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東両国
東両国 ―漆―
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甚吉は東両国での出来事をマル公に話して聞かせた。
マル公は考え事をしているのか、甚吉が話している間、生け簀をスーイスーイと泳ぎながら最後に戻ってきた。ひょっこりと丸い頭を覗かせる。
「油鍋の中の小判を全部、そんなにも鮮やかになぁ。そんなすげぇヤツには一度お目にかかってみてぇもんだぜ。なあ、そいつはよ、きっと毎日屋台で天麩羅揚げてるんだろうよ」
それならば、油の中のものをつまむのにも慣れている。なるほど――と思いかけたものの、甚吉はふと首をかしげた。
「いや、お仕着せを着ていたんだ。どこかのお店者だよ。屋台じゃあねぇみてぇだ」
前に知り合った饅頭売りの嘉助はお仕着せなど着ていない。嘉助はもっと取っつきやすく、気の抜けたような男なのだ。あんなにもきりりと締まってはいない。
すると、マル公は首を左右に傾けてみせた。
「店者なぁ。オイ、そいつが気がついたらいっぺん連れてきな」
マル公は、自分を見物に来る客たちを観察するのが好きなのだ。面白い人がいると楽しいらしい。油から小判を引き上げたあの男も、マル公からすると『面白い』の部類に入ってしまうのかもしれない。
「うん、ちょっと様子を見てくらぁ」
もうそろそろ気がついてもいい頃だ。甚吉は葦簀を越えて長八を探した。
日が暮れ出した今時分、長八はもう表で口上を響かせてはいない。丁度表で幟を片づけていた。
甚吉はそんな長八のもとへ駆けつける。
「長八兄さん、あのお人はどうなりやした?」
すると、長八はギクリとしたように見えた。やや重たそうな一重まぶたがピクリピクリと小刻みに動く。
「どうっていうかなぁ――」
そして、片づけの手を止めてため息をついた。
「いや、実はな、親方が変なもん拾うなってんで、どうしようか迷ってたら、真砂太夫が、そんな冷たいことを言うならうちでなんとかするって連れていったんだよな」
真砂太夫なら、怪我をしている人を捨ててはおかなかっただろう。寅蔵親方に世話になっている甚吉としては、薄情だとは言えない。じゃあ代わりにお前の飯は抜きだと言われたらどうにもできないのだから。
無力な甚吉は己が情けなくなるけれど、真砂太夫のような人がここにいてくれたのだ。世の中、捨てたものではない。
「そんなことが――。おれ、真砂太夫にお礼を言ってきやすッ」
「あ、こら、あんまり深入りすんじゃねぇぞ」
そう釘を刺されてしまったけれど、もうすでに関わってしまった以上、今さらだ。
真砂太夫が今日の舞台を終えて帰ってしまう前に甚吉は真砂太夫を見つけることができた。葦簀が畳まれ、すっきりとしたところにいたので見つけやすかった。
「真砂太夫、あのお人はどうなりやしたかッ」
すると、真砂太夫は振り返った。振り向きざまの麗しい流し目に甚吉がドキドキと心の臓をときめかせていると、真砂太夫はフッと力を抜いて微笑んだ。
「うぅん、それがねぇ、ちょっと困ったことになってるのさ」
「へ?」
きょとんとした甚吉に、真砂太夫は嘆息してみせた。
「気がついたにはついたんだけど、自分がどこの誰だか思い出せないらしくって。名前も言えやしないんだよ」
「そ、そんな――」
散々殴られたせいだろうか。多分、そうだろう。
「まあ、あんな傷だらけで放り出したりしないけどさ、あの人を捜している家族もいるんだろうし、困ったね。様子を見て番屋へ届け出るつもりはしてるんだけど」
「あのお人は今どこにいやすか?」
「うちの衆が宿に連れていって看てくれているよ」
「おれが連れてきたばっかりに、お世話をかけやす」
まさか真砂太夫まで巻き込んでしまうとは思わなかったのだ。そのことを甚吉は申し訳なく思ったけれど、真砂太夫はカラリと笑った。
「何を水臭いこと言ってんのさ。あんなの、見捨ててきちゃ駄目に決まってるじゃないの。連れてきてよかったんだよ」
以前、盗人呼ばわりされて困っていた甚吉のことも庇ってくれた真砂太夫だから、相手が見ず知らずの男であっても親切なものだ。あの男、目が覚めたら真砂太夫に惚れ込んでしまうかもしれない。
甚吉はそんな心配をした。
その心配を帰ってからマル公に告げたら、アホかと言われた。
「おめぇのたわ言は置いといて、そういう時はもういっぺん殴るといいって聞いたことがあるような?」
「え、殴るのか――」
すでにヨレヨレになっている人を殴れとは、ひどい。
しかし、マル公は淡々と言う。
「殴られたせいで忘れちまったんだから、あと一発くれぇいいだろ」
よくないと思う。
と、まあ甚吉に人が殴れるはずもないのだが。
マル公は考え事をしているのか、甚吉が話している間、生け簀をスーイスーイと泳ぎながら最後に戻ってきた。ひょっこりと丸い頭を覗かせる。
「油鍋の中の小判を全部、そんなにも鮮やかになぁ。そんなすげぇヤツには一度お目にかかってみてぇもんだぜ。なあ、そいつはよ、きっと毎日屋台で天麩羅揚げてるんだろうよ」
それならば、油の中のものをつまむのにも慣れている。なるほど――と思いかけたものの、甚吉はふと首をかしげた。
「いや、お仕着せを着ていたんだ。どこかのお店者だよ。屋台じゃあねぇみてぇだ」
前に知り合った饅頭売りの嘉助はお仕着せなど着ていない。嘉助はもっと取っつきやすく、気の抜けたような男なのだ。あんなにもきりりと締まってはいない。
すると、マル公は首を左右に傾けてみせた。
「店者なぁ。オイ、そいつが気がついたらいっぺん連れてきな」
マル公は、自分を見物に来る客たちを観察するのが好きなのだ。面白い人がいると楽しいらしい。油から小判を引き上げたあの男も、マル公からすると『面白い』の部類に入ってしまうのかもしれない。
「うん、ちょっと様子を見てくらぁ」
もうそろそろ気がついてもいい頃だ。甚吉は葦簀を越えて長八を探した。
日が暮れ出した今時分、長八はもう表で口上を響かせてはいない。丁度表で幟を片づけていた。
甚吉はそんな長八のもとへ駆けつける。
「長八兄さん、あのお人はどうなりやした?」
すると、長八はギクリとしたように見えた。やや重たそうな一重まぶたがピクリピクリと小刻みに動く。
「どうっていうかなぁ――」
そして、片づけの手を止めてため息をついた。
「いや、実はな、親方が変なもん拾うなってんで、どうしようか迷ってたら、真砂太夫が、そんな冷たいことを言うならうちでなんとかするって連れていったんだよな」
真砂太夫なら、怪我をしている人を捨ててはおかなかっただろう。寅蔵親方に世話になっている甚吉としては、薄情だとは言えない。じゃあ代わりにお前の飯は抜きだと言われたらどうにもできないのだから。
無力な甚吉は己が情けなくなるけれど、真砂太夫のような人がここにいてくれたのだ。世の中、捨てたものではない。
「そんなことが――。おれ、真砂太夫にお礼を言ってきやすッ」
「あ、こら、あんまり深入りすんじゃねぇぞ」
そう釘を刺されてしまったけれど、もうすでに関わってしまった以上、今さらだ。
真砂太夫が今日の舞台を終えて帰ってしまう前に甚吉は真砂太夫を見つけることができた。葦簀が畳まれ、すっきりとしたところにいたので見つけやすかった。
「真砂太夫、あのお人はどうなりやしたかッ」
すると、真砂太夫は振り返った。振り向きざまの麗しい流し目に甚吉がドキドキと心の臓をときめかせていると、真砂太夫はフッと力を抜いて微笑んだ。
「うぅん、それがねぇ、ちょっと困ったことになってるのさ」
「へ?」
きょとんとした甚吉に、真砂太夫は嘆息してみせた。
「気がついたにはついたんだけど、自分がどこの誰だか思い出せないらしくって。名前も言えやしないんだよ」
「そ、そんな――」
散々殴られたせいだろうか。多分、そうだろう。
「まあ、あんな傷だらけで放り出したりしないけどさ、あの人を捜している家族もいるんだろうし、困ったね。様子を見て番屋へ届け出るつもりはしてるんだけど」
「あのお人は今どこにいやすか?」
「うちの衆が宿に連れていって看てくれているよ」
「おれが連れてきたばっかりに、お世話をかけやす」
まさか真砂太夫まで巻き込んでしまうとは思わなかったのだ。そのことを甚吉は申し訳なく思ったけれど、真砂太夫はカラリと笑った。
「何を水臭いこと言ってんのさ。あんなの、見捨ててきちゃ駄目に決まってるじゃないの。連れてきてよかったんだよ」
以前、盗人呼ばわりされて困っていた甚吉のことも庇ってくれた真砂太夫だから、相手が見ず知らずの男であっても親切なものだ。あの男、目が覚めたら真砂太夫に惚れ込んでしまうかもしれない。
甚吉はそんな心配をした。
その心配を帰ってからマル公に告げたら、アホかと言われた。
「おめぇのたわ言は置いといて、そういう時はもういっぺん殴るといいって聞いたことがあるような?」
「え、殴るのか――」
すでにヨレヨレになっている人を殴れとは、ひどい。
しかし、マル公は淡々と言う。
「殴られたせいで忘れちまったんだから、あと一発くれぇいいだろ」
よくないと思う。
と、まあ甚吉に人が殴れるはずもないのだが。
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