おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

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23.ひのみかど(八)



 同刻、右大臣邸では右大臣が自慢の池を眺めながら先程から幾度となく深いため息を繰り返していた。悩みの種が、心深くに根づいてしまっているのだろうか。彼の眉間には悩みと同じ深さのしわが刻まれて、肉づきのいい顔には険しい表情が張りついている。右大臣の目下の悩みといえばただ一つ。内裏にいる一姫のことにほかならない。

 弘徽殿様が帝に召されておらぬそうな。

 これは、このところ宮中でよく耳にするようになった噂だ。一姫は、妃たちの中で誰よりも早く入内し、長く帝の寵を独占してきた。

 時はたてども、帝はほかに目もくれないご様子。心配も焦りも必要はなく、やがて一姫が皇子を産みまいらせたあかつきには、帝が必ずやその皇子を東宮にしてくださる。右大臣はそう思っていた。

 国が建ち永年。すめらぎの権威とじんの権力は、もつれた糸のようにきつく絡み合って今日にいたっている。権力は皇の権威なくしては得られず、皇の権威もまた臣の権力なくしては保たれない。

 関白の座を狙う右大臣にとって、一姫の威光にかげりが見えるは由々しき事態であった。

 今、東宮に立つとすれば、先帝より親王に叙された八条宮しかいない。その八条宮が、大納言の娘を正室にしたことも右大臣の焦燥に拍車をかけている。

 大納言へのおそれはない。大納言は権力に無欲で、ひたすら主上につくすだけの善良な男だ。問題はそこではく、八条宮が東宮になれば、八条宮と薄縁の我が身の先行きは憐れ。関白の座は遠のいて、右大臣の地位さえも危うくなるのではないか。

 あと数日もすれば、四姫が帝の尚侍として内裏にあがる。姉妹で寵を争うはいささか外聞が悪いが、前例はある。右大臣は、こめかみをおさえて深いため息をついた。

 そしてこの夜、内裏に異変が起きる。

 弘徽殿女御は、心して帝をお待ち申しあげた。しかし、いつもならとっくにお越しになっているはずの刻を過ぎてもお渡りがない。純白の夜衣に大人しい色目の重ねを着て、御座にじっと座る彼女の手元を無情な時間が過ぎてゆく。

 どっぷりと夜がふけたころ、弘徽殿を訪れたのは帝ではなく典侍だった。入念に化粧を施し、いつにも増して美しい弘徽殿女御に、頭を低くした典侍が淡々と告げる。


「帝は、麗景殿へお渡りになりました。今宵はもうお休みくださいませ」





 ❖◇❖





 その日は、引明けから冷たい秋雨が降っていた。

 観月の夜以降、沙那は主寝殿で八条宮と起居を共にしている。八条宮が邸にいる間、四六時中その姿が視界に入るので、はじめはいろいろと落ち着かないことも多かったのだが、日がたつうちに慣れてきた。

 今日は朝議が終わるころに参内せよと帝からおおせつかっているそうで、八条宮は単衣に指貫、それに袿を数枚重ねて羽織っただけの軽い装いで横笛の手入れに勤しんでいる。

 帝のおっしゃる「朝議が終わるころに」というのは、昼を過ぎてからゆっくりと参内しなさいという気遣いらしい。

 歌口と七つの指孔を一つ一つ丁寧に布で拭く八条宮の表情は真剣そのものだ。その傍で、時香盤からいい香りの白い煙が一筋立ちのぼる。それはお香の燃えた長さで時を計るもので、木製の箱に灰を敷き、その上に八条宮が調合した抹香が畑の畝のように盛られている。


「随分、年季の入った笛ですね」


 文机の上に並んだ三つの横笛の一つをさして、沙那が文机を挟んで真向いから八条宮に話しかける。すると八条宮は、手に持っていた真新しい横笛を文机に置いて、その古い笛を取った。


「これはね、初めて笛を習ったときに使っていたものなんだ。年端もいかない子供のころに新調していただいて長く使ったが、今では音が出なくなってしまって使い物にならない」

「思い出のある笛なのですね。依言様のことですもの、すぐに上達なさったのでしょう?」

「そうでもないよ。笛を指南してくださった式部卿宮様からは、数えきれないほど叱られた。覚えが悪いとね」

「式部卿宮様って、夏姫のお父君様ですか?」

「うん。小さいころは、笛を習いに毎日のように式部卿宮様の邸へ行った。普段は温厚なのに、笛を握ると人が変わったように厳しい方でね。正直、式部卿宮様の邸に行くのが嫌だったし、笛もあまり好きではなかった」


 遠い昔を懐かしむように、八条宮が笑みを浮かべる。沙那は、いい機会だと話を切りだした。


「依言様に、夏姫のことでご相談があります」

「相談?」

「はい。もうすぐ冬の更衣の時期ですから、菊見の宴に着用する衣装を選ぶついでに冬の衣もそろえようと思っています」

「それはいい考えだね」

「それで、夏のお邸にも新年の重ねをお届けしたいのですが、わたしが夏姫の衣装を選んでさしあげてもよろしいですか?」


 八条宮が、少し驚いた顔をしたあと笛を文机に置く。そして、文机を横にのけると、沙那とひざを突き合わせるように座り直した。

 周りにいた女房たちが、物音をたてないよう手を止めて二人の会話に配慮する。

 八条宮は、沙那の両手を握ってしばらくその手を見つめた。夜の都は、昼間と違ってとても物騒で、ただでさえ貴族の娘が夜歩きするのは相当な勇気が必要だったはずだ。先日聞いた火事の話から察するに、沙那はどれほどの恐怖と戦いながら夜の都に出て、百夜通いをしていたのだろう。


 ――その間、俺がしていたことといえば。


 恥ずかしくてとても口にできない。

 火事の話を聞いたとき、口には出さなかったが、邸に火を放ち母親の命を奪った強盗が憎くはないのだろうかと疑問に思った。しかし、沙那の性格や日頃の言動を考えると、恨みや憎しみよりも、母親を思慕し思いやる気持ちのほうが勝っているように感じる。

 一方の俺はどうだろうと、八条宮は考えた。夏姫を奪った運命を呪うように生きてきて、いまだにその死にこだわっている。それがとても罪深く思える。


「依言様?」


 心配するように呼ばれて、視線を手から沙那の顔に向ける。沙那の黒い目は澄んでいて、嫌な感情は一切見て取れない。沙那の純粋で優しい気持ちに応えるために、俺はどうするべきか。答えは明快で、しかし簡単ではない。それでも、目の前にいる沙那が大事だ、と八条宮は思う。

 沙那のことだから、夏の話をした日からずっと考えていたのだろう。過去を忘れ去って決別するわけではないが、いつまでも引きずって沙那を巻き込むのは間違っている。沙那に、ほかのひとへの気遣いをさせたくない。


「俺の妻は、あなただけだよ」


 八条宮の言葉に、沙那の目が大きくなる。


「だから、その気遣いだけで十分だ」

「でも、夏姫だけが取り残されるみたいでかわいそうです」

「そうならないように、菊見の宴が終わったら日を選んで夏の遺品を供養しようと思う。帝にもそのようにお話しして許可をいただこう」

「どうしてですか? 大切な思い出なのでしょう?」


 沙那が、必死の形相で身を乗り出す。


「俺の未練で、いつまでも夏をこの世に縛りつけるのはよくないと思ったから。あなたが嫌でなければ、俺と一緒に供養してくれないか?」

「わたしへの配慮でしたら、お気遣いなさらないでください。そのようなつもりでご相談したのではないのです」

「違うよ、沙那」


 でも、と言いかけて、沙那は言葉を飲み込んだ。


「……よろしいのですか?」


 うん、と八条宮が頷く。そのとき、時香盤から太い煙があがった。辺りに、一際強く伽羅の香りが漂う。御所へ行く支度をする時間だ。


「今日は玄幽を呼んでいるから、よく診てもらって。あとは、菊見の宴の衣装を決めておくように」


 沙那にほほえんで、八条宮が立ちあがる。それから八条宮は、女房たちと身支度にとりかかった。今日は私的に中殿を訪ねるだけだから、と八条宮は正装ではなく布袴ほうこの装いに着替える。これは、束帯の袴を指貫に代えた礼装である。

 着替えが終わると、今度は髪を結い直して纓を垂れた冠を頭に載せる。あとは懐紙をたたんだ帖紙たとうを袍の懐に挟んで象牙の笏を持てば、身支度は完了だ。

 支度を終えた八条宮が、主寝殿を出て車寄せに向かう。沙那も女房たちと一緒に車寄せまで見送りに出た。空はどんよりと灰色の雲に覆われて、秋雨が降り続いていた。


「依言様」


 沙那は、牛車に乗り込もうとする八条宮を呼び止める。


「どうしたの?」


 八条宮が、振り返って目線を合わせるように身を低くした。


「依言様の笛を、わたしも聴いてみたいです」

「菊見の宴で聴けると思うよ。帝が俺の笛の音を気に入ってくださっているから」

「本当ですか?」


 沙那の表情がぱっと明るくなったので、八条宮の顔もつられるようにゆるむ。


「では、行ってくる」

「あ、依言様。待ってください」


 八条宮に一歩近づいて、沙那が声をひそめる。


「今日も、早くお帰りくださいね」


 少しうつむいてもじもじとする沙那がかわいくて、八条宮は柄にもなく頬を赤く染めて御所へ向かったのだった。

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