海怪

五十鈴りく

文字の大きさ
25 / 58
稲荷

稲荷 ―弐―

しおりを挟む
 誰もいない。
 しかし、声はした。
 甚吉は辺りをきょろきょろと見回してみる。――いや、本当はなんとなく気づいていたのだ。こうしたことは初めてではない。
 そう、人の姿はなくとも声がするという状況は稀にある。

 ただ、あまり認めたくはないのだ。だから、気づかない振りを決め込みたくなる。
 甚吉の後ろには確かに誰もいなかった。けれど、それはという意味でしかない。

 土の上にちょこんと行儀よく座るのは、雪のように白い猫である。毛並みに艶があり、上品ではあるものの、気位の高そうな顔にも見える。首に結んだ緋縮緬ひちりめんが洒落ていた。その猫は体に沿わせて巻きつけていた尻尾をぱしん、と土に叩きつける。

「そこな小僧、そなた、ワタシの声が聞こえておるな?」

 猫が口元を動かしている。やはり、喋っているのはこの猫だ。尻尾は割れていないから、長く生きた猫が化けるという猫又ではないのだろう。
 それでも、普通の猫ではない。甚吉はその場で固まってしまった。

 ここは絶対に認めてはいけない。こうした時、今までも聞こえなかったことにしてきたではないか。――唯一の例外を除いて。

 よし、帰ろう。仕事がある。
 甚吉は右手と右足をそろえて歩き出した。しかし、猫のそばを通り過ぎないと帰れない。聞こえない聞こえない、と心で唱えながら甚吉は猫の隣をすり抜ける。

「これ、そなたワタシをあやかしの類と思うておるだろう? そうではない。そうではないのだ。ワタシは神の使いであるぞよ」
「――」

 自分でなら何とでも言える。甚吉だってそれでいいなら、将軍様のご落胤とか言っても許される。それを信じる人間がいなければ何の意味もない。
 こんなところで騙されていたら、帰ってからどやされるだけだ。おめぇのおつむりは学ぶってことをしねぇ怠け者(もん)よな、とか言われるのがオチだ。

 聞こえない振りを突き通す甚吉に、猫は再び地面に尻尾を叩きつけて怒った。

「ワタシはこの稲荷社の祭神、宇迦之御魂神うかのみたまのかみ様の神使しんしなるぞよッ」
「――」

 やはり、この猫はあやかしだろう。しかし、稲荷神の使いといえば狐である。少なくとも猫ではない。
 この猫はそんな子供でも知っているようなことを知らないらしい。そんな嘘ではいくら物知らずの甚吉だって騙されない。

 スタスタと歩き去っていく甚吉の背に、白猫は叫んだ。

「これッ、ワタシの話をちゃんと聞かぬのなら、稲荷神様への取り次ぎなどしてやらぬわ。そなたの願いは叶わぬままよ」

 ――本当だろうか。本当に願いが叶わぬのだろうか。
 照の苦しさが一日でも早く和らぐことを祈る甚吉にとって、その言葉が重たくのしかかる。振り向きかけて、いやいやとかぶりを振った。

 危うく騙されるところだった。これはもう、早く帰って相談するしかない。
 頭は回るが、めっぽう口の悪い、あのマル公に――


     ●


 マル公は、見世物小屋『寅蔵座』の稼ぎ頭で、甚吉はその世話役である。正式な名前を知る者に出会ったことはない。その通り名は『海怪うみのばけもの』。そう呼ばれる海の生き物である。

 つまり、妖しい猫から逃げ帰ったものの、甚吉が頼みとするマル公もまたどっこいどっこいの存在ではあった。

 その名の通り、いろんなところがまん丸い。まん丸い碁石のようなまなこ、坊主のようにまん丸い頭、樽のようにまん丸い腹。食いしん坊で口が悪く、見料を払って自分を見に来た客を逆に観察するような生き物なのだが、甚吉の危機を救ってくれたりと、今ではすっかり相棒である。

 甚吉は小屋に戻ってすぐ、マル公のいる生け簀のところに駆け込もうとした。けれど、その前に、いつもの棒手振ぼてふりを待たせてしまっていることに気づいた。

 魚河岸うおがしでマル公の餌となる魚を仕入れてくれている棒手振だ。気風のよさはあるけれど、なんせ気が短い。いや、江戸っ子はそんなものだ。
 棒手振はイライラと尻っ端折りをした素足で地面を踏み鳴らしている。

「うわぁ、すいやせんッ」

 ちょっとでも待たせようものならばこうなる。それがわかっているから、いつも気をつけていたのに、あの猫のせいだ。

「オイコラ、俺を待たせるたぁいい度胸じゃねぇかこのすっとこどっこいッ」

 口角泡を飛ばし、ひと息で怒鳴られた。身をすくめた甚吉に、棒手振は巻き舌で何を言っているのか聞き取れない勢いで怒鳴り散らし、そうして魚を押しつけると、あばよと言って去った。――気は済んだらしい。

 と思ったら、少し行った先でぶつかった男と大喧嘩していたが、そんなものは日常茶飯事。気にしたら負けである。首を突っ込んではいけない。江戸っ子は喧嘩っ早いのだ。

 甚吉は朝からぐったりとして肩を落としつつ、魚の入った盥を生け簀の裏側にある木箱へとしまった。見世が始まるまでいつもここに入れておく。

 それからやっと、マル公の愛くるしい顔を拝むことができた。甚吉の足音に気づいたのだろう。生け簀の中でバシャリと身をひるがえし、大きな尾ビレでひと掻き。あっという間に甚吉のもとへとやってきた。

 なんとも可愛い、甚吉によく懐いてくれている海怪――ではない。
 ツルツルの頭を水面からにゅっと出す。まるで日の出のようだ。しかしその目は半眼になり、前ヒレをてん、と生け簀の縁に突く。

「遅かったじゃねぇか。おめぇは寝坊させてもらえるような身分でもなんでもねぇかんな、寝坊じゃねぇだろ。あれか。あの水芸人のねぇちゃんに見とれてボサッとしてやがったのか? ったくよぅ、色ボケやがってよぅ」
「ち、違うッ」

 真砂太夫にボサッと見とれていることもあるけれど、今日ばかりは違う。
 マル公はほほぅ、と言った後、生け簀の縁をイライラと小刻みに叩く。これはもう先ほどの棒手振と同じだ。だから熱海あたみから来たはずなのに、どうしてそう江戸っ子気質なのだろう。
 いや、今はそんなことにこだわっている場合ではない。

「なんだぁ、ちげぇのか。じゃあどこで油売って――」

 マル公がそう毒づきかけて言葉を切った。んん、と何か唸っている。
 そうしたら、珍しいことにマル公の髭が三味線の弦のようにビビビッと震えた。

「オイコラ、甚」
「へ?」
「このスカタンッ。変なモンつけてきやがったなァ」

 変なモン。
 甚吉は息を止めて振り返った。そこには静かに座すほっそりとした影があった。白猫が、にぃっと笑った気がした。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

処理中です...