おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

文字の大きさ
37 / 42

37.月氷る宮様の(二)

しおりを挟む


「……うん」


 沙那にだけ聞こえる声で短く答える。すると、沙那の顔が嬉しそうにほころび、ふわりと花の香りが八条宮の鼻をくすぐった。八条宮が沙那のために調合した香だ。今日も沙那は、あの香り袋を胸に忍ばせている。


「ありがとう、沙那。これで、夏に着せられた親王の門出を穢したという汚名はそそがれ、やっと夏を俺の未練から解放してやれた」

「心残りはございませんか?」

「ない。あとは、帝がお裁きになるだろうから」


 沙那の瞳に映る八条宮の表情は、穏やかで少しの曇りもない。


「なによりです、依言様」

「式部卿宮様からも感謝のお言葉をいただいた。あなたにもよしなにと」

「冬が明けましたら、謹んで写経をお納めいたしますね」


 碧い空の雲間から、綿のような雪が落ちてくる。八条院は、沙那と女房たちによってつつがなく新年を迎える準備がなされている。あとは去りゆく年を見送り、新しい年の訪れを待つのみだ。


 ――おかえりなさい。


 八条宮が邸を留守にした理由に配慮して、沙那は心の裡で言う。

 主寝殿に着くと一服のち、白髪の女房が八条宮の髻を解いて髪を冷水で清めた。寒いから手短に済ませろと文句を言う八条宮を、白髪の女房が呆れ顔で諫める。

 沙那は、その様をほほえましく眺めながら絹布に針を刺す。玄幽の新年用の単衣が、もうすぐ仕上がりそうなのだ。

 髪を禊ぎ終えると、八条宮は焼香の匂いが染みついた鈍色の袍から真新しい単衣と指貫に着替えた。

 冬の日暮れは早い。廂で髪を乾かし、お気に入りの袿に袖を通した八条宮が文机の前に腰をおろした時にはすっかり日が沈み、西の空が紫にも朱にも見える美しい灼け色に染まっていた。

 沙那は八条宮とそろって夕餉をいただき、再び裁縫に勤しむ。


「姫様、寒くなる前に身を清めましょうか」


 沙那が玄幽の単衣を縫い終える頃合いを見計らって、小梅が湯の入った角盥と麻布を持ってきた。沙那は、八条宮にちらりと目を向けて様子をうかがう。

 八条宮は、文机に積まれた御文を読んでいる最中だった。そのほとんどは、八条宮が留守にしていた間に御所から届いたものだ。邪魔をしないようにそっと忍び立ち、沙那は小梅と隣の局へ移動する。


「あら、いい香り」


 局に漂う少し甘い、春に咲く花のような香りに沙那はうっとりと目を細めた。その香りは、四方を囲むように立てられた几帳の中央に据えられた伏籠の香炉から流れてきているようだ。


「そうでございましょう? 八条宮様が、御髪をお乾かしになる間に調合してくださったのですよ。姫様のために」

「依言様が……」

「さ、姫様。火桶の傍に」


 沙那が凍えてしまわないように、小梅が湯で絞った麻布で手際よく体を拭いていく。小梅は沙那の着替えまで済ませると、さっさと道具を片づけて今度は自分の身なりを整えた。春の邸でふるまわれる、八条宮からの宵の膳を賜るためだ。


「小梅ったら、やけに気合いが入っているわね」

「それはそうですよ。主寝殿の女房たちが、宮様から賜るお食事は最高だと口をそろえるのですもの。宮中に仕えておられた方々がおっしゃるのですから、期待大でございます」


 小梅の勢いに気圧されて、沙那はたまらず声を立てて笑ってしまった。


「それでは、春の邸に行ってまいりますね」

「いってらっしゃい。ここのところ年を迎える準備で忙しかったから、ゆっくりしておいでね」

「はい、お言葉に甘えまして」

「調子がいいんだから」


 小梅を見送り、沙那は局を出て廊下に立った。
 空に浮かぶ青白い月を見あげて、冷えていく手に息を吹きかける。風もなく、とても静かな夜だ。遠くから聞こえる夜鳥の鳴き声が、澄んだ冷気になじんで溶けていく。

 ナギが、帰ってこない。
 もうどれくらい姿を見ていないだろう。どこにいるのかしら。ご飯は? 寒さに凍えているのでは?

 そんなことを考えながらじっと月に見入っていると、ふわりふわりと大きな雪がふり始めた。大きな螺旋を描きながら夜闇を舞う雪は、蛍の光のようにあたたかな輝きを放って見える。


「沙那」


 背後から呼ばれて振り返ると、袿を重ねに重ねて着膨れした八条宮が立っていた。どうやら、八条宮は寒さが苦手らしい。


「どうかなさいましたか?」


 沙那は、笑いをこらえて八条宮に近づく。すると、八条宮が着ている袿を幾重か脱いで沙那を包み、そのまま抱きかかえた。足が浮いて高くなった目線をさげると、目と鼻の先に八条宮の顔がある。


「あなたがいつまでも戻ってこないから迎えにきた。ここで、なにをしていたの?」


 口調は普段と変わらないのに、八条宮はどことなく不機嫌な様子だ。


「月を見ていました。そしたら、雪がふってきて……」


 そう、と八条宮がふいっと目をそらしてそっぽを向く。そして、沙那を抱きかかえたまま主寝殿の廊下を歩きだした。


「あ……そうだ、依言様。ナギが戻らないのです」

「心配いらない。ナギは従五位の位を賜って、御所で健やかにお暮しになっている。帝からの文が届いていた」

「あらまぁ……、そうでしたか。出世したのですね」

「それはそうと、沙那」


 八条宮が、足を止めて沙那を上目に見る。


「は、はい」

「あなたが愛でなくてはならないのは、空の月ではないだろう?」

「……はぁ」


 八条宮が不機嫌なのは、なんとなく分かる。けれど、その理由もなにを言わんとしているのかも解せず、沙那は「ええっと」と気まずそうに頬をかく。


「俺は、あなたに逢いたくて仕方がなかった。あなたはそうではなかったのか?」


 八条宮が、あからさまにむすっとする。


「あ……、いえ。わたしだって逢いたかったですよ……って依言様、もしかして空の月にやきもちですか?」

「なぜ俺が……、月に嫉妬なんか……するわけがないだろう」


 今度は、八条宮が気まずそうに顔を伏せた。沙那の心臓が、きゅん、どくんばくんばくんぎゅうっと激しく踊り狂うように反応する。


「……く、は……っ」


 なにこれ、不意打ちにもほどがある。
 息ができない。

 神様仏様宮様、依言様がかわいすぎて急に胸が爆発寸前です……っ!

 落ち着かなくちゃ。とにかく深呼吸を……!

 沙那はなんとか正気を保つと、顔をあげてほしいと八条宮にお願いした。素直に応じるものの、八条宮はまだ拗ねているようだ。


「ご安心ください。宮中でお見初めしてから、わたしは依言様のほかを美しいと思えなくなりました。四季折々の草花や景色も、もちろん月さえも依言様には敵いません。ですから、愛でていたのではなくてただ眺めていただけです」

「……本当?」

「本当です」

「……なら、よい。寒かっただろう?」


 すっかり機嫌を直した八条宮が、再び歩きだす。

 女房方は皆、春の邸で玄幽を囲んで豪華な宵の膳に舌鼓を打ちながら歓談しているのだろう。

 正一品の親王が、家令や女房たちと同じ席で食事をすることはない。沙那と二人きりになりたくて八条宮は今宵、女房たちに膳の用意をさせたのだった。

 八条宮は脇目もふらず寝所に入ると、沙那を包んだ袿ごと寝具の上におろした。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

喪女なのに狼さんたちに溺愛されています

和泉
恋愛
もふもふの狼がイケメンなんて反則です! 聖女召喚の儀で異世界に呼ばれたのはOL・大学生・高校生の3人。 ズボンを履いていた大学生のヒナは男だと勘違いされ、説明もないまま城を追い出された。 森で怪我をした子供の狼と出会ったヒナは狼族の国へ。私は喪女なのに狼族の王太子、No.1ホストのような武官、真面目な文官が近づいてくるのはなぜ? ヒナとつがいになりたい狼達の恋愛の行方は?聖女の力で国同士の争いは無くすことができるのか。

肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです

沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!

魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました

iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。 両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。 両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。 しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。 魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。 自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。 一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。 初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。 恋人になりたいが、年上で雇い主。 もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。 そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。 そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。 レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか? 両片思いのすれ違いのお話です。

贖罪の花嫁はいつわりの婚姻に溺れる

マチバリ
恋愛
 貴族令嬢エステルは姉の婚約者を誘惑したという冤罪で修道院に行くことになっていたが、突然ある男の花嫁になり子供を産めと命令されてしまう。夫となる男は稀有な魔力と尊い血統を持ちながらも辺境の屋敷で孤独に暮らす魔法使いアンデリック。  数奇な運命で結婚する事になった二人が呪いをとくように幸せになる物語。 書籍化作業にあたり本編を非公開にしました。

捨てられた王妃は情熱王子に攫われて

きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。 貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?  猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。  疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り―― ざまあ系の物語です。

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

【完結】お父様(悪人顔・強面)似のウブな辺境伯令嬢は白い?結婚を望みます。

カヨワイさつき
恋愛
魔物討伐で功績を上げた男勝りの辺境伯の5女は、"子だねがない"とウワサがある王子と政略結婚結婚する事になってしまった。"3年間子ども出来なければ離縁出来る・白い結婚・夜の夫婦生活はダメ"と悪人顔で強面の父(愛妻家で子煩悩)と約束した。だが婚姻後、初夜で……。

【完結】呪いを解いて欲しいとお願いしただけなのに、なぜか超絶美形の魔術師に溺愛されました!

藤原ライラ
恋愛
 ルイーゼ=アーベントロートはとある国の末の王女。複雑な呪いにかかっており、訳あって離宮で暮らしている。  ある日、彼女は不思議な夢を見る。それは、とても美しい男が女を抱いている夢だった。その夜、夢で見た通りの男はルイーゼの目の前に現れ、自分は魔術師のハーディだと名乗る。咄嗟に呪いを解いてと頼むルイーゼだったが、魔術師はタダでは願いを叶えてはくれない。当然のようにハーディは対価を要求してくるのだった。  解呪の過程でハーディに恋心を抱くルイーゼだったが、呪いが解けてしまえばもう彼に会うことはできないかもしれないと思い悩み……。 「君は、おれに、一体何をくれる?」  呪いを解く代わりにハーディが求める対価とは?  強情な王女とちょっと性悪な魔術師のお話。   ※ほぼ同じ内容で別タイトルのものをムーンライトノベルズにも掲載しています※

処理中です...