鬱になって、はじめて恋をした

雨月黛狼

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私は雨になる

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 ランウェイ当日。今日は生憎の雨だった。小降りだったからそこまで濡れることもないし、室内でのイベントだから特に問題は無いのだが、雨の影響が精神的に響き、緊張と不安が増長されている。イベント会場にはキョウコさんに連れて行ってもらい、リュウガ先輩とりっちゃんも一緒に来てくれた。大きな会場の裏手側に駐車場があり、そこに停車する。

「こっちゃん!」
「うん? なに?」

 りっちゃんが私の隣で窓を指差す。

「今日は良い天気だね!」
「前も言ってたよね。雨が悪くないって」
「うん。雨はね、恵み、なんだって」
「恵み?」
「学校で習った! 種とかちっちゃな芽にとって雨はないとダメなんだって。だからね、今日の雨もいっぱい小さいものの恵みなんだよ!」
「だから、雨は良いものってこと?」
「そう! だから天気が良いんだよ!」
「雨の日が、良い……」

 やっぱり私にはその感覚がいまいち分からない。多くの人が雨よりも晴れを好んでいると思う。でも、りっちゃんの好きを否定したくない。りっちゃんの言った通り、雨は今から育つ植物の養分になる。雨を必要としない自然の植物は無いだろう。

 でも、その事実を尊ぶ人はどれだけいるだろうか。

「そろそろ行くわよ」

 キョウコさんがタブレットを口に含んで言う。お父さんの一件があってから、キョウコさんはラムネを持ち歩かなくなった。キョウコさんにも心境の変化があったのだろう。
助手席に座るリュウガ先輩が私が座る後部座席に振り向く。

「晴野さん。どうか無理しないでください」
「ありがとうございます。でも、私には味方がいっぱいいるので多分、大丈夫です」
「俺が誰よりも味方です」
「……は、はぁ」

 本当にどういうつもりでこんなことを言ってくるのだろう。
 私が曖昧な返事をしたタイミングでキョウコさんが車の扉を開ける。私達も外に出て会場へと向かう。体育館の倍以上はある大きさの会場に気圧されたけれど、隣でりっちゃんが手を繋いでくれたから何とか心は正常に保てた。

 キョウコさんが会場スタッフの人と話した後、私とキョウコさん。リュウガ先輩とりっちゃんで別れることになった。

「こっちゃん」

 りっちゃんが私の手を強く握る。

「雨は、良いんだよ」

 真剣な物言いが心の底に染み渡る。
 どういう意味かまだよく分かっていないけれど、これがりっちゃんの最大の応援なのだろう。
 今度はリュウガ先輩が私の前に来る。

「最悪の事態に陥った場合、俺が駆け付けます」

 苦笑が漏れる。

「さすがにイベントがめちゃくちゃになるので大丈夫です。でも、ありがとうございます。ふたりとも、行ってきます」

 りっちゃんとリュウガ先輩に見送られ、会場の控室へと向かう。
 控室の中にはすでに多くの人で賑わっていた。教室ほどの広さがある控室には口の字型の白いテーブルと椅子が備え付けられており、部屋の隅には衣装に着替えるためのカーテンが設置されている。

「人が多いから。着替える場所も質素なものでしょ」
「そういうものなんですね」
「それじゃ、着替えちゃいましょ」
「はい」

 カーテンが空くまで少し待ち、衣装に着替える。
 今日は黒のワンピース風のドレスだ。前にプロモーションビデオで着たドレスよりも丈が短く、ウエスト部分もかなり締め付けられる。服の下にコルセットを巻いて極限までウエストを細く見せる。衣装合わせで一度着たけれど、やっぱり苦しい。靴も相変わらず高さのあるヒールで、まさにザ衣装といった具合になった。

 衣装に着替えてしばらくした後、ランウェイのリハーサルが行われた。控室の裏側がすでにステージになっており、階段を少し上った後、大きな壁が現れ、真ん中にステージの入り口がある。多くの人が並んでいる中、私も順番で待って、ランウェイのステージに立つ。ステージの長さは十五メートルほどあり、ステージの端まで行ったらポーズを決めて振り返り、元に戻る。長さは十分あるけれど、幅が二メートルもないから、隣ですれ違う人と当たらないようにしなければならない。意識しないといけないことを頭の中で反芻して、ステージへと足を運ぶ。前の人がポーズを決めて帰ってくるタイミングに合わせてステージの左側を歩く。つま先は相変わらず痛いけれど、慣れてきた。ポーズを取って戻ってくる。

 会場スタッフの人もキョウコさんも問題ないと判断してくれて、ほっと一息つく。
 これなら大丈夫。今まで散々、練習したヒールとランウェイでの歩き方。もう完全に身体に染みついている。

「行けるわね」

 キョウコさんが真っ直ぐ私を見据える。
 私は力強く頷く。

「はい。行けます」

   ×    ×

 リハーサルが行われた後の十四時。ランウェイのイベントが始まった。
 司会の人がイベントの詳細を話した後、各ファッションブランド事務所の紹介が入る。そして、拍手が会場に響き渡る。拍手が鳴りやんだところで爆音の音楽が流れる。いきなりの爆音に驚いたけれど、目を薄く開け、一、二、三と深呼吸をする。大丈夫。十まで数えきれた。

 前の人がステージに出る。それと同時に帰ってきた人が視界に入る。顔全体に汗をかき、脚が震えている。緊張しているのは私だけじゃないんだ。大丈夫。大丈夫。
 前の人がステージの端に行き、ポーズを取る。


 よし、行こう。
 ランウェイのステージに立つ。
 その瞬間だった。

 パシャパシャ。

「うっ」

 多くのカメラのフラッシュが視界一杯に入ってくる。私は強い刺激が人より苦手だから、その大量のフラッシュだけでも目が痛い。前が見えない。

 ダメだ。前を見なきゃ。
 目の痛みを必死に抑えながら目を開けて前を見つめる。
 歩かなきゃ。
 一歩ずつ、一歩ずつ。一定のペースで歩みを進める。
 目が痛い。足が痛い。
 頭の中が真っ白になる。

 ドンッ。

 突然の衝撃で身体のバランスが崩れる。
 何かにぶつかった。たぶん、前の人と当たってしまった。
 バランスをもとに戻せないまま、私はステージに倒れた。
 シャッター音が止まる。爆音の音楽が流れ続ける。
 でも、それよりも大きな音が頭の中に鳴り響いた。

 雨。
 雨が降っている。

 明るい日光が次第に雲に覆われ、空一面が灰色になってゆく。世界が灰色に黒く、黒く、次第に漆黒になってゆく。真っ暗の闇の中、容赦なく身体に雨が降り注ぐ。明るい夢と希望に満ちた晴れはすでに消え失せ、絶望の雨が身体を打つ。晴れた日に喜びを感じていたからこそ、雨の暗さを実感する。あまりにも冷たく、残酷で、冷酷な現実が心を蝕む。

 少しずつ明るい未来に向かって歩いてきた中、突然、鉄格子が降ろされる。手足には鎖に縛られ、身動きを取ることもできない。鉄格子の内側には漆黒の雨でどんどん満たされてゆき、私の存在そのものを闇の一部と化してゆく。外の灯は次第に見えなくなり、暗闇に包まれる。灯が消えてゆく中、走馬灯のように過去を巡る。

 高校に入るまでずっと、周りから敬遠されてきて、自分の存在を否定し続けてきた。自分の存在を消したくて土砂降りの雨の中、泣きながら家に帰ってきたこともあった。でも、自分の存在がなくなることはなく、身体が冷えて、また辛い日常が待っていただけだった。やっと中学を卒業して、高校に入って、リュウガ先輩と出会った。絶望的な人生に手を差し伸べられて、少しずつ幸福を感じるようになった。ずっと心配してくれたリュウガ先輩の期待に応えたくて、一歩ずつ前に進んできた。キョウコさんにスカウトしてもらってから、初めて自分の意思で挑戦して、新たな自分に可能性を見出だした。井川先輩にコンプレックスに対する捉え方を教えてもらって、前向きになって、自分の存在価値を少しでも感じられるようになった。すれ違いで起きてしまったクラスでの出来事。勇気のある須藤さんのおかげで私は学校に行くことができて、里香さんとも仲良くなることができた。ランウェイの練習も付き合ってくれた。

 そうして、今がある。この今は何? この真っ暗な世界が私の終着点なの? 私はこの雨に打たれるために頑張ってきたの? 現実を少しでも良くするために歩んできた理想がこれなの? この雨の世界がやっぱり私の現実なの?

 りっちゃん。
 ごめんね。
 やっぱり、私は雨で。
 雨は本当に、心の底から嫌――

「こっちゃあああああああああん! 頑張れええええええ!」

「……え」

 自然と顔が上がった。会場の奥にある、小さな、本当に小さな灯が目に入った。

 りっちゃん。
 会場の人たちがりっちゃんに視線をやる。何事かと不審な目を向けられる。

 不審。
 全然だ。
 私にとってその灯は全然、不審じゃない。
 りっちゃんの言葉をやっと理解できた。
 自然と笑うことができた。

 立ち上がり、ステージを歩く。

 単純なことだった。私は間違っていなかった。
 晴野小雨は、その名の通り、雨のような存在だ。

 多くの人から疎まれ、敬遠され、いるだけで嫌な気持ちにさせる存在だ。でも、雨の存在はそれだけじゃない。りっちゃんが言っていた通り、雨は恵みなのだ。

 この世界には多くの生き物が存在する。そんな生き物は最初はみんな小さなものだ。小さい種から始まり、小さな芽が生まれて、育ってゆく。どんなに大きな植物も最初は小さな種なのだ。それが、恵みの雨によって育ってゆく。日光と同じくらい、雨は生き物を育む。雨が絶望の象徴ではないのだ。光の対義が雨ではない。光と同じくらい、雨も大切なのだ。光で育ち、雨で育ち、生きてゆくのだ。多くの人にとって雨は疎まれるものだ。それは事実だ。

 でも、雨で救われる人達もいる。雨が好きな人がいる。明るい光だけでは救われない人がいる。私が何のために仕事をしているか。それは、誰かの役に立ちたいからだ。私は他のモデルの人と違って、異色で、気味が悪い。私自身が一番そう思っているし、そう思わるのも自然だ。私にとってこの見た目はコンプレックスの塊だ。でも、だからこそ、私はこのステージに立たなければならない。私を見て、自分の容姿にコンプレックスを抱いている人たちの恵みになるためにここに来たのだ。

 ステージの端に行き、ポーズを取る。

――私は、みんなの恵みの雨になる。

 初心にして、絶対に揺るがない決意を示すように、一斉にカメラのシャッターを受ける。
 そして、ステージを後にする。
 やれることはやった。これから泥臭くても、誰に何と言われようとも私は自分の役目をまっとうしてゆく。それをこの機会に実感することができた。

 人に嫌われることが怖い。その恐怖が私の中に根付いていた。でも、違う考え方ができる。嫌われ、疎まれ、敬遠されているからこそ、同じような人たちに寄り添うことができる。この恐怖は共感と共有のために存在する。この恐怖こそが、恵みの一粒になる。

 また少し変わることができた。いや、変わってはいない。見方が変わっただけだ。

 雨は敵じゃない。嫌いじゃない。
 雨は悪くない。
 雨が降った日の天気は、悪くない。
 良い天気なんだ。
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