水無瀬くんと御子柴くん

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二年生三学期 編

1:水無瀬くんと御子柴くん

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 ピアニストの手は美しい。

 それは歴史だけ古い市立高校の、ひなびた屋上にあっても——そして購買の安いカレーパンを持っていても、変わらない事実だった。

「なんだよ、そんなにじろじろ見て」

 手の持ち主が、俺の視線に感付いてにやにやと笑う。俺は慌ててサンドウィッチにかじった。

「別に」

 烏の濡れ羽色とでも言うのだろうか、艶やかな黒髪。透き通るような白い肌。細い輪郭に収まる眉も目も鼻梁も唇も、緻密に計算されたかのように形良く収まっている。

 美形過ぎる天才高校生ピアニスト、それが御子柴涼馬みこしばりょうまの肩書きだった。はっきり言って設定盛りすぎである。

「俺に見惚れたんだろ、水無瀬」

「寒いヤツ」

 俺がつっけんどんに返した途端、屋上に一月の北風が吹き抜けた。思わず肩を震わせた俺を見て、御子柴は無邪気な子供のように笑った。

 御子柴と俺が屋上で昼飯を一緒に食べるようになって、もう十ヶ月経つ。

 二年生で同じクラスになり、かつ出席番号が続いていた。仲の良い奴らはクラスが離れちまったし、なんかこいつ有名人だし、みたいな感じで俺から声を掛けてみた。

 ……始まりはただそれだけだったのに。

「あーあ、やだなぁ。来週から遠征だ」

 ひとしきり笑った御子柴は、屋上のフェンスに寄りかかり、天を仰いだ。真冬の空は青く澄んでいて、雲一つ見当たらない。

 来週もこんな風に晴れるかは分からないが、御子柴は機上の人となって、あの空を渡り、遠い外国へ往く。そして一週間は戻って来ない。

 学校側からは特別待遇をしてもらっているものの、出席日数は心許ないという。なのに成績は学年上位なのだから手に負えない。

 完璧な人間を目の当たりにすると、凡人は嫉妬も覚えず、ただただ感嘆するしかないのだと、俺は御子柴を見て知った。

「寂しい?」

 俺はすぐに否定しようとして——できなかった。

 自然と顔が俯く。視線は自分の上履きのつま先辺りを彷徨っていた。

 御子柴が日本を不在にするのは当たり前だ。もう何度目かも分からないほどだ。なのに、慣れない。それどころか回数を重ねる度に、胸が強く強く締め付けられた。

 一向に答えない俺に、御子柴が不意に言った。

「あ」

「……なんだよ」

「マヨネーズ、ついてんぞ」

 え、と声を漏らし、我に返って、口元を拭おうとする。それを阻止したのは御子柴だった。

 俺の手首を掴んで引き寄せたかと思うと、口を大きく開けて、噛みつくように口づけてきた。

 油断していた俺は、あっという間に舌の侵入を許した。まるで別の生き物のように器用に動く御子柴の舌は、熱を孕んで俺の口内を蹂躙する。

 普段なら突き飛ばすところを、何故か俺は御子柴の首に腕を回した。溺れる者が藁をも掴む、そんな心境で。

 誰が来るとも分からない、いつ見られるとも分からない。首筋を焦がす羞恥心とそれを上回る甘い背徳感が、頭の芯をぼうっと熱くさせる。俺の平衡感覚が、御子柴の体の重心に負けそうになった頃、そっと後頭部に手が添えられた。

 気がつけば、俺はゆっくりと屋上の床に手を突いていた。ようやく唇が離れ、とろりとした銀色の糸だけが互いを繋ぐ。

「お土産、なにがいい?」

 ここでそれを聞くか。そんなこと急に言われたって、こんなぼんやりとした頭じゃ分かるわけない。

「知るか……」

 表情を見られたくなくて、思わず顔を背けると、露わになった首筋を不意に柔く吸われた。

「う——」

「じゃあ、俺がいいって言って」

「は、ぁ……?」

「お土産は、俺がいいって」

 目の奥がかあっと潤みを帯びる。そうだよ、俺はお前に帰ってきて欲しいよ。一刻も早く、無事な姿を見せて欲しい。

「うるさい、ばか」

 腕で目元を覆った俺の上に、なんとも愛おしそうな苦笑が降ってきた。

「可愛いやつ」

 ぎゅうっと力一杯抱きしめられると、胸が御子柴の匂いでいっぱいになる。俺は憎い大空を見上げて、せめて今だけは離さないように御子柴の背に腕を回した。
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