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灯火の少女編
プロローグ・戦火の追憶
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自分は今、一体何を見ているんだろう。
どうしてこんなことになったんだろう。
ただ、暮らしていた。それだけなのに。
涙は出なかった。何を思えばいいのか分からなかった。
突然の襲撃。若い女性は襲われ。それ以外は殺され。建物には火が放たれ。
村を一望できる高台――自分のお気に入りの場所へ一人、命からがら逃げてきて。
見慣れた景色を舞台に、非日常に過ぎる光景が展開されている。建物も人体も、あらゆるものが燃えている。そこかしこから上がる大量の黒煙。血飛沫。悲鳴。怒号。笑い声。
何かの演劇のようで――だがその一つ一つが、どうしようもなく本物だった。
***
一通りの用事が済んだのだろうか、音が徐々に止む。騎士たちがばらばらと村から離れてゆく。村人は、一人たりとも動かなくなっている。動くのはいまだ踊る炎と、黒煙だけ。
しばしの静寂を挟み、次の瞬間。
突如としてそこに現れたのは、冗談のような高さの津波だった。数十メートルはあろうか。
この山中、近くの河が氾濫したとしても、ここまでの規模の水量などあるはずがない。それが魔術の仕業であることは明らかだった。
焼かれた人々の亡骸が。住んでいた家が。それらを取り巻く思い出ごと、全て流されてゆく。自分が立つ断崖のすぐ下を経由する、地図に無い新たなる激流が生まれる。
自分が生まれ、今の今まで寝食を重ねてきた村は、わずかな間に水の底に沈んだ。
呆然と立ち尽くす。自分は今、一体何を見ているんだろう。どうしてこんなことになったんだろう。ただ、暮らしていた。それだけなのに。繰り返す。ただその思考を繰り返すだけの単純な生き物。しばしその夢心地に浸る。
――と。
気配がする。自分の方に向かってくる、いくつかの気配。ここは遊び慣れた森。自分の庭。誰かが来れば、何となく解る。
来るのは誰か。決まっている。村を襲った帝国の騎士。そこでようやく、思考に鋭敏さが戻る。
捕まれば一体どうなるか、容易に想像がつく。ここから身を投げれば、それが一番幸せなんじゃないだろうか。そうすれば、みんなと同じところに行ける。これ以上苦しまずに済む。でも――
「‼」
突然、何者かに後ろから口を塞がれる。気配を消して近づかれたのか。
「んむ……っ……! んーっ‼」
言葉を紡げない。口を抑える手を剥がそうとするがうまくいかない。
右手も掴まれた。後方へ引き摺られる。足運びが乱れる。転ばないようにするだけで必死だった。
しばしもみ合い、殴打も重ね、最終的には草むらに押し倒された。そのまま馬乗りになられ、両手首を抑えられる。力を込め、逃れるのを試みるがびくともしない。完全に自由を奪われた。
白銀の鎧に身を纏う男。胸元には剣といばらの紋章。村を襲った、帝国の騎士だ。
抑えている両手を頭の上へ持っていかれ、片側の手のみで拘束を済まされる。空いた手がこちらの胸元に伸びる。膨らみを確認するように、輪郭に指を這わせる。上着のボタンを外し、下着をずらし、胸元をはだける。
騎士の一連の動きが、何を目的としているかは知れていた。
晒された乳房に、視線を感じる。羞恥と恐怖。必死にそれをかき消そうとする。
そして。
「んむ……っ‼」
騎士の唇が、自分のそれと重なる。汗と金属の匂い。初めての口付けが、こんな形になるとは思わなかった。
唇には乾いた感触。だがそれが、徐々に湿り気を帯び、蕩けたものになってくる。嫌悪感も、僅かではあるが薄れてくる。
強引な口付けにしては、たどたどしい。どう動かしたらいいか迷いながら、ともすれば嫌々やっているようにも取れた。
舌が入ってくる。何かを探しているような、あてもなく彷徨うような動き。何故かそれが哀れに思え、位置を伝えるように、こちらも舌の先端を触れさせた。望みのものはそれだったようで、強く絡めてくる。こちらも絡め返す。水音が強くなる。
やがて唇を離した騎士は、覆いかぶさったままこちらの顔を眺める。
「抵抗……しないの……?」
聞いてくる。目を覆う兜で顔の大半が見えなかったが、その声から察するに、思っていたよりかなり幼い。自分と同じか、少し上くらいだろうか。
「好きにすればいい。みんなが酷い目に遭ったのに、自分だけ楽をするつもりはない」
淡々と応える。出来るだけ感情を込めないように。それが最後の意地だった。
「どうせ助からないなら、みんなと同じものを味わってから、みんなと同じところに行く」
兜の隙間の暗闇から、騎士の目が見えた。視線が合う。
何をされようと構わないと、覚悟は出来ていた。だがその騎士はこちらを見つめたまま、動きを止めた。それ以上、何もしてこない。
どれほどの時が流れただろう。動きを止めているというのに、荒れた息遣いは収まらない。互いに。
やがて、草を掻き分ける音が近づいてくる。騎士の仲間に違いない。これから、何人もの相手をしなければならない。みんなもそうだった。想定の範囲内だ。覚悟は出来ている。
その音を聞いてか、騎士の唇が何かの言葉を紡ぐ。意味は知れないが、流麗な発音。魔術を発動する鍵となる、呪文。
詠唱が終わると、二人をすっぽりと包む半透明の球体――地面にめり込んでいるので見かけ上は半球だが――が現れる。色鮮やかな光彩が不規則に流れ、何かに例えるならシャボン玉に似ていた。
「……この防壁は外部への音や光や魔力を遮断して、あらゆる索敵から逃れられる。僕が発見したばかりの、まだ誰も知らない術式だ。バレることは多分無い」
突然、何の話を始めたのか理解できず、呆気にとられる。だがその落ち着いた声色から重要な情報であることは間違いなく、遅れながらも意味を噛み砕く。
「僕たちは恐らく30分も経たずに撤収する。防壁は念の為、60分で解けるように設定した。ここで大人しく待って、これが消えたら帝都とは逆へ――東へ逃げるんだ。直進すれば街道にぶつかる」
騎士はこちらの手を離し、起き上がろうとした。
行ってしまう。何か言わなければ。
「どうして……? あなたは帝国の騎士……ですよね……?」
咄嗟に投げたその問いには応えず、その騎士は「無事を祈る」とだけ返し、球体から出る。出入りは自由のようだ。そのまま彼は、この場を離れた。
これが何かの罠なら、この球体から逃げた方がいいかも知れない。判断が付かない。思考が空回り、結局言われた通りに大人しく待つ。決めたはずの覚悟が、薄れてゆく。
「……見つかったか?」
「村娘らしき者が一人、崖から落ちたのを見ました。さっき感じた気配はそれかと」
少し離れた場所、ちょうど先程自分が身を投げようとした崖のあたりから、話し声が聞こえる。今の騎士と、別の騎士。こちらの音を遮断するという話だったが、周囲の音は聞こえるようだ。
草むらの隙間から、辛うじて姿も確認出来た。もう一人の騎士は兜を付けておらず、顔と長い金髪を晒していた。よく見れば装備そのものが違う。目を引く真紅のマントに、面積の少ない黒の鎧。階級が上の騎士だろうか。年齢も、一回りとは言わないが大分上に思う。
「顔を見たか?」
「いえ、暗くてよく見えませんでしたが……何故です?」
「今日は若い女が少なかったからな。上玉なら惜しいことをした」
会話が途切れた。光彩に阻まれてよく見えなかったが、どうやら崖の下を覗き込んでいるらしい。
しばらく様子をうかがっていると突然、金髪の黒騎士がこちらを振り向いた。
目が合う。鋭く冷たい、真紅の瞳。
「‼」
反射的に、ひっ、と息を飲む甲高い声が出てしまう。慌てて目を逸らし、きつく瞼を閉じる。
(見つかった……⁉)
呼吸も、声も、思考も、全てを停滞させようと努める。
だが、しばらく経ってもこちらに向かってくる様子は無い。恐る恐るもう一度視線を投げると、ただ周囲を見回しているだけのようだった。最初にこちらを見たのは偶然、なのか。
「……まあいい。これで殲滅は完了した。帝都へ引き上げる」
その後も何か話が続いているようだったが、足音と共に小さくなる。
やがて、耳に入るのは崖下に流れる水音だけとなった。
息をほとんどしていなかった身体が、反射的に深い呼吸を求める。そこで、ようやく思考が回復する。
(……助かっ……た……? 助けられた……?)
***
これが、故郷を失った記憶。
口付けの記憶。
命を救われた記憶。
少女の道標となり、縛鎖となった、記憶。
どうしてこんなことになったんだろう。
ただ、暮らしていた。それだけなのに。
涙は出なかった。何を思えばいいのか分からなかった。
突然の襲撃。若い女性は襲われ。それ以外は殺され。建物には火が放たれ。
村を一望できる高台――自分のお気に入りの場所へ一人、命からがら逃げてきて。
見慣れた景色を舞台に、非日常に過ぎる光景が展開されている。建物も人体も、あらゆるものが燃えている。そこかしこから上がる大量の黒煙。血飛沫。悲鳴。怒号。笑い声。
何かの演劇のようで――だがその一つ一つが、どうしようもなく本物だった。
***
一通りの用事が済んだのだろうか、音が徐々に止む。騎士たちがばらばらと村から離れてゆく。村人は、一人たりとも動かなくなっている。動くのはいまだ踊る炎と、黒煙だけ。
しばしの静寂を挟み、次の瞬間。
突如としてそこに現れたのは、冗談のような高さの津波だった。数十メートルはあろうか。
この山中、近くの河が氾濫したとしても、ここまでの規模の水量などあるはずがない。それが魔術の仕業であることは明らかだった。
焼かれた人々の亡骸が。住んでいた家が。それらを取り巻く思い出ごと、全て流されてゆく。自分が立つ断崖のすぐ下を経由する、地図に無い新たなる激流が生まれる。
自分が生まれ、今の今まで寝食を重ねてきた村は、わずかな間に水の底に沈んだ。
呆然と立ち尽くす。自分は今、一体何を見ているんだろう。どうしてこんなことになったんだろう。ただ、暮らしていた。それだけなのに。繰り返す。ただその思考を繰り返すだけの単純な生き物。しばしその夢心地に浸る。
――と。
気配がする。自分の方に向かってくる、いくつかの気配。ここは遊び慣れた森。自分の庭。誰かが来れば、何となく解る。
来るのは誰か。決まっている。村を襲った帝国の騎士。そこでようやく、思考に鋭敏さが戻る。
捕まれば一体どうなるか、容易に想像がつく。ここから身を投げれば、それが一番幸せなんじゃないだろうか。そうすれば、みんなと同じところに行ける。これ以上苦しまずに済む。でも――
「‼」
突然、何者かに後ろから口を塞がれる。気配を消して近づかれたのか。
「んむ……っ……! んーっ‼」
言葉を紡げない。口を抑える手を剥がそうとするがうまくいかない。
右手も掴まれた。後方へ引き摺られる。足運びが乱れる。転ばないようにするだけで必死だった。
しばしもみ合い、殴打も重ね、最終的には草むらに押し倒された。そのまま馬乗りになられ、両手首を抑えられる。力を込め、逃れるのを試みるがびくともしない。完全に自由を奪われた。
白銀の鎧に身を纏う男。胸元には剣といばらの紋章。村を襲った、帝国の騎士だ。
抑えている両手を頭の上へ持っていかれ、片側の手のみで拘束を済まされる。空いた手がこちらの胸元に伸びる。膨らみを確認するように、輪郭に指を這わせる。上着のボタンを外し、下着をずらし、胸元をはだける。
騎士の一連の動きが、何を目的としているかは知れていた。
晒された乳房に、視線を感じる。羞恥と恐怖。必死にそれをかき消そうとする。
そして。
「んむ……っ‼」
騎士の唇が、自分のそれと重なる。汗と金属の匂い。初めての口付けが、こんな形になるとは思わなかった。
唇には乾いた感触。だがそれが、徐々に湿り気を帯び、蕩けたものになってくる。嫌悪感も、僅かではあるが薄れてくる。
強引な口付けにしては、たどたどしい。どう動かしたらいいか迷いながら、ともすれば嫌々やっているようにも取れた。
舌が入ってくる。何かを探しているような、あてもなく彷徨うような動き。何故かそれが哀れに思え、位置を伝えるように、こちらも舌の先端を触れさせた。望みのものはそれだったようで、強く絡めてくる。こちらも絡め返す。水音が強くなる。
やがて唇を離した騎士は、覆いかぶさったままこちらの顔を眺める。
「抵抗……しないの……?」
聞いてくる。目を覆う兜で顔の大半が見えなかったが、その声から察するに、思っていたよりかなり幼い。自分と同じか、少し上くらいだろうか。
「好きにすればいい。みんなが酷い目に遭ったのに、自分だけ楽をするつもりはない」
淡々と応える。出来るだけ感情を込めないように。それが最後の意地だった。
「どうせ助からないなら、みんなと同じものを味わってから、みんなと同じところに行く」
兜の隙間の暗闇から、騎士の目が見えた。視線が合う。
何をされようと構わないと、覚悟は出来ていた。だがその騎士はこちらを見つめたまま、動きを止めた。それ以上、何もしてこない。
どれほどの時が流れただろう。動きを止めているというのに、荒れた息遣いは収まらない。互いに。
やがて、草を掻き分ける音が近づいてくる。騎士の仲間に違いない。これから、何人もの相手をしなければならない。みんなもそうだった。想定の範囲内だ。覚悟は出来ている。
その音を聞いてか、騎士の唇が何かの言葉を紡ぐ。意味は知れないが、流麗な発音。魔術を発動する鍵となる、呪文。
詠唱が終わると、二人をすっぽりと包む半透明の球体――地面にめり込んでいるので見かけ上は半球だが――が現れる。色鮮やかな光彩が不規則に流れ、何かに例えるならシャボン玉に似ていた。
「……この防壁は外部への音や光や魔力を遮断して、あらゆる索敵から逃れられる。僕が発見したばかりの、まだ誰も知らない術式だ。バレることは多分無い」
突然、何の話を始めたのか理解できず、呆気にとられる。だがその落ち着いた声色から重要な情報であることは間違いなく、遅れながらも意味を噛み砕く。
「僕たちは恐らく30分も経たずに撤収する。防壁は念の為、60分で解けるように設定した。ここで大人しく待って、これが消えたら帝都とは逆へ――東へ逃げるんだ。直進すれば街道にぶつかる」
騎士はこちらの手を離し、起き上がろうとした。
行ってしまう。何か言わなければ。
「どうして……? あなたは帝国の騎士……ですよね……?」
咄嗟に投げたその問いには応えず、その騎士は「無事を祈る」とだけ返し、球体から出る。出入りは自由のようだ。そのまま彼は、この場を離れた。
これが何かの罠なら、この球体から逃げた方がいいかも知れない。判断が付かない。思考が空回り、結局言われた通りに大人しく待つ。決めたはずの覚悟が、薄れてゆく。
「……見つかったか?」
「村娘らしき者が一人、崖から落ちたのを見ました。さっき感じた気配はそれかと」
少し離れた場所、ちょうど先程自分が身を投げようとした崖のあたりから、話し声が聞こえる。今の騎士と、別の騎士。こちらの音を遮断するという話だったが、周囲の音は聞こえるようだ。
草むらの隙間から、辛うじて姿も確認出来た。もう一人の騎士は兜を付けておらず、顔と長い金髪を晒していた。よく見れば装備そのものが違う。目を引く真紅のマントに、面積の少ない黒の鎧。階級が上の騎士だろうか。年齢も、一回りとは言わないが大分上に思う。
「顔を見たか?」
「いえ、暗くてよく見えませんでしたが……何故です?」
「今日は若い女が少なかったからな。上玉なら惜しいことをした」
会話が途切れた。光彩に阻まれてよく見えなかったが、どうやら崖の下を覗き込んでいるらしい。
しばらく様子をうかがっていると突然、金髪の黒騎士がこちらを振り向いた。
目が合う。鋭く冷たい、真紅の瞳。
「‼」
反射的に、ひっ、と息を飲む甲高い声が出てしまう。慌てて目を逸らし、きつく瞼を閉じる。
(見つかった……⁉)
呼吸も、声も、思考も、全てを停滞させようと努める。
だが、しばらく経ってもこちらに向かってくる様子は無い。恐る恐るもう一度視線を投げると、ただ周囲を見回しているだけのようだった。最初にこちらを見たのは偶然、なのか。
「……まあいい。これで殲滅は完了した。帝都へ引き上げる」
その後も何か話が続いているようだったが、足音と共に小さくなる。
やがて、耳に入るのは崖下に流れる水音だけとなった。
息をほとんどしていなかった身体が、反射的に深い呼吸を求める。そこで、ようやく思考が回復する。
(……助かっ……た……? 助けられた……?)
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これが、故郷を失った記憶。
口付けの記憶。
命を救われた記憶。
少女の道標となり、縛鎖となった、記憶。
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