おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

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25.哀れしる空(二)



 物悲しそうに眉尻をさげる女御に、八条宮は一段と顔をしかめた。

 胸の内がしんしんと冷えていく。式部卿宮邸で知り合って、言葉で伝えられたことはないが、好意を寄せられているのはそれとなく察していた。しかし、気づかないふりをした。

 右大臣家の一の姫として生を受け、多くのものに恵まれて大事に育てられたのだろう。女御は、子どものころからなんでも思いどおりにならないと気がすまず、ほかを思いやる親切心の欠片もない冷酷な性格だったからだ。

 遊んでいる最中に夏姫の具合が悪くなると、女御は不満をあらわに「つまらない」と吐き捨てて局を出ていくような姫だった。胸の苦しさに耐えながら、姿の見えなくなった従姉に謝罪の言葉を繰り返す夏姫の気持ちを、女御は一度も思いやったことはないのだろう。


「口を慎め。帝の妃でありながら、無礼にも程があるぞ」

「本当にひどい人ね、あなたは。昔も今も、わたくしを少しも受け入れてくださらないのだもの」

「いい加減にしろ」


 八条宮が語気を強めると、女御は美しい貌を真顔に戻した。


「こうしてあなたと二人で話す機会なんて滅多にないから、教えてさしあげましょうか」

「なんの話だ」

「あなたが知りたいことよ」

「俺が知りたいこと?」

「あの夜、淑景舎に命婦を遣わしたの。夏姫ったら、顔なじみの彼女をまったく警戒せずにわたくしからのお祝いを受け取ってくれたみたい。八条院へさしあげたものより少し強い、あれは夏姫が好きな白玉餅だったかしら?」


 青白い稲光が強く閃いて、耳をつんざくような雷鳴に地が揺れる。八条宮は絶句して強い衝撃に精一杯耐えた。


「驚くほどのこと? わたくしの仕業だと思うからこそ、こそこそと人の目を盗んで命婦のもとへ通っていたのでしょうに。でも、命婦からあの夜についてなにも聞き出せなかった。違う?」


 女御が檜扇を閉じて優越の笑みを返す。刹那、八条宮の頭にかっと血がのぼった。


「やはり、お前が夏を……、夏を害したのだな?」

「どうせ、長くは生きられない運命だったのよ。でも、少しだけ後悔しているわ。あなたの心に、死んだあの子が居座ってしまったみたいだから。本当に厄介な子」


 床に転がった食べかけの菓子、雨の匂い、人の声、喉の痛々しい傷、荷車に乗せられた夏姫の遺体。加冠の儀を終えた日の夜の断片的な映像が八条宮の脳裏を流れ、弾けるように割れて頭の中で飛び散る。そして、なにを考えるより先に、自分では制御できない狂気が体を支配した。

 八条宮は、持っていた象牙の笏を置いて懐中の短刀を探る。そのとき、ざざあっと激しい雨音を伴って、湿った冷風が中殿の御座を吹き抜けた。

 雨の香りにまぎれて、かすかなお香の匂いが八条宮の鼻をかすめる。

 八条宮は、普段から自分で調合をするほどお香に精通している。上品で、さわやかに鼻孔の奥をくすぐるこの香りは、主上の御引直衣に焚き染められた沈香――。

 八条宮は懐中から手を抜くと、どうにか呼吸を整え、暴れる狂気をぐっと押し殺すように右手に力を込めて笏を握る。そして、努めて平静を装った。


「そのような軽口をたたいてもいいのか? 特に宮中にはあちらこちらに目や耳がある。俺にそう忠告したのはほかの誰でもない、女御殿だ」

「あら、わたくしの忠告を覚えていてくださったの。でも、帝が人払いしたこの部屋に、耳や目があると思う? それに、夏姫の一件はとっくに片がついていて、証拠はなにも残っていないわ。あなただって、手掛かりの一つも得られなかったでしょう? 今さら、一体誰がわたしくしを罪に問えるの?」


 雨の匂いのせいか、女御は沈香の香りに気がつかないらしい。


「想像を絶する卑劣な女だな」

「あなたのためにしたのよ。順序は違ってしまったけれど、あなたはいずれ帝位に就く方ですもの。あなたに必要なのは、先のない宮家の姫でも影響力のない大納言の姫でもない。ちゃんとした後ろ盾を持つ、わたくしのような妻ではなくて?」

「……そうか。だから、俺たちは分かり合えず、相容れないのだろう。俺は、一度も帝位を望んだことはない」


 八条宮は、軽蔑と怒りが入り混じったまなざしを女御に向ける。沈香が香らなければ、目の前にいる女を殺していたかもしれない。それほど激しい怒りと憎しみが、八条宮の右手には握られていた。

 再び、中殿の御座がしんと静まる。しばらくして、待たせたねと帝が御簾をくぐって御座に戻ってきた。


「雨が廂にまで打ち込んでいる。当分、やみそうにない」


 帝が横を通り過ぎて、先程よりもはっきりとした沈香が香る。


 ――間違いない。主上は近くにおられたのだ。


 八条宮は、少し頭を低くして帝への敬意を示す。繧繝縁の厚畳に着座した帝が、懐から折りたたまれた書状を取りだした。


「依言、傍に寄りなさい」


 帝が、御前に座り直した八条宮に書状を手渡そうとする。しかし、八条宮の手は笏を握ったままそれを受け取ろうとしない。よほど強く握っているのか、八条宮の手は小さく震えて皮膚の色が変色していた。それに気づいた帝がその手を取り、笏を引き抜いて代わりに書状を持たせる。


「菊見の宴の招待だ。これを渡したくてそなたを呼んだのに、私としたことが寝所に置き忘れていた」


 帝が、わざと自嘲して朗らかに笑い声を立てた。


「あ……、ありがとうございます」

「最近、そなたのつき合いが悪くなったと皆がぼやいている。浮いた話も聞かなくなったし、大納言の娘を大事にしているようだね」

「はい。俺にはもったいない、優れた人ですから」

「そうか。そなたが良縁を得て、私も安心した。菊見の宴で会するのが楽しみだ」


 帝の慈愛のこもった柔和な笑みに、八条宮の手のこわばりが解けてすっと力が抜ける。燃えあがるような怒りがいくらか落ち着いて、頭が冷静を取り戻した。

 宮中には、あちらこちらに目や耳がある。もしもそれが主上の目や耳だったなら、いかに弘徽殿女御といえども言い逃れはできないだろう。もちろん、いつから近くにおられたのか、話がその耳に届いていたのかは定かではないが。

 八条宮は、書状を丁寧に懐中に忍ばせると、いつもの調子で帝に語りかけた。


「ああそうでした、主上。婚礼の前日、八条院に菓子を届けてくださったそうですね。かさねがさねお心遣い賜り、痛み入ります」


 帝が、はてと訝しむように眉根を寄せて脇息に左肘をつく。


「そなたの婚礼に際しては、事前に祝いの品を八条院へ贈ったはずだ。そのほかは覚えがない。いくらかわいい弟宮とはいえ、私が宮中の慣例をやぶることはないからね」


 帝らしい真面目な答えに、八条宮は納得する。


「それは、ご無礼つかまつりました。俺が、うっかり女房からの報告を聞き違えたのでしょう。御所から……、いえ、帝と弘徽殿女御からだと言われたので、てっきり主上からの祝いだと思い込んでしまったようです。俺にも妻にも、弘徽殿から祝いをいただくような心当たりがないものですから」

「弘徽殿だと? それこそ、なにかの間違いではないのか?」

「いいえ。菓子は、杜若が描かれた朱塗りの箱に入っておりました」


 杜若と聞いた帝の顔が凍りついて、同時に女御の顔が蒼白になる。帝が顔を横に向けて、鳳凰の檜扇に隠れた女御の表情をうかがった。


「依言」

「はい、主上」

「宴の当日は、雷鳴壺を休息所として使うといい。今から雷鳴壺に行って、女官らにそのように申しつけよ」

「よろしいのですか?」

「よい」

「それでは、そのようにいたします」


 八条宮が、深々と一礼して御前を辞す。八条宮が去った御座で、帝は女御に向かって声を低くした。


「そなたと依言の間に、幼少時からの縁があるのは承知していたが。どうやら、ただならぬ思いがあるようだね。先日の雷鳴壺での出来事は、私の見間違いなどではなさそうだ」

「違うのです。あれは、ごっ、誤解でございます」

「誤解?」


 帝が、鼻で笑って女御の檜扇を取りあげる。雷鳴壺で、八条宮はこれに見覚えはないと即座に答えた。


 ――では、凛子はどうか。


 それを確かめたくて、帝はわざわざ朝議が終わったあとに八条宮を呼んだ。

 壁で隔たっているのに、隣の塗籠にはどういうわけか御座の話し声や音がよく聞こえる。長く中殿で起居なされた先帝によれば、御座と塗籠の狭間には風の通り道があるという。


「我が、君……」


 姿は弘徽殿女御なのに、雨音にかき消されてしまうほど小さな声は、まるで別人のように弱々しい。


 ――かわいそうに。


 言葉にすれば憐憫の情のようだが、これは憐みでも同情でもない。帝は、塗籠に流れてきた八条宮と女御の会話を頭の中で再生する。


 ――順序が違っただと?


 つまり、凛子は依言こそが帝位に就くべきだと思っているのか? 日宮が東宮に決まったときの気持ちを、包み隠さず申してみよ。害したとは、どういう意味だ。

 女御を問い詰めたい衝動をぐっとこらえて、帝は人さし指の先で檜扇に描かれた鳳凰の輪郭をなぞった。


「月読尊が好きか?」

「なにを、なにをおおせになるのです」


 青ざめた女御が、目に涙をためてわなわなと唇を震わす。

 帝は、穏やかな顔で女御の檜扇を床に投げつけた。床にたたきつけられた衝撃で、要の留め具がはずれて檜の薄板がばらばらに散る。檜扇に描かれた高貴な鳳凰は、無残にも羽をもぎ取られたような姿になってしまった。 

 温厚な帝が初めて見せた怒りに、弘徽殿女御はなす術なく呆然とそこに座っているしかない。

 雨脚がますます強くなって、雨が廂に容赦なく打ち込む。典侍や尚侍、そして女官らが駆けつけて格子をおろし始めた。それにかまわず、帝は女御の手首をつかんで引き寄せる。そして、女御のおびえた目を射抜くように顔を近づけた。


「よいか、帝位は私の血筋に継がれるべきものだ」

「は……、はい。そのとおりでございます、我が君」

「私の傍でほかの男を慕うのは許さないよ、凛子。そなたは、私の女御なのだから」

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