当て馬令嬢は自由を謳歌したい〜冷酷王子への愛をゴミ箱に捨てて隣国へ脱走したら、なぜか奈落の底まで追いかけられそうです〜

平山和人

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ソルスティア王国とアステリア王国の国境沿い。かつては平和な交易の場であったその平原は今、銀色に輝く鎧の波によって埋め尽くされていた。 アステリア王国の第一王子、シオンが率いる十万の精鋭部隊。 その目的は領土の割譲でも、資源の略奪でもない。たった一人の少女、エルナ・フォン・ラインハルトの奪還である。


「……信じられませんわ。あの方は正気? たった一人の令嬢を連れ戻すために、国家予算の半分を動かすような真似をするなんて」


ソルスティア側の城壁の上から、エルナは双眼鏡を覗きながら戦慄していた。 隣には、同じく双眼鏡を構えた「本来のヒロイン」ユリが、小刻みに震えながら呟く。


「エルナ様、あれを見てください。あの軍旗……『エルナ様命』って書いてありませんか?」 「見間違いよ、ユリ様。きっと私の呪いか何かの幻覚だわ」


だが、幻覚ではなかった。シオンは拡声の魔法を使い、地平線まで響き渡る声で宣言した。


「ソルスティアの王族に告ぐ! 我が最愛の婚約者、エルナを今すぐ解放せよ! さもなくば、この国を更地にしてでも彼女を探し出す。猶予は三時間だ!」


「婚約者じゃないって言ってるでしょうが!」 エルナの怒声は、風に吹かれて虚しく消えた。 隣国ソルスティアの第二王子レオンは、その様子を面白そうに眺めながら、エルナの肩に手を置いた。


「どうする、エルナ? 彼の愛を受け入れれば、戦争は回避できるぞ。君が犠牲になれば、この国の平和は守られる」 「レオン殿下、目が笑っていますわよ。貴方も貴方で、私を交渉材料にする気満々でしょう?」 「ははっ、バレたか。だが安心しろ。君という面白い駒を、あんな狂った王子にタダで返すつもりはない」


三者の思惑が交錯する中、ついにシオンが「最初の一歩」を踏み出す。それは攻撃の合図ではなく、彼自身が単騎で国境を越えてくるという、あまりに無謀で、あまりに独善的な突撃だった。


シオンはたった一人でソルスティアの王宮へ乗り込んできた。 「話し合いがしたい」という彼の要望を、レオンは面白がって受け入れ、エルナ、ユリ、シオン、レオンという四人が一つのテーブルを囲むという、地獄のようなティータイムが実現した。


シオンの姿は、数日前よりもさらに凄惨さを増していた。 頬はこけ、瞳には執着の炎がぎらぎらと燃え盛っている。彼は運ばれてきた紅茶には目もくれず、ただじっと、エルナだけを見つめていた。


「……エルナ。なぜ、私の隣にいない」 「殿下、もうその話は終わりました。私は辞退届を出し、貴方はそれを受け入れた。私たちはもう他人です」 「他人? 笑わせるな。お前を構成するすべての記憶、お前が私に捧げた時間、そのすべてが私の所有物だ。返してほしければ、私の命を奪ってからにしろ」


シオンは震える手で、懐から古びたペンダントを取り出した。それは、一度目の人生でエルナが死ぬ間際まで握りしめていた、彼からの(一度目の人生ではゴミのように扱われた)贈り物だった。


「これを見て、何も思い出さないのか? お前はかつて、私を愛していると言った。永遠を誓った」 「それは……!」


エルナは言葉を呑んだ。 前世の記憶はあるが、今世の自分にそんな記憶はない。だが、シオンの瞳に映る絶望は、あまりにもリアルで、あまりにも重い。


「シオン殿下。貴方は『過去』の私を見ているだけです。今の私は、貴方を拒絶しているエルナなのです」 「構わない。拒絶すら愛おしい。私を憎み、呪いながら、私の腕の中で朽ち果ててくれればそれでいい」


(ダメだ、この人、話が通じないどころか、会話の次元が違う!)


エルナは隣に座るユリに目配せをした。ユリは聖女の力を使い、こっそりとテーブルの下で「転送魔法」の陣を描き始めている。 レオン王子はこの状況を楽しみつつも、シオンの魔圧に冷や汗を流していた。


「……おい、アステリアの王子。さすがに度が過ぎているぞ。彼女は我が国の保護下にある――」 「黙れ、泥棒猫が。……エルナ、三秒以内に私の元へ来い。さもなくば、この城を氷漬けにする」
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