庵の中の壊れ人

秋雨薫

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坂本あんな(21)

本物の悪魔

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「やまざき……まさと?」

 ガツンと頭を殴られたような錯覚。聞き覚えがあった。
 山咲雅斗。利恵の恋人だった人。今は彼方と突き合っているから彼とは別れたと思っていたが、イオリの言い方から付き合っているという風に聞こえた。
 ――それならば、殺された恋人とはまさか――
 違う、と私は首を振って嫌な考えを振り払った。きっと同姓同名だ。私は利恵の彼氏の雅斗を良く知っている。優しくて心配りが出来る人だ。そんな人が恋人の利恵を惨殺するわけがない。
 この犯人の山咲雅斗は私のしっている彼ではない――!

 そこで場面が切り代わり、犯人がパトカーに連行されるシーンになる。狂ったように笑い続ける犯人を、両脇の警察官は必死に押えながらパトカーへと向かわせている。そこに映っていたのは紛れも無く私の知っている山咲雅斗だった。
 しかし、私の知る雅斗とは似ても似つかない程の変貌ぶりだった。本当に雅斗なのだろうか。

「少なくとも、あれは君の知る山咲雅斗だよ」

 背後からイオリがそう言った。呆然とテレビを見つめる私を嘲笑うように、アナウンサーは無感情な声で原稿を読み続ける。

『山咲容疑者は死亡した桑原利恵さんと交際関係にあり、警察は逆上からの殺人として調べていく方針です』

 そこで利恵の写真が出て来た。高校の卒業写真の利恵は黒髪で今とは似つかないくらい大人しそうだ。
 ――利恵が、死んだ?
 数日前ファミリーレストランで会った時の事を思い出す。あれが、最期になるなんて。いつの間にか私の足は小刻みに震えていた。

「あ、貴方が雅斗君をあんな風にしたの?」

 雅斗は裏切られた事が分かったとしても逆上して人を殺すタイプではない。どちらかというと泣き寝入りする男だったはず。そんな雅斗をイオリが最悪な方向へ変えた。イオリは残酷な程綺麗な笑顔を見せた。

「そうだよ、彼変わったでしょう? 俺の魔法のお陰であんなに楽しそうに笑えるようになったんだよ」

 イオリの瞳が赤く輝いた。
 雅斗はイオリの魔法でおかしくなった。――じゃあ、私も?私も雅斗君みたいに狂って笑い続けるの?

「い、嫌――」

 私は首を振って後退りをした。そんなの嫌だ。あんな風に狂ってしまうなんて。

「狂いたくない? フフ、あんなはおかしな事を言うね」

 そしてゆっくりと私に歩み寄って来る。一歩一歩、私を狂いの道へ誘おうとしている――!

「人はね」
「いやあああああああああ!!」

 怖くなった私はイオリの言葉を最後まで聞かずに玄関へと走り出した。ドアを乱暴に開けて外へと逃げ出す。
 早くイオリのいない所へ!


「人はね、皆狂っているんだよ。君も……君の近くにいる人も、ね」

 誰もいなくなった部屋で、イオリは怪しげに笑うとナイフで壁をドアの形にくり抜き、そのドアを開けて闇の中へと入っていった――


**


 靴も履かず、化粧もろくにしていない顔を恐怖で引きつらせながら私は闇雲に走る。

(嫌だ、嫌だ、嫌だ! 誰か助けて!)

 いつもなら誰かしら歩いている近所の道は、今は誰もいなかった。しばらく走ってから私は止まって膝に手を当てた。
 体力はあまりないが、結構走ったと思う。ここまで来ればきっと――

「俺から逃げようって? さっきまであんなに俺を求めていたというのに」
「!!」

 私は弾かれたように振り返る。しかし、そこにイオリの姿はない。

「俺からは逃げられないよ」

 ただ、耳元でイオリの囁く声が聞こえる。姿は見えないのに声だけが私に届く。それが私の恐怖心を更に煽った。
 私は耳を押さえて走り出す。

「フフ、無駄な事を」

 耳を押さえているのに手を突き抜けて私の鼓膜にイオリの声が届く。
 怖くてたまらない。ヒイヒイと喉から引きつった音が漏れる。誰かいないのかと人の姿を探すが、そんな時に限って誰ともすれ違わなかった。
 私の脳裏には雅斗の顔がこびりついていた。焦点の合わない瞳でずっと笑っている彼。あんな風に笑いながら利恵を殺したのだろうか。私も、狂って誰かを殺してしまうのだろうか。そんなのは絶対に嫌だ。

「誰か助けて――!」

 悲鳴のように叫ぶ。もう誰でも良い。私を助けてくれるのなら――


「あんな?」


 私を呼ぶ声が背後から聞こえた。私はピタリと足を止めて振り返る。

(貴方が助けてくれるの? お願いだから助けて)

 そう祈りを込めて背後にいる人物を見る。そこにいたのは――

「どうしたんだよ、そんなに走って」
「――ヒッ」

 恐怖で顔が歪む。そこにいたのは――紛れもなくイオリだった。

「あ……あ……」

 私の身体は痙攣のように激しく震えだした。
 癖毛の金髪に琥珀色の瞳。シルクハットを被っておらず、服装も少し違うが全身黒に包まれた姿はまさしくイオリそのもの。

「あんな、何か汗だくだぞ? こんなになるまで走るなんて、何処かでタイムセールでもしているのか?」

 優しく目を細めて私に近付いてくる。私を狂わせる為に。
 私は首を振りながら一歩一歩後退する。

「あんな?」

 それを嘲笑うかのようにイオリは私にどんどんと歩み寄ってくる。

「た、助けて……」

 私の両目から大粒の涙が零れ落ちる。それを見てイオリはうろたえたようだった。

「あんな、どうした? 何かあった?」

 心配した振りをして近付いて来る。私の足は震えてうまく動けない。
 黒い手袋を嵌めていない手が私に伸ばされる。私は逃げ出す事も出来ず、その手をじっと見つめていた。
 そして、ついにイオリの手が私の腕を捕らえた。その瞬間、私の理性がぷつりと音を立てて切れたような気がした。

「いっ……やああああああああああああ!!」

 私はイオリを突き飛ばして思い切り走り出した。

「あんな!?」

 イオリが追いかけてくるのは足音で分かった。
捕まりたくない。私は右に左にと曲ったりして撒こうとするが、後ろの気配は消える処かどんどんと近付いてくる。

「いやだああああ! 来ないでええ!! 誰か、誰か助けてえええ!!」

 恐怖と焦りで金切り声が私の喉から発せられる。私は必死だった。だから――


「あんな!! 危ない!!」


 私が何処へ飛び出したかもよく把握していなかった。
 突然鳴り響くクラクション。それから間もなく右から叩きつけられるような衝撃を受け、私の身体は宙を浮いた。
 何が起きたか分からない。ただ、激しい痛みの中で全てがスローモーションのようにゆっくりと流れる。
 宙を舞う私の瞳に、イオリが映った。イオリは驚いた表情を見せていたが――


 その口角はゆっくりと吊り上がった。


 その邪悪な笑顔を見つめながら私の意識は揺らいで行き、何が起きたかも理解出来ない内に私は自分の血だまりの中で、二度と醒める事の無い眠りに就いた――


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