クロワッサン物語

コダーマ

文字の大きさ
77 / 87
カーレンベルクの戦い

カーレンベルクの戦い(7)

しおりを挟む
     ※ ※ ※

「シュターレンベルク伯はどこへ消えた! こんな時に……クソッ!」

 喚いているのはバーデン伯である。

 兵の士気に関わるようなことは大声で言うべきではないというのが軍隊の鉄則だ。
 指揮官の不在が知られては兵士は無論、この場合市民らに聞かれてもまずいことになるのにと、隣りでリヒャルトは気をもんだ。

 だが今日ばかりは兵士も、そして市内にいる大勢の者たちも、一将校の愚痴など気にも留めない。
 負の部分を補って余りある希望が、今の彼らには見えているのだ。

 まず陵堡に詰める兵士、そして堡塁を巡回する歩哨らが歓声をあげた。
 グラシの向こうに広がる平野には、相変わらずオスマン帝国の大軍が厚く布陣している。
 しかしその奥の丘陵地帯には、初めて見る赤と金の旗が幾つも靡いているではないか。
 リヒャルトがシュテッフルの塔から見た光景だ。

 それは壮観の一語につきた。
 地平線を埋め尽くす人馬の群れ。
 今までとは違う。
 それらは敵ではなく、味方の軍勢なのだ。

 その数六万五千。
 はやる心を押さえなければならない。
 今すぐ門を開けて敵軍を蹴散らし、救援軍を迎え入れたい。

 だが、今は駄目だ。
 時を待て。
 市門を開くに最も効果的な瞬間を計るのだ──思考ではなく、嗅覚で。
 リヒャルトもグイードも、バーデン伯でさえもそれは承知していた。

「出来れば壁の近くで戦いたいところであるな。陵堡からの援護を受けられるように」

「ですが壁の近くで戦闘となると、市に危険が及んでしまうのではないでしょうか」

 グイードとリヒャルトの会話も、息を詰めたように小声になってしまう。

 出撃準備は整っていた。
 兵らは隊列を組み、装備も点検済だ。
 あとは市門を開ける合図を待つばかり。

「父上……」

 無意識のうちに、リヒャルトはそう呟いていた。



     ※ ※ ※

 一六八三年九月十一日。

 救援軍前衛部隊とオスマン帝国軍一部の間で小競り合いが勃発する。
 本格的な戦闘行為が開始されたのは、翌十二日早朝のことであった。
 カーレンベルクの戦いである。

 午前四時。
 ドナウ河岸の丘陵に軍幕を張るオスマン軍右翼に、救援軍が戦いを仕掛けたのだ。
 オスマン帝国軍は大軍であったが、拠点はウィーンを取り巻く各所に散らばっており、イェニチェリなどを除く一部の精鋭を除けば奇襲への対処能力は低い。

 六時にはオスマン軍右翼の一部を河の分岐点まで後退させることに成功した。
 オスマン帝国大宰相カラ・ムスタファ・パシャの命でイェニチェリ軍副団長が救援に向かうも、救援を待つことなく右翼は後退を繰り返す。

 別の地点では救援軍主力がカーレンベルク丘陵に到達する。
 すかさず、オスマン帝国軍前衛部隊がそちらに向けて砲撃を開始した。
 さらに騎兵が丘陵に攻め込む。

 突撃と後退を何度か繰り返した後、救援軍は前衛に歩兵、後衛に騎兵を配し一気に傾斜面を下って平地に突き進んだ。
 一時間の戦闘の後、救援軍は左右に展開してオスマン前衛部隊を包囲。

 そのころ、カーレンベルクの丘では教皇特使であるカプツィン会司祭マルコ・ダヴィアノ神父により、救援軍総司令官ヤン三世と彼の家臣たちはミサに与っていた。
 この後、総攻撃が開始されるのはこの場にいる誰の目にも明らかである。
 戦闘に巻き込まれた一部のオスマン帝国軍は、外から来る救援軍に対して後退するようにウィーンに背を向ける。

 じりじりと後ずさり、グラシに足を踏み入れた時のことだ。
 ゆっくりと市門が開かれたのは。

     ※ ※ ※
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

処理中です...