おしかけ妻と宮様の愛猫

虹色すかい

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18.ひのみかど(三)



 我が君と呼べばいつも慈愛を込めて呼名してくださったのに、今はそれをなさらない。それがなにを意味するのか、弘徽殿女御が帝の心中をおし量るには充分だった。


「立ちなさい」

「……はい」


 立ち上がろうとする弘徽殿女御の腕をつかんで、帝がその身を引き寄せる。弘徽殿女御が長袴を踏み損ねてよろけると、帝の腕がしなやかに細腰を抱いた。


「お、恐れ多くございます」


 弘徽殿女御が顔をあげ、帝が下を向く。静かに絡み合う二人の視線。そして、互いに声をひそめながら、空気に溶けてしまいそうな密やかな会話が続いた。


「命婦ではなく、そなたこそが弘徽殿におらねばならぬ御方ではないか?」

「い、いかにも。おおせのとおりでございます」

「麗景殿を召そうと思っていたが、気が変わった。今宵は弘徽殿に渡る」

「……え」

「返事は?」

「麗景殿に知らせを出しておいでなのでは?」

「それは、そなたが気にかけることではない。返事は?」

「慎みまして、お待ち申しあげております」

「よろしい」


 行きなさい、と体を解放された弘徽殿女御は、足音を忍ばせて急ぎ早に局を出ていった。

 帝は、八条宮の足元を通って高麗縁こうらいべりの畳にあがると、お召し物の裾野を広げるようにして腰をおろした。そして、脇息にもたれかかって女物の檜扇をはらりと開き眺める。

 先程、弘徽殿女御の体を引き寄せたときに、彼女の腰から抜いたものだ。絵柄の色彩があせていないところを見ると、新調したばかりのようだ。

 局に乾いた風が吹いて、几帳の帷子がひらりと舞う。それからしばらくして、八条宮が大きく身じろいだ。仰向けになって、手足を伸ばして、はふぅとあくびをして、虚ろにまぶたが持ちあがる。琥珀色の瞳が何度か夢と現を行き来したのち、帝の姿を映した。


「まだ寝足りないようだね、依言」


 笑いを含んだ帝の声に、八条宮は急いで身を起こす。それから、束帯の袍を脱いでいるのを思い出して、被っていた古参の袿に袖を通した。


「かさねがさね、ご無礼を」

「昨日は物忌みと聞いていたが、その様子では大納言の姫君とどうかあったのかな?」


 帝の冷やかしに、八条宮は困った顔で笑うしかない。沙那があまりにもかわいくて面白いので、つい遅くまで励んでしまったのだ。沙那が意識朦朧だったのをいいことに。


「そういえば、主上。ひどく悩んでおられる様子でしたが」

「ああ……。そなたの健やかな寝顔を見たら、もうどうでもよくなった」

「八条院に使いをよこして呼び出すほどの悩みだったのでしょう?」

「なに、菊見の宴でどの女御を上座に置くべきか考えていただけだ。もう解決したから案ずるな」


 すまなかったね、とたいして悪く思っていない様子で、帝が檜扇で口元を隠して軽やかに笑う。


「主上が女人の扇をお持ちとはめずらしいですね」

「私らしくない? それとも見覚えがあるのかな?」

「まさか。深い意味も見覚えもありませんよ」

「では、依言。そなた、そろそろ官職に就かないか?」

「異なことを。どうなされたのです?」

「そなたが官職に就いてくれたら、心強かろうと思ってね」


 檜扇を静かに閉じて、帝が格子の向こうへ目を向ける。八条宮は、居住まいを正した。

 日宮は、幼い時から真面目で勤勉な御方だった。一日中遊びに興じる月宮と違って、じっと座して勉学に励む日宮。よく、太陽と月が逆だと揶揄されたものだ。

 思慮の深さも知識の量も、なに一つ日宮には敵わない。夏姫と添い遂げたくて先帝の願いに背いたが、その実、八条宮は兄宮こそが帝位に就くに相応しい御方だと思っていた。

 皇家には、常にしがらみがつきまとう。帝になれば、内と外で見えない鎖に縛られるのだ。帝の御心労たるやいくばくか。おし量るも心苦しい。


「俺が官職を賜れば、痛くもない腹を探る者もおりましょう。先帝が俺を正一品の親王としたのは、帝位を見据えたのではなく万が一をお考えだったからです。主上が皇子に恵まれれば、要らぬ存在。どうか早く御子をもうけ、二度とそのようなことをおっしゃらないでください」

「それは、そなたの本心か? 先帝がそなたこそを東宮にと望んでいたのは周知ぞ」

「俺は嘘が嫌いです。先帝のご意思で主上は東宮となられたのですから、過去を気にする必要がありましょうか。それに、俺が再び内裏に住むとなれば、妻が悲しみます」

「大納言の娘が悲しむ? そなたが東宮ないし帝位に就けば、身分に不足なし、大納言の娘は妃となれるのだから喜ぶのでは?」

「いいえ、妻は悲しみます。俺がたくさんの妃を持てば、泣き通して身を露にしてしまうかもしれません。妻と八条院で静かに暮らせたなら、それこそ本望です」


 八条宮は、自分の股間に目をやって小さく吹き出した。どのような方法で浮気を封じられているのか主上が知ったらと思うと、真面目な話の最中なのにおかしくてたまらない。

 格子の向こうを見ていた帝が、うつむいている八条宮の顔を覗く。帝は、弟宮の心を探り、疑うような問いかけをしてしまったと内心で反省した。

 弘徽殿女御のことで心乱れたのは事実だが、八条宮はここに女御がいたのも知らぬ様子だ。そのうえ、大納言の娘を心から慈しんでいる。


「意地の悪い質問をして悪かった。許せ、依言」

「誰にも言えない弱音を聞かせてくださるのは、俺を信頼してのことと存じています」

「うん。私にとって、そなたはかけがえのない存在だよ」

「身に余るお言葉です」

「それにしても、名うての遊び人であるそなたが陶酔するとは。どのような御方なのだろう。私も会ってみたい。菊見の宴に、大納言の娘を連れてきなさい」

「……は?」


 思いもよらない主上の命令に、八条宮は血相を変えて顔をあげた。


「しかし、妻はとても奥ゆかしく」

「そうであったな。では、とても奥ゆかしき姫が昨夜、そなたを寝かせなかったのか?」

「い、いえ、それは……!」

「そう慌てるところを見ると、ますます興味がわくよ」


 にやりとした帝の意地悪な笑みを見て、八条宮は中殿で感じた嫌な予感はこれだったのかと納得した。

 夕刻、八条宮は帝を見送ったあと、雷鳴壺の古参たちから宮中の菓子を手土産に持たされて御所を発った。都を真っ直ぐ貫く大路が、真っ赤な夕日に燃えている。禍々しい血の色のようで、しかし鮮明な赤が美しい。

 ごとごとと牛車に揺られて都をくだり、八条院に帰り着くと、ナギを抱えた沙那が御車寄せで待っていた。

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