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老い
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最近どうも耳が遠くなったような気がする。
以前は、飼い主がアパートの部屋のカギを開ける前の、手提げからカギを出す音で玄関に向かい、飼い主がドアを開けるとそこにいる。みたいにやっていたのだが、今は、部屋に入ってきた飼い主が私の名前を呼び、やっとそれに気づいてヨタヨタと飼い主を出迎える。って感じになってしまった。
ジャンプ力もなくなった。台所の作業台から音もなくサッと冷蔵庫に飛び乗っていたのが、最近は後ろ足が追いつかずにバタバタとしてしまう。
食欲も同様。カリカリは程々にして、ひとつの缶詰を一日数回に分け、少しずつ食べている。
私の飼い主は、そんな私に向かって目を細めてこう言う。
「タロちゃん、年寄りどうし仲良くしようねえ」
そう、私の飼い主も私と同様、後期高齢者だ。
「あたしもいつまで面倒みれるか分かんないけどもねえ」
最近、飼い主も膝が痛いやら動悸がするとやらでめっきり出歩かなくなった。その分いっしょに居られるのだが、一度出歩かなくなるとそれが癖になってみるみる運動不足になり、それで体調を崩しやすくなってしまうのが心配だ。というのも、私がそうだったからだ。おっくうなので今日は散歩やめておこう。それが三日に一回、二日に一回となり、とうとう毎日になってしまったのだ。
とにかく私も、私の飼い主も、毎日を生きるので精いっぱいだった。
そして、ついにその日がきた。
「かわいいネコちゃんだねえ。どこから来たんだい?」
飼い主が私に向かってそう言った。
私は動揺したが、すぐに「ミャ~」と返し、飼い主の膝にほおをすり寄せた。
「よしよし」
飼い主は私のおでこを撫で、台所に向かった。
「これでいいかしらね」
戸棚から猫用の缶詰を取り出した飼い主は、慣れた手つきで缶の蓋を開け、器に盛り、私に差し出した。
私の存在を忘れ、名前も思い出せなくて、それでいて猫用の缶詰が戸棚に備蓄してあることには疑問を感じない。本能的に日常の動作はできるが、その動作の根拠などには興味がなくなる。……まさに認知症だ。
「かわいいネコちゃんだねえ。どこから来たんだい?」
「ミャ~」
一日に何度もこの会話をした。
「今日は寒いから、お布団で一緒に寝ようね」
私が飼い主の布団にもぐり込むと、飼い主は私の背中を優しくなでた。そしていつしか、私と私の飼い主は、お互いの温もりの中へと吸い込まれていった。
その日は私の飼い主の娘と、医者、ヘルパーがやって来た。
三者は長い話し合いの末、私の飼い主を施設へ入れる事に決めたらしい。
私の飼い主はその事について、「そうかいそうかい、それはよかったねえ」と、まるで他人事だが、しばらくしてこうも言った。
「この子も一緒に行けるんだろ?」
私の事だ。
「母さん、ペットは連れて行けないよ」
娘がそう言うと、飼い主は言った。
「それじゃ、この子はどおするんだい?」
三者は顔を見合わせた。
そして娘が言う。
「うちはペット無理だから、保護猫センターかなあ」
ヘルパーが言う。
「施設にも相談してみましょう。おとなしい猫ちゃんだし、もしかしたら一緒に入所できるかも」
話し合いは一旦まとまり、その日はこの家に飼い主の娘が泊まった。
私は想像してみた。もし飼い主と一緒に施設に入れたら、これまで通り毎日一緒に飼い主と居られる。だけどもし、もしダメだったら、私は、私はどうなるんだろう……。
次の日、私の悪い予感が当たった。
施設で個人のペットを飼うのはNGとのこと。
「かわいいネコちゃんだねえ。どこから来たんだい?」
私の飼い主が私にそう言ったが、私はいつもの様な「ミャ~」という声が出せなかった。
「この子はね、保護猫センターから遊びに来たの。だからね、今日、保護猫センターに帰るんだよ」
飼い主の娘がそう言うと、飼い主は言った。
「そうかいそうかい、また遊びに来てね」
私は不安で不安でしかたがなかった。
まさか、今日これから保護猫センターに行くことになるなんて。この歳になって、まさか違う環境で暮らすことになるなんて。私も、私の飼い主も、まさか、まさかこんなに突然、離ればなれになるなんて思ってもいなかった。いや違うか、私の飼い主は私の事を忘れている。だから私と同じではないか。飼い主は、ただ環境が変わるだけか……。
なんだか二重に悲しい。なんだか、なんだかとても寂しい。そして、すごく恐い……。
飼い主の娘によって、猫用キャリーバッグが用意された。
私は咄嗟に逃げたが、なんせ足元がおぼつかない。すぐに捕まって、バッグに押し込まれた。
「ねこちゃんをどおするんだい?」
飼い主が娘にきいた。
「おうちに帰るんだよ」
私は抵抗の意味でおぼつかない足を必死で動かし、バッグを内側から蹴り続けた。
「嫌がってるねえ」
その飼い主の言葉で、私は動きを止めた。
「ねこちゃん、このおうちがいいんじゃないの」
「……母さん」
「ねこちゃんがここにいるなら、私もここにいるよ」
その口調ははっきりとしたものだった。
飼い主の娘はしばらく黙ったままで、私はなんだか、なんだか泣きそうになった……。
「でも母さん、今はいいけど、またすぐに調子崩して身の回りの事ができなくなったら大変だから、助けてくれる人がいる安心なところに引っ越さないと」
「だったらこのねこちゃんもいっしょに引っ越しだね」
私の飼い主はそう言うと、私をキャリーバッグから出し、抱きしめた。私はグルグルと喉をならし、目を細めた。そして飼い主の娘は、大きくため息をついた。
私は、私を抱きしめる飼い主の優しい笑顔を見ながら、決心をした……。
飼い主の娘が昼食の支度をしている。私と飼い主は居間でぼうっとテレビを眺めている。私はふと、飼い主の横顔を見た。私の存在を忘れている時の表情だ。私は徐に、飼い主の視界に入らぬよう、そっと立ち上がり、開いている窓の網戸をスライドさせた。飼い主は気づいていない。私は最後に、その飼い主の姿を目に焼き付け、窓の外へとジャンプした。
私がいたら飼い主はいつまでも施設に行けない。施設に行けば専門のスタッフがいる。バランスのとれた食事と運動カリキュラムがある。きっと友達もできるだろう。身も心も健康になって、安心して、幸せに暮らせる。
……幸せに。
私はおぼつかない足で歩き続けた。飼い主がいつまでも施設に行けないことも心配だが、私自身、保護猫センターに行くのが嫌だった。だからこのまま、どこか、雨風がしのげる場所で、静かに、ひっそりと、最後の時を迎えたかった。
休める場所が決まらないまま街中を歩いていると、雨が降ってきた。私はとりあえず小さな公園に寄り、木の下で雨宿りをした。するとすぐに「グォ~」という唸り声と共に、三匹の猫が現れた。そこはその猫たちの縄張りだったらしい。私は慌てて逃げた。おぼつかない足で何度も転びながら必死に走った。ビショビショで泥だらけになりながら、やっとの思いであの猫たちの縄張りを出た。
そこは自動販売機の前だった。
疲れきってもう歩けず、今にも倒れそうだった私は、その自動販売機の下のわずかな隙間にもぐり込んだ。冷え切った体を丸めてブルブル震えていると、次第に意識が遠くなっていく。するとどこからか、「タロちゃーん」という、あの優しい声が聴こえてくる様な気がした。私は思った。私はなんて幸せな猫だったのだろう。温もりや愛を、たくさんたくさん与えられた。本当に私は、幸せだった。そして私はこうも思った。老いというのはこんなにも辛いことなのか。老いというのはこんなにも残酷なことなのか……。
……もう、十分生きた。
……もう……眠ろう……。
「タロちゃーん」
確かに、確かにそれは私の飼い主の声だった。
「タロちゃーん!」
私は最後の力を振り絞り、微かではあったが、「ミャ~」と答えた。
「タロちゃん!」
傘をさした飼い主が、自動販売機の下の私を覗き込んだ。
「ミャ~」
「……タロちゃん。こんな所にいたの」
飼い主は震える私を抱え、自分の服で濡れた私の体を優しく拭いた。
私は飼い主の胸に頭を埋めた。すると体の震えは止まり、自然と喉がグルグルと鳴り始めた。
……なぜだろう。なぜ、私の飼い主は私の名前を思い出したのだろう。このタイミングで、なぜ。……不思議だ。
今日の夜は飼い主の娘はいない。
そして、久しぶりに飼い主が台所に立っている。
私は座布団の上で体を丸め、その飼い主の後ろ姿を眺めながら思った。
私の飼い主はきっとまたすぐに私を忘れるだろう。
もしかしたら明日にでも忘れているかも。
そして、明日にでも離ればなれになってしまうかも。
……私はずうっと、幸せとは、明日とか未来にあるものだと思っていた。
違うんだ。
今なんだ。
幸せは、今、ここにあるんだ。
……この歳になって、やっとわかった。
「タロちゃん、年寄りどうし仲良くしようねえ」
私の飼い主はそう言うと、缶詰を器に盛り、私に差し出した。
私は「ミャ~」といって、それを食べ始めた。
以前は、飼い主がアパートの部屋のカギを開ける前の、手提げからカギを出す音で玄関に向かい、飼い主がドアを開けるとそこにいる。みたいにやっていたのだが、今は、部屋に入ってきた飼い主が私の名前を呼び、やっとそれに気づいてヨタヨタと飼い主を出迎える。って感じになってしまった。
ジャンプ力もなくなった。台所の作業台から音もなくサッと冷蔵庫に飛び乗っていたのが、最近は後ろ足が追いつかずにバタバタとしてしまう。
食欲も同様。カリカリは程々にして、ひとつの缶詰を一日数回に分け、少しずつ食べている。
私の飼い主は、そんな私に向かって目を細めてこう言う。
「タロちゃん、年寄りどうし仲良くしようねえ」
そう、私の飼い主も私と同様、後期高齢者だ。
「あたしもいつまで面倒みれるか分かんないけどもねえ」
最近、飼い主も膝が痛いやら動悸がするとやらでめっきり出歩かなくなった。その分いっしょに居られるのだが、一度出歩かなくなるとそれが癖になってみるみる運動不足になり、それで体調を崩しやすくなってしまうのが心配だ。というのも、私がそうだったからだ。おっくうなので今日は散歩やめておこう。それが三日に一回、二日に一回となり、とうとう毎日になってしまったのだ。
とにかく私も、私の飼い主も、毎日を生きるので精いっぱいだった。
そして、ついにその日がきた。
「かわいいネコちゃんだねえ。どこから来たんだい?」
飼い主が私に向かってそう言った。
私は動揺したが、すぐに「ミャ~」と返し、飼い主の膝にほおをすり寄せた。
「よしよし」
飼い主は私のおでこを撫で、台所に向かった。
「これでいいかしらね」
戸棚から猫用の缶詰を取り出した飼い主は、慣れた手つきで缶の蓋を開け、器に盛り、私に差し出した。
私の存在を忘れ、名前も思い出せなくて、それでいて猫用の缶詰が戸棚に備蓄してあることには疑問を感じない。本能的に日常の動作はできるが、その動作の根拠などには興味がなくなる。……まさに認知症だ。
「かわいいネコちゃんだねえ。どこから来たんだい?」
「ミャ~」
一日に何度もこの会話をした。
「今日は寒いから、お布団で一緒に寝ようね」
私が飼い主の布団にもぐり込むと、飼い主は私の背中を優しくなでた。そしていつしか、私と私の飼い主は、お互いの温もりの中へと吸い込まれていった。
その日は私の飼い主の娘と、医者、ヘルパーがやって来た。
三者は長い話し合いの末、私の飼い主を施設へ入れる事に決めたらしい。
私の飼い主はその事について、「そうかいそうかい、それはよかったねえ」と、まるで他人事だが、しばらくしてこうも言った。
「この子も一緒に行けるんだろ?」
私の事だ。
「母さん、ペットは連れて行けないよ」
娘がそう言うと、飼い主は言った。
「それじゃ、この子はどおするんだい?」
三者は顔を見合わせた。
そして娘が言う。
「うちはペット無理だから、保護猫センターかなあ」
ヘルパーが言う。
「施設にも相談してみましょう。おとなしい猫ちゃんだし、もしかしたら一緒に入所できるかも」
話し合いは一旦まとまり、その日はこの家に飼い主の娘が泊まった。
私は想像してみた。もし飼い主と一緒に施設に入れたら、これまで通り毎日一緒に飼い主と居られる。だけどもし、もしダメだったら、私は、私はどうなるんだろう……。
次の日、私の悪い予感が当たった。
施設で個人のペットを飼うのはNGとのこと。
「かわいいネコちゃんだねえ。どこから来たんだい?」
私の飼い主が私にそう言ったが、私はいつもの様な「ミャ~」という声が出せなかった。
「この子はね、保護猫センターから遊びに来たの。だからね、今日、保護猫センターに帰るんだよ」
飼い主の娘がそう言うと、飼い主は言った。
「そうかいそうかい、また遊びに来てね」
私は不安で不安でしかたがなかった。
まさか、今日これから保護猫センターに行くことになるなんて。この歳になって、まさか違う環境で暮らすことになるなんて。私も、私の飼い主も、まさか、まさかこんなに突然、離ればなれになるなんて思ってもいなかった。いや違うか、私の飼い主は私の事を忘れている。だから私と同じではないか。飼い主は、ただ環境が変わるだけか……。
なんだか二重に悲しい。なんだか、なんだかとても寂しい。そして、すごく恐い……。
飼い主の娘によって、猫用キャリーバッグが用意された。
私は咄嗟に逃げたが、なんせ足元がおぼつかない。すぐに捕まって、バッグに押し込まれた。
「ねこちゃんをどおするんだい?」
飼い主が娘にきいた。
「おうちに帰るんだよ」
私は抵抗の意味でおぼつかない足を必死で動かし、バッグを内側から蹴り続けた。
「嫌がってるねえ」
その飼い主の言葉で、私は動きを止めた。
「ねこちゃん、このおうちがいいんじゃないの」
「……母さん」
「ねこちゃんがここにいるなら、私もここにいるよ」
その口調ははっきりとしたものだった。
飼い主の娘はしばらく黙ったままで、私はなんだか、なんだか泣きそうになった……。
「でも母さん、今はいいけど、またすぐに調子崩して身の回りの事ができなくなったら大変だから、助けてくれる人がいる安心なところに引っ越さないと」
「だったらこのねこちゃんもいっしょに引っ越しだね」
私の飼い主はそう言うと、私をキャリーバッグから出し、抱きしめた。私はグルグルと喉をならし、目を細めた。そして飼い主の娘は、大きくため息をついた。
私は、私を抱きしめる飼い主の優しい笑顔を見ながら、決心をした……。
飼い主の娘が昼食の支度をしている。私と飼い主は居間でぼうっとテレビを眺めている。私はふと、飼い主の横顔を見た。私の存在を忘れている時の表情だ。私は徐に、飼い主の視界に入らぬよう、そっと立ち上がり、開いている窓の網戸をスライドさせた。飼い主は気づいていない。私は最後に、その飼い主の姿を目に焼き付け、窓の外へとジャンプした。
私がいたら飼い主はいつまでも施設に行けない。施設に行けば専門のスタッフがいる。バランスのとれた食事と運動カリキュラムがある。きっと友達もできるだろう。身も心も健康になって、安心して、幸せに暮らせる。
……幸せに。
私はおぼつかない足で歩き続けた。飼い主がいつまでも施設に行けないことも心配だが、私自身、保護猫センターに行くのが嫌だった。だからこのまま、どこか、雨風がしのげる場所で、静かに、ひっそりと、最後の時を迎えたかった。
休める場所が決まらないまま街中を歩いていると、雨が降ってきた。私はとりあえず小さな公園に寄り、木の下で雨宿りをした。するとすぐに「グォ~」という唸り声と共に、三匹の猫が現れた。そこはその猫たちの縄張りだったらしい。私は慌てて逃げた。おぼつかない足で何度も転びながら必死に走った。ビショビショで泥だらけになりながら、やっとの思いであの猫たちの縄張りを出た。
そこは自動販売機の前だった。
疲れきってもう歩けず、今にも倒れそうだった私は、その自動販売機の下のわずかな隙間にもぐり込んだ。冷え切った体を丸めてブルブル震えていると、次第に意識が遠くなっていく。するとどこからか、「タロちゃーん」という、あの優しい声が聴こえてくる様な気がした。私は思った。私はなんて幸せな猫だったのだろう。温もりや愛を、たくさんたくさん与えられた。本当に私は、幸せだった。そして私はこうも思った。老いというのはこんなにも辛いことなのか。老いというのはこんなにも残酷なことなのか……。
……もう、十分生きた。
……もう……眠ろう……。
「タロちゃーん」
確かに、確かにそれは私の飼い主の声だった。
「タロちゃーん!」
私は最後の力を振り絞り、微かではあったが、「ミャ~」と答えた。
「タロちゃん!」
傘をさした飼い主が、自動販売機の下の私を覗き込んだ。
「ミャ~」
「……タロちゃん。こんな所にいたの」
飼い主は震える私を抱え、自分の服で濡れた私の体を優しく拭いた。
私は飼い主の胸に頭を埋めた。すると体の震えは止まり、自然と喉がグルグルと鳴り始めた。
……なぜだろう。なぜ、私の飼い主は私の名前を思い出したのだろう。このタイミングで、なぜ。……不思議だ。
今日の夜は飼い主の娘はいない。
そして、久しぶりに飼い主が台所に立っている。
私は座布団の上で体を丸め、その飼い主の後ろ姿を眺めながら思った。
私の飼い主はきっとまたすぐに私を忘れるだろう。
もしかしたら明日にでも忘れているかも。
そして、明日にでも離ればなれになってしまうかも。
……私はずうっと、幸せとは、明日とか未来にあるものだと思っていた。
違うんだ。
今なんだ。
幸せは、今、ここにあるんだ。
……この歳になって、やっとわかった。
「タロちゃん、年寄りどうし仲良くしようねえ」
私の飼い主はそう言うと、缶詰を器に盛り、私に差し出した。
私は「ミャ~」といって、それを食べ始めた。
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