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第二章 蝶よ花よ
はないくさ①
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原屋敷の庭先でくりひろげられる宝蔵院流の荒稽古はいつものこと。あさ子が物心ついたころには当たりまえとしてその光景があった。
日新館の武寮や私設の稽古場でもとめられる作法にのっとったお行儀のよい稽古では物足りなくなった者たちが、吸いこまれるようにここへ集まってくる。屋敷が郭門のちかくにあるので、ふらりと立ちよりやすいこともかさなった。
槍の攻防にくわえ肘鉄や拳骨、足搦み、投げ技をもおりこみ、ごくごく実戦的な技法を研究しているのだ。正式な稽古場だとこうは行かない。
涼斎や安光流望月家から私設の稽古場をひらいてはどうかと持ちかけられたこともあったが、源右衛門はこれでよいと思って遠慮している。分限にとらわれず、作法にとらわれず、出入りは自由。純粋に高みを追いもとめる。
そのかわり、
「己が食うぶんの米ぐらい持参せよ」
が決まりだった。
だから訪ねてくる者は、木剣や稽古槍をかつぎ、かたわらに米袋をさげてあらわれる。稽古がおわったころになると、ちょうど膳の仕度がととのっているという具合だった。
無役の原家では下女を置く余裕もなかったから、たいへんなのは三つの釜すべてに火を入れないといけないきせ子であったが、さいきんはあさ子とやす子も手伝うようになったので少しは楽になった。
皆が気をつかって米を多くもってきてくれるので、おかげで家計にはこまっても原家が食いっぱぐれたことはない。源右衛門がときどき何も言わず唐突に家へ入れる大金については、きせ子はやはり何もたずねず、子の将来のためにと手をつけず箪笥の奥へしまってあるのだった。
というわけで稽古が終わったあとの朝餉は、やたらと賑やかになる。
源右衛門をかこみ、七人の若者が奪いあうようにやいのやいのと飯をくらうので、あっというまに二つの釜の底が見えてくる。あさ子は腰をおろす暇もなく、自分の食事をとりながら、つぎつぎと声があがるおかわりの配膳をしてまわるのが常だ。
仲三郎が朝の迎え酒をあおりながら言う。
「いやぁ、おあさ、ますますニシンの山椒漬けの腕をあげたな。さっきから酒と飯がすすんでこまる。これならばかの者も諸手をあげよろこぶであろうよ」
「え……そ、そうでしょうか……」
みるみるぽっと頬と耳を赤らめたあさ子であったが、それを見た源右衛門が不機嫌そうに仲三郎の月代を平手うちにした。
「いでっ!」
「よけいなことをいうな、よけいなことを」
「へへ、源さんも娘親なのですねぇ。こうした話はご不快であられますか。江戸にいるあいだは、さぞや気が気ではなかったでしょう」
「なんだその嫌らしい顔は。うるさい、さっさと食え。今日はこれから大内宿まわりで山歩きをするゆえつきあえ。酒はもう終いだ」
「はいはい、ならば――」
と、仲三郎は徳利ごと煽って一気に飲み干してしまった。気のむくまま武者修行に熱中する次男坊の仲三郎は、おなじく無役なのでじつに自由なものである。
「それにひきかえ――」
あの人は、家中の期待を一身に背負い、とおい江戸に行ってしまった。さっき熱くなった顔のほてりが冷めるにつれ、さびしい気持ちがこみあげてくるのをあさ子は覚えた。
いつもこのなかにあった屈託なく笑うあの顔が、今はもういない。胸のなかにぽっかりと空いてしまった埋めようのない穴を、手をそえて泣き言が溢れでぬよう塞いだ。
「覚馬さま――」
お転婆に育ったほうとはいえ、また背丈も平均的な男子とおなじぐらいであるとはいえ、あさ子も幸ある娘子の一生を夢みる乙女だ。
乞いねがわくば家の分限や出世といったものより一心に尊敬できる人と添いとげ、夫によく似たかわいらしい子を得て、立派な会津の武士に育てあげたいとひそかに願う。
じつのところ意中の人がいないわけでもなく、はつ恋らしきものを知ったのは早いほうだったかもしれない。
それはあさ子が八つのころ。
涼斎に連れられ、仲三郎とその人がやってきた。
「この者らは見込みがあるゆえ、どうか源右衛門から鍛えてやってほしい。これなるは番頭高津平蔵殿の次男で仲三郎。そしてこちらが砲術指南役山本権八殿の長男で――」
そのとき。
源右衛門のとなりにいたあさ子の身を、真っ向から吹いてきた爽やかな春風がひゅっとかけぬけた。けっして顎に苔みたいなもみあげを生やした大男の仲三郎ではない。
そのとなり、颯爽と背筋が起立した男子の名を、山本義衛といった。
百石取りの山本家は、武田信玄につかえた兵法家山本勘助の裔であり、沿岸警備において要となる砲術をお家芸とした。
義衛は、すでに四歳のころから神童と噂された秀才、いや、天才だった。
なのに鼻にかけたそぶりもなく性格は実直でいて、什では年下の面倒見もよく、優しくて思いやりがあり、志がたかく勤勉でいて、礼儀ただしく品行方正かつ質実剛健、とにかく好ましい言葉がなんでもあてはまった。
日新館に入学したあとは、やはり涼斎から見こまれただけのことはあり、学業の成績が優秀でつねに主席をあらそった。弓馬刀槍においてもきわだっだ才能をそなえ、剣術は太子流、槍術は宝蔵院流を学び、文武両道の頭角をはやくから発露させた。
義衛は背丈がぐんぐんと伸びて、城下をあるけば娘子たちが振りかえって二度見する青年となった。見た目だけではない。内にやどした気迫もちがう。冬であろうとも諸肌をさらし、背中から淡い湯気をたてながら稽古する。胸は厚くて筋骨たくましく、全身が岩のごとく引き締まっている。
きまってあさ子は縁側に正座をして、頬を紅潮させながら義衛が稽古する姿を目で追った。
いつも横から茶々をいれてくるのは仲三郎だった。
「おい、おあさ、鼻血だ、鼻血が垂れてるぞ」
「あっ……」
あさ子にとって、この世の男子は二つに分けられる。
義衛か、義衛以外しかいない。
あさ子とは七つちがい。歳の差と家の分限もちょうどつりあいがとれている。
「きっと私は、この人のお嫁さんになる。そうしたさだめだったのだ――」
なんら疑いもなくそう決心した。
やがて元服をおえた義衛は、覚馬と名をあらためた。
とてもよい名である、と思う。たてがみを風にながしながら、群の先頭を駆けてゆく駿馬のようでよく似合っているではないか。
覚馬が屋敷をたずねてくる日は精一杯めかしこんで挨拶し、女子らしくやわらかな仕草で配膳をするよう心がけた。あるとき覚馬が目を丸くさせ、
「いやはや、時の流れは早い。あさどのもずいぶん大きくなられた」
と言ってくれたときは気恥ずかしいやら嬉しいやらで、部屋に駆けもどり顔を布団に押しつけてのたうちまわったものだった。
台所で母の手伝いをしていると覚馬の話し声がむこうからながれ聞こえてくる。男らしい朗らかな声音と、よどみのない言葉の一つひとつに意識を集中させる。
曰く、ちかごろ四海では、異国船が往来するようになった。これからますます砲術の役割が重要になり、二百八十藩なかでも軍備がととのっている会津藩の役割が、より欠かせぬものになるかもしれないということ。
また曰く、いずれ幕府も大型船建造の禁令をあらためくろふねというものを持って外海にくりだし、めりけんやえげれす、ふらんす、ぷろいすんというはるか西方の彼方にある異国まで使者をつかわすことになるであろうということ。
そのためにはまずもってなにより、幕府主導のもと海防を整えないといけないのだから、幕閣にはもっとしっかりしてもらわねば困るということ。
いったいなんの話をしているのかあさ子にはさっぱりだったが、覚馬とともにくろふねという大きな船に乗り、二人で大海原へでる景色を妄想したりもした。
が、現実は、なかなかあさ子の思い描いたとおりにはなってくれない。
あさ子十五歳と覚馬二十二歳、昨年のことだ。
優秀な成績で日新館の過程を修めた覚馬は上役から命をうけ、江戸留学をすることになってしまった。はやくて一年、長ければ三年も戻ってこないという。
となればそのころ、あさ子は十八歳になっている。
それはよくない。覚馬に花の盛りを見てもらえなくなるではないか。大問題である。
布団のなかでひとり泣き沈んでみたものの、とはいえ会津盆地の外へ志をいだく覚馬をひき止めることは誰にもできない。せめて何かできることはないかと探したすえ、二里半(約一〇キロ)はなれた伊佐須美社まで足をはこび道中守りをもらってきて、握り飯をたくさんつくって手渡すので精一杯だった。
伊佐須美社は創建から二千年の時をかぞえ、会津のうつろいを見守ってきた総鎮守で、会津松平家との縁もふかい。当地は会津という名の起源ともいわれ、伊弉諾尊と伊弉冉尊が祭神であることから縁結びのご利益があるとされる。つまり覚馬が無事に会津へ帰ってきて、ふたたび会えるようにと願いをこめた。
つよい向学心と希望にあふれ、すでに心は江戸にいっている覚馬のあかるい笑顔が目に痛かった。ふりかえりもせず、下野街道の向こうがわへみるみる遠ざかりゆく背を、見送りの列にまじって見送った。
しかし、まだあきらめたわけではない。
何年かして帰ってくれば、当然に山本家も嫁むかえを考えるころあいであろう。
そのときに周りからおしもおされぬ成熟した会津娘子になっていればよいだけのこと。
「会津娘子道というは不動心と見つけたり。必要なるは日々の研鑽に尽きる――」
いよいよ花嫁修業のお稽古ごとも本格的にはじまった。己にそう言い聞かせ、何年でも待つのだとかたく心に思いさだめたのだった。
覚馬の江戸留学と源右衛門の帰りがほぼ同時期になった理由など、あさ子が知る由もなかった。
日新館の武寮や私設の稽古場でもとめられる作法にのっとったお行儀のよい稽古では物足りなくなった者たちが、吸いこまれるようにここへ集まってくる。屋敷が郭門のちかくにあるので、ふらりと立ちよりやすいこともかさなった。
槍の攻防にくわえ肘鉄や拳骨、足搦み、投げ技をもおりこみ、ごくごく実戦的な技法を研究しているのだ。正式な稽古場だとこうは行かない。
涼斎や安光流望月家から私設の稽古場をひらいてはどうかと持ちかけられたこともあったが、源右衛門はこれでよいと思って遠慮している。分限にとらわれず、作法にとらわれず、出入りは自由。純粋に高みを追いもとめる。
そのかわり、
「己が食うぶんの米ぐらい持参せよ」
が決まりだった。
だから訪ねてくる者は、木剣や稽古槍をかつぎ、かたわらに米袋をさげてあらわれる。稽古がおわったころになると、ちょうど膳の仕度がととのっているという具合だった。
無役の原家では下女を置く余裕もなかったから、たいへんなのは三つの釜すべてに火を入れないといけないきせ子であったが、さいきんはあさ子とやす子も手伝うようになったので少しは楽になった。
皆が気をつかって米を多くもってきてくれるので、おかげで家計にはこまっても原家が食いっぱぐれたことはない。源右衛門がときどき何も言わず唐突に家へ入れる大金については、きせ子はやはり何もたずねず、子の将来のためにと手をつけず箪笥の奥へしまってあるのだった。
というわけで稽古が終わったあとの朝餉は、やたらと賑やかになる。
源右衛門をかこみ、七人の若者が奪いあうようにやいのやいのと飯をくらうので、あっというまに二つの釜の底が見えてくる。あさ子は腰をおろす暇もなく、自分の食事をとりながら、つぎつぎと声があがるおかわりの配膳をしてまわるのが常だ。
仲三郎が朝の迎え酒をあおりながら言う。
「いやぁ、おあさ、ますますニシンの山椒漬けの腕をあげたな。さっきから酒と飯がすすんでこまる。これならばかの者も諸手をあげよろこぶであろうよ」
「え……そ、そうでしょうか……」
みるみるぽっと頬と耳を赤らめたあさ子であったが、それを見た源右衛門が不機嫌そうに仲三郎の月代を平手うちにした。
「いでっ!」
「よけいなことをいうな、よけいなことを」
「へへ、源さんも娘親なのですねぇ。こうした話はご不快であられますか。江戸にいるあいだは、さぞや気が気ではなかったでしょう」
「なんだその嫌らしい顔は。うるさい、さっさと食え。今日はこれから大内宿まわりで山歩きをするゆえつきあえ。酒はもう終いだ」
「はいはい、ならば――」
と、仲三郎は徳利ごと煽って一気に飲み干してしまった。気のむくまま武者修行に熱中する次男坊の仲三郎は、おなじく無役なのでじつに自由なものである。
「それにひきかえ――」
あの人は、家中の期待を一身に背負い、とおい江戸に行ってしまった。さっき熱くなった顔のほてりが冷めるにつれ、さびしい気持ちがこみあげてくるのをあさ子は覚えた。
いつもこのなかにあった屈託なく笑うあの顔が、今はもういない。胸のなかにぽっかりと空いてしまった埋めようのない穴を、手をそえて泣き言が溢れでぬよう塞いだ。
「覚馬さま――」
お転婆に育ったほうとはいえ、また背丈も平均的な男子とおなじぐらいであるとはいえ、あさ子も幸ある娘子の一生を夢みる乙女だ。
乞いねがわくば家の分限や出世といったものより一心に尊敬できる人と添いとげ、夫によく似たかわいらしい子を得て、立派な会津の武士に育てあげたいとひそかに願う。
じつのところ意中の人がいないわけでもなく、はつ恋らしきものを知ったのは早いほうだったかもしれない。
それはあさ子が八つのころ。
涼斎に連れられ、仲三郎とその人がやってきた。
「この者らは見込みがあるゆえ、どうか源右衛門から鍛えてやってほしい。これなるは番頭高津平蔵殿の次男で仲三郎。そしてこちらが砲術指南役山本権八殿の長男で――」
そのとき。
源右衛門のとなりにいたあさ子の身を、真っ向から吹いてきた爽やかな春風がひゅっとかけぬけた。けっして顎に苔みたいなもみあげを生やした大男の仲三郎ではない。
そのとなり、颯爽と背筋が起立した男子の名を、山本義衛といった。
百石取りの山本家は、武田信玄につかえた兵法家山本勘助の裔であり、沿岸警備において要となる砲術をお家芸とした。
義衛は、すでに四歳のころから神童と噂された秀才、いや、天才だった。
なのに鼻にかけたそぶりもなく性格は実直でいて、什では年下の面倒見もよく、優しくて思いやりがあり、志がたかく勤勉でいて、礼儀ただしく品行方正かつ質実剛健、とにかく好ましい言葉がなんでもあてはまった。
日新館に入学したあとは、やはり涼斎から見こまれただけのことはあり、学業の成績が優秀でつねに主席をあらそった。弓馬刀槍においてもきわだっだ才能をそなえ、剣術は太子流、槍術は宝蔵院流を学び、文武両道の頭角をはやくから発露させた。
義衛は背丈がぐんぐんと伸びて、城下をあるけば娘子たちが振りかえって二度見する青年となった。見た目だけではない。内にやどした気迫もちがう。冬であろうとも諸肌をさらし、背中から淡い湯気をたてながら稽古する。胸は厚くて筋骨たくましく、全身が岩のごとく引き締まっている。
きまってあさ子は縁側に正座をして、頬を紅潮させながら義衛が稽古する姿を目で追った。
いつも横から茶々をいれてくるのは仲三郎だった。
「おい、おあさ、鼻血だ、鼻血が垂れてるぞ」
「あっ……」
あさ子にとって、この世の男子は二つに分けられる。
義衛か、義衛以外しかいない。
あさ子とは七つちがい。歳の差と家の分限もちょうどつりあいがとれている。
「きっと私は、この人のお嫁さんになる。そうしたさだめだったのだ――」
なんら疑いもなくそう決心した。
やがて元服をおえた義衛は、覚馬と名をあらためた。
とてもよい名である、と思う。たてがみを風にながしながら、群の先頭を駆けてゆく駿馬のようでよく似合っているではないか。
覚馬が屋敷をたずねてくる日は精一杯めかしこんで挨拶し、女子らしくやわらかな仕草で配膳をするよう心がけた。あるとき覚馬が目を丸くさせ、
「いやはや、時の流れは早い。あさどのもずいぶん大きくなられた」
と言ってくれたときは気恥ずかしいやら嬉しいやらで、部屋に駆けもどり顔を布団に押しつけてのたうちまわったものだった。
台所で母の手伝いをしていると覚馬の話し声がむこうからながれ聞こえてくる。男らしい朗らかな声音と、よどみのない言葉の一つひとつに意識を集中させる。
曰く、ちかごろ四海では、異国船が往来するようになった。これからますます砲術の役割が重要になり、二百八十藩なかでも軍備がととのっている会津藩の役割が、より欠かせぬものになるかもしれないということ。
また曰く、いずれ幕府も大型船建造の禁令をあらためくろふねというものを持って外海にくりだし、めりけんやえげれす、ふらんす、ぷろいすんというはるか西方の彼方にある異国まで使者をつかわすことになるであろうということ。
そのためにはまずもってなにより、幕府主導のもと海防を整えないといけないのだから、幕閣にはもっとしっかりしてもらわねば困るということ。
いったいなんの話をしているのかあさ子にはさっぱりだったが、覚馬とともにくろふねという大きな船に乗り、二人で大海原へでる景色を妄想したりもした。
が、現実は、なかなかあさ子の思い描いたとおりにはなってくれない。
あさ子十五歳と覚馬二十二歳、昨年のことだ。
優秀な成績で日新館の過程を修めた覚馬は上役から命をうけ、江戸留学をすることになってしまった。はやくて一年、長ければ三年も戻ってこないという。
となればそのころ、あさ子は十八歳になっている。
それはよくない。覚馬に花の盛りを見てもらえなくなるではないか。大問題である。
布団のなかでひとり泣き沈んでみたものの、とはいえ会津盆地の外へ志をいだく覚馬をひき止めることは誰にもできない。せめて何かできることはないかと探したすえ、二里半(約一〇キロ)はなれた伊佐須美社まで足をはこび道中守りをもらってきて、握り飯をたくさんつくって手渡すので精一杯だった。
伊佐須美社は創建から二千年の時をかぞえ、会津のうつろいを見守ってきた総鎮守で、会津松平家との縁もふかい。当地は会津という名の起源ともいわれ、伊弉諾尊と伊弉冉尊が祭神であることから縁結びのご利益があるとされる。つまり覚馬が無事に会津へ帰ってきて、ふたたび会えるようにと願いをこめた。
つよい向学心と希望にあふれ、すでに心は江戸にいっている覚馬のあかるい笑顔が目に痛かった。ふりかえりもせず、下野街道の向こうがわへみるみる遠ざかりゆく背を、見送りの列にまじって見送った。
しかし、まだあきらめたわけではない。
何年かして帰ってくれば、当然に山本家も嫁むかえを考えるころあいであろう。
そのときに周りからおしもおされぬ成熟した会津娘子になっていればよいだけのこと。
「会津娘子道というは不動心と見つけたり。必要なるは日々の研鑽に尽きる――」
いよいよ花嫁修業のお稽古ごとも本格的にはじまった。己にそう言い聞かせ、何年でも待つのだとかたく心に思いさだめたのだった。
覚馬の江戸留学と源右衛門の帰りがほぼ同時期になった理由など、あさ子が知る由もなかった。
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