クロワッサン物語

コダーマ

文字の大きさ
80 / 87
カーレンベルクの戦い

カーレンベルクの戦い(10)

しおりを挟む
 ゴウ。
 目の前の空気が振動した。
 湾曲した刃が頭上に迫る。
 視線を逸らす暇などないはずだ。
 自分の周りの敵兵とその殺気に、今は全神経を集中させろ。

 上体を捻って辛うじて刃を避けると、シュターレンベルクは左手を捻るように剣を振る。
 ヤタガンの柄を握り締めた敵兵の手首を、シュターレンベルクの切っ先が僅かに掠めた。
 咄嗟のことに獲物を取り落とした相手に背を向け、落馬した味方の元へにじり寄る。
 斬撃は待ってはくれない。
 今度は逆方向から繰り出されるそれを受け止める。

「何やって……閣下っ!」

 バーデン伯の叫び声。

「陣形は崩すな。それより俺の馬を!」

 返事の代わりにシュターレンベルクは怒鳴った。
 突撃を止めるてしまえば敵方の思うつぼ。
 動きを止めた者から料理される。
 味方が馬から引きずり降ろされては、雪崩をうつように攻勢は一気に崩れよう。
 自分だって馬にさえ戻ることができれば状況は打破できる。

 背中に重み。
 張り付くようにぴたりと味方の背が合わせられる。
 互いに背後からの攻撃を防ぎつつ、敵の戦闘力を削ぐために小さな攻撃を矢継ぎ早に繰り出す。
 僅かな傷を与えただけで相手は引くが、代わりがすぐに押し寄せる。

 グイード隊とバーデン隊があちらで敵を大いに引きつけているのと、マスケット部隊がじりじりと間を詰めながらこちらに近付いて来るのが、敵の兵力を削ぐのに役に立っている。
 だが、長くは持つまい。
 腕に頬に首に、刃が掠めた皮膚が熱く引きつるのが分かる。

「閣下、馬を!」

 一点に集中した攻撃で辛うじて道を開けて、マスケット隊の兵士がようやくこちらへ近付いてきた。
 主人を失って足を止めた馬の手綱をとって。
 助かったと僅かな安堵。
 その瞬間だ。

「死ねっ!」

 その声はやけに近くに聞こえた。
 馬に視線が逸れたせいだ。
 反応が一瞬遅れた。
 眼前にヤタガンのきらめきが迫り、髭面の男と視線が絡み合う。
 黒髪と、生やしっぱなしの黒い髭に幼げな容姿を隠した兵士は目を見開き、必死の形相で向かってくる。

 ああ、とシュターレンベルクの口からため息が漏れた。
 俺はこの男に殺されるのか。
 余所の国の若造にやられるのか。
 つまらない。
 それだったらパン屋に殺られてやりゃ良かったな、
 いやあいつに人殺しは無理かなんて呑気な考えが浮かんでは消える。
 自分が出て行った後も、あいつは王宮のあの部屋でめそめそしているのだろうと思った──その時だ。

「これをっ!」

 左側から叫び声。
 何かが飛んでくる。
 咄嗟に剣を右手に持ち替え、前腕の激痛にそれを手放してしまう。
 しかし、左手には飛んできたそれがするりと収まった。
 マスケット銃だ。
 装填も既に済んでいるのは、手に持った重さで分かる。
 先程失った愛用のものではないものの、充分頼もしい。
 剣より余程手に馴染んだそれは、思考より先に持ち主の指を動かした。

 戦場にもよく響く発砲音と、手首にかかる慣れた反動。
 硝煙の匂いと灰色の煙。
 同時に、目の前の黒髪はその場に崩れ落ちた。
 その隙をつくように部下が馬をつれて駆け寄ってきて、指揮官は鞍に飛び乗る。

「悪いな、フラン、ツ……」

 無意識に口をついて出た名を、そんな筈はない。
 あいつがここにいる筈がないだろうと慌てて呑み込む。
 いつものように銃の装填をして甲高い声で「ハイッ」と手渡してくれる様が脳裏に蘇る──馬鹿な。
 いつものようにだと? 小僧を相棒に戦闘に参加したのはたったの二回ではないか。

 浮足立つなと己に言い聞かせるように呟いて、感情を沈める。
 今は隊列を整え直すことが最重要ではないか。
 左側に顔を向けたのはごく自然な動きだった。
 そしてぎこちない動作で馬を寄せてくる息子の姿をそこに見付ける。

「リヒャルト、お前か……」

 銃を放ってくれたのはリヒャルトであったのか。

「父上、早く!」

 落馬した部下の腕をつかんで立ち上がらせてから、急いでグイードとバーデン伯の動きを確認する。

「早く! 父上、早くください」

「あ? ああ」

 早くと急かされたのは、さっさと隊列に戻れという意味ではなくて、装填するから銃を寄越せということか。
 その証拠にリヒャルトは市長が作った包みの端を歯で噛み切って待っている。
 早く早くと泣き出しそうに顔を歪めているのは、慣れぬ戦場で極度の緊張に襲われているからだと分かった。

「リヒャルト、頼む」

 だが銃を受け取る手は震えることなく、頼もしい。
 息子に装填を任せて、シュターレンベルクは戦場を見回した。
 グイード隊とバーデン隊がこの周囲の敵兵を蹴散らしている。
 おかげで素早くマスケット隊を立て直すことができた。
 シュターレンベルクらが銃で援護する中、さらに何度かグイード、バーデンが包囲網を鋭く破る。

「一旦退くぞ」

 その命令に、両名は明らかに不服そうな表情を返した。
 もう十分だ。
 敵の陣形を崩す。この行為を包囲の鎖の何か所かで数度繰り返せば、救援軍とも合流できよう。



 守備隊と救援軍がウィーン周辺で戦闘を繰り広げること半日。
 ポーランド軍の前進によりカラ・ムスタファ・パシャ本隊がじわりと後退を始めた。

 その機を逃さず、ウィーンの森からポーランド王ヤン三世旗下三千の騎兵がオスマン帝国軍中央突破を敢行、これを分断することに成功。
 カラ・ムスタファ・パシャのいる本営まで突撃を行った。
 たまらず敗走に転じたオスマン軍の背に救援軍は銃弾を浴びせる。

 その日の日没前に、オスマン兵はウィーンの包囲を解いて退却を開始した。



「父上! 父上、敵軍が退いてゆきます」

「兄上、あれを見よ。救援がそこまで!」

「閣下、どういうことだ。信じらんねぇ」

 矢継ぎ早に繰り出される、これは声の槍か。
 キンと高い音を立てる耳を指で押さえながら、シュターレンベルクは雑然と散らかった戦場を眺めた。
 兵士の死体や装備品、携行品の類から、遠くの方には天幕まで見える。
 オスマン帝国軍の、それは切羽詰まった撤退であったことが窺えよう。

「戦いは我々の勝利だ。ウィーンに戻って門を開けるぞ。陛下と解放軍を迎えよう」

 兵士らが歓声で応える。
 馬上揺られながら、グラシを抜けケルントナー門に向かっているところである。

 不意にシュターレンベルクは眠気に襲われた。
 部下の前で馬に乗りながらの居眠り姿など見せられまい。
 ぶるぶると首を振ってそれを振り払うと、今度はグゥと派手に腹が鳴る。
 傍らで何故かリヒャルトが顔を赤らめた。
 腹も減るか。無理もない。
 この半日、飲まず食わずでいたのだから。

「パンが食いたいな」

 呟いた声が風に乗って空に吸い込まれた瞬間、シュターレンベルクの眼前にあの日の光景が蘇った。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

処理中です...