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稲荷
稲荷 ―参―
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稲荷社から逃げ帰った甚吉を、この怪しげな猫はつけてきたのだ。
甚吉はマル公と白猫の間で大いに慌てた。マル公の口は悪く、口喧嘩なら勝てるかもしれないけれど、実際に猫と戦えるとは思えない。
引っかかれたらどうしようかと甚吉は青ざめたけれど、よく考えたら相手は猫。水が苦手なはず。
「マ、マル先生ッ。生け簀の奥まで逃げてくれッ。相手は猫だから泳げねぇはず――」
すると、マル公はハァン? と呆れた声を出した。
「なんでオイラが逃げなくちゃならねぇんだコン畜生」
その身を案じた甚吉にひどい暴言である。
しかしまた、猫もどこか呆れている様子であった。
「これ、ワタシが悪さをすると思うておるのだな? だから、まずは話を聞けと言うておるのに」
と、猫はため息をついてから小首をかしげた。
「うん? そこな生き物、なんとも面妖な見てくれをしておるのう」
とても余計なことを言った。マル公の頭の筋がピチッと鳴った気がした。
つぶらな目を尖らせ、マル公は水飛沫を立ててガーッと吠えた。その激昂っぷりは甚吉が今までに見た中では一番のことである。
「面妖たぁどの口がほざきやがる、このコンコンチキがぁッ」
牙を剥くマル公に、甚吉はあああ、と意味のない言葉を吐きつつうろたえた。けれども、猫は澄まし顔である。
「ほう。ワタシの正体が見抜けるとは、見てくれの割になかなかやるのう」
「うるせぇふざけんなコルァアッ」
水をばしゃんばしゃんと跳ね上げて怒るけれど、この猫に喧嘩を売ってもいいものなのだろうか。甚吉はただただ不安である。
「ほ、ほら、マル先生、落ち着いてくれ」
このままでは掃除もできない。見世が始まる時刻は迫りくるのに、甚吉は一体どうしたらいいのだろう。
マル公は宥めにかかった甚吉をキッと睨んだ。
「オイ、甚ッ、こいつァなァ、猫じゃねぇ」
「へ?」
「猫のフリしてやがるだけだ」
甚吉はおずおずと猫を見た。どこからどう見ても白い猫である。しかし、マル公がそう言うのならば猫ではないのかもしれない。
猫はホホホと笑った。
「その通り。ワタシは稲荷神様の使いであるぞよ」
稲荷の使いのコンコンチキ――つまり、狐だということか。狐は化けるというけれど、何故猫に化けているのかはよくわからない。目立ちたくなかったが故のことだろうか。
甚吉なりに考えを述べた。
「神様のお使いってぇなら、神様の御用で猫に化けなすったのか?」
それは深い考えではなく、とっさに浮かんだ疑問であった。
けれど、その途端に猫は鉄砲で撃たれたかのようにして、うぐっと唸った。
「そ、それは、だな」
「まどろっこしいじゃねぇか。話があるってぇならさっさと喋りやがれ」
マル公がケッと吐き捨てると、猫は気分を害した様子でマル公を睨んだけれど、それでもため息をひとつ――語り出した。
「あれは、よく晴れた雲ひとつない青空がどこまでも続いていた、そんな日であった――」
どこか遠い目をして首をもたげ、猫は長い前置きを述べる。
甚吉は焦れた。この後、まだ生け簀の掃除が残っているというのに、猫の話は長引きそうである。
そんな甚吉の心を知らず、猫は滑らかに続けた。
「ワタシは稲荷神様の使いとして日々、稲荷を詣でた者たちの祈りの声を聞いておった。まあ、大金持ちになって吉原の花魁と懇ろになりたい、富くじが当たりますように、などという俗物どももおったが、大概は慎ましく、身内の仕合せを祈るような者が多い」
語り出したはいいが、非常にまどろっこしい。本題はどこなのだろう、とさらに焦れた甚吉の心をマル公が代弁してくれる。
「カーッ、前置きの長ぇコンコンチキだなオイ」
ただ、そんなマル公の声など聞こえないかのように猫は語る。
「毎日務めを果たしているワタシだ。供えられた油揚げの美味さで願いの優劣を決めることもない、立派な神使である。だが、しかし――」
「だが、しかし、なんなので?」
甚吉は思わず先を急かす。猫は特に気分を害したふうでもなく、片耳をぺこんと動かした。
「だが、しかし――時にはゆっくりと休みたい時もあるのだ」
はあ、と甚吉は気の抜けた返事をした。だからなんなのだと喉まで出かかったけれど。
猫はもう片方の耳もぺこんと下げる。そうして、言った。
「とある店の奥にな、それはそれは日当たりのよい縁側があったのだ。あそこで少ぅしばかり休んでも、この働き者のワタシが叱られることはないはずであった。事実、稲荷神様より叱責などされてはおらぬ。ただ――」
「ただ?」
「ワタシが不自然でないように猫に姿を変え、すやすやと眠っているうちに、その店の娘がワタシの美しい姿に惚れ込んでしまったのだ。そうして、首にこのような縮緬を巻きつけた」
緋縮緬の紐。白い毛によく映えて似合っている。
けれど、それこそがこの猫狐の災難であった。
「その娘、くくりつけるだけならまだしも、あろうことか縫い留めたのだ。この縮緬を身につけたままでは――」
「ままでは?」
甚吉が訊ねると、猫は顔をしかめて言った。
「もとに戻れぬ」
「へ?」
するとそこで、大人しく聞いていたマル公がププ、と噴き出した。
「プハハッ、面白れぇな、オイ。稲荷神の使いがそんな縮緬の布っ切れひとつ千切れねぇとはよ。とんだお笑い草よなぁ」
ケケケ、と笑い続ける。さすがにこれはあんまりだ。
しかし、猫は怒らなかった。ギリギリのところで耐えていると言った方がいいだろうか。今は怒っている場合ではないと思うのだろう。
「ぐぬぬ、恥を忍んで頼み込んでおるのだ。小僧、この縮緬を外すのだ。さすれば、おぬしの願いはきっと叶うであろう。さあさあッ」
そんなことを言って首を突き出してくる猫が、少し憐れなような気がしないでもない。ただ、マル公は冷ややかであった。
「オイ、甚。外すんじゃねぇぞ。外した途端、何するかわからねぇだろうがよ」
ハハハン、と優雅に生け簀を漂う。面妖と言われたのをよほど根に持っているようだ。
甚吉はチラリとマル公と猫とを見比べる。外してやりたいのはやまやまなれど、マル公の機嫌を損ねると後々大変なのだ。
猫は甚吉がマル公に逆らえないのを覚ったのかもしれない。うる、と金色の眼を滲ませた。
「と、取ってぇ。取ってぇぇ」
神使としての矜持も横へ置き、猫は泣き落としの猫なで声である。
「取るんじゃねぇぞ」
「取ってぇぇ」
「うっせぇッ」
「取ってぇ」
人外たちのやかましさったらない。甚吉は、迫りくる時刻との戦いである。
掃除が――間に合わない。甚吉の中で何かが弾けた。
「ああ、もうッ。掃除ができねぇッ。後にしてくんなッ」
真面目な甚吉にとって、時刻が来ても仕事を終えられないなど、考えるのも恐ろしいことである。それに比べれば、他のことは後回しであった。
よって、猫狐も後回しである。
甚吉はマル公と白猫の間で大いに慌てた。マル公の口は悪く、口喧嘩なら勝てるかもしれないけれど、実際に猫と戦えるとは思えない。
引っかかれたらどうしようかと甚吉は青ざめたけれど、よく考えたら相手は猫。水が苦手なはず。
「マ、マル先生ッ。生け簀の奥まで逃げてくれッ。相手は猫だから泳げねぇはず――」
すると、マル公はハァン? と呆れた声を出した。
「なんでオイラが逃げなくちゃならねぇんだコン畜生」
その身を案じた甚吉にひどい暴言である。
しかしまた、猫もどこか呆れている様子であった。
「これ、ワタシが悪さをすると思うておるのだな? だから、まずは話を聞けと言うておるのに」
と、猫はため息をついてから小首をかしげた。
「うん? そこな生き物、なんとも面妖な見てくれをしておるのう」
とても余計なことを言った。マル公の頭の筋がピチッと鳴った気がした。
つぶらな目を尖らせ、マル公は水飛沫を立ててガーッと吠えた。その激昂っぷりは甚吉が今までに見た中では一番のことである。
「面妖たぁどの口がほざきやがる、このコンコンチキがぁッ」
牙を剥くマル公に、甚吉はあああ、と意味のない言葉を吐きつつうろたえた。けれども、猫は澄まし顔である。
「ほう。ワタシの正体が見抜けるとは、見てくれの割になかなかやるのう」
「うるせぇふざけんなコルァアッ」
水をばしゃんばしゃんと跳ね上げて怒るけれど、この猫に喧嘩を売ってもいいものなのだろうか。甚吉はただただ不安である。
「ほ、ほら、マル先生、落ち着いてくれ」
このままでは掃除もできない。見世が始まる時刻は迫りくるのに、甚吉は一体どうしたらいいのだろう。
マル公は宥めにかかった甚吉をキッと睨んだ。
「オイ、甚ッ、こいつァなァ、猫じゃねぇ」
「へ?」
「猫のフリしてやがるだけだ」
甚吉はおずおずと猫を見た。どこからどう見ても白い猫である。しかし、マル公がそう言うのならば猫ではないのかもしれない。
猫はホホホと笑った。
「その通り。ワタシは稲荷神様の使いであるぞよ」
稲荷の使いのコンコンチキ――つまり、狐だということか。狐は化けるというけれど、何故猫に化けているのかはよくわからない。目立ちたくなかったが故のことだろうか。
甚吉なりに考えを述べた。
「神様のお使いってぇなら、神様の御用で猫に化けなすったのか?」
それは深い考えではなく、とっさに浮かんだ疑問であった。
けれど、その途端に猫は鉄砲で撃たれたかのようにして、うぐっと唸った。
「そ、それは、だな」
「まどろっこしいじゃねぇか。話があるってぇならさっさと喋りやがれ」
マル公がケッと吐き捨てると、猫は気分を害した様子でマル公を睨んだけれど、それでもため息をひとつ――語り出した。
「あれは、よく晴れた雲ひとつない青空がどこまでも続いていた、そんな日であった――」
どこか遠い目をして首をもたげ、猫は長い前置きを述べる。
甚吉は焦れた。この後、まだ生け簀の掃除が残っているというのに、猫の話は長引きそうである。
そんな甚吉の心を知らず、猫は滑らかに続けた。
「ワタシは稲荷神様の使いとして日々、稲荷を詣でた者たちの祈りの声を聞いておった。まあ、大金持ちになって吉原の花魁と懇ろになりたい、富くじが当たりますように、などという俗物どももおったが、大概は慎ましく、身内の仕合せを祈るような者が多い」
語り出したはいいが、非常にまどろっこしい。本題はどこなのだろう、とさらに焦れた甚吉の心をマル公が代弁してくれる。
「カーッ、前置きの長ぇコンコンチキだなオイ」
ただ、そんなマル公の声など聞こえないかのように猫は語る。
「毎日務めを果たしているワタシだ。供えられた油揚げの美味さで願いの優劣を決めることもない、立派な神使である。だが、しかし――」
「だが、しかし、なんなので?」
甚吉は思わず先を急かす。猫は特に気分を害したふうでもなく、片耳をぺこんと動かした。
「だが、しかし――時にはゆっくりと休みたい時もあるのだ」
はあ、と甚吉は気の抜けた返事をした。だからなんなのだと喉まで出かかったけれど。
猫はもう片方の耳もぺこんと下げる。そうして、言った。
「とある店の奥にな、それはそれは日当たりのよい縁側があったのだ。あそこで少ぅしばかり休んでも、この働き者のワタシが叱られることはないはずであった。事実、稲荷神様より叱責などされてはおらぬ。ただ――」
「ただ?」
「ワタシが不自然でないように猫に姿を変え、すやすやと眠っているうちに、その店の娘がワタシの美しい姿に惚れ込んでしまったのだ。そうして、首にこのような縮緬を巻きつけた」
緋縮緬の紐。白い毛によく映えて似合っている。
けれど、それこそがこの猫狐の災難であった。
「その娘、くくりつけるだけならまだしも、あろうことか縫い留めたのだ。この縮緬を身につけたままでは――」
「ままでは?」
甚吉が訊ねると、猫は顔をしかめて言った。
「もとに戻れぬ」
「へ?」
するとそこで、大人しく聞いていたマル公がププ、と噴き出した。
「プハハッ、面白れぇな、オイ。稲荷神の使いがそんな縮緬の布っ切れひとつ千切れねぇとはよ。とんだお笑い草よなぁ」
ケケケ、と笑い続ける。さすがにこれはあんまりだ。
しかし、猫は怒らなかった。ギリギリのところで耐えていると言った方がいいだろうか。今は怒っている場合ではないと思うのだろう。
「ぐぬぬ、恥を忍んで頼み込んでおるのだ。小僧、この縮緬を外すのだ。さすれば、おぬしの願いはきっと叶うであろう。さあさあッ」
そんなことを言って首を突き出してくる猫が、少し憐れなような気がしないでもない。ただ、マル公は冷ややかであった。
「オイ、甚。外すんじゃねぇぞ。外した途端、何するかわからねぇだろうがよ」
ハハハン、と優雅に生け簀を漂う。面妖と言われたのをよほど根に持っているようだ。
甚吉はチラリとマル公と猫とを見比べる。外してやりたいのはやまやまなれど、マル公の機嫌を損ねると後々大変なのだ。
猫は甚吉がマル公に逆らえないのを覚ったのかもしれない。うる、と金色の眼を滲ませた。
「と、取ってぇ。取ってぇぇ」
神使としての矜持も横へ置き、猫は泣き落としの猫なで声である。
「取るんじゃねぇぞ」
「取ってぇぇ」
「うっせぇッ」
「取ってぇ」
人外たちのやかましさったらない。甚吉は、迫りくる時刻との戦いである。
掃除が――間に合わない。甚吉の中で何かが弾けた。
「ああ、もうッ。掃除ができねぇッ。後にしてくんなッ」
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