二時二十一分、雨。

ポテトバサー

文字の大きさ
上 下
1 / 1

二時二十一分、雨。

しおりを挟む
 小粒だった。初めは小さな小さな一粒だった。だが、ふと気が付けば、どしゃ降りになっている。

 深夜。集合住宅の狭い部屋。散らかっている床に比べ、いくらかマシなベッドの上。そこで男は眠っていた。
 眠りに沈む男は、地震でもないかぎり起きそうにもなかった。しかし、しかしだ。空から落ちてきた一滴ひとしずくが、ベランダの冷たい金属製の手すりに身を打ち付けたわずかな音で、男は静かに目を覚ました。
 薄く開いた男の目に、ベランダへと続くカーテンの閉まった窓が映る。いつもの窓。サッシに汚れがたまっている窓。金持ちが遊び呆け、クズが闊歩する街が見える窓。その窓に雨が当たっている。
 男は虚ろな目を時計にやった。
「二時…… 二十…… 一分……」
 ゆっくりと呟いた男は、眠りに戻ろうと目を閉じた。だが、睡魔は忽然と姿を消しており、代わりに妙な胸騒ぎが現れた。再び目を開けた男は半身を起こすと、窓のほうを見つめ続けた。
 優しく響いていた雨音は、いつの間にか激しくなっていた。窓を割ってやる、そんな意志を雨が持っているかと思わせるほど、ひどく暴力的に。
 おもむろにベッドから起き上がった男。その目に虚ろなものは無く、一歩一歩と窓に向かって歩き始める。あまりに一方的な雨の強さに、ほんの少しの恐怖心を抱きながらも、一歩一歩と窓に近づいていく。
 窓の前まで来た男は、一度、唾を飲み込むと、胸騒ぎに逆らうことなくカーテンを勢いよく開けた。
「…………………えっ?」
 カーテンからゆっくりと手を放した男は、自分の目と耳を疑った。自身の器官に裏切られたのかと、男は窓を開けてベランダへと出ていった。
 靴下越しにベランダの床の冷たさを感じ、外に出たと実感できる新鮮な空気に包まれる。男に起きた物理的な事といえばそれだけ。そう、雨は降っていなかった。窓を割ろうとしていたあの暴力的な雨は、睡魔同様、忽然と姿を消していた。
 床、手すり、近くの家々、遠くの街、どれも乾いていた。彼方を見渡しても、雨雲のようなものは何一つ見当たらず、夜空を見上げてみても、幾つかの星が鈍く輝いているだけだった。
 寝ぼけていたのか。夢を見ていたのか。そんな間抜けな考えなど男の頭の中にはなかった。雨は降っていた。カーテンを開けるその瞬間まで、確かに降っていた。
 納得のいかない男だったが、あと数時間もすれば朝が来る。仕事に行かなければならない。雨が降っていようがいまいが、疲れた体のために眠らなければならない。
 自分の小さな使命を思い出した男が部屋の中に入ったその時だった。背後から音が聞こえてきた。男は振り返る。
「……雨、雨だ」
 男は再び目と耳とを疑った。そして二度も裏切られるのはゴメンだと、男は外へ手を伸ばす。すると、チクチクと痛みを感じるほどの雨が、さも当然のように手のひらに当たり続ける。
 男はしばらくの間、雨に打たれ続ける手のひらを見つめていた。生気を失っていくかのように冷たくなっていく手。感覚の鈍った手を何の気なしに目の高さまで上げた時だった。
 男の手は力なくぶら下がった。
「…………………………」
 雨の中、遠く一点を見つめ始めた男は、何かに気が付いたようだった。聞こえるのか、見えるのか、どう感じるのかは分からない。ただ、この降りしきる雨の中で男は気づき、妙な胸騒ぎはみるみるうちに増していった。
 男は窓を開けたまま、靴も履かずに家を出た。おぼつかない足取りで路地を抜けていったが、大通りに出る頃には駆けていた。
 汚い川に架かる橋を超え、時折、車のライトが照らす暗い道を男は走り続ける。より暴力をふるう雨が、視界と体温を奪っていっても男は止まらない。嗚咽を漏らし、涙を流しながらも男は走り続ける。不安や焦り、恐怖や怒り、複雑に混じった感情が男を突き動かしていた。いや、支配していた。
 そして男は、雨の中へと消えていった。最後に一つ、声にならない叫び声を上げて。

 のちに人々は知ることになる。彼が最初の一人だったということを。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...