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第二章 誰がための罪。
5 商談
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商人の家、というものに足を踏み入れるのは、ラナーニャにとって生まれて初めての経験である。
(落ち着かない……)
応接室のソファに腰かけたまま、無意味に肩を縮める。広い広い応接室に、今、人はラナーニャとカミル、そしてたった一人の使用人しかいない。その空間の広さが却って気持ちに不安を呼び起こす。そう、ここは広すぎる。
「おかわりはいかがですか?」
ラナーニャの緊張に気づいているのだろう、使用人が紅茶のポットを手に優しく微笑んだ。
まだ歳若そうな女性だ。ポットの先端からは温かそうな湯気がふわふわと立ち昇り、その淡い白さが使用人の柔らかい物腰にとてもよく似合う。
しかしその洗練された風情が、ラナーニャの緊張をますます張り詰めさせた。
代わりに、彼女の隣にいたカミルが返答する。
「いただきます。彼女にもお願いします」
かしこまりましたと丁寧に応え、使用人はゆったりとした動作で新しい紅茶を淹れていく。
ほんのり甘い茶葉の香りが広がった。広すぎる空間の中でほんの一部に生まれる、見えない穏やかさ。
ラナーニャはほうと息を吐く。
――見えているものの優しさが分かるほど、不安になる。
慎ましい使用人は必要以上に客人に構おうとはしなかった。「御用がございましたらいつでもお呼びくださいませ」と言い残し、若い女性は静かに居間から立ち去っていく。
途端に、ラナーニャの肩から重い何かがどさりと落ちた。
名も知らぬ使用人の目を気にしていたのだと、彼女はそのとき自覚した。
「あの使用人は別に我々を監視していたわけではない。気にしないことです」
何も言わない内から、カミルがそんなことを言う。
隣に座ったまま。コップを手にする彼は顔をこちらに向けることさえなかったが、その声は優しく、その気配は力強い。
うん、と我知らずラナーニャはうなずいた。
「……あの人個人には、何も思わないんだけれど。多分……ああいう物腰の人を、恐れているんだ」
あの、人の世話をすることに身を尽くすような風情が、どうしても。
――彼らはそれが仕事だと、頭では分かっていても。
そうですかと返す青年は、決して深く聞こうとはしない。それがありがたいようなもどかしいような――自分でも掴みきれない心が鈍くうずいて、使用人はいなくなったというのにやっぱり落ち着かない。
首を振る。いらないものを振り落して、頭の中を軽くしようとする。
そうして浮かんできた疑問を、ラナーニャはことさら明るい声で隣の青年に尋ねた。
「どうして、今回はセレンがシグリィについていったんだ? いつもならカミルなのに」
今この場にいない二人は、オルヴァ・オストレムとともに、少し前に別室に移動した。この屋敷の主――バルナバーシュ・アティスティポラに挨拶するために。
その際、怪我人に会いに行くのにぞろぞろ多人数で行くのも忍びないと、シグリィは連れにセレンを指名して、ラナーニャたちには待機するように言ったのだ。
「そうですね。基本的にはいつも私がついていくんですが」
一口口に含んだ紅茶を喉に落としてから、カミルは何でもないことのように言った。「――今回はセレンが適任だというだけのことです」
「適任って?」
「交渉に適任ということです。この家のご当主との」
「――この……商家の……?」
セレンが商人と交渉、と思わず漏らしたラナーニャは、はっと口を塞いだ。
慌てて首をぶんぶん振る。しかし青年の耳にもばっちり聞こえてしまったらしい、彼は苦笑気味に微笑んだ。
「意外ですか? セレンがそういったことに赴くことが」
「い、いやそのっ。セ、セレンを馬鹿にしているつもりはなくて――た、ただ向いてな、じゃなくて」
駄目だ、言えば言うほど悪くなる。そんなつもりは本当にないのに、表現したいことがうまく言葉にならない。
結局ラナーニャは言葉にすることを諦めた。肩を落とし、「すまない」とか細い声で呟く。
「その反応は間違っていないと思いますよ。気にせずに」
笑みを少し柔らかく崩し、カミルはそう言った。「心配しなくて大丈夫です。交渉自体はシグリィ様がおやりになりますから」
「でも……それならどうしてセレンも……?」
おずおずとそう尋ねる。
自分の頭でも理由を考えてみるのだが、いまいちしっくりする答えが見つからない。多分、自分は必要な情報を持っていないのだろう――と、そうも思った。根拠などない。ただ、シグリィが自分に状況の全てを教えてくれているようには到底思えなかったのだ。
決して彼に突き放されていると思うわけではなかった。
そうじゃない。彼は冷静なのだ。彼らが置かれている状況の全てや、本当ならラナーニャが知っているべきことの全てを披露したときに、果たしてラナーニャが耐えられるのかどうか。きっとそれを冷静に計っているのだ。
カミルの返事には少しの間があった。
思案気に眉を寄せる。その目がラナーニャを一瞥した。ほんの一瞬の鋭い眼差しに、ラナーニャはぎくりと身を硬くした。
しかし気づいたときには、彼は再びいつものように、穏やかな微苦笑に戻っていて。
「この家が売り出しているものを思い出してみてください、ラナ」
「え……」
思わず呆けた返事をし、それから慌てて姿勢を正した。
「ええと、ま、魔術具」
「魔術具とは?」
「ええ、と? 魔力を秘めた道具……」
「それはどうやって作るものですか?」
「―――」
目を見開くラナーニャの前で、カミルは視線を応接室の扉へと流す。
丁度扉の前を、誰かが通り過ぎていく気配がする。そんなささいな気配のたびに、彼が必ずそちらを見ていることに、ラナーニャは気づいていた。
「……魔術具が一般に高価なのは、道具に魔力を定着させるという根本的な作業が大変難しいからです。アティスティポラともなれば専属の魔術師が数十人、小さな繋がりを入れれば数百人単位でいるのは間違いないですがね――それでも質と量を考えれば、腕のよい魔術師が一人でも多く欲しい」
だからセレンが適任なんです――と。
「セレンはああ見えて魔力の扱いには非常に優れています。何より、セレンの魔力は無尽蔵に近い。その力を認められれば、喉から手が出るほどに欲しがられるでしょう」
「魔術具……を……」
――《霧のカーテン》の代価はそれなのか。
気づいた瞬間、ひやりと心臓を冷たい風が撫でた。
カミルの口ぶりだけを聞けば、本当に大したことのない話に聞こえてしまう。
しかし、ラナーニャはかつてリーディナから学んでいたのだ。魔術具を作ることがどういうことなのかを。本来刹那的な力であるはずの“魔力”を、強引に無機物に入れて安定させることの、危うさを。
『それは人に夢を見させて、夢だけを取り出すようなものです。ただの夢ならまだしも、魔術師にとっての夢は精神に他なりません――』
魔術具の制作現場に長く居続けられる魔術師は少ないのだと。とても悲しそうに、リーディナは言った。
(そうだ。だからリーディナは、アティスティポラがあまり好きではなかったんだ。そうやって生み出す魔術具を“一般に広く気安く”行き渡らせることが、正しいことなのか分からないって、そう言っていたんだ)
忘れていた記憶の断片が蘇り、ラナーニャの心に暗い影を落とす。
だからシグリィはこのことを自分に言おうとせず、カミルも逡巡したのだろうか。
(落ち着かない……)
応接室のソファに腰かけたまま、無意味に肩を縮める。広い広い応接室に、今、人はラナーニャとカミル、そしてたった一人の使用人しかいない。その空間の広さが却って気持ちに不安を呼び起こす。そう、ここは広すぎる。
「おかわりはいかがですか?」
ラナーニャの緊張に気づいているのだろう、使用人が紅茶のポットを手に優しく微笑んだ。
まだ歳若そうな女性だ。ポットの先端からは温かそうな湯気がふわふわと立ち昇り、その淡い白さが使用人の柔らかい物腰にとてもよく似合う。
しかしその洗練された風情が、ラナーニャの緊張をますます張り詰めさせた。
代わりに、彼女の隣にいたカミルが返答する。
「いただきます。彼女にもお願いします」
かしこまりましたと丁寧に応え、使用人はゆったりとした動作で新しい紅茶を淹れていく。
ほんのり甘い茶葉の香りが広がった。広すぎる空間の中でほんの一部に生まれる、見えない穏やかさ。
ラナーニャはほうと息を吐く。
――見えているものの優しさが分かるほど、不安になる。
慎ましい使用人は必要以上に客人に構おうとはしなかった。「御用がございましたらいつでもお呼びくださいませ」と言い残し、若い女性は静かに居間から立ち去っていく。
途端に、ラナーニャの肩から重い何かがどさりと落ちた。
名も知らぬ使用人の目を気にしていたのだと、彼女はそのとき自覚した。
「あの使用人は別に我々を監視していたわけではない。気にしないことです」
何も言わない内から、カミルがそんなことを言う。
隣に座ったまま。コップを手にする彼は顔をこちらに向けることさえなかったが、その声は優しく、その気配は力強い。
うん、と我知らずラナーニャはうなずいた。
「……あの人個人には、何も思わないんだけれど。多分……ああいう物腰の人を、恐れているんだ」
あの、人の世話をすることに身を尽くすような風情が、どうしても。
――彼らはそれが仕事だと、頭では分かっていても。
そうですかと返す青年は、決して深く聞こうとはしない。それがありがたいようなもどかしいような――自分でも掴みきれない心が鈍くうずいて、使用人はいなくなったというのにやっぱり落ち着かない。
首を振る。いらないものを振り落して、頭の中を軽くしようとする。
そうして浮かんできた疑問を、ラナーニャはことさら明るい声で隣の青年に尋ねた。
「どうして、今回はセレンがシグリィについていったんだ? いつもならカミルなのに」
今この場にいない二人は、オルヴァ・オストレムとともに、少し前に別室に移動した。この屋敷の主――バルナバーシュ・アティスティポラに挨拶するために。
その際、怪我人に会いに行くのにぞろぞろ多人数で行くのも忍びないと、シグリィは連れにセレンを指名して、ラナーニャたちには待機するように言ったのだ。
「そうですね。基本的にはいつも私がついていくんですが」
一口口に含んだ紅茶を喉に落としてから、カミルは何でもないことのように言った。「――今回はセレンが適任だというだけのことです」
「適任って?」
「交渉に適任ということです。この家のご当主との」
「――この……商家の……?」
セレンが商人と交渉、と思わず漏らしたラナーニャは、はっと口を塞いだ。
慌てて首をぶんぶん振る。しかし青年の耳にもばっちり聞こえてしまったらしい、彼は苦笑気味に微笑んだ。
「意外ですか? セレンがそういったことに赴くことが」
「い、いやそのっ。セ、セレンを馬鹿にしているつもりはなくて――た、ただ向いてな、じゃなくて」
駄目だ、言えば言うほど悪くなる。そんなつもりは本当にないのに、表現したいことがうまく言葉にならない。
結局ラナーニャは言葉にすることを諦めた。肩を落とし、「すまない」とか細い声で呟く。
「その反応は間違っていないと思いますよ。気にせずに」
笑みを少し柔らかく崩し、カミルはそう言った。「心配しなくて大丈夫です。交渉自体はシグリィ様がおやりになりますから」
「でも……それならどうしてセレンも……?」
おずおずとそう尋ねる。
自分の頭でも理由を考えてみるのだが、いまいちしっくりする答えが見つからない。多分、自分は必要な情報を持っていないのだろう――と、そうも思った。根拠などない。ただ、シグリィが自分に状況の全てを教えてくれているようには到底思えなかったのだ。
決して彼に突き放されていると思うわけではなかった。
そうじゃない。彼は冷静なのだ。彼らが置かれている状況の全てや、本当ならラナーニャが知っているべきことの全てを披露したときに、果たしてラナーニャが耐えられるのかどうか。きっとそれを冷静に計っているのだ。
カミルの返事には少しの間があった。
思案気に眉を寄せる。その目がラナーニャを一瞥した。ほんの一瞬の鋭い眼差しに、ラナーニャはぎくりと身を硬くした。
しかし気づいたときには、彼は再びいつものように、穏やかな微苦笑に戻っていて。
「この家が売り出しているものを思い出してみてください、ラナ」
「え……」
思わず呆けた返事をし、それから慌てて姿勢を正した。
「ええと、ま、魔術具」
「魔術具とは?」
「ええ、と? 魔力を秘めた道具……」
「それはどうやって作るものですか?」
「―――」
目を見開くラナーニャの前で、カミルは視線を応接室の扉へと流す。
丁度扉の前を、誰かが通り過ぎていく気配がする。そんなささいな気配のたびに、彼が必ずそちらを見ていることに、ラナーニャは気づいていた。
「……魔術具が一般に高価なのは、道具に魔力を定着させるという根本的な作業が大変難しいからです。アティスティポラともなれば専属の魔術師が数十人、小さな繋がりを入れれば数百人単位でいるのは間違いないですがね――それでも質と量を考えれば、腕のよい魔術師が一人でも多く欲しい」
だからセレンが適任なんです――と。
「セレンはああ見えて魔力の扱いには非常に優れています。何より、セレンの魔力は無尽蔵に近い。その力を認められれば、喉から手が出るほどに欲しがられるでしょう」
「魔術具……を……」
――《霧のカーテン》の代価はそれなのか。
気づいた瞬間、ひやりと心臓を冷たい風が撫でた。
カミルの口ぶりだけを聞けば、本当に大したことのない話に聞こえてしまう。
しかし、ラナーニャはかつてリーディナから学んでいたのだ。魔術具を作ることがどういうことなのかを。本来刹那的な力であるはずの“魔力”を、強引に無機物に入れて安定させることの、危うさを。
『それは人に夢を見させて、夢だけを取り出すようなものです。ただの夢ならまだしも、魔術師にとっての夢は精神に他なりません――』
魔術具の制作現場に長く居続けられる魔術師は少ないのだと。とても悲しそうに、リーディナは言った。
(そうだ。だからリーディナは、アティスティポラがあまり好きではなかったんだ。そうやって生み出す魔術具を“一般に広く気安く”行き渡らせることが、正しいことなのか分からないって、そう言っていたんだ)
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