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東両国
東両国 ―陸―
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甚吉たちは賑わう広小路を進む。
人が大勢いる表ではなく、葦簀の陰になった裏手に来ると男の体がドサリ、と崩れ落ちた。
「もうよいな? ワタシは忙しいのだ」
姿は見えぬが声はする。
そうなのだ。たまにとある廻船問屋の縁側で猫の姿になって昼寝をしているとしても、穂武良は忙しい。稲荷神社へ神頼みに来た人々の願いを稲荷神へ届けねばならないのだ。
しかし、忙しいとぼやきつつも付き合ってくれる人のよさ――いや、狐のよさをついつい頼りにしてしまうのだった。
「穂武良様、ありがとうございやすッ」
まだ日も高く、近くに人がいることもあり、甚吉は声を潜めて礼を言った。少しでも銭が溜まったら、穂武良にはまた何かを供えに行かなければ。
世話になったら恩を返す。それをちゃんとしないと、マル公はうるさい。筋を通す江戸っ子気質が染みついている。
その場で甚吉が男につき添っていると、早々に長八が来てくれた。
「オイコラ、甚吉ッ。散々呼んだのにどこにいやがった」
ギクリ、と甚吉は顔を引きつらせながら苦し紛れに言う。
「は、腹具合が悪くって――すいやせん」
嘘をついてしまったが、本当のことを言っても信じてもらえないのだから仕方がない。甚吉は滅多に腹など壊さないのだが、壊しやすそうには見えるのだろう。長八は疑わなかった。
そこでやっと、倒れた男を見つける。
「うん? そこの男、行き倒れか?」
「へ、へい。すごい怪我なんで、手当てしねぇと」
しかし、長八の顔には厄介事は御免だと書いてあった。
見世物小屋で働いている甚吉たちなのだ。ケチがついたら客の入りに関わる。訳ありの行き倒れに情けをかけるべきなのかと考えているふうだった。
そもそも、甚吉や長八が決められることではない。まずは頭の寅蔵に伺いを立てなければ何もできなかった。
「親方に聞いてくるから待ってろ」
「へい――」
そう悠長なことを言っている場合なのだろうかと思わなくはない。甚吉は裏手でひっそりと男と共に待った。そんな時、甚吉の後ろから張りのある声がした。
「甚吉ったらどうしたの?」
ハッとして振り返る。その声は水芸人の真砂太夫のものだ。
いつものごとく、青海波の着流しに羽織を男勝りに着込んでいるけれど、そんな恰好をしていても真砂太夫は麗しい。甚吉たちのいる寅蔵座の隣で水からくりを披露する新兵衛座の看板芸人であり、座長の新兵衛の一人娘でもある。
美しく、賢く、優しく、気風もいい。甚吉が憧れる女子だった。真砂太夫は下っ端の甚吉にも、いつも気さくに話しかけてくれるのだ。
「真砂太夫、あの、実はこのお人がひどい怪我で倒れておりやして――」
「あら、本当にひどいねぇ」
と、男を覗き込んだ真砂太夫が言うくらいには人相が変わっていた。
それからすぐに長八は戻ってきた。真砂太夫がいたことに驚き、鼻の下を伸ばし、それを取り繕い、厳しい顔を作って甚吉に言った。
「甚吉、お前は海怪の世話に戻れ。後は俺が見ておくから」
「へい、お願いしやす」
長八がそう言ってくれるのならば任せてもいいだろう。
甚吉は真砂太夫がいるので去るのが惜しいと思いつつも、仕方がない。何度も振り返りながらマル公の生け簀に戻った。
マル公は客に囲まれ生け簀の中で転がるように泳ぎ、時折、ヲォッと声を上げている。甚吉がやり遂げて小判を持ち帰ってくれると信じての上機嫌でないといいのだが。
甚吉はいつも通りに盥に入れた鯵を客に配り、客は行儀よく餌を食べる利口なマル公に大喜びだった。
――そんな客たちが去った後。
汚れた生け簀の縁を拭き清めていた甚吉のそばにマル公はスィーッと泳いで近づき、せっかく拭いた縁に前ヒレをてん、と突いた。
「で?」
甚吉はギクリとし、目を明後日の方に向けた。
「で、でってなんだい?」
とぼけてみるも、マル公に通用するわけがなかった。マル公はそんな甚吉をまん丸な眼でじっと見つめ、そうしてため息をついた。
「しくじったな?」
「うっ――」
言い返す言葉もない。もうこれは気が済むまで怒られようと思った甚吉だったけれど、マル公は怒らなかった。突いていたヒレを静かに生け簀に戻し、しおらしく潜っていった。
「マ、マル先生?」
叱られる準備をした甚吉としては拍子抜けである。罵倒されて喜ぶつもりもないが、こう静かでは調子が狂う。
甚吉はどうするべきなのか、ただ困惑した。
すると、マル公がひと泳ぎしてから戻ってきた。
「やっぱりそう上手ぇ話は転がってねぇよなぁ。油の中の小判なんて、つまみ出せるわけねぇよなぁ」
どうやら、マル公は欲を出して儲け話に飛びついた己を恥じ、反省していたらしい。
「そうだよな、世の中そんなモンだよなぁ」
などと言ってまたため息をつく。
これは期待していた分、落胆が大きすぎたのだろうか。こうもしょんぼりされると、怒られるより地味に嫌である。
「そ、それがさ、つまみ出せるお人がいたんだ」
気まずくて、思わず言った甚吉の言葉をマル公は素早く拾った。
「うん? 油の中の小判をか?」
「そうだよ。鮮やかな手つきで全部引き上げたんだ」
すると、マル公は先ほどまでのしおらしさはどこへやら。急に勢いをつけて生け簀の縁に押し寄せた。
「なんだなんだぁ? オイ、甚、詳しく聞かせなッ」
興味津々である。眼を輝かせるマル公に、甚吉は苦笑しながら言った。
人が大勢いる表ではなく、葦簀の陰になった裏手に来ると男の体がドサリ、と崩れ落ちた。
「もうよいな? ワタシは忙しいのだ」
姿は見えぬが声はする。
そうなのだ。たまにとある廻船問屋の縁側で猫の姿になって昼寝をしているとしても、穂武良は忙しい。稲荷神社へ神頼みに来た人々の願いを稲荷神へ届けねばならないのだ。
しかし、忙しいとぼやきつつも付き合ってくれる人のよさ――いや、狐のよさをついつい頼りにしてしまうのだった。
「穂武良様、ありがとうございやすッ」
まだ日も高く、近くに人がいることもあり、甚吉は声を潜めて礼を言った。少しでも銭が溜まったら、穂武良にはまた何かを供えに行かなければ。
世話になったら恩を返す。それをちゃんとしないと、マル公はうるさい。筋を通す江戸っ子気質が染みついている。
その場で甚吉が男につき添っていると、早々に長八が来てくれた。
「オイコラ、甚吉ッ。散々呼んだのにどこにいやがった」
ギクリ、と甚吉は顔を引きつらせながら苦し紛れに言う。
「は、腹具合が悪くって――すいやせん」
嘘をついてしまったが、本当のことを言っても信じてもらえないのだから仕方がない。甚吉は滅多に腹など壊さないのだが、壊しやすそうには見えるのだろう。長八は疑わなかった。
そこでやっと、倒れた男を見つける。
「うん? そこの男、行き倒れか?」
「へ、へい。すごい怪我なんで、手当てしねぇと」
しかし、長八の顔には厄介事は御免だと書いてあった。
見世物小屋で働いている甚吉たちなのだ。ケチがついたら客の入りに関わる。訳ありの行き倒れに情けをかけるべきなのかと考えているふうだった。
そもそも、甚吉や長八が決められることではない。まずは頭の寅蔵に伺いを立てなければ何もできなかった。
「親方に聞いてくるから待ってろ」
「へい――」
そう悠長なことを言っている場合なのだろうかと思わなくはない。甚吉は裏手でひっそりと男と共に待った。そんな時、甚吉の後ろから張りのある声がした。
「甚吉ったらどうしたの?」
ハッとして振り返る。その声は水芸人の真砂太夫のものだ。
いつものごとく、青海波の着流しに羽織を男勝りに着込んでいるけれど、そんな恰好をしていても真砂太夫は麗しい。甚吉たちのいる寅蔵座の隣で水からくりを披露する新兵衛座の看板芸人であり、座長の新兵衛の一人娘でもある。
美しく、賢く、優しく、気風もいい。甚吉が憧れる女子だった。真砂太夫は下っ端の甚吉にも、いつも気さくに話しかけてくれるのだ。
「真砂太夫、あの、実はこのお人がひどい怪我で倒れておりやして――」
「あら、本当にひどいねぇ」
と、男を覗き込んだ真砂太夫が言うくらいには人相が変わっていた。
それからすぐに長八は戻ってきた。真砂太夫がいたことに驚き、鼻の下を伸ばし、それを取り繕い、厳しい顔を作って甚吉に言った。
「甚吉、お前は海怪の世話に戻れ。後は俺が見ておくから」
「へい、お願いしやす」
長八がそう言ってくれるのならば任せてもいいだろう。
甚吉は真砂太夫がいるので去るのが惜しいと思いつつも、仕方がない。何度も振り返りながらマル公の生け簀に戻った。
マル公は客に囲まれ生け簀の中で転がるように泳ぎ、時折、ヲォッと声を上げている。甚吉がやり遂げて小判を持ち帰ってくれると信じての上機嫌でないといいのだが。
甚吉はいつも通りに盥に入れた鯵を客に配り、客は行儀よく餌を食べる利口なマル公に大喜びだった。
――そんな客たちが去った後。
汚れた生け簀の縁を拭き清めていた甚吉のそばにマル公はスィーッと泳いで近づき、せっかく拭いた縁に前ヒレをてん、と突いた。
「で?」
甚吉はギクリとし、目を明後日の方に向けた。
「で、でってなんだい?」
とぼけてみるも、マル公に通用するわけがなかった。マル公はそんな甚吉をまん丸な眼でじっと見つめ、そうしてため息をついた。
「しくじったな?」
「うっ――」
言い返す言葉もない。もうこれは気が済むまで怒られようと思った甚吉だったけれど、マル公は怒らなかった。突いていたヒレを静かに生け簀に戻し、しおらしく潜っていった。
「マ、マル先生?」
叱られる準備をした甚吉としては拍子抜けである。罵倒されて喜ぶつもりもないが、こう静かでは調子が狂う。
甚吉はどうするべきなのか、ただ困惑した。
すると、マル公がひと泳ぎしてから戻ってきた。
「やっぱりそう上手ぇ話は転がってねぇよなぁ。油の中の小判なんて、つまみ出せるわけねぇよなぁ」
どうやら、マル公は欲を出して儲け話に飛びついた己を恥じ、反省していたらしい。
「そうだよな、世の中そんなモンだよなぁ」
などと言ってまたため息をつく。
これは期待していた分、落胆が大きすぎたのだろうか。こうもしょんぼりされると、怒られるより地味に嫌である。
「そ、それがさ、つまみ出せるお人がいたんだ」
気まずくて、思わず言った甚吉の言葉をマル公は素早く拾った。
「うん? 油の中の小判をか?」
「そうだよ。鮮やかな手つきで全部引き上げたんだ」
すると、マル公は先ほどまでのしおらしさはどこへやら。急に勢いをつけて生け簀の縁に押し寄せた。
「なんだなんだぁ? オイ、甚、詳しく聞かせなッ」
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