月闇の扉

瑞原チヒロ

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第二章 誰がための罪。

21 火勢に呑まれて

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 その結果、と冷静な声は終わりを語る。
「凄まじい力を得た四人の人間は、その力でもって大陸を、大陸の人々を護った。全てが終わってからも人間に戻れるわけじゃない。彼らはそのまま『神』となった。そしてその後も大陸を護り続けている――人々は彼らを正真正銘の『神』としてまつり始めた。そして現在に至る」
「……」
 それじゃあ、とラナーニャは一番の気がかりを問うた。
「地租四神の排斥って……?」
「ああ」
 シグリィは掌にあった木彫り像を指で立てながら、「今話した通り、現四神は地租四神の力と意識を乗っ取った。従って地租四神を『殺した』とも言える。そう考えた人々が、昔から現四神に抗ってきたんだ。地租四神こそが本物の神であり、大陸を護ってくれているのは、今でも地租四神の力だと」
「――…」
「そうなると今度は、現四神を『神』と呼ぶ人々の怒りに触れるわけだ。命を賭して力を得た四人の英雄を侮辱するのは許されない。ましてや――命を捧げながら、地租四神に呑まれてしまった人々の思いはどうなる、と」
 はたはたと、頭上から落ちるしずくが多くなる。シグリィの足下に、またひとつ小さな水たまり。
「――現四神を、英雄神を最初にあがめ始めたのは、地租四神に呑まれた人々の家族だったと言われている」
 ラナーニャは我知らず、足下の水たまりに視線を落とす。
 暗色の水の中に、幾重もの波紋が生まれては消える。永劫に続く繰り返し。そして波紋は水の縁にたどりついて行き止まる。その先に行きたければ、水を広げて行くしかない。
 ……そうして信者たちもお互いに、お互いの思いを広げていくしかなく。
「シレジアで……」
 ラナーニャの脳裏に、教師たるリーディナが優しく語る姿が蘇る。
「まともに教えてもらえないのは、イリス様のため……だったのかな……」
 おそらくそうだろうねと、シグリィがあっさり言ってくれたのがありがたかった。
 彼はこんなときに、嘘やごまかしを言わない。
 ラナーニャは唇を噛んだ。――イリス様のため。
 我々があがめるのは愛の女神。他人の力を奪って成り立つような神であってはならないと、誰かがそう思ったのだろうか。
 そして国の誰もが、きっとそのことに疑いを持たないのだ。自分の――ように。
 ――ラナーニャが口を閉ざすのに合わせたように、シグリィたちも口を閉ざす。
 夜が闇色を濃くしていく。
 シグリィとセレンが空を見ているのを知っていた。だが、ラナーニャは一人足下を見ていた。水たまりは尽きぬまま――
 やがて雨雲が位置を動かし、町を攻める雨足が軽くなった。
「よし。今なら行けるか、セレン」
「もちろんです!」
「ラナ、今から転移を行う。大丈夫か?」
「――」
 顔を上げると、シグリィと目が合った。その後ろではセレンも心配そうな顔をしている。
「転移……ええと、クルッカへ、か?」
「ああ。カミルとオルヴァさんの様子を確認しなくてはいけない。それに」
「ユードという人を追う……のか」
 我ながら不安に満ちた声が出たと思う。シグリィは少し笑った。
「そう。その通りだ。彼と話をしなくてはいけない」
 ユドクリフ・ウォレスター。
 自分たちが捜していた人。だが、こんな状況で会わなくてはいけないとは予想だにしていなかった。
 彼に会って何を話せばいいのだろう。それを考えると混乱してしまう。だからラナーニャは正直に、どんな話をするんだと訊いた。
 シグリィは迷わず即答した。
「簡単だ。こういうときは目の前の話からしていくんだよ、ラナ」

 セレンが空中に編み上げた転移魔法陣は仄赤く黄金色に輝き、この世とも思えないほど美しい。
 雨足が弱まるのを待っただけあって、その魔法陣は天候をもろともせず存在し続け、そしてセレンの一声で発動した。

*****

 ……何かが燃えてる臭いがする。
 息を吸い込んだ拍子に臭いが強くなった。脳を刺すような刺激臭だ。オルヴァは飛び起き、げほげほと咳をした。
 周囲が真っ赤に染まっていた。
「――」
 燃え上がる炎が間近にある。自分の周辺を囲んでいる。炎の塊がぽとりと天井から落ちた。オルヴァの手元に火花が跳ねて、オルヴァは慌てて手をどけた。
 めきめきと、何かが崩れる直前のような音がする。
「起きましたか」
 カミルのくぐもった声がした。彼は口元を押さえ、床に片膝をついた姿勢でオルヴァの傍らにいた。
「なかなか起きなかったので、自前の気付け薬を飲ませました。強い薬なので少し気分の悪さがあると思います」
「ああ……すまん」
 喉を押さえる。強い不快感があるのは薬のせいだろう。体がひどく重いのは――
(薬のせいじゃないな。術のせいか)
 急激に襲ってきた睡魔。思い出し、オルヴァは舌打ちした。なんたるザマだ。
 体の重さに耐え、とにかく体勢を整える。姿勢を低くしながら、改めて周囲を見渡した。
 四方八方から炎が迫っている。火花が飛んできては、肌に弾かれたような痛みが走る。炎が目に痛かった。自然と、目が細まっていく。
 扉があったはずの場所も見事に火壁になっていた。むしろそこが一番火勢が強い。
「小屋に火を放ったのか?」
「そうらしいですね」
「俺はどれくらい眠っていた?」
「五分ほどかと」
 オルヴァさんが眠った直後に火が出ました――とカミルは説明した。
「この火も術でしょう。単純に考えれば朱雀の術でしょうか」
「俺を眠らせたのもそうだな」
「ええ」
「お前さんは眠らなかったのか?」
 カミルは首を振った。「生半可な術は私には効きません。護符を持っています」
 そう言えばカミルはアミュレットを首にかけていた。オルヴァは苦笑した。
「俺も一応、国で護法術をかけてきているんだけどなあ」
 国に帰ったら宮廷魔術師たちに文句を言おう。それはそれとして、
「ここから出るか。……危険だがどこかを壊すしかないな」
「私がやります」
 カミルは剣を抜いた。比較的火勢の弱い壁を選び、炎ぎりぎりまで近づいていく。
 オルヴァは後ろから慎重に様子をうかがった。喉がからからになり、汗が噴き出してくる。
 それでも彼は、冷静さを失わなかった。
(ゼンたちが俺たちを殺そうとしている。理由は不明。あるいは最初から殺すつもりで俺たちを村に呼んだか)
 だとしたら隠れ里とも言うべき村に簡単に彼らを入れた理由もうなずける。
 カミルが剣を構える。空気の流れに煽られて、火が猛然とカミルの顔を撫でようとする。彼は一歩も動かない。
(昔、ここの調査に来た白虎の傭兵たちは? 殺されたわけじゃない。発狂したんだ、そいつらは)
 オルヴァはカミルの動きをつぶさに見る。同時に、静かで冷たい分析を頭の中で組み立てていく。
(だとしたら、俺たちはその傭兵たちとはまったく違う事態に遭っているのか? それとも関係があるのか――)
 カミルの剣が閃いた。
 火が一瞬、かき消されるように消える。同時に炎の奥にあった木壁を、剣は正確に打つ。鈍い音がする。四散していた炎が勢いを取り戻す。
 同時に壁が轟音を立てて崩れ始めた。炎に照らし出され、外が見えた――
 先にカミルが、そしてオルヴァも、炎を中をくぐり外へと飛び出した。
 衣服に炎がまとわりつく。二人で地面を転がった。火の粉をはたき落とし、火を鎮圧する。
 転がりながら視界の端で見た小屋は、この森の中でまばゆいほどに明るく燃えている。他の樹木に火が移る様子はない。やはり朱雀の術だろうか。
 服についた火が消えた。すぐさま起き上がり、オルヴァは顔を拭った。体中が痛かったが、たいした怪我ではなさそうだ。
 それからまもなく、轟然と小屋は焼け落ちた。
 火が、煙のように消えた。後には黒焦げになった家屋の残骸が残された。
「無事ですかオルヴァさん」
「何とかな」
 声をかけあい、同時に辺りを鋭く見渡す。ゼンたちはどこだ、きっと見ている――
 ぱちぱちと、まばらな拍手が空虚な夜に乾いた音をさせた。
「よくお逃げになりましたね」
 オルヴァはカミルとともに振り向いた。森の木の陰から、複数の人々が姿を現した。ゼン、ルナ、……他にも何人か。
 ルナは相変わらずの明るい表情をしていた。そして相変わらずの明るい声で、こう言った。
「すごぉい、魔女様の火術から逃げられた人初めて見た!」
 ね、ね、と他の村人たちに同意を求める。まるで本当に感動的な一場面でも見たかのようだ。
「何のつもりだ、いったい」
 ゼンをねめつけ、オルヴァは一歩前に出た。「俺たちを殺したかったのか。いったい何のために?」
 ゼンは神妙な顔でうなずいた。
 その彼の、倦んだような顔つきさえよく見えたのは、彼ら全員が背後に光を背負っていたからだ。正しく言うならば光球――朱雀の術の灯りである。
 朱雀の術者が確実に近くにいる。だが、それがどの人物なのかが分からない。
 やがてゼンは、全員を代表するかのように一人、口を開いた。
「……火は恐ろしいものでしょう。いかがでしたか」
「――」
 オルヴァの脳裏に、何か閃くものがあった。思わず凝視した先で、ゼンはゆっくりと微笑みを形作る。
 その唇が小さく、動いた。低く――まるでここにいない誰かのために、呟くように。
「……は、……かい」
 世界が、ぐにゃりと歪んだ。
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