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第5話:結界消失の悪夢と無能の断末魔
その音は、世界の終わりを告げる硝子の割れる音に似ていた。
ローウェル侯爵領の空を覆っていた、淡い琥珀色の膜――。
三年間、一度の揺らぎも見せず領民の安眠を守り続けてきた守護外殻が、音を立てて霧散した。
エルナが去ってから五日。
彼女が鍵に残した最後の残滓魔力が、ついに底を突いたのだ。
「……あ、ああ……」
セドリックは、屋敷のバルコニーから呆然とその光景を眺めていた。
空の色が、不気味な赤紫へと変色していく。
結界という重石が取れたことで、周囲の森に潜んでいた障気が津波のように流れ込んできたのだ。
直後、大地を揺らす咆哮が響き渡った。
一頭でも村を壊滅させかねないAランク魔獣、双頭の餓狼の群れだ。
それも一頭や二頭ではない。結界の「空白」を目掛け、数百の魔獣が雪崩を打って領地へと侵入を開始した。
「団長!結界が完全に消失しました!北門が突破され、農村部で甚大な被害が出ています!」
階段を駆け上がってきたバルトの声には、もはや敬意の破片も残っていない。
彼の鎧は返り血で汚れ、肩からは無惨に千切れたマントが垂れ下がっていた。
「な、なぜだ!他の魔導師たちを呼んで、修理させたはずだろう!?」
「無駄だと何度も言ったはずです!エルナ様が施した所有権上書きの術式は、彼女自身の魔力波形以外、一切の干渉を拒絶する!外部から触れれば爆発する代物を、誰が直せるというのですか!」
セドリックは、ガタガタと震える膝を必死に押さえた。
「エルナ……あの女、どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ!結界を直さないまま逃げるなんて、正気か!?これはテロだ、国家への反逆だぞ!」
「いい加減にしろ、この愚か者が!」
バルトがセドリックの胸ぐらをつかみ、バルコニーの柵に押し付けた。
眼下では、逃げ惑う領民たちの悲鳴が風に乗って聞こえてくる。
「彼女は三年間、毎日、一睡もせずにこの結界に魔力を流し続けていたんだ!壊したのは彼女じゃない、メンテナンスもせず、感謝もせず、ただ使い潰した貴様だ!」
バルトはセドリックを突き放すと、吐き捨てるように言った。
「我ら騎士団は、これより領民の避難誘導に全力を出す。……侯爵、貴様も剣を取れ。騎士団長を名乗るなら、せめて死に花くらいは咲かせてみせろ」
セドリックは、腰に差した魔導剣を抜き放った。
それは歴代のローウェル侯爵に受け継がれてきた名剣であり、エルナが週に一度、魔力を込めて調整していた逸品だ。
「……そうだ。俺にはこの剣がある。エルナがいなくても、俺の武勇さえあれば……!」
彼は戦場へと向かうべく、中庭へ飛び出した。
そこには、すでに数頭のオルトロスが侵入し、屋敷の植栽を食い荒らしていた。
「下等な獣め!このセドリック・ローウェルの錆びにしてくれる!」
彼は魔導剣を構え、発動のキーワードを叫んだ。
「――焔よ、焦土を走れ!」
しかし。
剣の身から溢れ出したのは、勢いのいい炎ではなく、プスンという情けない音と共に立ち昇る、一筋の黒い煙だけだった。
「……は?」
魔導剣は、使い手が魔力を流せば動くという単純なものではない。
内部の魔導回路を常に清浄に保ち、術式を安定させる「調整者」が必要なのだ。
エルナという最高の調整者を失い、五日間放置されたその剣は、ただの「重い鉄の棒」へと成り下がっていた。
ガチリ、とオルトロスの牙が空を切る。
「ひ、ひいいっ!くるな、くるなあああ!」
セドリックは、誇りも名誉も投げ捨てて、尻餅をつきながら後退りした。
かつて戦場を駆けた面影などどこにもない、ただの怯えた小市民の姿がそこにあった。
「セドリック様ぁ!お助けになって!」
屋敷の影から、リリアンが走り寄ってきた。
彼女はいつも通り、薄いドレスを纏い、儚げに涙を流している。
だが、その背後には、家を焼かれ、家族を失い、怒りに狂った領民たちが農具を手に追いかけてきていた。
「この女だ!この女がエルナ様を追い出したんだ!」
「エルナ様さえいれば、うちの息子は死なずに済んだんだ!」
「殺せ!偽物の聖女め!」
「嫌あぁっ!セドリック様、この汚らわしい連中を早く追い払って!」
リリアンがセドリックの腕に縋り付く。
だが、今のセドリックには、彼女を守る余裕など微塵もなかった。
それどころか、自分を窮地に追い込んだ元凶として、リリアンを突き飛ばしたいという衝動に駆られていた。
「お前のせいだ……リリアン、お前が『頭が痛い』なんて言うから、俺は……!」
「……え?セドリック様、今、なんておっしゃいましたの?」
二人が醜い言い争いを始めた、その時だった。
轟音と共に、屋敷の正門が魔獣によって破壊された。
巨大な魔獣の影が、セドリックとリリアンの上に落ちる。
死の恐怖。
その瞬間、セドリックの脳裏に浮かんだのは、いつも穏やかに微笑み、自分のわがままをすべて受け入れてくれていたエルナの姿だった。
(エルナ……エルナ……助けてくれ!俺が悪かった!お前がいなければ、俺は何一つできないんだ!)
心中でどれほど叫ぼうとも、その声が隣国で幸せに暮らす彼女に届くことはない。
セドリックとリリアンは、なだれ込んできた群衆と魔獣から逃れるように、地下の食糧庫へと転がり込んだ。
重い扉を閉め、閂をかける。
外からは、魔獣の咆哮と、略奪を始める領民たちの怒号、そして屋敷が焼け落ちる音が聞こえてくる。
暗く冷たい地下室。
そこにあるのは、わずかな乾パンと、泥のついた水瓶だけ。
かつて豪華な晩餐を「冷めている」と切り捨てた男にふさわしい、最後のご馳走がそこにあった。
「……エルナ……戻ってきてくれ……頼む……」
闇の中で、セドリックは膝を抱えて、子供のように泣きじゃくった。
彼が「不健康な者」と蔑んだ領民たちは、今や彼自身の生存を脅かす天敵となっていた。
ローウェル侯爵領の空を覆っていた、淡い琥珀色の膜――。
三年間、一度の揺らぎも見せず領民の安眠を守り続けてきた守護外殻が、音を立てて霧散した。
エルナが去ってから五日。
彼女が鍵に残した最後の残滓魔力が、ついに底を突いたのだ。
「……あ、ああ……」
セドリックは、屋敷のバルコニーから呆然とその光景を眺めていた。
空の色が、不気味な赤紫へと変色していく。
結界という重石が取れたことで、周囲の森に潜んでいた障気が津波のように流れ込んできたのだ。
直後、大地を揺らす咆哮が響き渡った。
一頭でも村を壊滅させかねないAランク魔獣、双頭の餓狼の群れだ。
それも一頭や二頭ではない。結界の「空白」を目掛け、数百の魔獣が雪崩を打って領地へと侵入を開始した。
「団長!結界が完全に消失しました!北門が突破され、農村部で甚大な被害が出ています!」
階段を駆け上がってきたバルトの声には、もはや敬意の破片も残っていない。
彼の鎧は返り血で汚れ、肩からは無惨に千切れたマントが垂れ下がっていた。
「な、なぜだ!他の魔導師たちを呼んで、修理させたはずだろう!?」
「無駄だと何度も言ったはずです!エルナ様が施した所有権上書きの術式は、彼女自身の魔力波形以外、一切の干渉を拒絶する!外部から触れれば爆発する代物を、誰が直せるというのですか!」
セドリックは、ガタガタと震える膝を必死に押さえた。
「エルナ……あの女、どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ!結界を直さないまま逃げるなんて、正気か!?これはテロだ、国家への反逆だぞ!」
「いい加減にしろ、この愚か者が!」
バルトがセドリックの胸ぐらをつかみ、バルコニーの柵に押し付けた。
眼下では、逃げ惑う領民たちの悲鳴が風に乗って聞こえてくる。
「彼女は三年間、毎日、一睡もせずにこの結界に魔力を流し続けていたんだ!壊したのは彼女じゃない、メンテナンスもせず、感謝もせず、ただ使い潰した貴様だ!」
バルトはセドリックを突き放すと、吐き捨てるように言った。
「我ら騎士団は、これより領民の避難誘導に全力を出す。……侯爵、貴様も剣を取れ。騎士団長を名乗るなら、せめて死に花くらいは咲かせてみせろ」
セドリックは、腰に差した魔導剣を抜き放った。
それは歴代のローウェル侯爵に受け継がれてきた名剣であり、エルナが週に一度、魔力を込めて調整していた逸品だ。
「……そうだ。俺にはこの剣がある。エルナがいなくても、俺の武勇さえあれば……!」
彼は戦場へと向かうべく、中庭へ飛び出した。
そこには、すでに数頭のオルトロスが侵入し、屋敷の植栽を食い荒らしていた。
「下等な獣め!このセドリック・ローウェルの錆びにしてくれる!」
彼は魔導剣を構え、発動のキーワードを叫んだ。
「――焔よ、焦土を走れ!」
しかし。
剣の身から溢れ出したのは、勢いのいい炎ではなく、プスンという情けない音と共に立ち昇る、一筋の黒い煙だけだった。
「……は?」
魔導剣は、使い手が魔力を流せば動くという単純なものではない。
内部の魔導回路を常に清浄に保ち、術式を安定させる「調整者」が必要なのだ。
エルナという最高の調整者を失い、五日間放置されたその剣は、ただの「重い鉄の棒」へと成り下がっていた。
ガチリ、とオルトロスの牙が空を切る。
「ひ、ひいいっ!くるな、くるなあああ!」
セドリックは、誇りも名誉も投げ捨てて、尻餅をつきながら後退りした。
かつて戦場を駆けた面影などどこにもない、ただの怯えた小市民の姿がそこにあった。
「セドリック様ぁ!お助けになって!」
屋敷の影から、リリアンが走り寄ってきた。
彼女はいつも通り、薄いドレスを纏い、儚げに涙を流している。
だが、その背後には、家を焼かれ、家族を失い、怒りに狂った領民たちが農具を手に追いかけてきていた。
「この女だ!この女がエルナ様を追い出したんだ!」
「エルナ様さえいれば、うちの息子は死なずに済んだんだ!」
「殺せ!偽物の聖女め!」
「嫌あぁっ!セドリック様、この汚らわしい連中を早く追い払って!」
リリアンがセドリックの腕に縋り付く。
だが、今のセドリックには、彼女を守る余裕など微塵もなかった。
それどころか、自分を窮地に追い込んだ元凶として、リリアンを突き飛ばしたいという衝動に駆られていた。
「お前のせいだ……リリアン、お前が『頭が痛い』なんて言うから、俺は……!」
「……え?セドリック様、今、なんておっしゃいましたの?」
二人が醜い言い争いを始めた、その時だった。
轟音と共に、屋敷の正門が魔獣によって破壊された。
巨大な魔獣の影が、セドリックとリリアンの上に落ちる。
死の恐怖。
その瞬間、セドリックの脳裏に浮かんだのは、いつも穏やかに微笑み、自分のわがままをすべて受け入れてくれていたエルナの姿だった。
(エルナ……エルナ……助けてくれ!俺が悪かった!お前がいなければ、俺は何一つできないんだ!)
心中でどれほど叫ぼうとも、その声が隣国で幸せに暮らす彼女に届くことはない。
セドリックとリリアンは、なだれ込んできた群衆と魔獣から逃れるように、地下の食糧庫へと転がり込んだ。
重い扉を閉め、閂をかける。
外からは、魔獣の咆哮と、略奪を始める領民たちの怒号、そして屋敷が焼け落ちる音が聞こえてくる。
暗く冷たい地下室。
そこにあるのは、わずかな乾パンと、泥のついた水瓶だけ。
かつて豪華な晩餐を「冷めている」と切り捨てた男にふさわしい、最後のご馳走がそこにあった。
「……エルナ……戻ってきてくれ……頼む……」
闇の中で、セドリックは膝を抱えて、子供のように泣きじゃくった。
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