月闇の扉

瑞原チヒロ

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第一章 その日、青い光が飛んだ。

43 決着

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 ――混沌こんとんの炎の奥から聞こえる音は、誰の怨嗟えんさの声なのだろうか――

 元より、燃え盛る炎は無音ではない。それに混じって奥底から響くのは、あまりに重たいうなりだ。

 ――あれは誰の声?
 朱雀の術は術者の心。

(クローディアの……声?)

 どうして、とラナーニャは、誰にも聞こえない声で問う。
 そしてすぐに打ち消した。――どうして、などと、このに及んで何と愚かな疑問だろう。

 自分よりさらに若い妹。彼女のことを、自分は何も知らない。本当に――知らないのだ。

 「愛してくれているのでしょう?」と問われて答えられなかった、それは事実。
 一方で、愛しい妹と思っている。……それも事実。

 だからクローディア、お前と争いたかったはずがない。



 混沌の炎は虹色の壁を激しく攻めたてる。き散らされる火花が大地に降り、小さな火種となってそのまま燃える。戦いのさなかに踏み荒らされた草を燃やし、煙を上げ、まるで大地の恨み言のような音を立てる。

 空ではクローディアが。地上ではセレンが。各々に己の世界に浸ることで、全力を絞り出しているのが分かる。

 そのバランスを外からの刺激で壊すことは、おそらく簡単なことに違いなかった。だが――ラナーニャはそれができずにいた。
 例えばクローディアに向かって石を投げつける、ただそれだけでも拮抗きっこうは崩れると、彼女にさえ分かるというのに――

 平衡へいこうが崩れる瞬間が、恐ろしかった。必ず何かしらの作用が起こる。
 そして自分には、それをどうにかする力はない。

 あちこちに火の手が上がる。熱が、肌を攻めたて呼吸を奪う。どうしようもない圧迫感に襲われながら、しかしラナーニャは、それらと自分の間に不可視ふかしの壁があるような錯覚に陥っていた。自分の手の届く――場所じゃない。

 何もできない。

 唇を噛む。血の味がする。
 この感覚はあのときと同じだ。リーディナの術に閉じ込められたまま、リーディナの最期を見ていたあのときと。

 思い出して、足元が崩れるような落下感を味わった。恐怖に全身が悲鳴を上げた。いやだ、あんな思いはもう二度と――

 我知らず、足元の石を拾い上げていた。

 追い込まれた弱い魂が叫んでいる。もう、やるしかない。そのあとどうなるかなんてやってみなくては分からないのだ。だったらもう、自分にできるたったひとつのことは。

 ――石を持った腕を振りかぶろうとしたまさにそのとき。
 気配を感じてラナーニャは動きを止めた。

 思わず振り向いた。洞穴の方向。狭い入口から、誰かが出てきた。背の高い青年。そう言えば先ほど、彼は洞穴に駆け込んでいった、ような。

 その彼が手にしていたものが、ラナーニャの乾いた目に飛び込んできた。

 ――月光色の弓矢。

 静かな光を放っている。まるで夜空を従える荘厳そうごんな月。カミルはそれを、ゆっくりと構える。ことさら静かな動作だったのは、きっとクローディアに気づかせまいとしていたからだ。

 限りなく現実的な存在感を持ちながら、その月光色はひどく非現実的だった。当然だ、とすぐにラナーニャは気づいた。

 あれも、術の産物だ。

 洞穴の中で何が行われていたか。自分らは何のために時間稼ぎをしていたのか。クローディアとの邂逅かいこうに乱されて失いかけた目的全てを思い出し、ラナーニャの心にぽたりと冷たい水滴が落ちる。

 あの弓が誰の力を使って造られたものなのか。
 ――ああ、夕焼け色の目をしたあの人はもう、いないんだ。

 大好きだった人と同じ顔をしたその人の、最後の言葉がもう一度聞こえた。――『君のためじゃない。わたしはわたしの村のために』。



 静かに、重々しく。青年は光のつるを引く。

 クローディアの力によって明度を落とし、黄昏刻たそがれどきの戦場のような光景となったその場で、その弓矢だけが高潔な光を放つ。

 きりきりと、弦が張る音が、聞こえた気がした。

 青年の髪が、服の端々が、わずかにそよぐ。手にした弓矢から放たれる豊かな力に煽られて。

 静けさの中にある強大な力の片鱗へんりん。おそらくあの弓は弦を引くだけで、想像もつかないほどの力がいるのだろう。
 それでも青年の表情は微塵も揺らぐことなく。

 彼の右手の甲、手袋の内側から強い光。それに呼応するように。

 矢が。高潔な色をした矢が――

 その瞬間、強く輝き銀光となって辺りの煙を打ち払った。



 クローディアが気づいた。青年のほうへ首を回し、瞠目どうもくする。混沌の炎の勢いががれた。セレンが目を開けた。

 このままでは矢を放ってもかわされる。咄嗟とっさにラナーニャはそう思った。だから、

 カミルが矢を放つその前に。
 手にしていた石を、思い切り投げつけた。

 クローディアが空中で凍りついた。あまりにも幼稚な手だ。しかし長いゆめからめたばかりのクローディアを惑わすには、それでも十分すぎた。

 クローディアが反射的に金切声で放った詠唱が術となり、ただの石を破裂させる。

 そしてそのときにはすでに、
 矢は

 ――冴え冴えとした銀の光は闇を従える。
 時間が止まったかのような、その数瞬。

 漆黒の少女の漆黒の衣装、その中心――本物の矢ではありえないほど直線の軌道を描き、心臓の位置を違わず貫いた銀光は、そのまま空の彼方へと駆け消えた。

 ――血は、流れない。

 けれど確かに、何かが壊れた音がして。

『――ア――』

 クローディアの体がわななく。震える両手が胸元を掴み――かきむしる。

『アアアアアアアァ――――!!!』

 風景が歪む。目に見えるものの形がぐにゃりと捻じれ、身体は慣れない光景を拒否して嘔吐おうと感をもよおす。

 しかしそれもわずかの間のこと――

 クローディアの体の震えが止まった。
 同時に、全ての異変が消え去った。雲は消え、混沌の炎の残り火が消え、地面に飛び火していた火種たちも消え、煙までもが一切合切消滅した。そして――

 全ての威圧感を喪った少女は、ぐらりと揺れて落下した。まるで撃ち落された鳥のように。



 一度目に墜落したとき以上の土煙がもうもうと立ち昇った。

 地面への激突時に防御したようにも見えなかった。今度こそ無事ではいられまい。ラナーニャはその姿を見ようと、土煙の内側に飛び込んだ。

 確かめなくてはいけないと、思った。

 ラナーニャ、とカミルとセレンが呼ぶ声が聞こえる。止まって、と、言外に告げられた気がする。
 けれど、ラナーニャは止まらなかった。

 土煙の奥。地面を穿うがち、陥没したその中央に見える倒れ伏した少女の姿。

 体が形を保っているだけ奇跡的なのだろう。それとも術で造った分体だからなのだろうか。ラナーニャは穿うがたれたクレーターの端に手をつき中を覗き込もうとした。煙はまだ晴れない。乾いた空気に痛む目を必死にこらした。と、

「――――っ!」

 身を乗り出したラナーニャのその首に、突如飛び出してきた何かが絡みついた。

 呼吸が止まりかけ、ラナーニャはもがいた。首からそれを外そうとした両手にも、黒い何かは絡みついてくる。黒い蔓? 否。

 煙が薄れる。クローディアが顔を上げていた。その豊かな髪が――長々と伸びて、ラナーニャの首や手を締め上げようとしている。

『お、姉、さ、ま……っ、に、がさない、わ……っ』

 クローディアはそのままクレーターをじりじりと這い昇り、ラナーニャに手を伸ばす。その指先は血の気を失い、毒々しい色でラナーニャに迫った。

 妹は――妹の生み出した分身は、最期の力をもその目的のために費やそうとしている。

 息ができない。あえぐラナーニャは夢中で全身の力をふるった。首を絞めている髪の毛に比べて、両手に絡みついているものには力がない。手は動かせる。だったら。

 クローディアは伸ばした手で、ラナーニャの首を直接掴もうとしている。
 ――こちらから手を伸ばしても、届く。

 なぜ、クローディアはまだ動けるのか。

 術の核は心臓だった。それはきっと間違っていない。そこを貫かれたのだから、一瞬で消滅してもおかしくなかったはずだ。それなのに実体がまだあって、わずかなりとも力が残っていて――

 そうだ、思い出した。シレジアの人間が使う分体を生み出す術。あれは≪魂留たまどめ≫を利用するはずだ。
 クローディア本人がいつも身に着けているものを分体に身につけさせて……結びつきを強くする。それがある限り、

 かすみがかった妹の姿から、ラナーニャはそれを探そうとした。
 それを見つけて取り上げてしまえば――クローディアは今度こそ力尽きる。

 そうしなくては。この手でそれを行わなくては。このままでは自分が死んでしまう。

 死ねない。
 ――死なないと、シグリィに約束したから!

 クローディアはこちらを見て、不気味な笑みを浮かべていた。今わの際に勝利だけを信じている、壮絶そうぜつな笑みだ。あるいはラナーニャがもがき苦しんでいることが愉快だったのかもしない。

 その首筋に、きらりと輝くネックレスがあった。
 今までドレスの襟に隠れて見えなかった金色の鎖。

 。直感した。ラナーニャは思い切り手を伸ばした。クローディアが伸ばしていた手とすれ違う。お互いに首筋を狙っている。自分の息の根が止まる前に、あのネックレスを取ればいい。そうすれば自分は生き延びられる。

 ――この手でクローディアの形をしたものを消滅させることで

 とても長い時間に思えた。
 けれど実際には、本当にわずかな時間だったのだろう。

 遠くにいたジオはもちろん、カミルもセレンも手は出せなかった。後から考えてみれば二人とも、そのときは大きな力を行使した直後の硬直に陥っていたのだ。

 頭がひび割れそうに痛みを訴える。酸素が足りなくなりつつあった。目に見えるものがかすみがかって、ただクローディアのぎらつく目だけが見える。迫る毒色の指先が見える。死ねない。自分でやるしかない。自分で――

 ラナーニャは忘れていた。
 そのとき、もう一人その場にいたことに。

 その一人は洞穴の入口に――カミルの背後にあたる場所から、全てを見ていた。この場の誰よりも冷静な目で、土煙に抱かれていた姉妹の姿さえ――見通して。

 と、囁く声が聞こえた。

 地上で幾つもの〝力〟が動いた。

 それはカミルの指示でジオが動かしておいた石と、同じく彼が土を被せて埋めておいた草だ。どちらもクローディアの術の乱発で木端微塵こっぱみじんにされないために、避難させられていたものだった。合計数十個に渡るそれらが――

 一斉に。

 ――石からは、大地の≪脈≫と呼ばれるエネルギーが噴き出し、草々はその石たちの力をも受け取って、急激にその体を伸ばす。雑草とも呼ばれる彼らが、まるで蔓を伸ばすように伸びて、伸びて、

 その先端が、一点を目指した。

 晴れかかった土煙の中央。ラナーニャの目の前まで這い上がり迫っていた、漆黒のドレスの少女の首元へと――。



 土煙が風にさらわれ完全に晴れたころ、辺りはしんと静まり返っていた。

 ラナーニャの首や手に巻き付いていた髪が、するりと抜け落ちた。

 地面に落ちたそれらが、やがてかすんで消えていく。瞬きもせずに見つめるラナーニャの前で。

 力を得て闇色の少女の全身を捉え、その首からネックレスを引きちぎった草たちが、元の小さな草へと戻っていく。

 体の核と力の供給源の両方を失って、妹の姿をした分体は――

 苦しみの声さえを発することなく。夢のように輪郭から薄れ揺らいで、やがてネックレスの欠片だけを残し消え去った。
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