月闇の扉

瑞原チヒロ

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第二章 誰がための罪。

37 それは“彼女”の

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 シグリィが戻ってきた。彼が五体満足でこちらへ駆けてくるのを見て、ラナーニャは全身から安堵のため息をついた。
「ラナ、ありがとう――また朱雀神を呼んでくれたんだな」
「そ、そんなつもりではなかったんだけど」
 しどろもどろに返答する。実際、もう一度朱雀神を召喚できるだなんて思っていなかった。今度はあの小さな像もないのだ。
 ただ――可能性にかけて、祈り続けただけ。
「君はすごいな」
 そう言って、シグリィは微笑んだ。
 ラナーニャは恥ずかしくなってうつむいた。これが自分の力だなんて思い上がるわけではない。でも――彼に褒められるのは嬉しい。
 シグリィはラナーニャの肩をぽんと叩いて、それからクルッカへと向き直った。
 彼を魔女の力の中から引っ張り出すことには成功した――けれど、根本的には何も解決していない。魔女の幻影はクルッカで再び形を取り戻し、ゆらゆらと大空に揺れる。
 愉悦の笑みを浮かべて。
『素晴らしいこと……素晴らしいこと! 一晩に二度も朱雀様のお姿を見ることができるなんて。それもこれもあなたのおかげですね、マリアの生まれ変わりよ――』
「……っ」
 呼びかけられ、ラナーニャは思わず後ずさる。あの女性には、もはや言葉が通じる気がしなかった。
 この世で恐ろしいもののひとつは、何を言っても通用しない人間だ。
 そんなラナーニャをかばうように、シグリィが前に立つ。
「向こうでは何もできなかったが……収穫なしではなかったよ。私に任せて」
「シグリィ」
 彼は再び歩き始める。クルッカの魔女を目指して。
 魔女は悠然と空に漂い続けている。輪郭が常に形を変え、女は不定形になりつつあった。たぶん――それが歓びの表現なのだ。
 そうしてゆらゆらと揺らぎながら、シグリィに語りかける。
『お前に何ができるというの。≪ひずみ≫の子よ』
(ひずみ……?)
 何の話。ラナーニャはごくりと喉を鳴らした。何だか――とても大切なことを話している気がする。
 対するシグリィも、あくまで泰然と。
「できるだけのことはするさ。≪ひずみ≫にも力はある」
 クルッカの境界で足を止める。
 シグリィは無造作に右手を前に突きだした。
 ぱちり、と白い電光が走った。魔女の力とシグリィの力が衝突して、光を放ったのだ。
 シグリィはその右手を横に薙ぐ。クルッカに充満する魔女の力を引き裂くように。
『―――!』
 暴風が巻き起こった。離れてい見ているラナーニャの体勢をも崩すほどの荒風。遠くで木々が激しく揺れる。今晩一晩で、すべての葉が落ちてしまうかもしれない。
 シグリィは腕を前に突きだしたまま一歩一歩進んだ。白い電光がちりちりと空中に散り、嵐は彼の髪をかき乱す。それでも、まるで足取りを乱さない彼。
『貫け。北に眠る神は人を厭う!』
 氷柱がシグリィを狙った。
 シグリィの指先がついと空中に線を描いた。青白い光が一瞬またたいて消え、同時に見えない壁が氷柱を遮った。
 シグリィの得意な技のひとつ。結界だ。朱雀ではなく玄武の。
 魔女が半狂乱になって次々と魔術を繰り出す。そのすべてはシグリィに向かっていた。シグリィはそれらをすべて結界で防ぎきったようだ。やがて術の嵐が途切れたとき、彼は平然とそこに立っていた。
 決して楽なことではないだろうに。
『なぜ。なぜだ!』
 女の憤りの声がこだまする。ざわざわと、空気が不穏に揺らめく。
『私には地租四神様のご加護がある。それなのに……っ!』
「地租四神の加護があろうと、あなたが使っているのは英雄四神の力だ」
 シグリィの淡々とした声が聞こえる。たぶん、ラナーニャにも聞かせようとして。
「……だったら、私にやりようがないわけがないさ」
『お前……っ』
 女が詠唱前の呼吸に入ろうとする。しかしその寸前にシグリィの右腕が空を薙いだ。空に四角形を描く――空間固定。そして、
「<虚無>」
 不定型な女の体が消し飛んだ。断末魔の叫びだけが後を引いて空を渡る。
 あの体は本体ではないから、もちろん時間が経てば復活するのだ。だが――
 シグリィはその隙にクルッカの中央へと駆け込んでいく。
 ラナーニャは目を細めて、シグリィの動きをよく見ようとした。彼が目指しているのは……魔女の胴体があった下あたりだろうか。
『させぬ!』
 復活が早い。声をそのまま詠唱にして、シグリィを真空刃が遅う。
 シグリィがひらりと飛び上がった。不可視の刃は彼の足下を深く抉り飛ばした。風圧が彼の体を少しぐらつかせたようだ――だが、
 彼の右腕が再び横薙ぎにふるわれる。シグリィによる珍しい詠唱なしの真空波が、ある一部分の地面を抉る。詠唱のない魔術は暴走しやすいが、その分威力が出る。巨大な圧は、地面の土をごっそりと持っていく。
 そうして彼は、
「見つけた」
 できたクレーターの中へひらりと飛び降りた。
 女の甲高い声が空気を引き裂いた。悲鳴――だったのだろうか。
 シグリィはかがみこんで、土の中から何かを拾い上げた。そうして――
 彼が、何かをつぶやいたのが分かった。ラナーニャからは背中しか見えない。けれど、その首が動くのが見える。まるで首をかしげているかのように。
「シグリィ……!」
 耐えられずラナーニャは声を上げた。シグリィが顔を上げたのが分かった。その頭上に幾つもの氷柱が今にも落ちようとしている――
『それを戻しなさい! 戻して……!』
 半狂乱の女は悲鳴を詠唱へと変えて、次々と魔術を乱打した。シグリィは無数に振る氷柱と真空波を、体さばきと結界とでしのぎ切った。雨あられのように振る術の中を駆けてくる。ラナーニャのほうへと。
 そして彼は、クルッカの森の境界線を――越えた。
『返しなさい!』
 咆哮が追ってくる。クルッカ跡地の空間が、ひび割れるかのように軋んだ音を立てる。
 シグリィは女を振り返った。右手を掲げる――その手にしていたものを、ぶら下げて揺らす。
 それは魔術の光を浴びて、ゆうらりと浮かび上がった。
(貝……?)
 ラナーニャはそれを不思議な思いで見つめた。それはどう見ても貝のペンダントだ。何の種類の貝かは分からない。土に埋もれていたためかすっかり薄汚れているが、かろうじて形を保っている。
 これが魔女のものなのだろうか。だとしたら、いったい何年前から土に埋まっていたのだろう。よくぞ無事だったものだ――
 否。
「それが、魔女の核……?」
「そのはずなんだが」
 当のシグリィが腑に落ちなさそうにそう答える。自分の手にしたペンダントをためつすがめつ、何度も裏返しながら。
「――違う」
 信じられないと、言いたげな声が落ちた。
 魔女の罵声はまだ続いている。まるで透明な壁の向こうでわめいているかのように。
「核じゃなかったということ……?」
「いや、それは間違いない」
 ラナーニャ、とシグリィは急に彼女を呼んだ。
「≪魂留め≫は、思い入れのあるものでなければ、できない術だろう?」
「え……? あ、ああ。ずっと身につけていたか、ずっと大切にしていたものじゃないと――」
「そうか」
 シグリィの声に感慨深そうな響きが混じる。
 何を思っているのか――見つめるラナーニャの視線の先、彼は大空で叫喚する魔女に顔を向けた。
「私の勘違いだったんだな」
 つぶやく。憐れみの――視線で。

「……これはマリアさんのペンダントじゃない。あなたももらっていたんだな――彼から」

 それがどういう意味なのか、ラナーニャには分からなかった。
 ただ……それを境に、魔女の怒号が止んだ。
 まるで小さな穴があき、そこから力が抜け落ちていくかのように――魔女は見る間に憔悴した。空を埋めつくさんばかりの大きさに変わりはないのに、その存在感が縮小していく。
『……よくも』
 こぼす声も、力なく。
 そうかとシグリィはつぶやいた。優しい――声で。
「……あなたも、大切にしていたのか。このペンダントを」

 ――意味は分からない。分からないのに。
 なぜかひどく――悲しくなった。
 何もない森の中に幻影が見えた気がした。一人の男と、一人の――女。

「ラナ」
 シグリィの声で我に返る。「な、なに?」慌てて返事をすると、
「もう一度朱雀神を呼ぶことは叶わないかな」
「朱雀神を……?」
 なぜ、と思わず問うと、シグリィは貝のペンダントをじっと見つめて、
「このペンダントは壊さなくてはならない。だが……できることなら彼女のことは、地租四神に任せたい」
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