さよなら、お門違い

クラム

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第4話:皇帝の跪致と至宝の帰還

ガルシュタイン帝国の国境線は、ルムリア王国のそれとは全く異なる光景だった。
泥濘んだ道はどこまでも滑らかに舗装され、街灯には永久発光エターナル・ライトの魔石が惜しげもなく埋め込まれている。

その光の中に、一人の男が立っていた。
燃え盛る火炎のような紅髪を揺らし、漆黒の軍礼装に身を包んだ青年。
大陸最強と謳われるガルシュタイン帝国皇帝、カイル・フォン・ガルシュタインその人である。

馬車から降りたエルナに対し、彼は一国の主としての威厳をかなぐり捨て、その場に片膝をついた。

「ようやく、私の声が君に届いたのだな。エルナ」

カイルは、エルナの震える手を取り、恭しく指先に唇を寄せた。
その仕草は、恋人に向けられる情愛というよりは、聖遺物を崇める信徒のそれ、あるいは失われた至宝をようやく取り戻した蒐集家の狂気にも似た執着を孕んでいた。

「陛下……、お顔を上げてください。私は、ただの行き場を失った女に過ぎませんわ」

エルナが困惑して声を絞り出すと、カイルは顔を上げ、その紅蓮の瞳を細めた。
彼の視線は、エルナのやつれた頬、そして魔力の酷使で荒れ果てた指先に固定されている。

「行き場を失っただと?冗談はやめてくれ。君という世界理の観測者マギ・オブザーバーを失うことは、大陸全体の損失だ。それを、あのような無能な侯爵ごときに……」

カイルの言葉が、急速に温度を下げた。
彼は、かつて国際学術会議の片隅で、たった一人、誰にも理解されない最先端の動的演算理論ダイナミック・ロジックを書き連ねていたエルナを見出した時から、彼女を渇望していた。

あの時、セドリックという男が「幼馴染のよしみ」で彼女を掠め取っていった日の屈辱を、彼は一日たりとも忘れたことはない。

「君を、あのような劣悪な環境に放置した自分を呪うよ。……さあ、行こう。君のために、最高の工房と、最高の休息を用意してある」

カイルはエルナを優しく抱き上げ、皇帝専用の竜車へと運んだ。
エルナが驚いて声を上げようとしたが、カイルの胸板は岩のように厚く、そして驚くほど温かかった。

◇◇◇

帝都へと向かう車内。
エルナは、カイルから手渡された琥珀色の飲み物を口にした。
一口飲んだ瞬間、体内の魔力回路が驚くほど滑らかに潤っていくのを感じる。
最高級の魔力回復薬エーテル・ポーションをベースにした、特製のハーブティーだ。

「……こんなに贅沢なものを、頂いてもよろしいのでしょうか」

「贅沢?むしろ足りないくらいだ。君の体は今、空っぽの貯水槽のようになっている。三年間、君がルムリアにどれほどの魔力を吸い上げられてきたか、専門家に調べさせるまでもない」

カイルは座席の横にあるパネルを操作した。
車内に柔らかな音楽が流れ、椅子の背もたれからじんわりとした熱が伝わってくる。

「ルムリアの結界維持……。あれは本来、十人の高位魔導師が交代で行うべき重労働だ。それを君一人に押し付けていた。あの国は、君という黄金を産む鶏の腹を裂こうとしていたのだよ」

「……私は、ただ、自分の役割を果たさなければと思っていただけです。セドリック様も、それが当たり前だとおっしゃっていましたし」

「当たり前なはずがあるか!」

カイルの声が、低く響いた。
車内の空気が、彼の怒りに呼応してビリビリと震える。
しかし、彼はすぐに自制し、エルナに柔らかな視線を戻した。

「すまない、君を責めているわけではないんだ。……ただ、あまりにも君が、自分を粗末に扱うから」

カイルは、エルナの右手をそっと包み込んだ。
「君の才能は、誰かを守るための盾ではなく、新しい世界を創造するための筆であるべきだ。これからは、誰に遠慮することもなく、君の知性を振るってほしい」

数日後。
帝都の中央に位置する「聖導魔導研究所」。
そこには、エルナ専用の広大な工房が与えられた。

エルナは、最新鋭の多重共鳴演算機レゾナンス・計算機の前に座った。
ルムリアにあった旧式のものとは、性能が桁違いだ。
彼女がそっと機械に触れ、指先から微かな魔力を流し込む。

その瞬間。
研究所全体の出力メーターが跳ね上がった。

「なっ……なんだ、この魔力の安定性は!?」
「帝都全域の魔導網の効率が、一気に十五パーセント向上したぞ!」

周囲の魔導師たちが騒然となる。
エルナにとっては、ただ機械の「歪み」を整えただけのつもりだった。
だが、彼女の微細な魔力操作は、帝国が誇る技術者たちが束になっても届かない、神業に近い領域だったのである。

「……素晴らしい。やはり、私の目に狂いはなかった」

カイルは、工房の隅でその様子を見守り、満足げに微笑んだ。
彼はエルナを「女」として愛しているが、それ以上に、彼女の「才能」を誰よりも信奉している。

そこへ、一人の伝令が駆け込んできた。
「陛下!ルムリア王国より、正式な抗議文が届きました!」

カイルは、受け取った書簡を一瞥もせずに、手元で発火させた。
「内容は?」

「『エルナ・ローウェルは国家の重要資産であり、彼女の出国は事前の承認がない国家反逆罪に当たる。即刻身柄を返還せよ』とのことにございます」

カイルは、冷ややかな笑みを浮かべた。
「返還、か。……物を扱うような言い草だな。セドリック・ローウェルという男は、まだ自分たちが何を失ったのか理解していないらしい」

彼は、椅子に座って魔導演算に没頭するエルナの後ろ姿を見つめた。
彼女は今、何かに取り憑かれたように計算式を書き連ねている。
その横顔は、侯爵邸にいた頃の死人のような無表情ではなく、真理を追い求める学徒としての情熱に満ちていた。

「伝令。ルムリアへこう返せ。『彼女は我が帝国の客客であり、未来の皇后である。彼女の意思を無視して連れ戻そうとするならば、それは帝国への宣戦布告と見なす』と」

カイルの宣言に、その場の空気が凍りつく。
エルナ一人のために、戦争も辞さないというのだ。

「それと、セドリック・ローウェルには個人的に伝えてやれ。『お前には、彼女の爪の垢を煎じて飲む資格さえない。せいぜい、瓦礫の山となった領地で、お似合いの幼馴染と心中するがいい』とな」

カイルは、エルナの肩にそっと自分のマントをかけた。
彼女は驚いて顔を上げたが、カイルの穏やかな、しかし独占欲に満ちた微笑みを見て、再び作業に戻った。

エルナはまだ知らない。
自分がこの国で、どれほど恐ろしいほどに愛され、甘やかされることになるのかを。
そして、自分が捨てた場所が、どれほど残酷な速さで腐り果てていくのかを。
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