海怪

五十鈴りく

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東両国

東両国 ―捌―

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 東両国で出会ったあの男のことを気にしつつも、甚吉はいつものように起き、見世物小屋の掃除や支度をし、飯を食っていた。
 朝、いつものせっかちな魚売りからマル公の餌を受け取っていると、新兵衛座の舞台の方に見慣れない――いや、昨日見たしまのお仕着せが見えた。甚吉はハッとして魚の入ったたらいを置くと、慌てて真砂太夫の方に駆け寄った。

「ま、真砂太夫ッ、そのお人は昨日の――もう起きても平気なんで?」

 振り返った男の顔は腫れていた。決して男ぶりは悪くなかったはずが、昨日よりさらに腫れて人相が変わってしまっている。
 しかし、男はそんな顔にも関わらずにこやかに立っていた。

「おはよう、甚吉」

 真砂太夫が輝かしい微笑を向けてくれたものの、今日の甚吉はそれに酔えたものではなかった。真砂太夫は男に向けて言う。

拾吉ひろきちさん、この子が傷だらけのあんたを見つけてきたんだよ」

 名前を思い出したのか、真砂太夫はこの男を拾吉と呼んだ。

「名前、思い出せたんで? 拾吉さんてぇ名だったんですか」

 すると、真砂太夫はコロコロと笑った。

「いいや、思い出しちゃいないよ。間に合わせにあたしがつけたのさ。甚吉が拾ったんだから、拾吉さんでいいかって」

 ――どんな名でも、真砂太夫がつけたのならばそれ相応の値打ちもあるだろう。と、思うことにした。
 幸い、拾吉はあまり気にしていないようだ。

「お前さんが。覚えちゃいねぇが、助かったよ。その時、何か私の身元がわかりそうなものはなかったかい?」
「す、すいやせん。そこまでは」

 甚吉がしょんぼりすると、拾吉は苦笑した。

「いや、悪い。そうだよな、気にしねぇでくれ」

 こう顔かたちが変わっていたのでは、知己が拾吉を見ても当人だと気づけないかもしれない。拾吉の顔を見ると気の毒になった。
 油の中から鮮やかに小判を救い出していたことを教えてやるべきだろうか。そんなことで身元がわかるとも思えないけれど。

 そこで甚吉は考えた。とりあえずマル公と会わせてみようと。
 賢いマル公ならば何かに気づくかもしれない。

「あ、拾吉さん、おれが世話をしてる生き物を見にきやせんか? 可愛いヤツなんで、きっといい気晴らしになると思いやす」

 そんなことを言い出した甚吉に、真砂太夫は優しくうなずいた。

「そうだね、行っておいでよ」
「へえ」

 拾吉は、助けてもらったのだから働かねばと思っているのだろうか。少し申し訳なさそうに真砂太夫に頭を下げた。そんな拾吉の袖を引き、甚吉は生け簀に戻る。
 客の入りが始まる前に帰ってもらわなければならないので、そう長居はできない。

 マル公は、甚吉がなかなか戻ってこないので退屈だったのか、生け簀をプカプカと漂っていた。しかし、甚吉が人を連れてきたと知ると、気を引き締め直したようだ。
 半眼になっていた眼を開き直し、まん丸にして愛想を振り撒く。

「ヲォゥ?」

 などと言って小首を傾げてみせる。いつも、そんなマル公に釘づけになっている客を見て、マル公は逆にその客を眺めて楽しんでいるのだ。今もこうして拾吉を観察していることだろう。

「こりゃあ、また――」

 拾吉はそれだけ言って、黙った。
 黙って、食い入るように腫れたまぶたの下からマル公を見つめている。マル公は(見た目は)可愛いから――と甚吉が思ったのも束の間。何かがおかしい。
 拾吉はにこりともせず、表情を消してマル公を見ていた。その真剣さに甚吉も声をかけづらくなった。

 そして、意外なことに、拾吉を前にしてマル公が固まってしまった。しかし、マル公はそこから気を取り直し、ぎこちなくそろりそろりと泳ぐと、拾吉から間を取るようにして生け簀の角まで後退した。

 一体、マル公はどうしたのだろうか。
 あの勝気で好奇心の強いマル公が拾吉を警戒している。今までに見たことのない動きだった。マル公は拾吉に何を感じたのだろうか。
 甚吉はおずおずと声をかけた。

「あ、あの、拾吉さん?」

 すると、拾吉はハッと我に返った。そうして、何か照れたような仕草で頭を掻く。

「ああ、可愛い生き物だな」

 そうしていると、葦簀を潜って寅蔵が現れた。こんな時刻に顔を見せることは珍しく、甚吉も驚いて姿勢を正した。

「お、お疲れ様でございやす」

 しかし、寅蔵の強面こわもては甚吉には向かず、拾吉を睨めつける。

「お前さん、誰に断ってここに来やがった?」

 誰にというか、甚吉が連れてきた。本来、見料を払わねば見られぬところ、タダで海怪を見たと言いたいのかもしれない。

 甚吉が勝手に連れてきて見せた。叱られるべきは甚吉なのだが、寅蔵が恐ろしくて口を挟めない。何か言わなくてはと思ったが、口は貝のように開くことを拒んでいた。手足がカタカタと震える。
 すると、拾吉はふわりと軽く笑った。

「珍しい生き物がいるってんで、私が無理言ってこの子についてきてしまったんです。すいやせん」

 真実とは違うことを拾吉は口にした。甚吉はただ茫然と立ち尽くし、二人の話の間にいた。

「――そうかい。今回は見なかったことにしてやるから、二度と近づくんじゃねぇぞ」

 冷え冷えとした口調で寅蔵が言っても、拾吉は怯えた様子を見せなかった。シャンと余裕を持って頭を下げる。

「へぇ、ありがとうございやす。親分さんはここの元締めなんですね?」
「――それがなんだ?」

 ギロリ、と寅蔵は拾吉を睨む。得体の知れない男に気安く声をかけられるのも不愉快なのだろう。
 それでも拾吉は平然として見えた。

「いや、大所帯ですから、束ねるのも大変でござんしょう。じゃあ、私はそろそろ行きます」

 頭を下げ、拾吉は去った。その背中は堂々として大きく見えた。何故か、寅蔵も拾吉が去った後に少しばかり苦々しい顔をすると、甚吉には何も言わずに出ていった。
 甚吉は、ポカンと口を開けた。
 その途端にマル公は慌ただしく泳いで生け簀の縁までやってきた。

「お、オイ、甚ッ。あいつかッ。あいつが小判をつまみ出したってぇ男かッ」

 いつになく落ち着きがない。喋りながらも尾ビレがピシピシと水を跳ね上げる。

「そうだけど。どうしたんだい、マル先生?」

「どーしたもこーしたもあるかッ。なんだありゃ、なんて目つきだッ。おっかねぇったらねぇッ」

 おっかなかったらしい。
 可愛いマル公を見る人々が、そんな目をすることはあまりない。
 例えば、寅蔵はマル公を見る時、可愛いなどということは思いもせず、ただマル公がどれだけ稼げるか金勘定をしているのがわかるという。しかし、そうした目を向けられていても、マル公が怯えたことはない。

 拾吉はお仕着せを着てるだけで堅気の人間ではないのだろうか。寅蔵と平然と渡り合えるだけでも只者ではない。

「あいつ、親方が自分に目を光らせていやがるから、あんなこと言いやがったんだゼ?」
「え?」
「怪しい厄介者を寄せつけねぇようにするのは、頭としちゃ当たり前だ。それがわかるから、そういう態度を取られても、自分は気を悪くしないって余裕だな、ありゃ。親方もそこんとこ感じたんじゃねぇか?」

 甚吉は寅蔵がそばにいるだけで震えが来る。それほど怖い寅蔵を黙らせるとは。

「多分だがなぁ、あいつも下をいっぱい引き連れて面倒見てんじゃねぇのか?」

 そうかもしれない。
 とっさに甚吉を庇ってくれた拾吉だから、弱者の気持ちもよくわかっていてくれる気がした。
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