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灯火の少女編
重なり合う影
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三食を取る以外は、ほとんどをベッドで寝ているだけの生き物。屋敷で過ごす最初の日々は、そんな感じだった。
倒れた後に、すぐレニが手配してくれた操魔士の医者。埋め込まれた映像の解除は厳しかったが、そもそも特定思考をトリガーにした術式はそう長くは保たない。せいぜい一~二週間といったところか。精神の安定や入眠に繋がる錠剤などを処方され、自然回復を待つ流れとなる。
それでも一人で思いに耽るとどうしても思い返し、あの映像が流れる。気を紛らわせるものが必要だった。
レニが屋敷に居る時は、枕元で話をしてくれた。いつぞやと同じ、中身の無い軽薄な会話。最初のうちは何も返答が出来なかったが、だんだんと一言二言返せるようになり、やがてある程度はまともに会話が出来るようになってくる。初めて会った時ほど、とは言わないが。
数冊の本を貸してくれた。幾つかのジャンルの小説。一人でいる時はそれらの活字と向き合った。聞いたところによるとうち一つはレニが書いたものらしかったが、それがどれかは教えてくれなかった。借りたものを読み終わった後、屋敷の書庫を好きに漁って良いと言われる。屋敷の三階の大半を占めていたそれは、覗いてみたところ膨大な蔵書があり、読み物に困ることは無かった。
食事を共にして。とりとめなく話し。一人の時は、書庫から本を見繕い。時おり、戻ってきたペンダントを握り、過去に思いを馳せて。それで、少しずつ少しずつ、黒いものが消えてゆく感覚があった。寝付きと寝起きの悪さ、頭を締め付けるような慢性的な痛みは、しばらく直りそうに無かったが。
***
気持ちに余裕が生まれ、紐同然の生活にさすがに悪い気がしてくる。レニに申し出て屋敷のことを手伝うようになった。掃除、洗濯、食事の用意、買い出し。
初めて外に出る日は怖かった。あの夜に居た男達と、うっかり出会ってしまわないか。彼等の顔は、一人たりとも忘れはしない。鉢合い、あの時を揶揄などされたら、自分はどうなってしまうか。乱された感情で、魔術を制御できるだろうか。これまで通り加減できるだろうか、殺してしまわないだろうか。
――だが幸運にもそんなことは無く、その日は無事に外出を済ませることが出来た。それ以降もこの街で、彼等と出会うことは一度として無かった。
今更ながら、この広さの屋敷を一人で維持しているのは驚きだった。時折雇っていると聞いたハウスキーパーとやらは一度も見かけず、レニ自体そこまで手際が良いようには見えなかった。自分を戦力と数えても、せめてもう一人くらい居ないと回らないだろうに、なんとかなっているのが不思議だった。
不思議と言えば、そもそも屋敷に護衛の類が一切居ないことも気にかかった。精神体の魔素タイプと容量で個人認証を行える今の時代、預金や資産の類は銀行に預けておけるから良しとして、命が惜しくはないのだろうか。この街はお世辞にも治安がいいとは言えない。小金持ちの若者など、強盗や闇社会の格好の餌食だろうに。自分がここに居る間は、自分を護衛として換算しているのだろうか。それを見越して首輪を外してくれたというなら辻褄は合うのだが、これまでのレニの様子を見ると、あまりそうは思えなかった。
***
圧縮映像が消えて無くなった頃には、ほぼ元の自分を取り戻せた。元々の目的、為すべきこと。その使命感が高まってくる。でも、その前に。
今の自分が、一体何で出来ているか、何で成立しているか。それを自覚する。恩には報いなければならない。代価を支払わなければならない。こんな家事手伝い程度のことで、それを返せているとはとても思えない。
今出来ることは何か。今の自分に、支払えるものは、何か。
***
「……それで全っ然名前思い出せないまま数十分話した挙げ句、怒られるの覚悟で『ところで失礼ですけど、お名前なんでしたっけ?』って聞いたらさ。向こうも僕の名前忘れてたみたいで。ホント助かったよ、僕だけ超失礼な奴になるところだった」
レニが仕入れてきたばかりの笑い話に、軽い笑みを溢す。
彼の話を聞いている限り、交友関係はそれなりにあるものの、あまり他人に深く立ち入らない様子だった。仕事の取引先とのやり取りや、酒場で会った人間と馬鹿話をするのが主のようだ。友人が屋敷に訪ねてきたことも無い。
ワインを片手のレニと、寝る前の対話。普段どおりの光景。
――だがきっと今夜は、普段どおりで無くなる。
「……もうこんな時間か。楽しい時間はあっという間だね」
壁の時計を一瞥し、告げるレニ。机上のデキャンタもちょうど空になっていた。グラスの残りを一息で飲み干す。赤みがあまり顔には出ないのは、アルコールに強いのか、化粧のせいなのか。
「じゃあ、そろそろ寝るね。おやすみ」
レニがデキャンタとグラスを手に、立ち上がろうとしたところで。
「……なんで、そんなに優しいの」
「え?」
切り出す。普段どおりを、壊しにかかる。
「ここに来てからずっと、あなたはわたしに何もしないし、何も求めない。あんな大金をはたいてまで、わたしを買ったのに」
ずっと聞けなかったこと。何よりの疑問。
「どうしてこんなに、わたしに優しくしてくれるの? こんなことをして、あなたに何の得があるの?」
道理に合わぬこと。不条理。違和感。
「あなたが何を考えてるのか分からない。それが――怖い」
まず何より、相手の気持ちを確認したかった。だから、正直な心を吐露した。
「――ごめんなさい。こんなこと……言える立場じゃ、ないのに」
施しを享受する身からとは思えぬ、厚かましい質問。最後に形ばかりの謝罪を添える。
すると、レニが手を握ってくれる。
「……そんな大層なことを考えてるわけじゃない。ただ何となく、君の力になりたいと思っただけだ。それだけじゃ、納得できない?」
「……」
これを、ただの善意で? 納得には程遠かったが、それが本当なら何という聖人だろう。
「君に何もしないのは、君が嫌がることをしたくないからだ。今は落ち着くまで、ここでゆっくり休むといい」
欲を仄めかした、ように思う。が、それは果たして本心なのだろうか。
「……おやすみ」
レニが立ち上がる。行ってしまう。思わずその袖を掴み、止める。
「ん?」
鼓動が高鳴る。言葉は、予め用意していた。でも、口に出すことがどうしても出来ない。
立ち上がったレニが、椅子に座り直す。
「何か、話したいことがある?」
「……」
ある。話したいことも、してほしいことも。
「……レニ、は……」
確認を重ねてしまう。だめだ。怖い。
「わたしが、抱きたい……?」
顔を見ずに俯いたまま。しかも、恐ろしいほどの小声になってしまった。
時が流れる。
聞こえただろうか。
反応が無い。
伝わったかどうか怪しい。
顔を見る勇気は無い。
もう一度、言わなければならないかと覚悟を決めた頃。
「抱きたい。叶うことなら」
こちらに合わせ、小声で返してくる。
頬が熱くなる。
もう、これでいいじゃないか。そう思っても。
もはや確認というより、脅迫に近い質問を投げてしまう。
「……あんな、真似をされた……汚れた……女でも?」
最後の方は、涙声になってしまった。
自分に出来ることをしたい、でも。拒絶されるのが、怖い。何よりその理由が、あの夜の汚辱によるものだとしたら。汚れた自分をより一層、自覚してしまう気がした。消えつつあるあの黒いものが、戻ってきてしまう気がした。
何処までもまとわりつく、終わらない呪い。
けれどレニは。こちらの下げた顎先を一つ指で持ち上げ、強引に視線を合わせて。
いつも通りの、これ以上なくいつも通りの口調で。
「あんなことで、君の魅力は翳らない」
おおよそ日常生活では使わない言葉の並びを、笑顔でさらりと言い放った。これまでの彼を考えれば、さほど驚くには値しない、いつもの軽薄な台詞とも取れた。だがこの時は。
乾き切った砂に差し込まれる水のように。全てを包みこみ、奥までを潤す、優しい言葉に、思えた。
「――」
自分は一体、どこまで甘やかされれば気が済むのだろう。
もはや笑えてくる。
その後押しで、笑顔が作られる。
用意していた言葉を、ようやく口に出来る。
「あなたがわたしに、したいことがあるなら、してほしい。わたしは、あなたのものだから。……それに」
用意していた言葉に続け、たった今芽生えた、素直な気持ちを付け足した。
「あなたになら……きっと、何をされても嫌じゃない」
***
ベッドに入ってくる。息を飲む。
男の人の、自分のものではない、匂い。熱。
不思議と嫌悪感は薄い。
それどころか。
同じ枕に頭を乗せ、しばし見つめ合う。
「本当に、平気?」
レニが聞いてくる。少しの間を置いて、頷く。
顔を近づけてくる、自然と目を閉じる。
唇に、湿った感触が伝わる。
最初は薄く、優しく、ほんの数回。
ノックをするように、中に住まう住人の許可を得るように。
それを経て。次の接触は、圧力を伴う、深い触れ合いとなった。葡萄の風味が広がる。形を確認するように、吸い込むように、唇で唇を、撫でてくる。こちらも、相手と同じ動きを、可能な限り再現する。水音が立つのを抑えたかったが、向こうは気にしていないようだった。
やがて、唇とは別のものが侵入してくる。歯を開き導き入れ、舌先を触れさせ、絡め合う。
――何故かあの時が、思い起こされた。故郷を失った日の、騎士の唇。
重ねてしまっているのかも知れない。自分の命を救ってくれた人と、自分が悲惨な奴隷に落ちるのを救ってくれた人。
唇が離れる。視線が合う。蒼い瞳。その中に、自分の輪郭を確認できる程の距離。
他の男性を想いながら抱かれるのは、あまりにも礼を欠く行為だ。
レニの瞳を見据える。自分がこれから抱かれるのはこの人だと、強く認識する。
その視線が下に落ちる。服の結びを解かれ、胸元をはだけられる。
あんなにも明るいところで一度見られているから、抵抗感は薄かった。
指が膨らみの根元あたりに触れ、優しく持ち上げられる。
「ん……っ……」
ぴくりと肌が反応し、声が漏れる。
指先がしばしその動きを繰り返した後、そのままゆっくりと、肌を伝い、先端に向かう。あの時、少し触られただけで固く尖り、大きな刺激と快感を何度も流し込まれた、その箇所に。
「……‼」
つい手で振り払おうとしてしまうが、その反射の挙動を必死で堪える。受け入れると決めたし、そう言った。
だがその分、全身が強ばる。石のように。止まらぬ震えはそのままに。
「……」
敏感なその箇所への進行は、中断された。
軽く抱き寄せられ、しばし髪と肩を撫でられるだけの優しい動きになる。
こちらのあまりの緊張が、見るに耐えなかったのかも知れない。
「まだ、怖い?」
レニが尋ねてくる。軽く頷く。
「何が怖い?」
何が? 何が……だろうか。きっと、言葉にはしきれない怖さがそこにはあった。でも、無理やり言葉にする。
「レニが、わたしの身体を、気に入ってくれるか、怖い」
そうだ。それは何故?
「誰かと比べられて、失望させてしまうかと思うと、怖い」
掘り下げてゆく。自分に眠る恐怖を。形にしてゆく。
「あんな目にあったわたしに触れるのが、本当は嫌なんじゃないかって思うと――怖い」
次々に湧いてくる――いや、潜れば潜るだけ、隠していた黒いものと、向き合っているに過ぎない。
止められない。理由なんて無限にあった。そのことに気付かされる。
「それにわたしが――っ……」
続く言葉を、唇で塞がれる。
先ほどの口付けよりも、深く、深く。
「んむ……っ‼ ん……‼」
荒れ狂う唇、舌。
先程のそれとは、あまりにも違う激しさで。
思考が蕩け、丸ごと押し流す力強い快感が、唇から脳髄へと、稲妻のように駆け巡る。
両手の指が絡む。
指先の力強さが、掌を締め付ける。
シーツに深く押し付けられ、沈む。
このまま、喰い殺されるかもしれない。
それほどの。
(――……)
唇が離れて初めて、胸の鼓動が凄まじい音を奏でているのに気付く。
息は乱れ、瞼は滲み。
――そして先程の恐怖は、気付けば綺麗に流されていた。
「じゃあ、証明しないとね」
左目の視界をわずかに覆っていた髪を、指で避けてくれる。
そのまま頬を撫でてくれる。
「僕がどれほど、君を求めているか」
身体の何処かで、何かが、締め付けられる。
ああ、もう駄目だ。
自分の何もかもを、この人に奪ってほしい。
塗り潰してほしい。
小賢しい打算も。
つまらないこだわりも。
この身に眠る、黒いものも。
全て壊して、めちゃくちゃに、してほしい。
「わたしが……もし嫌がっても、もうやめないでほしい。最後までしてほしい」
覚悟を告げる。今のうちに。乱れる前に。
「どんなことでも、受け入れるから」
「……わかった」
レニの指がもう一度、下に伝った。
***
汗ばむ硬い胸の中、髪を撫でられながら。こちらがまだ断続的に震え、呼吸が落ち着かないのを見てか、レニが尋ねてくる。
「……大丈夫?」
「わから、ない……どうにかなっちゃいそう……だった……」
玩具のように扱われたあの日とは違う、柔らかな交わり。
「すごく……きっと、気持ちよかった……んだと、思う……。びくびくしすぎて、よく、分からなかった、けど……」
何を言えば喜んでもらえるだろう。そう思い口にした言葉は、取り留《と》めがなかった。
「レニ、は……気持ち、よかった……?」
「うん、すごく。幸せだった」
「……」
頬を擦り付ける。せめて、初めてはこの人がよかった。あの時、最初の相手になってくれていたら。そんな欲張りなことを思ってしまう。
こちらの瞼が薄くなってきたのを確認したのか。その唇を耳元に寄せて。
「じゃあ、おやすみ」
レニは静かにそう告げて抱擁を解く。ベッドの中を泳ぎ、外に降りる。置きっぱなしになっていたデキャンタとグラスを手に、そのまま静かに扉へ向かう。
(えっ……)
寂しさが眠気を押しのけ、慌てて上体を起こす。
「行っちゃう、の……?」
発した自分でも驚くほど、媚びたニュアンスが混じってしまった。瞬間的に恥ずかしさが沸き立つが、先ほど何度も上げた声に比べれば大したことはないと思い直す。
「一緒に寝たい?」
「……うん」
もはや羞恥心が麻痺しており、素直にそう返せた。手にしたものを机に戻し、ベッドの中に戻ると、レニはもう一度抱きしめてくれた。
***
その夜は久しぶりに、穏やかな気持ちで寝ることが出来た。
倒れた後に、すぐレニが手配してくれた操魔士の医者。埋め込まれた映像の解除は厳しかったが、そもそも特定思考をトリガーにした術式はそう長くは保たない。せいぜい一~二週間といったところか。精神の安定や入眠に繋がる錠剤などを処方され、自然回復を待つ流れとなる。
それでも一人で思いに耽るとどうしても思い返し、あの映像が流れる。気を紛らわせるものが必要だった。
レニが屋敷に居る時は、枕元で話をしてくれた。いつぞやと同じ、中身の無い軽薄な会話。最初のうちは何も返答が出来なかったが、だんだんと一言二言返せるようになり、やがてある程度はまともに会話が出来るようになってくる。初めて会った時ほど、とは言わないが。
数冊の本を貸してくれた。幾つかのジャンルの小説。一人でいる時はそれらの活字と向き合った。聞いたところによるとうち一つはレニが書いたものらしかったが、それがどれかは教えてくれなかった。借りたものを読み終わった後、屋敷の書庫を好きに漁って良いと言われる。屋敷の三階の大半を占めていたそれは、覗いてみたところ膨大な蔵書があり、読み物に困ることは無かった。
食事を共にして。とりとめなく話し。一人の時は、書庫から本を見繕い。時おり、戻ってきたペンダントを握り、過去に思いを馳せて。それで、少しずつ少しずつ、黒いものが消えてゆく感覚があった。寝付きと寝起きの悪さ、頭を締め付けるような慢性的な痛みは、しばらく直りそうに無かったが。
***
気持ちに余裕が生まれ、紐同然の生活にさすがに悪い気がしてくる。レニに申し出て屋敷のことを手伝うようになった。掃除、洗濯、食事の用意、買い出し。
初めて外に出る日は怖かった。あの夜に居た男達と、うっかり出会ってしまわないか。彼等の顔は、一人たりとも忘れはしない。鉢合い、あの時を揶揄などされたら、自分はどうなってしまうか。乱された感情で、魔術を制御できるだろうか。これまで通り加減できるだろうか、殺してしまわないだろうか。
――だが幸運にもそんなことは無く、その日は無事に外出を済ませることが出来た。それ以降もこの街で、彼等と出会うことは一度として無かった。
今更ながら、この広さの屋敷を一人で維持しているのは驚きだった。時折雇っていると聞いたハウスキーパーとやらは一度も見かけず、レニ自体そこまで手際が良いようには見えなかった。自分を戦力と数えても、せめてもう一人くらい居ないと回らないだろうに、なんとかなっているのが不思議だった。
不思議と言えば、そもそも屋敷に護衛の類が一切居ないことも気にかかった。精神体の魔素タイプと容量で個人認証を行える今の時代、預金や資産の類は銀行に預けておけるから良しとして、命が惜しくはないのだろうか。この街はお世辞にも治安がいいとは言えない。小金持ちの若者など、強盗や闇社会の格好の餌食だろうに。自分がここに居る間は、自分を護衛として換算しているのだろうか。それを見越して首輪を外してくれたというなら辻褄は合うのだが、これまでのレニの様子を見ると、あまりそうは思えなかった。
***
圧縮映像が消えて無くなった頃には、ほぼ元の自分を取り戻せた。元々の目的、為すべきこと。その使命感が高まってくる。でも、その前に。
今の自分が、一体何で出来ているか、何で成立しているか。それを自覚する。恩には報いなければならない。代価を支払わなければならない。こんな家事手伝い程度のことで、それを返せているとはとても思えない。
今出来ることは何か。今の自分に、支払えるものは、何か。
***
「……それで全っ然名前思い出せないまま数十分話した挙げ句、怒られるの覚悟で『ところで失礼ですけど、お名前なんでしたっけ?』って聞いたらさ。向こうも僕の名前忘れてたみたいで。ホント助かったよ、僕だけ超失礼な奴になるところだった」
レニが仕入れてきたばかりの笑い話に、軽い笑みを溢す。
彼の話を聞いている限り、交友関係はそれなりにあるものの、あまり他人に深く立ち入らない様子だった。仕事の取引先とのやり取りや、酒場で会った人間と馬鹿話をするのが主のようだ。友人が屋敷に訪ねてきたことも無い。
ワインを片手のレニと、寝る前の対話。普段どおりの光景。
――だがきっと今夜は、普段どおりで無くなる。
「……もうこんな時間か。楽しい時間はあっという間だね」
壁の時計を一瞥し、告げるレニ。机上のデキャンタもちょうど空になっていた。グラスの残りを一息で飲み干す。赤みがあまり顔には出ないのは、アルコールに強いのか、化粧のせいなのか。
「じゃあ、そろそろ寝るね。おやすみ」
レニがデキャンタとグラスを手に、立ち上がろうとしたところで。
「……なんで、そんなに優しいの」
「え?」
切り出す。普段どおりを、壊しにかかる。
「ここに来てからずっと、あなたはわたしに何もしないし、何も求めない。あんな大金をはたいてまで、わたしを買ったのに」
ずっと聞けなかったこと。何よりの疑問。
「どうしてこんなに、わたしに優しくしてくれるの? こんなことをして、あなたに何の得があるの?」
道理に合わぬこと。不条理。違和感。
「あなたが何を考えてるのか分からない。それが――怖い」
まず何より、相手の気持ちを確認したかった。だから、正直な心を吐露した。
「――ごめんなさい。こんなこと……言える立場じゃ、ないのに」
施しを享受する身からとは思えぬ、厚かましい質問。最後に形ばかりの謝罪を添える。
すると、レニが手を握ってくれる。
「……そんな大層なことを考えてるわけじゃない。ただ何となく、君の力になりたいと思っただけだ。それだけじゃ、納得できない?」
「……」
これを、ただの善意で? 納得には程遠かったが、それが本当なら何という聖人だろう。
「君に何もしないのは、君が嫌がることをしたくないからだ。今は落ち着くまで、ここでゆっくり休むといい」
欲を仄めかした、ように思う。が、それは果たして本心なのだろうか。
「……おやすみ」
レニが立ち上がる。行ってしまう。思わずその袖を掴み、止める。
「ん?」
鼓動が高鳴る。言葉は、予め用意していた。でも、口に出すことがどうしても出来ない。
立ち上がったレニが、椅子に座り直す。
「何か、話したいことがある?」
「……」
ある。話したいことも、してほしいことも。
「……レニ、は……」
確認を重ねてしまう。だめだ。怖い。
「わたしが、抱きたい……?」
顔を見ずに俯いたまま。しかも、恐ろしいほどの小声になってしまった。
時が流れる。
聞こえただろうか。
反応が無い。
伝わったかどうか怪しい。
顔を見る勇気は無い。
もう一度、言わなければならないかと覚悟を決めた頃。
「抱きたい。叶うことなら」
こちらに合わせ、小声で返してくる。
頬が熱くなる。
もう、これでいいじゃないか。そう思っても。
もはや確認というより、脅迫に近い質問を投げてしまう。
「……あんな、真似をされた……汚れた……女でも?」
最後の方は、涙声になってしまった。
自分に出来ることをしたい、でも。拒絶されるのが、怖い。何よりその理由が、あの夜の汚辱によるものだとしたら。汚れた自分をより一層、自覚してしまう気がした。消えつつあるあの黒いものが、戻ってきてしまう気がした。
何処までもまとわりつく、終わらない呪い。
けれどレニは。こちらの下げた顎先を一つ指で持ち上げ、強引に視線を合わせて。
いつも通りの、これ以上なくいつも通りの口調で。
「あんなことで、君の魅力は翳らない」
おおよそ日常生活では使わない言葉の並びを、笑顔でさらりと言い放った。これまでの彼を考えれば、さほど驚くには値しない、いつもの軽薄な台詞とも取れた。だがこの時は。
乾き切った砂に差し込まれる水のように。全てを包みこみ、奥までを潤す、優しい言葉に、思えた。
「――」
自分は一体、どこまで甘やかされれば気が済むのだろう。
もはや笑えてくる。
その後押しで、笑顔が作られる。
用意していた言葉を、ようやく口に出来る。
「あなたがわたしに、したいことがあるなら、してほしい。わたしは、あなたのものだから。……それに」
用意していた言葉に続け、たった今芽生えた、素直な気持ちを付け足した。
「あなたになら……きっと、何をされても嫌じゃない」
***
ベッドに入ってくる。息を飲む。
男の人の、自分のものではない、匂い。熱。
不思議と嫌悪感は薄い。
それどころか。
同じ枕に頭を乗せ、しばし見つめ合う。
「本当に、平気?」
レニが聞いてくる。少しの間を置いて、頷く。
顔を近づけてくる、自然と目を閉じる。
唇に、湿った感触が伝わる。
最初は薄く、優しく、ほんの数回。
ノックをするように、中に住まう住人の許可を得るように。
それを経て。次の接触は、圧力を伴う、深い触れ合いとなった。葡萄の風味が広がる。形を確認するように、吸い込むように、唇で唇を、撫でてくる。こちらも、相手と同じ動きを、可能な限り再現する。水音が立つのを抑えたかったが、向こうは気にしていないようだった。
やがて、唇とは別のものが侵入してくる。歯を開き導き入れ、舌先を触れさせ、絡め合う。
――何故かあの時が、思い起こされた。故郷を失った日の、騎士の唇。
重ねてしまっているのかも知れない。自分の命を救ってくれた人と、自分が悲惨な奴隷に落ちるのを救ってくれた人。
唇が離れる。視線が合う。蒼い瞳。その中に、自分の輪郭を確認できる程の距離。
他の男性を想いながら抱かれるのは、あまりにも礼を欠く行為だ。
レニの瞳を見据える。自分がこれから抱かれるのはこの人だと、強く認識する。
その視線が下に落ちる。服の結びを解かれ、胸元をはだけられる。
あんなにも明るいところで一度見られているから、抵抗感は薄かった。
指が膨らみの根元あたりに触れ、優しく持ち上げられる。
「ん……っ……」
ぴくりと肌が反応し、声が漏れる。
指先がしばしその動きを繰り返した後、そのままゆっくりと、肌を伝い、先端に向かう。あの時、少し触られただけで固く尖り、大きな刺激と快感を何度も流し込まれた、その箇所に。
「……‼」
つい手で振り払おうとしてしまうが、その反射の挙動を必死で堪える。受け入れると決めたし、そう言った。
だがその分、全身が強ばる。石のように。止まらぬ震えはそのままに。
「……」
敏感なその箇所への進行は、中断された。
軽く抱き寄せられ、しばし髪と肩を撫でられるだけの優しい動きになる。
こちらのあまりの緊張が、見るに耐えなかったのかも知れない。
「まだ、怖い?」
レニが尋ねてくる。軽く頷く。
「何が怖い?」
何が? 何が……だろうか。きっと、言葉にはしきれない怖さがそこにはあった。でも、無理やり言葉にする。
「レニが、わたしの身体を、気に入ってくれるか、怖い」
そうだ。それは何故?
「誰かと比べられて、失望させてしまうかと思うと、怖い」
掘り下げてゆく。自分に眠る恐怖を。形にしてゆく。
「あんな目にあったわたしに触れるのが、本当は嫌なんじゃないかって思うと――怖い」
次々に湧いてくる――いや、潜れば潜るだけ、隠していた黒いものと、向き合っているに過ぎない。
止められない。理由なんて無限にあった。そのことに気付かされる。
「それにわたしが――っ……」
続く言葉を、唇で塞がれる。
先ほどの口付けよりも、深く、深く。
「んむ……っ‼ ん……‼」
荒れ狂う唇、舌。
先程のそれとは、あまりにも違う激しさで。
思考が蕩け、丸ごと押し流す力強い快感が、唇から脳髄へと、稲妻のように駆け巡る。
両手の指が絡む。
指先の力強さが、掌を締め付ける。
シーツに深く押し付けられ、沈む。
このまま、喰い殺されるかもしれない。
それほどの。
(――……)
唇が離れて初めて、胸の鼓動が凄まじい音を奏でているのに気付く。
息は乱れ、瞼は滲み。
――そして先程の恐怖は、気付けば綺麗に流されていた。
「じゃあ、証明しないとね」
左目の視界をわずかに覆っていた髪を、指で避けてくれる。
そのまま頬を撫でてくれる。
「僕がどれほど、君を求めているか」
身体の何処かで、何かが、締め付けられる。
ああ、もう駄目だ。
自分の何もかもを、この人に奪ってほしい。
塗り潰してほしい。
小賢しい打算も。
つまらないこだわりも。
この身に眠る、黒いものも。
全て壊して、めちゃくちゃに、してほしい。
「わたしが……もし嫌がっても、もうやめないでほしい。最後までしてほしい」
覚悟を告げる。今のうちに。乱れる前に。
「どんなことでも、受け入れるから」
「……わかった」
レニの指がもう一度、下に伝った。
***
汗ばむ硬い胸の中、髪を撫でられながら。こちらがまだ断続的に震え、呼吸が落ち着かないのを見てか、レニが尋ねてくる。
「……大丈夫?」
「わから、ない……どうにかなっちゃいそう……だった……」
玩具のように扱われたあの日とは違う、柔らかな交わり。
「すごく……きっと、気持ちよかった……んだと、思う……。びくびくしすぎて、よく、分からなかった、けど……」
何を言えば喜んでもらえるだろう。そう思い口にした言葉は、取り留《と》めがなかった。
「レニ、は……気持ち、よかった……?」
「うん、すごく。幸せだった」
「……」
頬を擦り付ける。せめて、初めてはこの人がよかった。あの時、最初の相手になってくれていたら。そんな欲張りなことを思ってしまう。
こちらの瞼が薄くなってきたのを確認したのか。その唇を耳元に寄せて。
「じゃあ、おやすみ」
レニは静かにそう告げて抱擁を解く。ベッドの中を泳ぎ、外に降りる。置きっぱなしになっていたデキャンタとグラスを手に、そのまま静かに扉へ向かう。
(えっ……)
寂しさが眠気を押しのけ、慌てて上体を起こす。
「行っちゃう、の……?」
発した自分でも驚くほど、媚びたニュアンスが混じってしまった。瞬間的に恥ずかしさが沸き立つが、先ほど何度も上げた声に比べれば大したことはないと思い直す。
「一緒に寝たい?」
「……うん」
もはや羞恥心が麻痺しており、素直にそう返せた。手にしたものを机に戻し、ベッドの中に戻ると、レニはもう一度抱きしめてくれた。
***
その夜は久しぶりに、穏やかな気持ちで寝ることが出来た。
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