14 / 47
第二章
葛藤は、呆気なく吹っ飛んで(2)
しおりを挟むにこりとほほえんだ仁寿の優しいまなざしと声が、視覚と聴覚からじんわりと心にしみこんでいく。頬に添えられた手の温度まで優しくて、まるで春の陽だまりみたいだ。彩は、返す言葉を見つけられなくて、代わりに首を横に振ることしかできなかった。
「ねぇ、彩さん。一つ聞いてもいい?」
仁寿が真顔になる。
「……なんですか?」
「いつ、手術したの?」
一瞬、なにを聞かれたのか分からなかった。
病気のことは、心配をかけたくないから両親には内緒にしている。親友の由香と、休職するために職場の上司と総務の担当者にしか話していない。
「どうして知ってるんですか? 由香に聞いたんですか?」
「違うよ。北川先生は、絶対にそんなこと教えてくれない。彩さんの部屋に、検査の予約の紙があったから」
アパートは、たまに女友達が遊びにくるだけの完全なプライベート空間だ。予約票の存在なんて気にも留めていなかった。迂闊だった、と彩は内心で深く反省する。
「さっき、夕飯を食べながら彩さんについて考えてた。傷、目立たないね。全然気がつかなかったよ。腹腔鏡で手術したの?」
彩が小さく頷くと、ぎゅっと抱きしめられた。
右の卵巣に腫瘍が見つかったのは二年前の梅雨。
初めて、婦人科で子宮頸がん検診を受けた。こっちの恥ずかしさを完全に無視して、機械的に開脚させる内診台に危うく失神しそうになったっけ。
父と変わらない年頃の医師が、カーテンの向こうで膣に器具を突っこんで粘膜を採取する。それから子宮と卵巣も見ると言って、エコーを挿れた。エコーの先端でぐりぐりと中を探られるのは、正直ちょっと痛かった。
そのあとの診察で医師に説明されたのは、子宮頸がんの検査結果が出るまでに日数がかかることと、右の卵巣が少し腫れているということだった。
「若い女性に多いんですよ。右の卵巣に嚢胞ができています。大抵、問題はありませんが、早めに治療したほうがいいので大きな病院で検査を受けてください。紹介状を書きますから」
「嚢胞……?」
「血液とかが溜まった袋です。手術してそこだけくり抜いてしまえば、卵巣自体は取らなくて済むから心配しなくてもいいですよ」
生理痛が酷い時はあったけれど、他に自覚症状はなかったし、婦人科でも心配しなくてもいいと言われていたから、紹介された病院を受診したのは検診を受けてから二カ月くらいあとだったと思う。そこで造影CTとかMRIとか詳しい検査をしてもらったら、ただの嚢胞じゃなくて腫瘍だった。
今は基準が細かくなったから、良性と判断しても問題ない程度だけど境界型でした。あと半年、一年後だったら深刻だったかもしれない。早く見つかってよかったですね。
退院の前日。手術した医師の病状説明を聞いて、もし検診を受けてなかったら……と想像してぞっとした。
「他には?」
仁寿が、彩を抱きしめる腕の力を強める。
「他といいますと?」
「彩さんが、僕とつき合うにあたって障害だと思っているもの。この際だから、全部教えてよ」
「そんなの、たっ……たくさんありますよ。わたしは先生と違って普通の家の生まれだし、一応建築士の免許は持っているけどただの事務職だし……。それに仕事上、先生とは」
唇に触れるだけの軽いキスで、言葉をさえぎられる。
「もういいよ。他はたいして問題なさそうだね。僕を嫌いだって言われたら、潔く家に帰してあげようかと思ったけど。やめた。嫌いに勝る障害なんてないから」
「は……?」
仁寿が、唖然とする彩の髪に鼻先をつけてクスクスと笑う。
「彩さんから僕と同じ匂いがする」
「そ、それは……。シャンプーとかいろいろ、図々しく使わせていただきましたから」
「幸せだなぁ。毎日こうやって彩さんを抱きしめられたらもっと幸せなんだけど」
「大袈裟ですよ。毎日一緒にいたら、きっとすぐに嫌いになります」
「試してみる?」
「はい?」
「来月から院外研修が始まるから、彩さんと会えなくなるでしょ? 面談とかで顔を合せる機会はあるんだろうけど、仕事のほんのちょっとした時間しか彩さんの顔を見られないなんて嫌だしさ」
「おっしゃっている意味がちょっと」
「一緒に住もうよ、ここで」
「だめ。絶対にだめです」
「えーっ。往生際が悪いなぁ、彩さんは」
待って、待って。
急展開過ぎて頭が全然追いつかない。
彩は、顔面蒼白で仁寿を見た。
くしゃっとほころんだ顔。仔犬のように笑顔がかわいくて優しい藤崎先生。病気の重たい話をしたはずなのに、服越しに触れる股間はしっかり臨戦態勢で。シリアスな我が心の声諸々が、ものすごく間抜けに思えるのは間違いない。
――えっと、一緒に住むってどういうことですか?
ごくん。
生唾を飲み込んだ拍子に、彩の首が上下に揺れる。
「もう寝る時間だね。彩さんの了承も得たし、ベッドに行こうか」
違うんです、先生。今のは了承の頷きではなくて生唾を飲んだだけ……、なんて説明文は声にならないまま喉の奥に流れていった。
10
あなたにおすすめの小説
同級生がCEO―クールな彼は夢見るように愛に溺れたい(らしい)【番外編非公開中】
光月海愛(こうつきみあ)
恋愛
「二度となつみ以外の女を抱けないと思ったら虚しくて」
なつみは、二年前婚約破棄してから派遣社員として働く三十歳。
女として自信を失ったまま、新しい派遣先の職場見学に。
そこで同じ中学だった神城と再会。
CEOである神城は、地味な自分とは正反対。秀才&冷淡な印象であまり昔から話をしたこともなかった。
それなのに、就くはずだった事務ではなく、神城の秘書に抜擢されてしまう。
✜✜目標ポイントに達成しましたら、ショートストーリーを追加致します。ぜひお気に入り登録&しおりをお願いします✜✜
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・
希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!?
『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』
小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。
ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。
しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。
彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!?
過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。
*導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。
<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる