おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

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14.妻と想い人(五)



 ❖◇❖


 泣きはらした沙那のまぶたが本来の肌色と二重を取り戻したのは、主寝殿に燃ゆる西日がさし始めたころだった。

 沙那は北の対屋には戻らず主寝殿に留まって、八条宮の傍で縫い物に没頭している。特製の下穿きが思いのほか八条宮に好評だったので、早く六枚目をしあげようと驚異の集中力で針を動かす。

 主寝殿に勤める女房は、八条宮が内裏を離れるに際して、先帝が女官の中から選りすぐった者たちばかりだ。当然、彼女たちは八条宮が元服した当時をよく知っている。しかし、親王の穢れに触れるは禁忌と心得て、自らあの夜の出来事や夏姫についてのあれやこれやを口にする者は一人もいない。

 そしてなにより、彼女たちは気配りと心遣いの達人だった。沙那が主寝殿に留まったのも、彼女たちからの進言があったからだ。

 北の対屋には小梅がいる。小梅は昨夜、寝床に入った沙那が八条宮の帰宅前に寝入ってしまったので、自分の局にさがって休んだ。そして今朝、いつものように沙那を起こしにいって御帳台が空っぽだったから、さあ大変。

 姫様がいなくなったと、取り乱した様子で右往左往していたらしい。騒ぎに気づいた主寝殿の女房が、北の方様は宮様の御寝所におられると知らせて、どうにか大事にならずに済んだ。

 そんな彼女が沙那の泣きはらした顔を見たら、心痛で倒れてしまうのではないかと主寝殿の女房たちは案じた。それで、沙那を主寝殿にかくまって、北の対屋に裁縫道具一式と縫いかけの下穿き第六番を取りにいってくれたというわけだ。

 一方の八条宮はというと、難しい顔でひとしきり考え込んだあと、一心不乱に文などをしたためている。

 沙那の涙と洟水に濡れたお気に入りの袿は、年配の女房が呆れた顔で持っていってしまった。八条宮は単衣に指貫だけの格好で、部屋を素通りする秋の涼し風に吹かれている。着るものはほかにいくらでもあるのだが、今は少し肌寒く感じるくらいがちょうどいい。

 八条宮の視界の隅っこで、沙那の手が止まって顔がこちらを向く。


「依言様。真剣な顔をして、どなたに宛てて書いているのですか?」

 沙那が、盗み見るように文机を覗く。


「あなたに」


 筆を置いて、八条宮が紙の向きを変えた。沙那は持っていた布地と針を置いて、目を輝かせながらすすっと二、三歩膝を進めて八条宮の隣にいく。そして、文机に両手を伸ばして紙を手に取った。紙には、山桜の花と「淡泊」という文字が書かれている。


「これは?」

「刺繍の図案だよ。あなたの浮気対策に、微力ながら協力しようと思ってね」

「真面目なお顔をなさって、まさかこのようなものをお書きになっていたなんて」

「なかなか難しいものだな。あなたの機転には敵わないが、どうだろう。淡泊な男は敬遠されるだろうし、俺も自尊心が傷つくから誰にも見せたくない」

「自尊心が傷つくって。えっと、淡泊というのはどういう意味なのです?」

「深くは考えなくてもいい。これは単なる下穿きの刺繍なのだから」


 ふふふ、と沙那は紙で口元を隠して笑い声をあげた。墨の清々しい香りが、鼻の奥に流れてくる。


「採用いたします」


 沙那が肩を揺らしながらと言うと、八条宮がまんざらでもない様子で頷いた。


「それにしても、依言様は絵心もあってお姿どころかお手蹟まで美しいのですね。こちら、いただいてもよろしいですか?」

「かまわないよ。あなたに書いたのだから」

「実はわたし……、待ち伏せを始める前に数カ月、依言様に御文を送り続けたのですが、一度もお返事をいただけませんでした。だから、いつか依言様直筆の御文をいただける日を夢見ていたのです。嬉しい。こちらを宝物にいたします」

「そうだったのか。それはすまなかったね。実は、女性から八条院に送られてくる文は、俺の手元には届かないようになっている」

「どうしてです?」

「左近に、受け取ったらすぐ燃やせと命じているんだ。どうせ、中身は鬱陶しい恋歌だろうから、読むのが億劫でね」


 沙那は、気が遠くなるのを感じた。

 これは刺さる。残酷すぎて、胸が痛い。刺さるどころか、乙女心が一瞬で一刀両断よ! 無慈悲と辛辣で鍛えあげられた、強靭な刃だわ。名工が打った太刀より切れ味が鋭いのではないかしら?!


「だが、あなたの文は読んでみたかったな。きっと、その辺のにわかファンたちとは一味違ったのだろうね」

「え、あ……、そっ、それはもちろん……!」


 鬱陶しい恋歌ばかりを書きまくりましたよ、と沙那の心が涙する。確かに、その辺のにわかファンと一緒にしないでと啖呵を切ったが、書くに決まっている。好きなのだから。


 ――くうっ……。


 目の奥が、じんわりと熱くなる。一日も欠かさずに送り続けた沙那の文は、八条宮の目に触れてもいなかった。だから、一度も返事が来なかったのだと納得する。


 ――心をこめて書いたのに……。


 切ない、泣きそう、と意気消沈して沙那はふと思う。


「ということは、依言様が御文を交わしたのは夏姫だけ?」


 思わず、心の声がそのまま口から出てしまった。


「あ……。すみません、つい」


 沙那が肩をすくめると、八条宮が優しい声で「そうだよ」と答えた。


 ――なんだ。


 目の奥に集まっていた熱が引いて、沙那の顔に明るい笑顔が浮かぶ。恋の噂は数えきれないほど耳にしたけれど、なんて誠実な御方なのかしら。


 ――やっぱり、依言様は素敵よ。


 沙那は、慈愛のまなざしで図案を見つめる。すると八条宮が、女房を近くに呼んで床入りの用意をするよう申しつけた。


 ――そうだった。


 夏邸で囁かれた言葉を思い出して、沙那の頬がぽっと赤く染まる。


「沙那。北の対屋で食事をして、身を清めたら俺の寝所においで」

「は、はい」

「迎えは寄越さないから、あなたがいいと思う頃合いに来てくれたらいい」

「よろしいのですか? 少し、お待たせしてしまうかもしれません。こっ、心の準備が……」

「かまわないよ。あなたが俺の帰りを待った月日に比べたら、どうということはないからね。もし、どうしても心の準備ができなかったら日を改めよう」


 こくりと沙那が頷く。沙那は、下穿きの図案を懐にしまって主寝殿を出ていった。それから少したったころ、今度はナギが主寝殿にやってきた。

 山歩きでもしていたのか、体のあちこちに枯れ葉がくっついている。八条宮はナギを抱えると、主寝殿の階をおりて浅沓をはいた。そして、薄暗くなった庭を、夏邸に向かって歩いた。


「みゃぁ」


 前足の肉球を舐めて、ナギが鳴く。

 日が沈むと、秋はぐっと深みを感じさせるように外気を冷やす。単衣と指貫だけの軽装ではさすがに寒い。

 夏邸に着いた八条宮は、火つけの道具と手燭、それから夏姫と交わした文をしまってある文箱を持って庭に立った。空を見上げれば、秋らしい月が煌々と輝いている。


「みゃお」


 ナギが甘えるように鳴いて、八条宮の足元に体をすり寄ってきた。ナギは、夏姫が二条の河原で拾った猫だ。親とはぐれたのか、子猫のナギは橋のたもとで「みゃぁみゃぁ」とひっきりなしに鳴いていたそうだ。


『ほら見て、月宮様。この子、月宮様と同じ瞳の色をしているのよ。とってもきれい』


 ナギを抱いた夏姫が、記憶の中で嬉しそうに笑う。ナギという名は、夏姫が授けたものだ。月宮のまとう落ち着いた雰囲気が凪のようだから、と夏姫は名前の由来について話していた。

 生まれつき体が弱く、床に臥してばかりだった夏姫は、ナギを飼うようになってからよく笑顔を見せるようになった。

 夏姫によくなついていて、傍を離れなかったナギ。月宮の元服当夜、ナギは夏姫と一緒に淑景舎にいた。そして、出来事の一部始終を金色の眼でしっかりと見ていた。


「お前が人の言葉を話せたらいいのに」

「みゃお」

「だが、今となってはどうしようない」


 死ぬまで、胸に秘めておくこともできた。


 ――夏の存在を知って、沙那は傷ついただろう。


 八条宮はしゃがんで手燭に火を灯すと、文箱から夏姫の文を一つ取ってその火にかざした。


 ――俺があなたを望まなければ、今でも生きていられたのかな。


 その答えが知りたくて、虚無と知りながら真実を追い求めている。もし、夏姫が誰かに害されたのだとしたら、八条宮が本当に罪を償わせたいのは自身だ。だから、泡沫の恋に身を投じても、もう二度と妻を娶らないと心に決めていた。

 しかしある夜、八条宮の前に沙那が現れた。見るからに不審で怪しいと思っていたのに、沙那にあるのは純粋な八条宮への思いだけだった。

 八条宮の立場であれば、大納言に娘の愚行をやめさせろというのは簡単だっただろう。それをしなかったのは、一途な沙那の気持ちを無下にして傷つけたくなかったからだ。

 自分のように、心から慕う相手と結ばれない悲しみを味わわせたくない。もしも沙那が、自分の意志でここへ通うのをやめるのなら、それが一番いい。八条宮はそう思っていた。

 暗がりの中、手漉き紙が赤い炎に炙られ、燃える。炭になった紙の破片がひらひらりと、まるで死者の魂を富士の尾根に導く黒蝶の羽ばたきのように宙を舞う。夏姫の文は無重力にふわりと浮いたあと、あっという間にちりぢりになって暗がりに消えた。


 ――今でもあなたが恋しいよ、夏。


 あなたを忘れる日は絶対に来ない。けれど、あなたへの未練を断とう。沙那は、あなたのために心を痛めて泣いてくれた。傷ついただろうに、あなたと俺の来世まで願ってくれている。

 あなたを思慕しながら今夜を迎えるのは、沙那の純真を踏みにじる蛮行だと思うから、今ここであなたと永遠の別れをする。神仏の怒りを買って、もう二度とあなたとは巡り合えないかもしれない。それでも、これ以上、沙那を傷つけたくないんだ。

 八条宮は、時間をかけて全ての文を燃やした。

 思い出の欠片が、一つ、また一つ、真っ黒な喪色の花弁になって散ってゆく。その間、ナギは八条宮の傍らに香箱座りをして、その様子をじっと見ていた。文を燃やし終えた八条宮の手が、ナギの頭をくしゃりととなでる。


「この前は餌を抜いて悪かったな。お前には、礼を言わなければならないのに」

「にゃあ」


 百夜通いきれず諦めてほしいと願っていたのに、沙那は毎夜八条院にやってきた。そしてあの夜、ナギに驚いて足を痛めた沙那を、八条宮は放っておけなかった。


「なぁ、ナギ。沙那は今夜、俺のところに来てくれるかな」

「みゃあ?」

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