百合夫婦のドキドキ憲兵日記

ぬるかん1010

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第1話「みおと琴子」

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あの暑い日、僕の恋人は「人間」であることをやめた。





それから時は流れて。




うだるような夏の熱気が、W大のキャンパス全体を包み込んでいた。
講堂の堂々とした佇まいも、灼けつく陽光の中では少し霞んで見える。
蝉時雨が降り注ぐ中、学生たちは皆、思い思いに解放感に満ちた笑顔を見せている。
もうすぐ夏休みだ。
悪夢のようなレポートの山と過去問頼りの前期試験がようやく終わり、冷たいビールを大量に体に流し込んだ翌日、僕はセッションの前のピアノの鍵盤の調整を行っていた。

「みお、そっちの調子はどう?」
サックスのチューニングを終えた琴子が、僕に声をかけてくる。

彼女は少し汗ばんでいたが、その顔は満足感で満たされていた。
楽器を愛する彼女にとって、このサークルでの活動は心から楽しめる時間なのだろう。

「ああ、ばっちりだよ。あとは部長が来ればOKだ。」
僕がそう答えると、琴子はぷうっとむくれた表情を見せた。

「全くあの人本当に時間にルーズなんだから。もうみんな待ちくたびれてるわよ?」

琴子が指差した方には、二十人を超える女生徒が今や今やと、我々のセッションを部室の外で待っている。僕は苦笑した。

「き~みし~ま~センパ~イ!」
指をさされた女生徒たちの黄色い喚声が上がる。

僕と琴子はニコッと笑いながら二人に手を振った。部室中に女生徒の叫び声が響き渡る。

「全く日を追うごとに増えていくなあ、君島姉妹ファンクラブは。学外からも来てるんじゃないか?」
同期の山田氏が冷やかすように言う。

「この前、ゼミの連中から苦情をいただいたよ。二人が部室棟にいるとミーティングにならないってさ。」
「いいじゃないですか。どうせ飲み屋の場所を決めているだけなんですから。」
「はは、そりゃそうだ。あとはマージャン打ってるかだな」

そう言っている間にようやく部長が顔を出した。

「いや~悪いね、教授に追加のレポート出さないと留年だって脅されてね。」

「部長~?それこの前も言ってましたよ?一体いくつ追加のレポート出さないと気が済まないんです?」
琴子が意地悪くニヤける。

「んん?いくつだっけ・・?忘れちゃったよ~」
「ダメだ、こりゃ、次行ってみよ~」

部員の苦笑と共にセッションの準備が始まる。
ここはW大の部室棟にあるジャズサークルの部室。
部員は30名はいるはずだが、幽霊部員だったり、追試かマージャンか、家賃の支払いに追われており顔ぶれはあまり一定しない。
それでもなぜか行くたびにセッションができるという変な環境だった。

今日の演目は「STRAIGHT NO CHASER」。
琴子のサックスの腕が映えるセロニアス・モンクの名曲だ。

セッションが始まる。

最初の重厚な和音を僕が奏でると、琴子のサックスが低くうねるようなメロディを紡ぎ始める。
その音色は、伊美島の深い森の奥で、霧に包まれた湖面を滑るように漂う、そんな情景を思わせた。
彼女が吹き出すジャズは、その場にいる誰よりも熱く、そして何よりも哀しかった。
部室の前にいる女生徒達は、その音色に息をのんだ。

しかし彼女たちは知らない。
琴子のサックスが奏でる音の底に、どれほどの絶望と、どれほどの死闘が隠されているかを。
そして、僕が弾くピアノの旋律が、その哀しみを包み込み、そっと光を当てようとしていることを。
僕は演奏中にもかかわらず、ほんの2年前のことを思い出していた。

あの島・・「伊美島」で囚われた長い長い夏休み。
死臭と狂気と渇きに満ちた日々。
僕たちは「死者の世界」に取り込まれ、世界も自身も「反転」していく中で、必死にあがき、「今日」を手に入れた。

僕と琴子はあの島で愛し合い、一つとなったのだ。

僕は時折、琴子と視線を交わす。彼女の瞳の奥に、もうあの日の狂気はない。
ただサックスを演奏できる喜びと穏やかな光があった。僕は安堵し、ピアノの音に、より深い思いを込めた。

セッションが終わると、部室は拍手と歓声に包まれた。

「うわあ、琴子さん、今日もすごい!」「みお先輩も!もう、本当にかっこいい!」

女生徒たちの黄色い声が飛び交う。
だが、僕たち二人は、ただ静かに笑い合った。
この歓声も、称賛も、本当の僕たちを知らない人たちのものだ。
それでも、この日常が、僕たちにとってどれほど尊いものかを知っている。

琴子が僕に寄りかかってきた。少し汗ばんだ彼女の体が、僕の腕にそっと触れる。

「ねぇ、みお。やっぱり音楽っていいね。この時間がずっと続けばいいのに」
そうつぶやく彼女の言葉は、まるで祈りのようだった。


「ハイ、みんなお疲れ!楽器の清掃が終わったら集合!ウイスキーが待ってるぞ!」
メンバーの間から歓声が上がる。

セッションが終わった僕たちの前に、あっという間に水と、氷とウイスキーグラスが並べられる。
今日のおつまみは渋く「ポン菓子」だ。

「ハイ、みお君、琴子君お疲れ!今日のご褒美です!」
部長が慣れた手つきで僕と琴子のウイスキーグラスにバーボンを注いでいく。僕はその銘柄を見て驚いた。

「アーリータイムズ」!?

旧アメリカ合衆国のケンタッキーで製造されていたまろやかな味わいが売りのバーボンだった。
(なお、当時のアメリカではバーボンの基準を満たさず「ケンタッキーストレートウイスキー」として販売されていたが、日本のバーボンの基準は満たしているというよく分からない製品だった)
どう考えても現在・・「大厄災」から40年以上が経過している2070年では入手不可能な一品である。

なぜなら製造国そのものがもう「存在しない」のだから。

僕は人類最後のアーリータイムズかもしれない琥珀色の液体を口に含んだ。
芳醇な香りが鼻腔に広がる。一体どうやったらこの部長はこんな物を入手できるのだろうか?

「いや~、君島姉妹がいるとセッションにも力が入るよね~。オーディエンスの熱が違うよ、熱が!」
山田氏が楽しそうに言う。

「山田君、今日は彼女さん来てないんですか?何人目だか忘れましたけど。」
琴子がからかうように言う。

「いや~、あの後色々あってね~、ちょっと・・。」
「ちょっとって何だ、何だ~?」
部室の中にメンバーのはやし立てる声が響く。僕は苦笑しながらそんなみんなの姿を眺めていた。

夢の様な時間だった。

ウイスキーの琥珀色の液体が、グラスの中で静かに揺れている。
部長が注いでくれた「アーリータイムズ」は、甘くまろやかで、僕の心に深く染み渡っていった。
この銘柄が、もうこの世に存在しないことなど、僕の心にはどうでもよかった。
目の前で笑い、語り合う仲間たち。この穏やかな時間が、僕にとって何よりも大切なものだった。

伊美島を脱出して、一昨年の1月に海軍の船に保護されてから、あっという間に1年半が経った。
僕と琴子が現世に戻ってまずまっさきにやったこと。

それは二人が「家族」になることだった。

僕たちは伊邪那岐の前で、永遠に共に生きることを誓った。

日本の法令上、同性は夫婦にはなれないので「姉妹」として戸籍を設定したがそんな事は些細な事だった。
神前での誓いだけが真実だ。
そして(受験前に憲兵隊と一悶着あったが)二人は晴れてW大に合格。
キャンパスライフが始まった。

大学に入って特に痛感したことが、いかに今までの自分が頭でっかちで視野が狭かったかということだ。
世の中には驚異の奇人変人がひしめいている。
もっとも僕の愛する琴子は意外に順応し、学内はおろか学外にも男女問わず琴子のファンがいる有様だ。
(かくいう僕もよくラブレターを貰う。もっとも僕の場合は女性からのみだが。))

部室の中の話題は山田氏の彼女の話から、部長のウイスキーの蘊蔵話、琴子の毒舌映画評論と話が弾んでいき、そして夜は更けた。

「よ~し、じゃあ今日はこれで解散!部室の鍵ちゃんとかけとけよ~、最近自治会が厳しいからな~」
「この前かけ忘れた張本人が何言ってんですか~?」「ウルセ~!」

笑い声と共に皆が部室を出ていく。
僕と琴子は横に並んで部室棟を出た。
閉門時間なので色々な建物から学生が出てくる。

途中、眼鏡をかけ、ズボンの中にシャツを入れている暗い表情の男たちが立て看板の前で、何やら議論していた。
チラリと見ると立て看板に「●●君虐殺を許すな!W大学生総抗議集会!」と書いてある。

「みお、そういうの見ないの。興味があると思われて絡まれるよ」
琴子に注意される。

「そうだね・・。」
僕は嘆息した。僕と琴子はある理由で絡まれると、とても不味い事情があるのだ。

学校の門を出ると、大学のボランティアサークルが炊き出しの活動をしていた。
もう夜は更けているのに驚くべき人数が炊き出しに並んでいる。
皆一様に無言で下を向いて空腹を耐えていた。

キャンパスの中と外でこうも世界が違うものか、と日々思う。
さっき僕たちが口にしたアーリータイムズの一杯でここに並んでいる全員の食事が賄えるだろう。

僕はサークルの募金箱に財布から千円札を取り出して入れた。

「私達の晩御飯代・・。」琴子がつぶやく。
「今日は家で食べよう。昨日の煮物がまだ残っていたろ?」
「そうだね・・。」
僕たちはそのまま高田馬場の自宅であるアパートまで歩いていった。

西暦2070年、日本、いや「新日本帝国」は複合的な危機に陥っていた。
増大する失業者、食料不足、極端な貧富の格差、無制限に増える難民。
それを燃料として国内では反政府勢力「セクト」のテロが頻発、
今では学術界や中央官庁からも逮捕者が出る始末だ。

そして増大する一方の「怪異」の脅威。
近年はそれまで人間だった者が突然怪異に変異し他の人間を捕食する事件が多発していた。
原因も対処法も全くの不明。社会の信頼関係は急速に崩壊していった。

そう……僕と琴子は伊美島を出ても全くもって安全ではなかったのである。

(続く)
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