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第二話 命日
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ひと月降り続いた雨がやみ、棘のような冷気が肌をさす季節になった。
一人の宮女が、衣桁に掛けられた陽王の上衣を整えている。あの雨の夜から、陽王はぱったりと姿を見せなくなった。他に六人いるという妃のもとへ通っているのだろうか。
陽王が何人の妃を持ち、誰を抱こうとも嫉妬などしない。当たり前だ。あの男とは、親愛の情で結ばれる夫婦とは程遠い関係なのだから。ただ、同じように陵辱される者がいるかと思うと心がひどく痛み、底しれぬ怒りが湧いてくる。
珠月は、障子の美しい組子細工に手を伸ばしてゆっくりと横に引いた。刹那、日光の眩しさに目を細め、庭に視線を定める。葉が枯れ落ちて丸裸になった植木と微動だにせず立っている衛兵たち。丸窓から覗く世界は、ひどく殺風景だ。
――よい天気だこと。
少し腰をかがめて空を仰ぎ、祖国と共に散った愛しい者たちの顔を思い浮かべる。命日だというのに、弔いの灯籠も供え物もない。囚われの身にできるのは、ただ静かに心の中で祈りを捧げることだけ。空を飛ぶ鳥の何とうらやましいことか。
珠月は椅子に腰をおろした。目尻からぽろりと涙がこぼれ、そっと手巾を目に当てる。涙が引けばまた空を見上げ、故郷を偲ぶ。
詞華の寒季は昇陽よりも随分と暖かい。一年前の忌々しい出来事がなければ、穀物の収穫が終わるころだ。収穫の終わった畑の畝で戯れる子どもたちの姿や笑い声を思い出し、珠月の口元が自然と優しい弧を描く。
――あのころに戻りたい。
私は詞華の民の父である。民を我が子のように慈しみ、よき行いへ導かねば。
それは、泥にまみれて民と共に田畑を耕し、民の声に耳を傾け、民に寄り添う努力を怠らなかった父の言葉だ。難しい政のことはよくわからないが、詞華が他国との争いに巻き込まれないよう、父は手を尽くしていた。
その父が隣国の王族と縁を結びたいと言ったとき、ためらうことなくそれを受け入れた。女の身では王位を継ぐことはできない。父の唯一の子として、父の選んだ人と結婚し、詞華王となる夫を支えるのが務め。父を敬愛しているからこそ、王女としての使命に何の不服もなかった。
時間がいつもと同じように流れる。薄く差しこむ太陽の光が、時の経過に従って、角度と色を変えていく。
隣国から婿入りした王子は、夕暮れの空色のように儚げで上品な人だった。互いをよく知るまでは……と、毎夜手を握って眠ってくれた。たったふた月しか共に過ごせなかったが、彼と夫婦になれてとても幸せだった。
彼は、昇陽軍を率いる司将軍の陣営で処刑されたそうだ。詞華に婿入りなどしなければ、今も幸せに暮らしていただろうに。
夕食を摂り湯浴みを終え、珠月はまた丸窓から外を眺めた。月明かりに照らされた庭から、しんと冷たい風が吹く。湯で火照った身体が、熱を奪われてぶるっと大きく震えた。
「詞嬪さま」
宮女に呼ばれて振り向くと、背が高く、いかにも武人といった強面の男が立っていた。物騒に帯刀し、にこりともせず威圧するようにこちらを見ている。
「あなたは?」
「陽王の侍衛、那濫と申します」
珠月はごくりと生唾をのんだ。陽王と聞くだけで身体が強張ってしまう。それを那濫に気取られないよう、珠月は必死に平然を装った。
「わたしに何か御用が?」
「詞嬪様をお迎えにまいりました。紫永宮にお越しください」
「紫永宮?」
「ああ、詞嬪様は明夷宮をお出になられたことがないのでご存知ないのでしたね。紫永宮は陽王の宮です」
「と、突然そのような使いをよこすとは無礼でしょう」
「詞嬪様は陽王の妃であられます。陽王がお望みなら応じるのが道理かと」
「妃ですって? 人質の間違いでは?」
「いいえ、嬪の位を持つ妃でございます。さあ、急ぎ支度を。陽王がお待ちです」
珠月の表情がかげり、絶望の色が浮かぶ。ひと月も放っておいたかと思えば、わざわざ祖国が滅んだ日にこの身を穢そうというのか。胸をおさえて床に座り込んでしまった珠月の腕をつかみ、那濫は宮女に詞嬪の身なりを整えるよう言った。
紫永宮は、明夷宮からとても離れた場所にあった。池の畔を歩き、剪定された木が迷路のように植えられた庭を抜け、さらに小さな池に架けられた石橋を二つ渡ってやっと辿り着いた。
こちらへ、と那濫が珠月を紫永宮の中へ誘う。
龍が天に向かって巻きついた柱、浄土に咲く蓮が浮かぶ天井、何もかもが黄金に輝いている。紫永宮の景観に目を奪われている間に、那濫は廊下の先を左に折れて行く。
珠月は小走りで那濫を追った。そして、ふた手に分かれた廊下を右に進み、どこをどう歩いたかわからなくなったころ、那濫が部屋の扉を静かに開けた。
「詞嬪様がお越しになられました」
ここがあの男の寝所――。
那濫の後ろで、珠月は震える手を胸の前で握る。
昇陽軍が国境を越えたという知らせから王宮が攻め落とされるまで、本当にあっという間だった。残忍な昇陽の司将軍は、捕らえた両親を王宮の門の前に跪かせ、自ら二人の首をはねた。
しんと時が止まったかのように静まり返った王宮に響いた、王女を探せ、詞華王の血を根絶やしにせよという司将軍の号令。恐怖に足がすくんで動けなかった。
だが、怯えている場合ではない。王宮には、たくさんの民が避難している。捕まる前に皆を逃さなければ。
昇陽の兵が、洪水のように押し寄せてくる。無我夢中だった。裏門から皆を逃し、両親のあとを追う覚悟で塔の螺旋階段を駆け上がる。そして、最上階の部屋から見た光景に愕然とした。炎に包まれた街と焦げた田畑は地獄絵図さながらで、穏やかな美しい詞華の景色はどこにもなかった。
――どうか、皆が無事に逃げ切れますように。
それが、最期の祈りだった。窓を開けると、思いのほか爽やかな風が吹いていた。恐ろしさが、霧が晴れるように消えていく。ゆっくりと窓枠に足をかけ、意を決して身を乗り出す。そのときだった。
「見つけたぞ!」
振り返る間もなく、叫ぶような男の声と同時に腕を引っ張られて、石床に身体を打ちつけた。震えながら見上げると、息を切らした男が見下ろしていた。戦火の最中だというのに防具もつけず、右手には血がべっとりとついた剣。返り血を浴びたのか、衣は真っ赤に染まっていた。
「詞華王の娘だな?」
男は目を見開く珠月の手首をつかみ、民を救いたければ生きて私に従えと言った。男が昇陽の王だと知ったのは、昇陽の王宮に連れて来られたあとだった。
「……様、詞嬪様」
那濫に呼ばれ、はっと顔を上げる。那濫が、小さく顎をしゃくって早く中に入るように言った。一歩部屋に入ると、背後で扉が音を立てて閉まった。
珠月は、諦めて足を踏み出した。寝台に腰かけて書を読んでいる陽王の隣に座り、さっきくぐった扉に目を向ける。ぴたりと閉じた扉が、珠月を孤独にする。逃げることのできない檻の中で、獰猛な獣に喰われるのだ。何度も、何度も、果てのない悪夢のように。
「い、や……っ」
いくら抗っても、陽王は力ずくで従わせる。
首に吸いつく陽王の唇と身体に伸びる手、体温。そして、陽王を受け入れようとする自分の身体。全てが苦痛でしかない。
あのとき、この男の手を振り払って塔から身を投げていればよかった。死ぬよりつらいことはないと言うが、死よりも苦しい現実を生かされている。
「……っく……ん」
陽王に貫かれ、珠月は顔を歪めた。今夜は静かすぎる。加えて、陽王の寝所には照明があかあかと灯り、聞きたくもない音が耳に響き、見たくもないものが否応なしに目に飛び込んでくる。
「どうし、て……っ」
あなたはこんなに残酷なの。その言葉は、陽王の唇に塞がれて言えなかった。珠月は、覆いかぶさる陽王の胸を両手で押し返した。しかし、女のか弱い力ではびくともしない。重なる唇の角度を変え、陽王の舌が口内を蹂躙する。舌を絡めとられ、珠月はくぐもった声を上げた。
夜半を過ぎたころ、蕾怜は身体を起こして寝息を立てる珠月に視線を向けた。そっと指を伸ばし、珠月の顔にかかる鬢のほつれ毛をのける。閉じたまぶたは薄っすらと赤く腫れ、幾筋もの涙のあとが見える。
――許せ。
信頼し兵権を与えた兄が、よもや詞華に婿入りした男と結託していようとは。急いで詞華へ向かったが、時すでに遅し。詞華の街や田畑は焼け、詞華王はすでに殺されていた。
珠月と夫は仲睦まじい夫婦だったと聞く。真実を知れば、珠月はどれほど悲しむだろう。蕾怜は両手で顔を覆う。悲しみよりも憎しみの方が生きる糧になる。そう思って珠月に憎悪を植えつけた。だがこれでは、死ぬまで心は通じ合わない。
意識が、遠い記憶の先をつかむ。
穏やかで心優しい詞華王が治める国は、まさに浄土だった。詞華王は、たった一人で詞華に送られた昇陽の第八王子を我が子のように大切してくれた。人の情を教えてくれたのは詞華王だった。
詞華王のあとをついてまわり、民とともに田畑を耕した。詞華の人々は人情味あふれ、穀物がみのる季節の大地の色付きは、桃源郷のように幻想的で美しかった。
五歳になった年の夏、詞華王に待望の第一子が生まれた。とても可愛い王女だった。昇陽に戻ったのは、珠月が四つになるかならないかのころだ。きっと、覚えてはいないだろう。
「う、ん……」
珠月が、眉間にしわを寄せて身じろぐ。夢の中でも苦しんでいるのだろうか。
蕾怜はそっと寝台をおりて書斎に向かった。焼け果てた田を元に戻すには、一年では到底たりない。今年の収穫量は、以前の三分の一にも満たなかった。豊穣な詞華の大地が戻るには、まだまだ時間がかかりそうだ。
――生き返った詞華を見せてやりたかったが……。
深く息を吐き、文机に突っ伏す。ゆらりと揺れる燭台の炎を見つめ、蕾怜は小さく珠月の名を呼んだ。
◆◇◆
「詞嬪さま、朝でございます」
空がしらみ始めたころ、宮女が起こしにきた。珠月は宮女に言われるがままに湯に浸かり、なされるがままに身支度をした。
「これは!」
「はい、詞嬪さま。陽王よりこちらをお召になるようにと」
湯上がりに宮女が用意したのは、昇陽の王宮に入ったときに取り上げられた詞華の服と髪飾りだった。身支度がすむと、次は猫背の太監があらわれた。太監は珠月の前で片膝をつき、陽王から言伝を預かっているのだと言った。
「陽王はどちらに?」
「今日は早くから政務がおありで、先ほど紫永宮を出られました」
「そう。それで、言伝とは?」
「陽王が客人をお招きになられております。詞嬪様にその客人のお相手をするようにと」
「客人?」
「はい、陽王の古くからの知り合いだそうでして。わたくしはよく存じ上げないのですが」
珠月は釈然としないまま、太監に案内された部屋で陽王の客人を待った。部屋は、紫永宮とは思えないほど質素で、権威を示すような豪華な金の輝きは全くない。こんな部屋に招くとは、陽王が心を許す親しい間柄の者なのだろう。椅子に座って四枚折りの屏風に描かれた絵を眺めていると、宮女が客人を連れて入ってきた。
「姫様」
懐かしい呼び名としわがれた声、少し背を丸めた立ち姿に驚いて声が出ない。珠月は身を乗り出すように立ち上がり、客人に駆け寄った。
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