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番外編
ほほえみ――8
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さざめいていた森に、やがて静けさが浸透していく。
それは今までの“死んだような”沈黙とは違った。
(……鼓動が聞こえる)
靴の裏から覚えのあるリズムを感じ取り、セレンはほっと口元をゆるませた。片手に灯りを生み出し、森に掲げる。
痩せ細った木々たち。ずっと押し殺していた呼吸をほうと吐き出した後の、弛緩した空気が合間に流れていた。
「終わったようですね」
≪糸≫を繋げたカミルはそう言いながら、何度も泉の周辺の景色を見回している。簡単に剣をしまわないのは長年の習性だろう。セレンは彼のその手をぽんと小突いた。
「もう大丈夫よ。最初からこの森に敵はいないわ」
泉のほとりを振り返る。
そこにあった小さな草は、セレンとシグリィの力によって消滅していた。
抉れて露わになった土肌がわびしく思えて、心の隅がちくりと痛んだ。
――ここにいたのは敵ではない。
「“心残り”……よ」
かつてここにいた誰かが遺した、思いの欠片。
「ようせい――」
ノエフがぽつりと呟いて、よろけるように泉のほとりに歩み寄った。膝をつき、抉り返った土におそるおそる手を伸ばす。
(妖精ではないわ)
セレンは目を閉じ、心の中だけでノエフにそう話しかけた。
(あれは玄武の力……四神の力を扱えるのは四神自身と、そして『人間だけ』……。だから)
けれど今となってはどうでもいいこと。
瞼を上げた彼女は、ノエフの肩に声をかける。
「もう大丈夫よ、ノエフくん。外に出られるわ」
「あ――うん」
ノエフは虚を突かれたような顔でセレンを見上げた。その拍子に、片手に握りしめていた草がはらはら落ちた。一拍遅れて気づいたノエフは、大慌てでそれをかき集める。両手が汚れることなど構いもしないその姿を、セレンは愛おしく思う。
「さあ行こっか。シグリィ様が待ってる――あら?」
受け取ったままだった≪糸≫に動きがあった。伝わってくる信号は『戻ってこい』ではなく、『そちらに行く』だ。
「シグリィ様、こっちに来るつもりみたいね?」
カミルに顔を向けると、青年は首を横に振った。彼はそれを言われていないらしい。セレンにしても、今さらかの少年がこちらに来る理由など皆目見当もつかないのだが。
「まあとにかく、待ってみましょうか」
それに。セレンは灯りを泉の方に向けて照らしながら、ノエフに向かって笑いかけた。
「ここで渡した方が効果がありそうじゃない。ね、ノエフくん!」
その言葉に、ノエフは大きく目を開き――そして、うんと力いっぱいうなずいた。
セレンとノエフには悪いことをしてしまった。森を駆け抜けながらシグリィは心の中で少しばかり後悔する。
自分がそっちに行く、などと。
セレンは気にしないだろうが、ノエフは一刻も早く村に帰りたかっただろうに。
(だが……見たかったんだ)
“始まりの森”の内部を。
そして、泉を。
いったん村に引き返して、また明日にでも出直せばいいのかもしれない。
否、今この時の森の様子を見ておきたかったのだ。力の暴走を治めた、その後の森を。
――あの≪虚無≫の発端が誰にあったかなど、シグリィは知らない。人間であったのは間違いないだろう。ラティシェリ神ならば己の力を暴走させるはずはなく、そして四神の力を扱える存在は人間の他にいないからだ。
かつてこの森にいた誰かが遺した、力の欠片。
見たかったのだ。はっきりとした理由もなく。たしかめておきたかったのだ――かつてこの森にいたのであろう、ラティシェリ神と何かしらの繋がりがあったはずの人間の残滓を。
道ならぬ道を抜けながら仰ぎ見る木々と細かな梢。
北国の冷たすぎる風が舞い戻ってきて、悪戯をするように褪せた色の葉を撫でていく。
だが。むき出しの木々も葉も、風を拒むことはない。ただされるがままに揺れるだけ。
決して寒さを好むわけではないのだろう。
けれども、――植物は寒さを嫌っているわけではないのかもしれない。
もしも植物たちに自ら移動する手段があったとして――彼らは一斉に温暖な地に向かうのだろうか?
シグリィには分からない。けれど。
(寒いままでいい、ということかもしれない。この土地は)
だからきっと、かの女神はこの土地を選んだのだろう。
――……
眼前に、突然ぽっかりと開いた空間が現れる。
泉はたしかにそこにあった。波紋ひとつない静かな水をたたえて。
「シグリィ様~っ。ありがとうございました!」
ほとりにいたセレンが、灯りを掲げた手を軽く振って見せる。その声だけで、セレンの状態は大方把握できる――駆け寄ったシグリィは、まずノエフを見た。
小さな三男坊はシグリィを見たとたん、きゅっと唇を引き結んで硬い表情になった。自分はまだ警戒されている。どうしたら安心させてやれるのか。例えばセレンならどうするだろう? 表情を動かせなくても、彼女なら。
ふと思いついたことを、シグリィはすぐに実行した。
「ノエフ。よかった、無事だったんだな」
――言葉にすること。
ノエフは軽く目を見開いて、それから視線を泳がせた。
「う、おう……」
セレンの生み出した明るい光源の下で、幼い少年の頬がほのかに赤みを増した。もごもごと動く不器用な口。多分シグリィと同じように、まだまだ自分の気持ちをうまく伝える方法を知らないでいる――とても未熟で、そしてとても微笑ましい口。
「……ごめん。あの、助けにきてくれて、ありがとう……」
シグリィはうなずいた。とにかく、反応を見せることだ。自分は人形ではないのだから。
「怪我は?」
「な、ない」
「何よりだ。ご家族が安心する。……何を持っているんだ?」
視線はおのずとノエフの手元に落ちた。握りしめた手から見えているのは、どうやら草のようだ。手自体も汚れているように見える。幸い怪我ではないようだが。
ノエフが一瞬、緊張したようにぴんと肩を張った。ちらりと泉の方を一瞥した目が、やがて決然とシグリィを見すえる。
シグリィは小首をかしげた。
唐突にノエフはその手を――草を握ったその手を、シグリィに突きつけてきた。
「これっ! お前に、やる……!」
「………?」
予想外の言葉に、瞼がぱちぱちとしばたいた。
それから、ふと思った。――おや、自分は今、意識せずとも表情が動いたような。
ノエフは頬を果物のように真っ赤にして、早口でまくしたてた。
「俺の村じゃゆーめーなんだ。“おしゃべり妖精の草”ってハナシに出てくる草なんだ。これセンじて飲むと、しゃべるのうまくなったり元気で明るくなったりするんだ。あのハナシの妖精みたいに!」
そこまで一気に言ってから、慌てて「あ、“おしゃべり妖精の草”ってのはえーと、この森に住んでた妖精がラットさまと出会って、そんで力もらって女神さまをまもってそのあと――」
*
長い長いあいだ、妖精さんはめがみさまの泉をまもりつづけました。
森にはめがみさまのおはなしを聞きつけた人間たちがいくどもやってきましたが、すべて妖精さんが追いはらいました。
ここは、めがみさまのばしょだから。
めがみさま。哀しくなったらいつでもここに戻ってきて。
妖精さんがくちぐせのようにそういうのを、森の動物たちは聞いていました。
妖精さんのいのちがつきるその夜にさえ。
それは月のない夜でした。
泉のかたわら、常に生えていたあの草が、枯れてしまった夜でした。
いつもならお外に出ない動物たちも、こよいは妖精さんをかこんでしずかに泣いていました。
おともだちのひとりは叫びました。めがみさま、どうか今夜だけ、こいつのためにいらしてくださいませ。どうぞお情けをくださりませ――
めがみさまは現れません。動物たちはがっかりして、そのまま一晩すごしました。
そして明け方が近づき。
動物たちはなごり惜しく思いながら、ひとり、またひとり家に戻っていきました。
さいごのひとりは、ふと泉をふりかえりました。
そのとき、おともだちは見たのです。泉のほとり、枯れてしまったあの草のそばに、だれかがたたずんでいるのを。
それはめがみさまでした。
めがみさまがやさしい手つきで草をなでると、しおれていた草はたちまち力をとり戻しました。
おともだちは思いました。ああ、あそこにあいつがいる。きっとこりずにめがみさまに話しかけているんだろう。いつものように、めいっぱいしあわせそうな明るいかおで。
その日から、草はずっと泉といっしょ。
おしゃべりな妖精さんは今でもかわらず泉をまもっています。妖精さんがいちど眠りについたあの夜、ほんのわずかに泉の水がふえたことを、妖精さんはしっていましたから。
*
ノエフがたどたどしい口調で話す、他愛ないおとぎ話。
けれどその話を成すすべてのフレーズが、シグリィの胸にじんわりと染みていく。
「この草を蒼い夜に摘んで飲むといいって言われてんだぜ。俺の村じゃ何年かに一度ヨウイして、みんなで飲むんだ」
そして目の前の少年はいったい何のために、そんなおとぎ話を持ち出したのか。
いったい何のために、こんな夜に一人で外へ出たのか。
「だ、だからさっ! お前ぜったいこれ飲めよ! そしたらおれ、また仕事おしえてもいーぞっ」
ノエフはそんなことを言って、ふんっと胸を張った。ぷいと背けられた顔、ふくれっ面にも見えて、でも真っ赤に染まっていて、
ああ、何だか――
「ノエフ」
名前を呼んだその瞬間自分は、
ありがとう――とごく自然に滑り出た言葉とともに、
たしかに微笑うことができたのだ。
そこは寒い土地だった。喋れば喋るだけ、吐息が白く染まる土地。
だから人はぬくもりを愛おしむのだと、北に骨を埋めた博士は言い遺した。
ぬくもりとは人の体温だけを言うのではないのだと、この日シグリィは初めて知った。
妖精の草は村にとって大切なものだ。それを消滅させたままにするわけにはいかないので、ノエフが採取した一部は再び土に戻すことにした。幸い少年は根っこごと掘っていたから、戻すのに苦はない。一度切り離した土との絆を、こっそりとシグリィの力でつなぎ直して。
ノエフも一緒にこの草のお茶を飲もうか。悪戯っぽくそんなことを言ってやると、ノエフは「ぐぬっ」と変な声を出してあごを引いたあと、
「し、しかたねーなっ。ひとりで飲むのがこわいんなら、飲んでやってもいーぞっ」
……後で次男ルーヴェに聞いたところによると、この三男は以前母親に、「口が悪すぎる! お前に飲ませた“妖精さんの草”は量が足りなかったのね、お父さんたちに追加で採ってきてもらおうか」と叱られたことがあるのだそうだ。そのときは断固拒否したらしいが――
すべてを終えて森の外に出ると、蒼の空は真の闇へと色を変えていた。
(涙が)
「憂鬱が晴れたみたいですね。ほら、星も出てきた……明日は結局晴れそうだわ」
セレンがそう言って、朗らかに笑った。
家に帰り、家族に大歓迎された後。「とにかく今夜はもう休みなさい」と言う母親の言葉に首を振って、ノエフはすぐに草をお茶にさせた。
一口飲んで「んげぇ」と再び変な声を出した三男坊は、平気な顔で飲み続けるシグリィを見て「やっぱりお前ヘン!」とひとしきりわめきながらも、結局飲み干した。
傍らでは、草茶のお裾分けをもらったセレンが吐きそうな顔になり、シグリィ並に平気な顔をしているカミルと「それでも旅人ですか!」「だって苦すぎるわよー! いい、苦いものって本来生き物にとって毒なものなのよ、苦いって思ったら食べちゃだめなのよ!?」「毒じゃないと私が保証しますから大人しく飲みなさい!」「あなたの保証なんか怪しくってむしろ警戒するわよ!」……なんてやりとりをしていた。
「これでお前、もー大丈夫だかんな。あしたからまたはたらくぞっ!」
ノエフは満足そうだ。母や兄に散々叱られながら、それでも。
シグリィはノエフを見た。
それから、わずかに草茶の残ったカップを見た。
――底に溜まるのは濁った色。
それはあの蒼い夜空と同じように。一見重い色でありながら、中にはらんでいるのは決していやなものではない。長い刻の後に“妖精”と呼ばれた誰かと、泉を生んだ氷の女神。女神の泉を護った妖精と、妖精の草を蘇らせた女神――……
妖精とともに在ったとき、ひょっとしたら女神は笑顔の欠片を見つけたのかもしれない。そう思い、シグリィは心の底からやわらかに、笑った。
(ほほえみ/終わり)
それは今までの“死んだような”沈黙とは違った。
(……鼓動が聞こえる)
靴の裏から覚えのあるリズムを感じ取り、セレンはほっと口元をゆるませた。片手に灯りを生み出し、森に掲げる。
痩せ細った木々たち。ずっと押し殺していた呼吸をほうと吐き出した後の、弛緩した空気が合間に流れていた。
「終わったようですね」
≪糸≫を繋げたカミルはそう言いながら、何度も泉の周辺の景色を見回している。簡単に剣をしまわないのは長年の習性だろう。セレンは彼のその手をぽんと小突いた。
「もう大丈夫よ。最初からこの森に敵はいないわ」
泉のほとりを振り返る。
そこにあった小さな草は、セレンとシグリィの力によって消滅していた。
抉れて露わになった土肌がわびしく思えて、心の隅がちくりと痛んだ。
――ここにいたのは敵ではない。
「“心残り”……よ」
かつてここにいた誰かが遺した、思いの欠片。
「ようせい――」
ノエフがぽつりと呟いて、よろけるように泉のほとりに歩み寄った。膝をつき、抉り返った土におそるおそる手を伸ばす。
(妖精ではないわ)
セレンは目を閉じ、心の中だけでノエフにそう話しかけた。
(あれは玄武の力……四神の力を扱えるのは四神自身と、そして『人間だけ』……。だから)
けれど今となってはどうでもいいこと。
瞼を上げた彼女は、ノエフの肩に声をかける。
「もう大丈夫よ、ノエフくん。外に出られるわ」
「あ――うん」
ノエフは虚を突かれたような顔でセレンを見上げた。その拍子に、片手に握りしめていた草がはらはら落ちた。一拍遅れて気づいたノエフは、大慌てでそれをかき集める。両手が汚れることなど構いもしないその姿を、セレンは愛おしく思う。
「さあ行こっか。シグリィ様が待ってる――あら?」
受け取ったままだった≪糸≫に動きがあった。伝わってくる信号は『戻ってこい』ではなく、『そちらに行く』だ。
「シグリィ様、こっちに来るつもりみたいね?」
カミルに顔を向けると、青年は首を横に振った。彼はそれを言われていないらしい。セレンにしても、今さらかの少年がこちらに来る理由など皆目見当もつかないのだが。
「まあとにかく、待ってみましょうか」
それに。セレンは灯りを泉の方に向けて照らしながら、ノエフに向かって笑いかけた。
「ここで渡した方が効果がありそうじゃない。ね、ノエフくん!」
その言葉に、ノエフは大きく目を開き――そして、うんと力いっぱいうなずいた。
セレンとノエフには悪いことをしてしまった。森を駆け抜けながらシグリィは心の中で少しばかり後悔する。
自分がそっちに行く、などと。
セレンは気にしないだろうが、ノエフは一刻も早く村に帰りたかっただろうに。
(だが……見たかったんだ)
“始まりの森”の内部を。
そして、泉を。
いったん村に引き返して、また明日にでも出直せばいいのかもしれない。
否、今この時の森の様子を見ておきたかったのだ。力の暴走を治めた、その後の森を。
――あの≪虚無≫の発端が誰にあったかなど、シグリィは知らない。人間であったのは間違いないだろう。ラティシェリ神ならば己の力を暴走させるはずはなく、そして四神の力を扱える存在は人間の他にいないからだ。
かつてこの森にいた誰かが遺した、力の欠片。
見たかったのだ。はっきりとした理由もなく。たしかめておきたかったのだ――かつてこの森にいたのであろう、ラティシェリ神と何かしらの繋がりがあったはずの人間の残滓を。
道ならぬ道を抜けながら仰ぎ見る木々と細かな梢。
北国の冷たすぎる風が舞い戻ってきて、悪戯をするように褪せた色の葉を撫でていく。
だが。むき出しの木々も葉も、風を拒むことはない。ただされるがままに揺れるだけ。
決して寒さを好むわけではないのだろう。
けれども、――植物は寒さを嫌っているわけではないのかもしれない。
もしも植物たちに自ら移動する手段があったとして――彼らは一斉に温暖な地に向かうのだろうか?
シグリィには分からない。けれど。
(寒いままでいい、ということかもしれない。この土地は)
だからきっと、かの女神はこの土地を選んだのだろう。
――……
眼前に、突然ぽっかりと開いた空間が現れる。
泉はたしかにそこにあった。波紋ひとつない静かな水をたたえて。
「シグリィ様~っ。ありがとうございました!」
ほとりにいたセレンが、灯りを掲げた手を軽く振って見せる。その声だけで、セレンの状態は大方把握できる――駆け寄ったシグリィは、まずノエフを見た。
小さな三男坊はシグリィを見たとたん、きゅっと唇を引き結んで硬い表情になった。自分はまだ警戒されている。どうしたら安心させてやれるのか。例えばセレンならどうするだろう? 表情を動かせなくても、彼女なら。
ふと思いついたことを、シグリィはすぐに実行した。
「ノエフ。よかった、無事だったんだな」
――言葉にすること。
ノエフは軽く目を見開いて、それから視線を泳がせた。
「う、おう……」
セレンの生み出した明るい光源の下で、幼い少年の頬がほのかに赤みを増した。もごもごと動く不器用な口。多分シグリィと同じように、まだまだ自分の気持ちをうまく伝える方法を知らないでいる――とても未熟で、そしてとても微笑ましい口。
「……ごめん。あの、助けにきてくれて、ありがとう……」
シグリィはうなずいた。とにかく、反応を見せることだ。自分は人形ではないのだから。
「怪我は?」
「な、ない」
「何よりだ。ご家族が安心する。……何を持っているんだ?」
視線はおのずとノエフの手元に落ちた。握りしめた手から見えているのは、どうやら草のようだ。手自体も汚れているように見える。幸い怪我ではないようだが。
ノエフが一瞬、緊張したようにぴんと肩を張った。ちらりと泉の方を一瞥した目が、やがて決然とシグリィを見すえる。
シグリィは小首をかしげた。
唐突にノエフはその手を――草を握ったその手を、シグリィに突きつけてきた。
「これっ! お前に、やる……!」
「………?」
予想外の言葉に、瞼がぱちぱちとしばたいた。
それから、ふと思った。――おや、自分は今、意識せずとも表情が動いたような。
ノエフは頬を果物のように真っ赤にして、早口でまくしたてた。
「俺の村じゃゆーめーなんだ。“おしゃべり妖精の草”ってハナシに出てくる草なんだ。これセンじて飲むと、しゃべるのうまくなったり元気で明るくなったりするんだ。あのハナシの妖精みたいに!」
そこまで一気に言ってから、慌てて「あ、“おしゃべり妖精の草”ってのはえーと、この森に住んでた妖精がラットさまと出会って、そんで力もらって女神さまをまもってそのあと――」
*
長い長いあいだ、妖精さんはめがみさまの泉をまもりつづけました。
森にはめがみさまのおはなしを聞きつけた人間たちがいくどもやってきましたが、すべて妖精さんが追いはらいました。
ここは、めがみさまのばしょだから。
めがみさま。哀しくなったらいつでもここに戻ってきて。
妖精さんがくちぐせのようにそういうのを、森の動物たちは聞いていました。
妖精さんのいのちがつきるその夜にさえ。
それは月のない夜でした。
泉のかたわら、常に生えていたあの草が、枯れてしまった夜でした。
いつもならお外に出ない動物たちも、こよいは妖精さんをかこんでしずかに泣いていました。
おともだちのひとりは叫びました。めがみさま、どうか今夜だけ、こいつのためにいらしてくださいませ。どうぞお情けをくださりませ――
めがみさまは現れません。動物たちはがっかりして、そのまま一晩すごしました。
そして明け方が近づき。
動物たちはなごり惜しく思いながら、ひとり、またひとり家に戻っていきました。
さいごのひとりは、ふと泉をふりかえりました。
そのとき、おともだちは見たのです。泉のほとり、枯れてしまったあの草のそばに、だれかがたたずんでいるのを。
それはめがみさまでした。
めがみさまがやさしい手つきで草をなでると、しおれていた草はたちまち力をとり戻しました。
おともだちは思いました。ああ、あそこにあいつがいる。きっとこりずにめがみさまに話しかけているんだろう。いつものように、めいっぱいしあわせそうな明るいかおで。
その日から、草はずっと泉といっしょ。
おしゃべりな妖精さんは今でもかわらず泉をまもっています。妖精さんがいちど眠りについたあの夜、ほんのわずかに泉の水がふえたことを、妖精さんはしっていましたから。
*
ノエフがたどたどしい口調で話す、他愛ないおとぎ話。
けれどその話を成すすべてのフレーズが、シグリィの胸にじんわりと染みていく。
「この草を蒼い夜に摘んで飲むといいって言われてんだぜ。俺の村じゃ何年かに一度ヨウイして、みんなで飲むんだ」
そして目の前の少年はいったい何のために、そんなおとぎ話を持ち出したのか。
いったい何のために、こんな夜に一人で外へ出たのか。
「だ、だからさっ! お前ぜったいこれ飲めよ! そしたらおれ、また仕事おしえてもいーぞっ」
ノエフはそんなことを言って、ふんっと胸を張った。ぷいと背けられた顔、ふくれっ面にも見えて、でも真っ赤に染まっていて、
ああ、何だか――
「ノエフ」
名前を呼んだその瞬間自分は、
ありがとう――とごく自然に滑り出た言葉とともに、
たしかに微笑うことができたのだ。
そこは寒い土地だった。喋れば喋るだけ、吐息が白く染まる土地。
だから人はぬくもりを愛おしむのだと、北に骨を埋めた博士は言い遺した。
ぬくもりとは人の体温だけを言うのではないのだと、この日シグリィは初めて知った。
妖精の草は村にとって大切なものだ。それを消滅させたままにするわけにはいかないので、ノエフが採取した一部は再び土に戻すことにした。幸い少年は根っこごと掘っていたから、戻すのに苦はない。一度切り離した土との絆を、こっそりとシグリィの力でつなぎ直して。
ノエフも一緒にこの草のお茶を飲もうか。悪戯っぽくそんなことを言ってやると、ノエフは「ぐぬっ」と変な声を出してあごを引いたあと、
「し、しかたねーなっ。ひとりで飲むのがこわいんなら、飲んでやってもいーぞっ」
……後で次男ルーヴェに聞いたところによると、この三男は以前母親に、「口が悪すぎる! お前に飲ませた“妖精さんの草”は量が足りなかったのね、お父さんたちに追加で採ってきてもらおうか」と叱られたことがあるのだそうだ。そのときは断固拒否したらしいが――
すべてを終えて森の外に出ると、蒼の空は真の闇へと色を変えていた。
(涙が)
「憂鬱が晴れたみたいですね。ほら、星も出てきた……明日は結局晴れそうだわ」
セレンがそう言って、朗らかに笑った。
家に帰り、家族に大歓迎された後。「とにかく今夜はもう休みなさい」と言う母親の言葉に首を振って、ノエフはすぐに草をお茶にさせた。
一口飲んで「んげぇ」と再び変な声を出した三男坊は、平気な顔で飲み続けるシグリィを見て「やっぱりお前ヘン!」とひとしきりわめきながらも、結局飲み干した。
傍らでは、草茶のお裾分けをもらったセレンが吐きそうな顔になり、シグリィ並に平気な顔をしているカミルと「それでも旅人ですか!」「だって苦すぎるわよー! いい、苦いものって本来生き物にとって毒なものなのよ、苦いって思ったら食べちゃだめなのよ!?」「毒じゃないと私が保証しますから大人しく飲みなさい!」「あなたの保証なんか怪しくってむしろ警戒するわよ!」……なんてやりとりをしていた。
「これでお前、もー大丈夫だかんな。あしたからまたはたらくぞっ!」
ノエフは満足そうだ。母や兄に散々叱られながら、それでも。
シグリィはノエフを見た。
それから、わずかに草茶の残ったカップを見た。
――底に溜まるのは濁った色。
それはあの蒼い夜空と同じように。一見重い色でありながら、中にはらんでいるのは決していやなものではない。長い刻の後に“妖精”と呼ばれた誰かと、泉を生んだ氷の女神。女神の泉を護った妖精と、妖精の草を蘇らせた女神――……
妖精とともに在ったとき、ひょっとしたら女神は笑顔の欠片を見つけたのかもしれない。そう思い、シグリィは心の底からやわらかに、笑った。
(ほほえみ/終わり)
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