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東両国
東両国 ―伍―
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非力な甚吉には、香具師たちに連れていかれた男をどうすれば救い出せるのかわからない。物陰から見守るのが精一杯であった。
男は襟元をグイッと引っ張られ、ガラの悪い香具師に凄まれていた。
「おい、ニイさんよぅ、この辺りであんなふざけた真似をするたぁいい度胸だ。二度とそんな気が起きねぇように、ちっとばかし痛めつけてやるぜ」
「ふざけたと言うが、ふざけているのはどっちだ? 見るからに貧しい子供からも銭を巻き上げて、恥ずかしいとは思わねぇのか」
見るからに貧しい子供というのは、多分己のことだと甚吉は複雑な心境であった。事実貧しいのだが。
モヤモヤとしつつも目を離さずにいた。すると、香具師は男を思い切り突き飛ばした。甚吉は思わず声を上げてしまいそうになって、慌ててそれを押し留める。
男は葦簀の裏側で吹き飛び、そこに積んであった木材にぶつかった。わりと大きめの音はしたものの、広小路の通りはもともとうるさい。それほど目立つこともなかった。
態度は堂々としていたが、腕っぷしが強いわけではなかった。男は香具師たちに囲まれ、殴る蹴るのひどい乱暴を受けた。
ガ、ガ、ガ、と男の腹を蹴る音が甚吉の耳に届く。甚吉はそこで震えていた。あのままでは死んでしまうのではないかと――
しかし、甚吉が飛び出しても一緒に殴られてやることしかできない。甚吉は無一文だ。袖の下すら使えない。弁も立たなければ、力もない。
そんな甚吉にできることはただひとつ。
「ほ――」
神頼みならぬ、神使頼みである。
甚吉は大急ぎで両国橋を渡った。その剣幕に周りの人々は驚いたが、気にしてはいられない。両国橋を渡り、西両国に戻ると、そばにある稲荷神社へ駆け込んだ。
「穂武良様ッ、穂武良様ッ、助けておくんなせぇッ」
すると――
「おぬし、一体ワタシをなんと心得る? ワタシはだな――」
「今はそういう話をしている場合じゃねぇんですッ。人が殺されそうなんでッ」
真っ赤な顔をした甚吉がまくし立てると、稲荷社の賽銭箱の前に白い狐がどこからともなく現れた。
「それは物騒な。下手人、いや下手海獣か」
などと言いながら、まっさらな筆のような尻尾をパサリと動かす。
マル公の口は悪いが、乱暴は(甚吉以外には)しない。人聞きの悪いことを言わないでほしい。
「マル先生じゃございやせんッ。東両国広小路の人目につかないところで、男の人が香具師に乱暴されてやすッ」
焦って言った甚吉に、穂武良はほぉ、と言いながら目を瞬かせた。
「助けておくんなせぇッ」
「ヒト同士の揉め事に神使であるワタシを使うとは――」
ブツブツ。文句タラタラで消えた。
甚吉は大急ぎでまた両国橋を渡る。往復はきつかったが、頑張った。
穂武良はあれでも優しいのだ。死にかけている男をきっと救ってくれる。甚吉はそう疑いもなく思っていた。
あの場所に甚吉が戻った時、香具師たちはすでに倒れていた。何をしたのかはわからないけれど、穂武良はそんな香具師の腹の上に載って、負傷した男の様子を見ていた。
「ほ、穂武良様――」
「ふむ。生きておるぞよ」
それを聞き、甚吉はようやく安堵した。香具師たちが目を覚まさないかビクビクしながら近づく。
助かりはしたが、散々殴られてしまったらしく、ぐったりしていた。顔もところどころが青紫になり、腫れている。
手当をしてやりたいと思うものの、大の男だ。甚吉が担いで橋を渡れそうもない。引きずってもきっと無理だろう。
「穂武良様、このお人を運べやすか?」
「どこまでじゃ?」
便利に使いすぎているせいか、穂武良はツンとそっぽを向いた。しかし、運んでくれる気はあるらしい。
甚吉は恐縮しつつも言った。
「へい、うちの見世物小屋の前くらいまで連れてきてもらえたら――」
この場にいると香具師が目覚めたら危ない。そこまでくれば、甚吉の兄貴分である長八なり、誰かに助けを求められるはずだ。
「ふむ」
穂武良はそれで納得したのか、姿を消した。その途端、男がムクリと起き上がった。
しかし、動きがおかしかった。起き上がる動作がなく、突然横倒しから釣り上げられたように起きたのだ。不自然極まりなく、甚吉はぎょっとした。
「これ、呆けておる場合か。行くぞよ」
男の方から穂武良の声がした。男に憑いて動かしているのだろうか。歩き方も足の運びが絡まりそうだ。甚吉はそれをごまかすため、男の横で体を支えているようなふりをした。
男を支えながらなんとかして両国橋を渡る。途中、行き交う人たちが好奇の目を向けてきたけれど、甚吉は顔を上げなかった。そして、思う。
どうして己は今、こんな目に遭っているのかと――
しかし、そんなこととは露知らず、あの海怪は、甚吉の帰りを今か今かと待っているのだろうけれど。
男は襟元をグイッと引っ張られ、ガラの悪い香具師に凄まれていた。
「おい、ニイさんよぅ、この辺りであんなふざけた真似をするたぁいい度胸だ。二度とそんな気が起きねぇように、ちっとばかし痛めつけてやるぜ」
「ふざけたと言うが、ふざけているのはどっちだ? 見るからに貧しい子供からも銭を巻き上げて、恥ずかしいとは思わねぇのか」
見るからに貧しい子供というのは、多分己のことだと甚吉は複雑な心境であった。事実貧しいのだが。
モヤモヤとしつつも目を離さずにいた。すると、香具師は男を思い切り突き飛ばした。甚吉は思わず声を上げてしまいそうになって、慌ててそれを押し留める。
男は葦簀の裏側で吹き飛び、そこに積んであった木材にぶつかった。わりと大きめの音はしたものの、広小路の通りはもともとうるさい。それほど目立つこともなかった。
態度は堂々としていたが、腕っぷしが強いわけではなかった。男は香具師たちに囲まれ、殴る蹴るのひどい乱暴を受けた。
ガ、ガ、ガ、と男の腹を蹴る音が甚吉の耳に届く。甚吉はそこで震えていた。あのままでは死んでしまうのではないかと――
しかし、甚吉が飛び出しても一緒に殴られてやることしかできない。甚吉は無一文だ。袖の下すら使えない。弁も立たなければ、力もない。
そんな甚吉にできることはただひとつ。
「ほ――」
神頼みならぬ、神使頼みである。
甚吉は大急ぎで両国橋を渡った。その剣幕に周りの人々は驚いたが、気にしてはいられない。両国橋を渡り、西両国に戻ると、そばにある稲荷神社へ駆け込んだ。
「穂武良様ッ、穂武良様ッ、助けておくんなせぇッ」
すると――
「おぬし、一体ワタシをなんと心得る? ワタシはだな――」
「今はそういう話をしている場合じゃねぇんですッ。人が殺されそうなんでッ」
真っ赤な顔をした甚吉がまくし立てると、稲荷社の賽銭箱の前に白い狐がどこからともなく現れた。
「それは物騒な。下手人、いや下手海獣か」
などと言いながら、まっさらな筆のような尻尾をパサリと動かす。
マル公の口は悪いが、乱暴は(甚吉以外には)しない。人聞きの悪いことを言わないでほしい。
「マル先生じゃございやせんッ。東両国広小路の人目につかないところで、男の人が香具師に乱暴されてやすッ」
焦って言った甚吉に、穂武良はほぉ、と言いながら目を瞬かせた。
「助けておくんなせぇッ」
「ヒト同士の揉め事に神使であるワタシを使うとは――」
ブツブツ。文句タラタラで消えた。
甚吉は大急ぎでまた両国橋を渡る。往復はきつかったが、頑張った。
穂武良はあれでも優しいのだ。死にかけている男をきっと救ってくれる。甚吉はそう疑いもなく思っていた。
あの場所に甚吉が戻った時、香具師たちはすでに倒れていた。何をしたのかはわからないけれど、穂武良はそんな香具師の腹の上に載って、負傷した男の様子を見ていた。
「ほ、穂武良様――」
「ふむ。生きておるぞよ」
それを聞き、甚吉はようやく安堵した。香具師たちが目を覚まさないかビクビクしながら近づく。
助かりはしたが、散々殴られてしまったらしく、ぐったりしていた。顔もところどころが青紫になり、腫れている。
手当をしてやりたいと思うものの、大の男だ。甚吉が担いで橋を渡れそうもない。引きずってもきっと無理だろう。
「穂武良様、このお人を運べやすか?」
「どこまでじゃ?」
便利に使いすぎているせいか、穂武良はツンとそっぽを向いた。しかし、運んでくれる気はあるらしい。
甚吉は恐縮しつつも言った。
「へい、うちの見世物小屋の前くらいまで連れてきてもらえたら――」
この場にいると香具師が目覚めたら危ない。そこまでくれば、甚吉の兄貴分である長八なり、誰かに助けを求められるはずだ。
「ふむ」
穂武良はそれで納得したのか、姿を消した。その途端、男がムクリと起き上がった。
しかし、動きがおかしかった。起き上がる動作がなく、突然横倒しから釣り上げられたように起きたのだ。不自然極まりなく、甚吉はぎょっとした。
「これ、呆けておる場合か。行くぞよ」
男の方から穂武良の声がした。男に憑いて動かしているのだろうか。歩き方も足の運びが絡まりそうだ。甚吉はそれをごまかすため、男の横で体を支えているようなふりをした。
男を支えながらなんとかして両国橋を渡る。途中、行き交う人たちが好奇の目を向けてきたけれど、甚吉は顔を上げなかった。そして、思う。
どうして己は今、こんな目に遭っているのかと――
しかし、そんなこととは露知らず、あの海怪は、甚吉の帰りを今か今かと待っているのだろうけれど。
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