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1◆猫又手前のトラさん
◆2
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トラさんの同居人は、『ノブエ』さんというご婦人だったそうだ。
トラさんが成猫になったてしばらくした頃(本猫談)、たまたまこの家のそばを通りかかったら、やたらとチクワとかニボシをくれたので、その家に行くようになったそうだ。雨風のひどい日にはノブエさんはトラさんを家の中に入れ、美味しいものをくれた。
古い家だけれど、屋根があるだけで十分だったって。
「あんたさ、うちの子になんなよ」
トラさんが出された美味しいものをただひたすら食べている時、ノブエさんがそんなことを言ったそうだ。ノブエさんは、トラさんを撫でまわしたり抱っこしたり、そういうことはあんまりしなかったって。じっと見てくるだけの、美味しいものをくれるヒトだった。
ノブエさんのことはヒトの中では嫌いな方じゃなかった。でも、ノブエさんの家の匂いはあんまり好きじゃなかったから、トラさんは躊躇った。嫌な臭いが立ち込めていて、それが身体中の毛に染みつくから、それがどうしても嫌だったそうだ。
その匂いのもとは『センコウ』という細くて長い煙を出すものだった。『ダンナ』という名のヒトがいなくなり、そのせいでセンコウを焚いているのだと、何年かかけてやっと理解した。
臭いのは嫌だし、嫌いだったけれど、あの家の『コタツ』だけは大好きで、どうしても離れられなくて、それでノブエさんの家に居つくようになってしまった。あれはその年の冬があんまりにも寒かったからいけないんだと。
嫌いなセンコウの匂いも、段々と軽くなった。ノブエさんも毎日のようにして焚かなくなったからだ。
「ねえ、トラ。あんたとあたしは似てるねぇ」
ノブエさんはそんなことを言った。似てるわけがないのに。
真っ白な髪の毛に皺の深い顔。足が痛いと引きずるようにして歩く。
ノブエさんは、独りだった。
だから、トラさんも安心して過ごせた。ノブエさんしかいない家は、トラさんにとっては居心地のいい家だったそうだ。
たまにノブエさんが出かけていくと、決まって美味しいものを持って帰ってくる。だから、ノブエさんが行ってくると言って出かけるのが、トラさんは楽しみだったそうだ。
――あの時は本当に、なんにも知らない小娘だったって?
いや、そんな若くなかったんじゃ……いえ、すいません。続けてください。
ノブエさんは多分、ヒト付き合いが苦手だった。
ノブエさんを訪ねてくるヒトは、あまり親しげじゃなかった。
「――あの、区費を集めに来たんですけど」
「ああ、区費ね」
「ええ、確かに頂きました」
「……」
「……えっと、じゃあ、これで」
一方的に言いたいことを言い、ノブエさんはそれに素っ気なく答える。家に上がることはほぼない。
そんなノブエさんを、トラさんは、それが『ノブエ』なんだと思ったそうだ。ヒトとつるまない、独りが好きな人間。
猫だって、いろんなのがいる。甘えたがりもいれば、孤高のドラ猫だっている。
だから、ノブエさんが独りを好むのはおかしなことじゃない。
ただ、トラさんには優しかった。我が子を慈しむようにして優しい眼差しを向けてくれていた。
「あんたとあたしは似ているねぇ」
似ているはずがない。それなのに、何度もそんなことを言う。
トラさんを、なんのしがらみもない気軽な猫だと侮っているのかと、それを言われるのが嫌だったそうだ。当時、トラさんにはトラさんの負けられない戦いがあり、凛々しい雄猫を取り合ったり、縄張り争いをしたり、飼い猫になってからもトラさんは大変だったとのこと。
気楽なのはノブエさんだけだと、それを言われるたびに、にゃあと否定してきたそうだ。
でも、ノブエさんは僕のような特技を持たない。トラさんがにゃあと鳴くと、
「そうかそうか」
なんて言ってちょっと笑ってたらしい。
まったく、困ったヒトだと。
ノブエさんには子供がいなかった。
トラさんは野良の時に何度か出産したから、子供はたくさんいるけど、それぞれ送り出したからどこでどうしているのかも知らないそうだ。
それでも、子を産んで育てた、そのことは誇っているし、子供たちは可愛かった。ノブエさんは、子がいないからトラさんを子供のようにして可愛がっているつもりなんだろうかと思ったそうだ。
ノブエさんは、気の合う仲間もいない。
いつも独り。
そのそばに、トラさんが寄り添う。
そんなトラさんに、ノブエさんはある日、かすれた声でポツリと言ったそうだ。
「ねぇ、トラ。あんたにだけは、あたしだって本当は寂しいんだって言ってもいい?」
それは、雪がしんしんと降る寒い夜だったそうだ。コタツに入ったノブエさんが、窓の外の降りしきる雪を眺めながら言ったひと言を、トラさんはよく覚えているって。
古い家だから、隙間風がカーテンを揺らして、ひらひらとめくれる。トラさんは寒いからコタツにすっぽりと入ってしまいたかったのに、ノブエさんが急にそんなことを言うから潜り込めなくなった。
寒いのに。
トラさんは仕方なく、コタツの中ではなく、コタツ布団をかけているノブエさんの膝の上に載ったそうだ。そうして、にゃあと鳴いた。
あたしにだけじゃなく、誰にだって言えばいいって、言ってやったって。
ヒト付き合いが嫌いで、独りになりたがるノブエさんなんだと思っていた。でも、それは自分の心が上手く言えない、ただの不器用さの表れだった。
愛想がないとか、迷惑そうにするとか、そんなつもりはなくともそう映る。ぎこちない笑顔は笑顔になりきれない。
そんなだから、誰も進んでノブエさんには近づかない。
そんなノブエさんのことをわかっていてくれたのはダンナさんだけだったんだって。
寂しかった?
そのひと言を言うのにどれくらいかかったの?
「なんてね。あたしがそんなこと言うの、似合わないよねぇ」
無理して笑う。
馬鹿だね。なんて不器用なのさ? って、呆れたそうだ。
呆れはするけれど、ほっとけない。ノブエさんは世話になっている同居人だから。
枯れ枝みたいな指が、トラさんの背中を何度も撫でた。
「あんたはあったかいねぇ」
「にゃあ」
コタツの次くらいにね。
トラさんが成猫になったてしばらくした頃(本猫談)、たまたまこの家のそばを通りかかったら、やたらとチクワとかニボシをくれたので、その家に行くようになったそうだ。雨風のひどい日にはノブエさんはトラさんを家の中に入れ、美味しいものをくれた。
古い家だけれど、屋根があるだけで十分だったって。
「あんたさ、うちの子になんなよ」
トラさんが出された美味しいものをただひたすら食べている時、ノブエさんがそんなことを言ったそうだ。ノブエさんは、トラさんを撫でまわしたり抱っこしたり、そういうことはあんまりしなかったって。じっと見てくるだけの、美味しいものをくれるヒトだった。
ノブエさんのことはヒトの中では嫌いな方じゃなかった。でも、ノブエさんの家の匂いはあんまり好きじゃなかったから、トラさんは躊躇った。嫌な臭いが立ち込めていて、それが身体中の毛に染みつくから、それがどうしても嫌だったそうだ。
その匂いのもとは『センコウ』という細くて長い煙を出すものだった。『ダンナ』という名のヒトがいなくなり、そのせいでセンコウを焚いているのだと、何年かかけてやっと理解した。
臭いのは嫌だし、嫌いだったけれど、あの家の『コタツ』だけは大好きで、どうしても離れられなくて、それでノブエさんの家に居つくようになってしまった。あれはその年の冬があんまりにも寒かったからいけないんだと。
嫌いなセンコウの匂いも、段々と軽くなった。ノブエさんも毎日のようにして焚かなくなったからだ。
「ねえ、トラ。あんたとあたしは似てるねぇ」
ノブエさんはそんなことを言った。似てるわけがないのに。
真っ白な髪の毛に皺の深い顔。足が痛いと引きずるようにして歩く。
ノブエさんは、独りだった。
だから、トラさんも安心して過ごせた。ノブエさんしかいない家は、トラさんにとっては居心地のいい家だったそうだ。
たまにノブエさんが出かけていくと、決まって美味しいものを持って帰ってくる。だから、ノブエさんが行ってくると言って出かけるのが、トラさんは楽しみだったそうだ。
――あの時は本当に、なんにも知らない小娘だったって?
いや、そんな若くなかったんじゃ……いえ、すいません。続けてください。
ノブエさんは多分、ヒト付き合いが苦手だった。
ノブエさんを訪ねてくるヒトは、あまり親しげじゃなかった。
「――あの、区費を集めに来たんですけど」
「ああ、区費ね」
「ええ、確かに頂きました」
「……」
「……えっと、じゃあ、これで」
一方的に言いたいことを言い、ノブエさんはそれに素っ気なく答える。家に上がることはほぼない。
そんなノブエさんを、トラさんは、それが『ノブエ』なんだと思ったそうだ。ヒトとつるまない、独りが好きな人間。
猫だって、いろんなのがいる。甘えたがりもいれば、孤高のドラ猫だっている。
だから、ノブエさんが独りを好むのはおかしなことじゃない。
ただ、トラさんには優しかった。我が子を慈しむようにして優しい眼差しを向けてくれていた。
「あんたとあたしは似ているねぇ」
似ているはずがない。それなのに、何度もそんなことを言う。
トラさんを、なんのしがらみもない気軽な猫だと侮っているのかと、それを言われるのが嫌だったそうだ。当時、トラさんにはトラさんの負けられない戦いがあり、凛々しい雄猫を取り合ったり、縄張り争いをしたり、飼い猫になってからもトラさんは大変だったとのこと。
気楽なのはノブエさんだけだと、それを言われるたびに、にゃあと否定してきたそうだ。
でも、ノブエさんは僕のような特技を持たない。トラさんがにゃあと鳴くと、
「そうかそうか」
なんて言ってちょっと笑ってたらしい。
まったく、困ったヒトだと。
ノブエさんには子供がいなかった。
トラさんは野良の時に何度か出産したから、子供はたくさんいるけど、それぞれ送り出したからどこでどうしているのかも知らないそうだ。
それでも、子を産んで育てた、そのことは誇っているし、子供たちは可愛かった。ノブエさんは、子がいないからトラさんを子供のようにして可愛がっているつもりなんだろうかと思ったそうだ。
ノブエさんは、気の合う仲間もいない。
いつも独り。
そのそばに、トラさんが寄り添う。
そんなトラさんに、ノブエさんはある日、かすれた声でポツリと言ったそうだ。
「ねぇ、トラ。あんたにだけは、あたしだって本当は寂しいんだって言ってもいい?」
それは、雪がしんしんと降る寒い夜だったそうだ。コタツに入ったノブエさんが、窓の外の降りしきる雪を眺めながら言ったひと言を、トラさんはよく覚えているって。
古い家だから、隙間風がカーテンを揺らして、ひらひらとめくれる。トラさんは寒いからコタツにすっぽりと入ってしまいたかったのに、ノブエさんが急にそんなことを言うから潜り込めなくなった。
寒いのに。
トラさんは仕方なく、コタツの中ではなく、コタツ布団をかけているノブエさんの膝の上に載ったそうだ。そうして、にゃあと鳴いた。
あたしにだけじゃなく、誰にだって言えばいいって、言ってやったって。
ヒト付き合いが嫌いで、独りになりたがるノブエさんなんだと思っていた。でも、それは自分の心が上手く言えない、ただの不器用さの表れだった。
愛想がないとか、迷惑そうにするとか、そんなつもりはなくともそう映る。ぎこちない笑顔は笑顔になりきれない。
そんなだから、誰も進んでノブエさんには近づかない。
そんなノブエさんのことをわかっていてくれたのはダンナさんだけだったんだって。
寂しかった?
そのひと言を言うのにどれくらいかかったの?
「なんてね。あたしがそんなこと言うの、似合わないよねぇ」
無理して笑う。
馬鹿だね。なんて不器用なのさ? って、呆れたそうだ。
呆れはするけれど、ほっとけない。ノブエさんは世話になっている同居人だから。
枯れ枝みたいな指が、トラさんの背中を何度も撫でた。
「あんたはあったかいねぇ」
「にゃあ」
コタツの次くらいにね。
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