月闇の扉

瑞原チヒロ

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番外編

言の葉朽ちて、――1

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 本を愛する者にとって、本を書く者ほど魅力的なものはない。
「この村には有名な『シファンの香り』の作者が住んでいるといわれているんだが……」
 読書好きのシグリィは、クオルスの村にたどりついたとき、高揚感を隠せずにいた。
 『シファンの香り』。小説である。シファンという空想の香料をめぐる人間模様を描いた柔らかな小説だった。それはこの小さなクオルスの村から、東大陸の全土にまで広がるほど有名な。
 それは極めて妙な状態だった。普通、本の作者は印刷技術の発達した地域の中心部にいることが多いからだ。
 こんな小さな村に、しかし『シファンの香り』の作者はいる。
 シグリィは連れの二人に、「無理を言って悪かったな」と言った。
 すると連れのうち一人――十歳歳上の女性セレンは、突然シグリィに後ろから抱きついて、
「もうシグリィ様ったら、なに遠慮してるんですかー? 私たち一心同体! シグリィ様が行きたい場所ならどこにでも行きますよう。だから好きなところ行きましょー?」
 シグリィは優しい圧迫感を感じながら、視線でもう一人を見やる。
 こちらはシグリィより一回り歳上の青年――カミル。視線に気づき、穏やかに微笑んだ。
「セレンに同じく。シグリィ様が遠慮なさる理由はありませんよ。我々の旅には目的がないのですから」
「そうか」
 ありがとう、とシグリィは言った。
 空気のように当たり前に傍にある、二人の無条件の優しさが身に染みてありがたかった。


 村に足を踏み込むと、するりと空気が変わるような、不思議な感覚があった。
 人間が住む領域に踏み込んだ証だ。人間たちは無意識に、“迷い子”に対するバリアを張る。無論玄武の《印》を持つ者たちの張る結界とはまるで違う、集団という名のバリアであり、それはとてももろいものでありながら、たしかに機能している。
 同時にそのバリアは“迷い子”以外にも反応することがある。
 よそ者。
「――あらあ、どちら様?」
 しかし最初にかけられた声は、大して警戒した声ではなかった。
 洗濯物を抱えて家の外に出てきた際に、村に入り込んできたシグリィたち一行を見つけた婦人が、呑気な調子で、「どなた?」ともう一度訊く。
「旅人です」
 シグリィは微笑んだ。おやまあ、と女性は洗濯物の入ったかごを地面に置いて頬に手を当てた。
「旅人さんかぁ。やっぱりリシェルド目当てかしら?」
「――そうですね、旅なのでどこにでも興味はありますが、一番はやはりリシェルドさんです」
「うんうん、大抵の人はそう言うわあ」
 婦人は何の抵抗もなく受け入れたようだった。
 リシェルド・パーカー。クオルス村に住む一人の青年。
 小説家。そうでありながら、国の中心部には決しておもむかない人間。
 彼の本は買いつけに来る業者がいるのだ。このご時勢、わざわざ危険な旅をしてまで買いつけに来るのだから、彼の本の価値を推して知るべしというところか。
 そしてどうやら――
 婦人の言葉を聞く限り、リシェルド目当てにやってくる、シグリィのようなただの野次馬もそれなりにいるようだ。
「リシェルドさんには会えますか?」
 シグリィは尋ねてみた。婦人は洗濯物を一枚取り上げてパン! と広げてから、
「執筆中でなければねえ。あの子は人嫌いではないから」
「そうですか。リシェルドさんの家を教えていただけますか」
 婦人は洗濯物片手に、指を差した。
「ほら、あそこよ。あの小高い丘の上」
「―――」
 シグリィは目を細める。村の中心とも言える場所に――
 小高い丘、そして。
 こぢんまりとした木造の小屋があった。

 目的はリシェルド・パーカーだったわけなのだから、迷わず彼の家に直行することに決めたシグリィたちは、その小高い丘を登る。
 家に向かうための細い道の両側には、柔らかそうな春の若草がたくさん生い茂っていた。手入れはしていないらしい。していなくても、高く育つ類の植物ではないなとシグリィは頭の中の植物図鑑と照らし合わせる。
 道を通る者は多いらしい。もしくは小屋の家人がよくここを行き来するのか。小石さえも両端に追いやられ、道は自然とよく整備されている。
 そして道は、まっすぐに――小屋のドアの前へとつながっている。
「シグリィ様」
 セレンが楽しそうにつついてくる。「嬉しそうですね」
「うん? そうか?――そうか」
 自分の表情になどとんと頓着のないシグリィは、言われて自分の顔をもにゅもにゅともんでみる。隠す必要はありませんよう、と女に笑われた。
 小屋は板張りの、とても売れっ子作家が住んでいるとは思えない小ぶりで質素な造りだ。外側は白く塗られ、反射する太陽光がまぶしい。
 シグリィはふと足を止める。
 小屋の横に、大きな樹が立っていた。
(………?)
 それを見つめたきり、彼の動きは止まった。
「シグリィ様?」
 荷物持ちのカミルに声をかけられ、シグリィは口元に手をやる。
「カミル……セレン。あんな樹を、見たことがあるか?」
「え?」
 二人の連れは、言われて少年の視線の先にある樹を見つめた。
 どうということもない。普通の樹だ。そう、二人はそう言うだろう。事実、
「……ウツギの樹じゃないでしょうか。特に、おかしなところは見当たりませんが……」
 とカミルはあごに手をやりながら目を細め、
「あんな樹どこにでもありますよう」
 とセレンがきっぱり言う。
「……そうだな」
 と応えながらも、シグリィが納得できずに首をかしげてその樹を見つめていると、ふと樹の陰に人影を見つけた。
「ん? 人がいる」
「いますね」
「リシェルドさんじゃないですかー?」
 言って、セレンがシグリィの背中を押した。
「さ、声をかけに行きましょう!」
 シグリィはゆっくりと、人影に近づいていった。心が弾んでいた。彼はそのとき、一人の読書好きの少年でしかなかった。
 
 
 果たして、リシェルド・パーカーは大樹の陰にいた。
 穏やかそうな青年だった。肩まである亜麻色の髪はさらさらと指どおりがよさそうだ。瞳はサフラン・イエローをしている。それこそ小説の中に出てきそうな美青年である。
 セレンが小躍りしているのが分かった。彼女は美形好きなのだ。
 リシェルドは近づいてきた妙な三人組を見て、微笑んだ。
「旅人さんかい。上から見ていたんだけど」
 シグリィはうなずいた。
「あなたに会いにきました。リシェルド・パーカーさん」
 すると青年は軽く笑って、
「シェルでいい。本名はシェルだ。家名もない。リシェルド・パーカーはペンネームだよ」
「……村人の方もリシェルドと呼んでいましたが……」
「今ではすっかり定着してしまってね」
 リシェルドは小脇にかごを抱えている。そこに、大木が身にまとっているたくさんの葉を一枚一枚つみとり、入れていた。
「……これはウツギの樹ではないのですか?」
 シグリィは尋ねた。
 リシェルドは一瞬、シグリィの目を見た。シグリィの黒水晶の瞳。常に不思議な光を帯びている瞳。それを見て、
「……君は、この樹の不思議を見抜いているのかな」
 と微笑する。
 シグリィは嘆息した。
「不思議というか、違和感というか……普通のウツギではないと、思って」
 落ち着かなくなって、ぽりぽりとこめかみをかく。返ってきたのは、ははっという軽快な笑い声。
「その通りだよ。だけどまあ……こいつが言うことを聞くのは僕だけだからね」
 ぽん、と大木の幹を叩き、
「さてお客さん。うちに入るかい? もしよかったらお茶を出すよ」
 気のいい作家は、そう言って笑った。
 
 小屋の中はやはり質素だった。必要最低限の物しかない。
 ただ一部分をのぞいて。
 ――小屋の片隅、一番太陽光が入りやすい窓の傍に、机がある。その上には紙と、たくさんのウツギ――らしき樹――の葉が散らばっている。
 シグリィは首をかしげた。机の上に、ペンがない。
 間もなく、小屋の中は美味しそうな紅茶の香りで満たされた。
「この村で紅茶なんて飲むのは僕ぐらいのものだけれどね」
 リシェルドはテーブルを囲んだシグリィ、カミル、セレンの前にカップを並べながら言う。
「この村では緑茶が主流だ。紅茶は町から仕入れなくれはならなくて、高いからな――もっとも、僕が分けたところで、みんなはまずいといって飲まなかったけれど」
 カップに紅茶を順に注ぎながら、「だから」と作家は言う。
「こうして、一緒に紅茶を飲んでくれる人が来てくれると、嬉しい」
「他にも、あなたに会いにきた方には紅茶で?」
「そうだねえ」
 自分のカップにも注ぎ、テーブルの中央に茶菓子を置いて、彼自身も椅子に座る。
 この小屋に椅子が多いのは、やはり来客数の多さを表しているのだろう。何しろ買いつけにくる業者にしたって、一人で来るわけには行かない。
 この村と印刷技術の発達している街の間には、歩きで十日間の隔たりがある。
 十日間も旅をしなくてはならないのだ。一人ではとても来られまい。“迷い子”のいい餌である。少なくとも雇われた護衛がついてきているはずだ。
 そんな彼らに、リシェルドはこうやって紅茶をふるまうのだろう。
 逆に、彼らから紅茶の葉をもらうこともあるのだろう。
 ――淹れたての紅茶はすっと喉を潤して体の中に染み渡る。
 紅茶の香りは、慎重派のシグリィを正直にさせた。
「シェルさん」
「なんだい?」
「なぜ都心に行かないんですか? その方が色々楽でしょうに」
 きっと、今まで散々尋ねられたに違いない問い――
 リシェルドは微笑んだ。
「僕はここでしか書けないんだよ」
「………? 環境が変わると書けない?」
「まあ、そんなようなものだね」
 どうやら微妙に違うようだ。シグリィはとても興味を持った。
 が、リシェルドはそれ以上話してくれようとはしなかった。
「君ら、もうクーノのところへ行ったかい」
 突然話を変え、ふうと紅茶から立ち昇る湯煙を吹く。
「クーノさん? いえ。今初めて聞く名前です」
「そりゃ急いで僕のところへ来たんだねえ。クーノは僕のところへ来る客を泊めている、いわば宿代わりに家を提供してくれるやつだよ。村の西の、ひときわ濃い茶色の屋根のところだ。宿ならそこに行きなよ」
「それは……ありがとうございます」
 こういった村には普通宿屋がない。だから村人の家に泊めてもらうのだが、今回は宿を探す手間が省けるらしい。
「もしよかったらまた明日も来たいんですが、執筆のお邪魔ですか」
 シグリィは言ってみる。
 リシェルドは声を立てて笑った。
「僕は筆が早いのが自慢でね。いいよ、また来るといい――」
 どうやら彼らは、売れっ子作家のお気に召したらしい。
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