことだ。お前は一体エルミアの何なんだ。土の下ってどういう……」
この部屋の窓には、外から板を打ち付けることになっていた。
捕えたフランツの脱走を防ぐためである。
しかし兵士らは皆、それぞれの仕事で手いっぱいだったのだろう。
窓はそのままになっていた。
だから内から簡単に鍵を外し、フランツは庭へ出たのだろう。
そのまま外へ脱出するには、さすがに王宮には兵士の数が多く、断念したと思われる。
しかし忙しい兵士らは皇帝の庭になど目を向けない。
フランツは何度も庭に出たのだろう。
もしかしたらこっそり手に入れたジャガイモを植えていたのかもしれない。
力を失ったフランツの身体を押しのけ、シュターレンベルクは立ち上がる。
フラリ。足をもつれさせながら窓辺へ。
部屋を出て数歩先の地面が不自然に盛り上がっていることには、すぐに気付いた。
その一部が抉るように削られていることにも。
ちらと後ろを振り返ると、フランツも強張った表情で同じ所を見ていることが分かる。
おりしもの雨で地面はぬかるみ、まるで何かを埋めたかのようにその山の一角は崩れていた。
吸い寄せられるように数歩。
シュターレンベルクはその場にしゃがみ込み、両手を使って土を払う。
黒い土の下に布のような白が、まず見えた。
違う、人の肌だと気付いた次の瞬間、白を縁取る金色の糸が目に留まる。
髪の毛であった。
土にまみれているものの、それは美しく輝いている。
次いで見えたのが、緑だ。
金のまつ毛に縁どられた目蓋がうっすらと開いており、そこから緑の瞳がこちらを覗いている。
「………………」
唇をかすかに震わせるものの、声は出なかった。
小刻みに振動して力が入らない両の手を懸命に動かし、土をきれいに払いのける。
無機質にシュターレンベルクを映す緑色の眼球は、硝子玉のようでピクリとも震えない。
細い身体をそろりと抱き上げると、土塊がぼとぼとと落ちた。
触れた肌は氷のように冷たく、四肢は硬直している。
「エルミア……こんな所に……」
──生きている筈がないとは分かっていた。
だが、現実にこうやってその亡骸を目の前にすると、例えようのない喪失感に苛まれる。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる