短編集

喜岡 せん

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ヴェルメリオの糸

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 足が滑った。
 原因はたったそれだけだ。
 けれど、全てを投げ出すにはそれだけで十分だった。


 S県S市内最大で唯一の大学病院。此処には様々な理由でお年寄りから青少年まで、診察に通ったり、僕のように入院している患者がいる。
 時刻は午前十一時。一通りの問診を終えた僕の側には、僕の手術を担当した若い男の先生と母さんが座っていた。
「日常生活を送るぶんに関しましては支障ありません」先生が言う。「しかしながら、今後は激しい運動を控えたほうが良い。いや……やめなさい。これ以上はいずれ歩けなくなる」
「それじゃあ部活は」
 深刻な顔で尋ねたのは、僕ではなく母さんだった。先生は当然だと言わんばかりに首を横に振る。
「厳しいでしょう。そもそも、ご本人が一番良く分かっていると思いますが」
 母さんが僕の顔を見た。
「いつか車椅子になるって話でしょ、だったらもういいよ」
「でも、隆良たから
「あたしがいいって言ってるんだからいいの。それに、五年も六年も同じことやってたらさすがに飽きるし疲れた。それで先生、退院は何時頃ですか?」
「少なく考えて一週間程ですね」先生が答える。「リハビリの進捗によります。まゆずみさんの怪我自体は難しいものでもないので」
 先生はそう続けると、次の患者がいるからと早々に退席していった。締め切ったカーテンの中に僕と母さんだけが残される。


「割と早いじゃん、一週間だって」
 僕は傍にあったドーナツの箱に手を伸ばした。これは昨日見舞いに来てくれた担任が置いていったものだ。
「あんた意外とケロッとしてるのね」
 動物園で孔雀を見た時と同じ顔で母さんが呟いた。何が、と僕は本気で首を傾げる。
「なんだかんだ言って結構続けてきたじゃない、サッカー。もっとこう、執着とかあるのかと」
「馬鹿言わないでよ。別にサッカーなんて好きじゃない。練習はきついし試合は上手くいかないし下手だし。地区大会で優勝したのだってあたし試合出てないし」
「あらそう? あんたがいいならいいけど。……着替えここの棚に入れとくわね」
 いつだって執着してたのは僕よりも母さんたちだろう、なんて言葉はさすがに喉の奥に押しとどめた。
 母さんはそれから妹の塾だの、弟の迎えだので慌ただしく病室を後にした。



 とりあえず何かスポーツでもやりなさい。その父さんの思いつきで「何かスポーツ」をやる羽目になった。サッカーを選んだのは、なんとなくだ。どれを選択したって僕の運動嫌いが改善される訳でもない。
 中学に上がっても選んだのはサッカーだった。サッカーは嫌いだ、けれどどうせこれひとつしか出来ることがない。何よりも運動部しか入るなとの父さんからの命令だった。
 僕以外の部員はメンバーに選ばれようと必死だったけれど、僕は選ばれなくても構わなかった。それに、どうせたかが部活なんだから。将来アスリート選手になる予定もないし、なりたくもない。
 練習に一生懸命な振りをして、内心文句を垂れながら必死についていって、そんな不真面目な僕が一度目の怪我をしたのは中学総合体育大会の前日だった。
 これほどまでに運が良い日は無いだろうと、心底から思ったものだ。当日、僕は保護者席で何度も何度も声を掛けられた。

「頑張ってきたのに」「残念ね」「すごく真面目に練習してたのにね」「私はあなたが頑張っているの見てたから」

 残念な訳があるか。練習はきついし、試合になるともっときつい。負けると誰のせいだ、お前のせいだってすぐ争い事が起きる。それに、勝ちたい奴が出ればいいんだ。僕は荷物にしかならないんだから。
 僕には一片のチームの責任を背負う気はさらさらない。僕はそれから全て、怪我を理由に逃げてきた。


 二度とサッカーなんかやらない。そう思っていたのに高校でまた選んでしまったのは父さんのせいだ。
 そして僕は何度目かの不調を起こしている。
 頭の奥で「言い訳を作って逃げるな」と父さんの声が木霊する。「少しは真面目にやれ」。周りは騙せた擬態も、父さんには見透かされているようだった。


 怪我をしたのは事実だ。けれどそれを味に占めて大嫌いな部活から逃げてきた。仕方ない。仕方ない。
 そうさ、僕はずっと、辞める理由が欲しかった。
 だから今は、人生でベスト5に入るか入らないかの幸運に見舞われている。
 退院した時には真っ先に退部届を提出しよう。
 これでやっと、解放される。


「お姉さん、サッカーやってたんだ」
 不意に隣から声が聞こえた。
「ああ悪いね、盗み聞きする心算はさらさら無かったんだけどさ。お姉さんそっちのカーテン開けてくんない? 顔も判らず話すんの嫌だから」
 少年とも少女とも判断ができない声に、入院手続きの際に個室ではなく共同の部屋を希望していたことを思い出した。確か二人部屋だと聞いた記憶がある。
 声の主はどこか憎らしいくらい生意気だけれどひと時の同居人の顔が気にならない訳はなく、僕は迷うことなく隣人との隔たりを破った。
「おや、本当にお姉さんだ」
 綺麗に染められている煌びやかな金髪と、頭に巻かれている痛々しい包帯が目に入る。姿を見ても性別は依然判らなかった。
 なんて返せば良いのか悩んだ末に「どうも」とだけ頭を下げると「よろしくね」と快活な返事が来た。
「俺は如月一木いつき。お姉さんは?」
「……黛。黛隆良」
「へえ、『宝』か。良い名前だ。入院してるってことは手術は済んだの?」
「うん、昨日。靭帯とか膝とか、何か所か故障してて。えっと……」
「一木、で良い。タカラさんって学生でしょ、だったら俺よりずっとマトモなセンパイだ」
 そう言った一木は顔だけを向ける姿勢をやめて、ベッドから足を出した。足を組んでこちらに笑顔を向ける、今の自分にはできない所業にちょっとだけ羨ましさを憶えた。そして同時に気づいた。一木には右腕がない。
訊いちゃまずいとは頭で理解していたけれど、純粋な好奇心のせいにして僕はそのままを口にした。
「右腕、事故とか?」
「事故、と言いたいところだけど」
 案の定、一木は困ったように眉をひそめて、ついでに声も潜めてこう返した。

「儀式に使われたのさ、教団の」

「教団」と僕も同じ言葉を繰り返す。別の意味で訊いちゃまずい話だったかもしれない。
 あまりにも非現実じみた単語に息を呑むと、今まで無邪気に笑っていた一木が妖艶な笑みを浮かべて訊ねた。
「聞きたい?」
 僕は機械のように頷いた。本当、好奇心というものにはつくづく困らされる。
 一木はまた、純真無垢な子供のような笑顔を見せた。そうして、「俺、人殺しなんだよ」と独白するように目を伏せた。


「俺には腹違いの兄貴がいた。というか実の両親の顔を俺は知らないんだ。まあ、事故で死んだとか殺されたとかいろいろ聞いたことはあるけどね。暫く孤児院に預けられたみたいだけどあんまり憶えてない。

 そんなこんなで、俺は八つの時に養子に貰われたんだ。今の如月家にな。一木って名前もそこでつけてもらった。……その前の名前? 話長くなるけど訊く? ……ああ、ふふ、また今度ね。

 そう、今までひとりだった俺に、突然できた母さんと父さんと兄貴だったんだ。しばらくは四人で仲良く暮らしてたさ。けれどそう長くは続かなかった。

 あれは冬の、随分寒い日だった。風が吹いていないことが唯一の救いだったかな。兄貴が死んだのさ。

 その日は日曜日だから、俺たちは教会に向かう道中だった。この家は俺が来たときから熱心な宗教家で日曜日は御祈りをするって決まりがあったんだよ。

 事故だと聞かされた。父さんも母さんも俺も、悲しくて悲しくて仕方なかった。それから母さんたちは増々教団にのめり込むようになったんだ。

 全部狂ってしまった。

 破産しかねないくらい金を貢ぎこんで、父さんはそのうち仕事も辞めた。俺は護身だと言われて、背中にでかい入れ墨入れられたり、ナイフで傷をつけられたり、教団の人間に……まあ、いろいろ、さ。痛かったよそりゃ、なんで今生きてるんだって思う。

 それから、二人とも家に帰らない日が続いた。俺は俺でもう教会には寄り付かないようにしてたんだ。いい加減教団とか飽き飽きしてたし、なによりもう両親があんななったから生きていくので必死で。それで何日か経ったある日、一体どこで何があったのか判らないけれど久しぶりに母さんが帰ってきて、飯を作ってくれたんだ。

ひどく懐かしい味がした。

 母さんと俺と、二人だけだったけど、まるで今までのことが夢みたいでさ。そのうち兄貴が眠い目を擦ってリビングに来るんじゃないかって思ったほどだ。

 俺は母さんの肉じゃがが一番好きなんだよ、幸せの味がする。

 けど、ふと違和感を感じたんだ。……そう、父さんがいない。

 俺は母さんに尋ねた。「父さんはどうしたの?」

 母さんは笑って言った。「新しい運命に導かれたのよ」

 俺には母さんが何を言ってるのか判らなかった。けど、思い当たる節はあったんだ。

 タカラさんは「ヴェルメリオ」って言葉知ってる? ……いや謝ることじゃないよ。俺も最近調べて知ったから。ヴェルメリオはポルトガル語で、色の「赤」という意味らしい。

 「運命の赤い糸。私たちは運命と言う名の、神が作り上げたシナリオに導かれているの。今私たちがこうして悩んで、苦しんで、苦渋の決断をして、自分で選んだ道だと思っていても、それは神が既に決めた物語でしかないんだって。悩むことから苦しい判断をすることまでも全てが既に決められている。神が作りあげたシナリオから逃れられはしない。

けれどヴェルメリオ様を信じれば神から選ばれて新しい運命を歩むことができる。貧しさも飢えもない、幸せな、幸せな運命を」

 母さんは恍惚とした顔で言った。俺はさらに訊ねた。
「父さんが望んだ新しい運命って、何?」
「それは、私たちみんなが幸せになることよ。そのためには一度、糸が繋がる前の世界から離れなくちゃいけない」

 母さんはそう言ってさ、俺の目の前で自分の喉に包丁を突き立てたんだ。母さんの喉元から血飛沫が上がって、それが俺の顔に映った。がたんと大きな音を立てて、母さんが椅子ごと横に倒れた。

 俺は叫んだ。母さん、母さん。けれど声は声にならなかった。誰かが俺の口を塞いで、何か口の中に入れやがった。ぞっと寒気がして振り向いたら、俺の後ろにいたのは教団の連中だった。俺はこいつらが大嫌いで大嫌いで仕方ないんだ。母さんが使った包丁を手に取って、そのまま教団の連中にぶっ刺した。夢中だったから何人いたか憶えてないんだけど、ひとりじゃないのは確かだよ。

 それから勢い任せに家を飛び出して無我夢中で走って―――最後に憶えているのは耳元で鳴ったでかいクラクションだけだ。気が付いたらここに居て、腕が無かった。教団のやつらがご丁寧に俺を病院に運ぶわけないし、一体どういうことだと思ったら、あの夜俺の喚き声を聞いた近所のおばちゃんが警察に通報してくれたみたいでさ。今は警察に匿われているってわけ。
 
本当、運が良いのか悪いのか。ちなみに俺の腕は見つからなかったみたい、せめてもの貢ぎ物として連中が持ってったんじゃないかって俺は思ってるんだけどね」

 一木はそう言うと大きな欠伸をして、それからにっこり笑った。「これでおしまい」

 僕は暫く声が出せなかった。何を話せば良いのか判らなかったからだ。
 非現実に非現実を重ねたような話。ただでさえ入院、手術だけでも日常とは逸脱しているのに。
 もしこれが本当の話なら―――と僕は自分の脚に視線を落とす。

「ところでタカラさん」
 全ての空気を無視して一木が続ける。
「今の話、どうだった? 今月末に小説の新人賞に応募してみようかなって思ってるんだけど」

「…………………………………………………は?」

「えっ……まさか、本気にした?」
 一木が本気で引いた目をした。
 僕はいまどんな顔をしているのだろう。自分で思うに結構な表情だと自負する。
「びっくりした。あたしてっきり……」 
「ふふ、そんな話が本当にあったら俺もうショックで死んでるよ。確かに御覧のとおり右腕は無いし、俺は孤児だけどね。今は院で少年少女らしく無邪気に遊んでる奔放息子さ。院長には申し訳ないけど」
 どうやら俺には物書きとしての才能があるみたいだ、と一木は楽しそうに笑った。

 それから、僕と一木は他愛もない話をした。
 音楽は何を聴くのか、最近の流行、好きな食べ物、家族について。
 夕方になって警察署から来たという男の人が一木を連れていくまで、僕らは楽しい時間を過ごしたのだった。



【あとがき】

自分の運命は誰かに決められている。自分が悩んで選択した未来でも、悩むことからすら誰かに仕組まれた運命で、もし自分がいるこの世界が小説や漫画のように誰かに作られた世界だったら?
本の虫だった中学生の頃から、ふとその疑問が頭を過る。自分の身体はただの容器で、魂は時が来れば入れ替えられるのではないか? なんて。誰かが作った世界。自分が選んだものは、それを選ぶと既に決まっていた。
それはそれで良いなぁと思う。自分がしっぽ撒いて逃げたことがあっても「これは運命だから、最初から決まっていたことだから仕方ない」と運命か、神とやらに責任転嫁ができる。
隆良は言い訳がましく逃げている人間だ。逃げることは恥でもなんでもないと言ってくれる人がいる反面、自分ではそう思わざるを得ない。仕方ないんだ、仕方ない。隆良は怪我をしたくて怪我したようなものだ。逃げる理由が欲しかった。
隆良に必要なものは「肯定」だ。もっと大きい、「仕方ない」と思える、心の底から思わざるをえない肯定。
それが運命なのだと思う。
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