おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

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27.哀れしる空(四)



 ❖◇❖


 八条宮は、重たい腰をあげて牛車をおりた。
 弘徽殿女御の声が、まだ耳から離れず鼓膜の奥でこだましている。体は水底に沈んでいるように疲労し、しかし地に足がつかずふわふわと浮遊しているような感じもして、自分が今どういう感情に支配されているのか分からない。

 思い返せば、初めて八条院に足を踏み入れたときも同じ状態だった。まるで、時が五年前に巻き戻ったかのような錯覚に陥る。

 一緒に居するはずだった人を突然喪い、当初の予定より数日遅れて一人歩いた渡殿には、新築の白木の香りが清々しく漂っていた。


 ――夏の手を引いてこの廊下を歩く瞬間を、どれほど夢見ていただろう。


 内裏に献じられた陰陽寮の具注暦に記された吉凶は決して悪くなかったのに、空は今日と同じ黒とも灰とも違う錆鼠色さびねずいろの雲に覆われて、二度と陽光の差さない永久とこしえの暗闇に向かって歩いているようだった。


 ――どうせ、長くは生きられない運命だったのよ。


 弘徽殿女御のいうとおり、夏姫の胸をむしばんでいる病は緩慢ではあるが確実に進行して、八条院で暮らせるのはわずか数年だろうと薬師から告げられていた。

 それでもよかった。生まれたときから病に縛られて、多くの苦痛と我慢を強いられてきた夏姫が、一時でも人並みの幸福を感じて生きてくれたなら。それが八条宮の願いだったから。


「おかえりなさい、依言様」


 朗らかな声に、八条宮ははっと我にかえって足を止める。無意識に白木の床板に向いていた視線をあげると、息を弾ませた沙那が立っていた。わざわざ出迎えなくてもいいのに、早く顔を見たくて主寝殿から車寄せまで駆けてきたのだろう。

 沙那の手を取り、主寝殿へ向かって歩き出す。ぎゅっと手を握り返してくれる沙那の温かさに、柄にもなく八条宮の目の奥が熱くなった。


「玄幽によく診てもらったか?」

「はい、よぉく診ていただきました」

「そう。それで、体はなんともなかった?」

「どこも悪いところはなくて、ご覧のとおり元気そのものだそうです」

「よかった。安心したよ」


 主寝殿に入ると、まだ日暮れ前だというのに格子戸がおろされていて、風避けの几帳に火桶まで出してあった。

 秋雨がやめば季節は冬に移り、風病かぜ咳逆がいぎゃくが流行り始める時期になる。今日、玄幽が雑談の最中にそういう話をしたので、沙那が女房たちに頼んで一足先に冬支度をしたらしい。

 さらに、沙那が座る円座わろうだの横には猫用の布団とやらが用意され、その上でナギが丸まっていた。時々、ナギこそが八条院の主なのではないかと思ってしまう。

 着替えをして、八条宮は沙那とたわいもない会話をしながら夕の食事をする。食事が終わると、沙那が夏姫の帷子で作った匂い袋を見せてくれた。匂い袋とは見せかけで、実は月見のときにつかまえた心を入れておくための袋なのだと沙那が言う。

 いい出来だとほめたら、依言様の心がこんなに小さな袋に入りきるわけがない。だから、胴体ほどの大きさでもう一つ袋を作ろうと思っていると打ち明けられて、八条宮は大笑いした。


「俺の心を入れておく袋など、よく思いついたね。下穿きのときもそうだったが、あなたの着想にはいつも驚かされる」

「素敵でしょう? あとは依言様の香木を少し分けていただけたら嬉しいのですが」

「いいよ。あなたの好きなものを選ぶといい」

「では、依言様がいつも衣に焚き染めている香りをいただけますか?」

「分かった。程よく香るように、あとで香木を削ってあげるよ」

「嬉しい。ありがとうございます、依言様」


 そのあとは、女房たちが得意顔で沙那が菊見の宴に着ていく衣装を披露し始めた。しかし、八条宮はどうも女房たちの感覚センスに納得がいかない。お陰で一から沙那の衣装を選びなおす羽目なり、御所での忌々しい出来事を思い出して感傷にひたる暇はなかった。


 ――女房より俺のほうが、沙那らしい色と文様を心得ている。


 はっきりいって、つまらないやきもちだった。

 八条宮が明日の髪研ぎにそなえて髻を解き、ようやく寝所でくつろげたのは亥一刻を過ぎたころ。まだ、雨は降り続いていた。

 沙那が寝支度をする間に、八条宮は沈香や白檀を削り、竜脳とほかに数種類の香材を調合する。それを預かった匂い袋に入れる瞬間、沙那の優しさが身に染みて再び目の奥が熱を帯び、五年前に枯れてしまったはずの涙で視界がゆがんだ。

 今日、怒りと痛みで心が粉々に砕けてしまわなかったのは、沙那がこうして守ってくれていたからかもしれない。

 たちまち八条宮の目からこぼれた雫が匂い袋の上に落ちて弾けて、濡れた夏姫の帷子から沙那のために調合した香りが匂い立つ。


「お待たせいたしました」


 妻戸が開いて、沙那が寝所の様子をうかがうようにひょこっと顔を出した。八条宮が慌てて目元を拭って匂い袋の口をしばると同時に、夜衣姿の沙那が身を寄せ合うように隣に座る。涙を見られたのではないかと八条宮は心配したが、どうやら杞憂のようだ。


「もしかして、香木を削ってくださったのですか?」


 八条宮が頷いて匂い袋を手渡すと、沙那は早速それを鼻に近づけて香りを確かめた。


「これは……、依言様の匂いではありませんね。お花みたいな香りがします」

「俺の匂いより、あなたらしい香りのほうがいいと思ったんだ。あなたに似合う香りを作ってみたのだが、どうかな。好みでないのなら、調合しなおすよ」

「いいえ、大好きです」

「気に入った?」

「もちろんです。ありがとうございます、大事にいたしますね」


 目を輝かせながら匂い袋を懐にしまおうとする沙那の手首をつかんで、腰を抱き寄せる。小柄な体を膝に乗せるのにそう力は必要ない。沙那と目線の高さを合わせるには、この体勢が一番だ。

 沙那は、以前ほど目をそらさなくなった。恥ずかしそうにしていても、ちゃんと目を見てくれる。そんな些細な変化すら、愛おしく思えてしまう。

 沙那の口が少し開く。しかし、今日は沙那より先に気持ちを伝えたくて、柔らかな唇に親指を乗せて言葉を封じる。


「好きだよ、沙那」


 沙那の目が、驚いたように大きく見開いた。


「俺は生涯、あなたを大切にする」


 決して、夏と来世で出会うための功徳ではない。本心でそう思っている。沙那に、この思いは通じるだろうか。

 どきどきしながら、八条宮は沙那の反応を待つ。すると、沙那の手が頬に触れて顔が近づいた。そして、ふわりと唇が重なった。

 色事に奥手な沙那の不意をつく行動に、八条宮の思考が一瞬にして停止してしまったのはいうまでもない。しかし、それはほんの短い間の出来事で、八条宮の期待とは裏腹に柔らかな沙那の感触はすぐに離れてしまった。


「御所で、なにかあったのですか?」


 沙那は、八条宮の瞳を覗き込む。

 お出かけになるまではいつもどおりだったのに、車寄せで出迎えたときからどことなく様子がおかしかった。女房が選んだ衣装に難癖をつけたり、さっきは目元が濡れているように見えたり。愛の告白はとっても嬉しいが、なにか引っ掛かる。


「……どうして、そう思うの?」


「お帰りになったとき、心ここにあらずといいますか、元気がなかったでしょう? あわれしる空も心のありければと申しますから、今日の天気は依言様の心模様そのものだったのでは、と思ったのです」


 八条宮はどきっとして、それを悟られないように咄嗟に答える。


「なにもない。つつがなく、帝からあなたへの宣旨をいただいて少し話をしただけだよ」

「本当ですか?」


 沙那が目を眇め、八条宮がまいったと言うように眉尻をさげた。


「あなたに一つ聞きたいのだが」

「なんでしょう」

「母君の命を奪った盗賊が憎くはないの?」


 沙那は唐突な問いに瞬時面食らい、八条宮に向けていた疑いを解いた。


「憎いですよ。その盗賊が不死の体になって、母上と同じ痛みと苦しみを延々味わえばいいのにと思っています。でも……」

「でも?」

「わたしの怨念のせいで、誰よりも優しかった母上が怨霊や悪鬼になってしまったら嫌なので、母上を思い出すときは憎しみや恨みを捨てるように努めています」

「どうして、そう慈悲深くいられるのだろう。たとえ一時でも、憎しみや恨みを捨てるのは簡単ではないはずだろう?」

「そうですね、簡単ではありません。もしもわたしが一人ぼっちだったら、仄暗い感情に心を喰われて、母上どころかわたしが悪鬼になっていたでしょう。けれど、父上や乳母に小梅、今は八条院の女房たち皆がわたしを慈しんでくれますから、こうして人の心を失わず健やかに暮らせています」

「あなたは、本当に心がきれいだね。あわれしる空があなたの心を映したなら、どんなにいいだろう。そしたら空は澄んで、この世はあたたかな光に包まれるのに」

「……あの、それはいい過ぎだと思いますよ。だってわたし、依言様に言い寄る人がいたらいかづちを落としちゃいますから」

「それは怖いな」

「はい、怨霊や悪鬼など比ではございません」


 沙那が、茶目っ気たっぷりに笑う。例え言い寄る人がいたとしても、心の裡で嘆くばかりで他人を傷つけはしない。沙那はそういう人だと八条宮は改めて確信する。


「俺も、あなたのようになろう」

「まさか、依言様までやきもちで雷を落とすのですか?」

「ははは。月読尊をやめて、鳴神なるかみになるのもいいかもしれないな」


 笑い声をあげる八条宮の銀髪を一房指先ですくって、沙那はきゅっと表情を引きしめる。


「依言様、それで……。本当に、何事もなかったのですね?」

「うん、どんよりとした空色とやまない雨のせいで気が滅入っていただけだよ。心配をかけてすまないね」

「いえ、それならよろしいのです」


 沙那が、ほっと胸をなでおろす。すると、八条宮が自分の唇を人さし指の先でとんとんと二回つついた。


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