庵の中の壊れ人

秋雨薫

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山咲雅斗(23)

扉の向こう

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 扉の中は真っ暗だった。部屋の蛍光灯で中が少し照らされるかと思ったが、光を一切無視してそこは暗闇だった。普通なら壁の向こうは隣人の部屋があるはずだが、この異様な空間は明らかにそれではなかった。だが、俺は最初から隣人の部屋に繋がる扉だとは思わなかった。何でだろう——やはりこれを夢だと思っているからだろうか。
 何歩か足を踏み入れると、背後でバタンと扉の閉まる音がした。慌てて扉があった場所を触ろうとする。しかし、俺の手は虚しく空を切った。

「え……!」

 扉が、ない。それどころか、壁の感触すらない。扉があったはずの場所を必死に手探りしたが、壁に当たる事もなかった。俺の部屋に繋がる扉が、壁が消えてしまった。俺は、この暗闇に取り残されてしまった。
 どうすればいいんだ?俺はパニック状態に陥る。前も後ろも、変わらずの暗闇。ここが何処なのか、どんな場所なのかも把握できない。こんな中に一人でいて不安にならないわけがない。

「誰か―――!」

 いるはずもないのに、誰かの姿を探す。呼び掛けに反応する声はもちろん聞こえず、ただ俺の声が反響するだけ――かと思った。


「何、呼んだ?」
「!!」

 予想外の返答に、俺はびくりと身体を揺らした。その声が響いたと同時に、辺りの暗闇がなくなり、突然真っ白になった。

「うおっ」

 驚きのあまり、変な声が出てしまった。暗闇は確かに嫌だったが、いきなり真っ白に変わると、目がチカチカする。
 真っ白なのは一瞬だった。ここは古びた和室のような場所だった。広さは俺の部屋と同じくらいだろうか。色褪せた畳に隅にある祖父の家にあったような年季の入った机。それ以外は何もない。違和感があるのは、壁が何処にも無く一面の障子に部屋が囲われている事。
 この違和感のある和室に、俺は気味の悪さを感じた。——気持ち悪い“庵”だ、と俺は無意識に想った。
キョロキョロと視線を迷わせていると――部屋の隅に人影がある事に気が付いた。

「…!」

 男が、いた。黒いコートに黒いブーツ、頭にはシルクハット。身に纏う物が全て漆黒。シルクハットから覗く金の髪と琥珀色の瞳が、やけに鮮やかに見えた。そしてその容姿は異様に整っていて、格好いいというより綺麗が似合っていた。この庵には似合わない風貌の男は薄い唇を上げて笑った。

「ようこそ、俺の庵へ――山咲雅斗さん」

 目の前の人物に、思わず息を飲む。その笑顔は、誰もが見惚れるような魅力があるのに、この空間では異様さが増すだけ。それに、何故だろう。この男は、俺と同じ人間ではない気がした。

「…な、んで……俺の名前……」

 掠れた喉から、やっと言葉を出す。たくさんの疑問の中、やっと発せられたのは、その質問だけだった。

「そんなの、どうでもいいじゃない。君はもっと他に俺に何か言いたい事があるんじゃない?」

 しかし、俺の質問はあっさりとかわされてしまう。他に言いたい事——

「お前は…誰だ…?」

 とりあえず男の素性を聞く。すると男はやれやれ、と言いたげに首をすくめた。

「そうじゃなくて……まぁいいや。とりあえず自己紹介しとこうかな。俺はイオリ。魔法使いやってます」

 そう言って男——イオリは恭しくお辞儀をした。

「魔法使いぃ?」
「そう、魔法使い」

 予想だにしていなかったイオリの魔法使い発言に、俺は恐怖も忘れて素っ頓狂な声を上げた。ズレたシルクハットを調整しながら、イオリはニコニコと笑う。……冗談を言っているようには見えない。だが、イオリの言っている事は、明らかに現実から越えている。
 俺は目眩がした。何だか、夢を見ているみたいだ。………夢?そうだ…これは夢か。さっき、俺もそう考えていたじゃないか。きっと頬をつねれば現実へ………

「いだだだっ!」

 頬のつねられた痛みで、思わず声を上げる。俺……まだつねってないのに!!

「どう? 夢じゃなかった?」

 イオリが楽しそうに尋ねる。その黒い手袋をした手は何かをつねる仕草をしていた。イオリがその仕草を止めると、俺の頬の痛みも消えた。

「……お前がやったのか?」
「俺の事を信じていなくて、夢だと思っているようだったから、さ」

 一気に知らしめる方法がこれってわけね。俺は軽くイオリを睨んだ。
 ……って、ちょっと待てよ?こいつ、何で俺が夢だって思った事知っているんだ?

「雅斗の考えている事が分かるからだよ」

 魔法使いだから俺の考えが分かるって事か…?

「そう。すごいでしょ」

 信じられないけど、やっぱり魔法使い…………って。

「あのさ…さっきから俺の心読まないでくれる?」
「え? あぁ、ごめんね。でも聞こえちゃうんだもん。仕方無いよね?」

 イオリは悪びれた様子もなく、笑った。俺は溜め息を吐いた。何だか最初感じていた緊張感はすっかり無くなっていた。こいつが、ずっと笑顔だからだろうか。少し抜けているからかも。

「失礼だな、俺は抜けてないって」

 イオリは手に持ったシルクハットを弄びながら、少しだけ不満そうに口を尖らせた。変な事考えられないな。きっと、今のも考えも読まれているんだろう。イオリに目を向けると、まるで肯定するかのように微笑んだ。
 今なら何でも聞けるかも。イオリへの警戒が少し解けたので、一番聞きたかった事を口に出す。

「……何で俺をここに呼んだんだ…?」

 魔法使いだか何だか知らないが、そんな現実離れした奴が突然俺の前に現れるわけがない。何かされるのか?……い、命をくれとか?

「呼んだ? 命をくれ?」

 イオリはきょとんとした。

「君が勝手に俺の庵に入って来たんだろ? …それに、君の命にも興味は無いよ」

 死神じゃあるまいし、とイオリは笑った。今度は俺がきょとんとする番だった。

「あんな、入ってくださいと言わんばかりに扉があったら入るだろ、普通」

 しかも俺の部屋に、と心の中で付け足す。するとイオリはああ、と手を叩いた。

「あの扉ね、あるものを抱えている人の前に現れるんだよ」
「あるもの……?」
「欲望……さ」

 俺の心臓が高鳴った。

「よ……欲望……」

 一気に喉が乾く。潤いが欲しくて、俺は唾を飲んだ。

「そう…雅斗には、叶えたい欲望があるんじゃないの?」

 コツコツとイオリがブーツを鳴らしながら近付いてくる。綺麗な笑顔を浮かべて。その笑顔が怖くて、俺は思わず後退りをする。

「そ……れは……」

 俺の欲望、それは金。有り余る程の大金。利恵の笑顔を絶やさない程の金。

「さぁ……雅斗……君の欲望は、何?」

 俺の思考を読んでいるから分かっているくせに、イオリは惚けた振りをして俺に問い掛ける。

「………俺は、俺の願いは」


 ドクンドクンと心臓の音がうるさい。願いを言うのはたやすいはずなのに、この男の前ではできなかった。…イオリに言ったら叶うかもしれない。でも、本当に?悩む俺の後押しをするように、イオリが口を開いた。

「山咲雅斗さん……あなたの願い、お聞きします」

 その言葉のおかげで、疑念や不安が無くなり、思考がクリアになった。

「俺の願いは……金。有り余る程の……大金」

 滑るように俺の口から欲望が漏れる。俺の汚い、けれど振り落とせない欲望。

「金……人間らしい欲望だね、雅人」

 イオリは優しく微笑んだ。気付けば俺とイオリの距離は1メートルくらいになっていた。近くで見ても、やはりイオリの顔は綺麗だった。

「……山咲雅斗さん、あなたの願い、お聞きしました」

 イオリはそう言うと、俺の目の前に手のひらをかざした。

「な…何を」

 俺が言い終える前に、激しい光に襲われる。俺はその眩しい光に耐えきれず、目を閉じた。
 目を閉じる直前、手のひらの向こうで、 イオリが口角を上げているのを見た気がした……

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