託宣が下りました。

瑞原チヒロ

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本編

あなたらしくありません。―9

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 ……騒がしかった夜が明け……

(眠い)
 あくびを噛み殺しながら、わたくしは部屋のカーテンを開けました。
 自室ではありません。父の部屋です。
 我が家の中でもっとも簡素と言っていい父の寝室で、今、我が父が眠り込んでいます。
(……よく寝てる)
 寝息を確認し、ほっと一息つくと、わたくしは父の寝室を辞しました。
 父を市職員の家からこの家に移して以降、眠らずについていましたが、もう大丈夫そうです。
 部屋を出て、うんと伸びをして――
「姉さん!」
 向こうからドタバタとラケシスが駆けてきました。「姉さん! 父さんは!?」
「ラケシス、帰ってきていたの?」
 驚いてわたくしはそう問いました。ラケシスは軽鎧に剣と明らかに戦闘用装備で、今まさに洞窟ダンジョンから帰ってきたばかりといった様相です。
 よく見ると顔にも怪我があります。治療師が一緒だったはずですから大半の怪我は消えているのでしょうが、それにしても。
(危ないところに行っていたんだものね)
 そう思うと、胸が痛みました。
「――父さんなら、大丈夫よ。今は落ち着いて寝ているの」
「本当に? 重傷だって聞いたよ? それで急いで帰ってきたんだから!」
「………」
 わたくしは返事にきゅうしました。
 重傷? 重傷。そう、ソラさんもそう聞いたと言います。
 ですが――。
「あのねラケシス。ちょっと情報がね、どこかで狂ったらしくて」
「はあ?」
「怪我をしたのは本当。でも……全然重傷じゃなかったの」
 昨夜、それを知ったとき――。
 これ以上なく嬉しいことだと思いました。こんな最高の『間違い』があるでしょうか?
 なのにそれを素直に喜べなかったのは、父たち市重役の意識がすぐに「誰が間違った情報を流したのか?」という議論に及んだからです。
 母に父の容態を伝えた人物は、身元もしっかりした、間違いのない人でした。ですが彼は、父の容態を直接目にしていませんでした。
 彼に、「重傷だ」と教えた人物がいたのです。
 その人物も市の職員でした。けれど事件後行方をくらませています。
 そしてその人物が元々王都の――それも王宮近くに仕えていた官吏だと聞いたとき、わたくしは地面が崩れるような思いをしたのです。

 確証はありません。まさかそんなはずは、と否定するぐらいしか、今はできない。

「そっか、軽傷なのか」
 ラケシスはほうとため息をつきました。良かったーと壁に手をつきます。
「でも魔物に襲われたのは事実なんだろ? よくその程度で済んだね」
「それが……」
 わたくしはさらに返事に窮しました。顔が赤くなったような気がします。
 ……恥ずかしさで。
(なぜわたくしが恥ずかしく思わなくてはならないの?)
 その理不尽さに自分で腹を立てますが、仕方がありません。とにかくラケシスに説明しなくてはと、うまいごまかしかたを探していると、
「全てヴァイス様のおかげですよ」
 ほほほと笑いながら母が現れました。
 今朝も美しい装いに、目の下のくまがアンバランスです。……今日ぐらいはそんな顔をしていてください、母よ。
「母さん! ヴァイス様のおかげって何さ?」
「ヴァイス様がお父様に贈り物をしてくださっていたのですよ。平時も使える鎧のようなものです。とても軽い素材だったけれど、魔術で強化してあったのね、魔物の爪など通さなかったわ」
 母は嬉々としてそう説明しました。
 へえ、とラケシスが目を丸くします。「ヴァイス様、気が利くところもあるんだ」妹の中で騎士の評価が少しぐらいついたのでしょうか。
 わたくしは――無言でした。
(鎧のような……もの?)

 ……腹巻きが?

 実際、それは魔術で強化した布だったそうです。そして、父を魔物の爪牙から守ってくれたのは、たしかにそれだったのです。
 それを聞いたとき、わたくしは何とも形容しがたい気持ちに襲われました。
 父の無事を素直に喜べなかったのは、五割ほどこの事実のせいかもしれません。
 しかも。わたくしはてっきり、騎士信奉者である母が父に無理やり着せたのだと思ったのですが――。
 違ったのです。
 父自身が、自ら身につけたというのです。

『……寒かったんでな』

 そう言って目をそらした父。ああお父様、アルテナの中でお父様のイメージがひとつ崩れました。
 お腹を温めるのはもちろん大切。ですが、騎士からの贈り物をあっさり身につけてほしくなかった。複雑な娘心です。
「とにかく良かった」
 ラケシスは頭をかきました。「あー、お風呂入りたい」と女の子らしい一面をのぞかせます。
「入っていけばいいじゃない。すぐ用意するわ」
「ところがそうもいかないんだよね。洞窟ダンジョン攻略が今佳境でさあ」
 顔をしかめて、うなるように言います。「……実はもうアレス様たちは深奥にたどりついているらしいんだけど」
「………」
 ほほほ、と母が上機嫌に笑いました。今朝の母はとにかく調子がよさそうです。
 ちなみにわたくしも、おかげさまで昨夜脱けだしたことについてのお咎めがありませんでした。
 それはありがたいのですが、こんなところまで騎士に守られたようで悔しい。
 母は優雅に愛用の扇子を振ります。
「よいお話だこと。きっと今ごろ魔物も倒されていますよ」
 ラケシスはむっとした顔を母に向けました。
「簡単に言わないでよ。今回の魔物は相当強いんだから――私たちも協力しないと」
「ヴァイス様たちに不可能はありません。邪魔をするんじゃありませんよ」
「邪魔なんかしない。助けるんだ」
「思い上がりもほどほどにしなさい」
 妹と母の間でバチバチと火花が散ります。どうもこの手の話題だと、この二人の意見は平行線です。
 かと言ってわたくしが口を出すとさらにややこしいことになるので、わたくしはただ黙って二人を見つめながら、こっそりため息をつきました。

 ソラさんを医務院へ連れて行った騎士は――
 深夜にはもう、洞窟ダンジョンへ戻っていきました。先を行くアレス様たちに合流するために、一人で奥まで突っ切るのだとか。
 洞窟に行く前にわたくしに会いにきた騎士は、「待っていろ! 必ずご褒美はいただくぞ」と宣言をしていきました。わたくしは即座に近場にあった燭台を投げつけました。
 我ながら乱暴でしたね、あまり反省する気にはなれませんが。
(……今ごろ、戦っている?)
 そう思うと奇妙な思いに駆られます。
 駆けつけて見守りたい気持ちと、何もかも任せて、安心してここで待ちたい気持ちと。
 本当に、あの騎士と知り合ってから矛盾ばかりで困ります。かつては星の神に祈っているうちに、心がひとつにまとまったものなのですが。

「姉さん。そんなわけで行ってくるからね」
「……ええ」
 わたくしはふと、再び冒険に出かけようとする妹を見つめました。
 ラケシスはきょとんとわたくしを見返しました。
「どうかしたの?」
「ラケシス」
 そっと手を伸ばし、ラケシスの手を握ってみる――。
 女性にしては大きな手です。しかもこの手にかかれば大抵のものは破壊されてしまうことを、わたくしはよく知っています。幼いころでさえ、わたくしよりずっと力の強い子だったのです。いえ、わたくしどころか、近所の同年代で勝てる子どもはいなかったでしょう。
 わたくしたちはずっと一緒にいました。よくも悪くも一番影響しあってきたに違いありません。
 真逆の道を歩み始めてからも、心にも体にもお互いの与えた何かが残っているのです。

 そう、小さいころ――妹の『力』に一番さらされてきたのは、他ならぬわたくしなのです。

「姉さん……」
「……大きくなったわね、ラケシス」
 わたくしはラケシスの手を両手で包み、にこりと微笑みました。「いい手だわ。訓練は大変でしょう」
「いったいどうしたのさ?」
「……この力でね、たくさんの人を助けてほしいと思ったの。あなたの力はそのためにあるのよ」
 ラケシスは目を白黒させていました。そんな妹を見て、わたしは笑いました。
 我ながらおかしなことを言っています。でも……本心です。
 どうかわたくしに示してみせてほしい。『力』とは恐いものではないのだと。


 かつて、サンミリオンの町の近くに小さな洞窟ダンジョンが発生したことがありました。
 魔王がまだ存在せず、魔物の存在もたまにしか目撃されなかった時期のお話です。
 その洞窟はあまりに小さく、その上発生する魔物の量も少なかったため、自警団からも深刻には相手にされず、なかば放置されていました。
 ……分別のなかった幼き日のわたくしとラケシスがその洞窟に入り込んだのは、好奇心のためではありません。
「猫が……」
 町中で見つけた猫。それを追いかけているうちに、いつの間にか洞窟に足を踏み入れてしまっていたのです。
「猫ちゃん、どこ?」
 暗い洞窟。けれどラケシスは当時から勇猛でしたし、わたくしも妹と一緒のときは恐いものがなかったのです。
 そのためどちらもすぐに「帰ろうよ」とは言い出さなかった。それがよくありませんでした。
 洞窟の奥から、猫の鳴き声がしました。すきま風の音とともに。
「いた!」
 わたくしが嬉々として奥へ飛び込もうとしたとき――
 急にラケシスに手首を掴まれ、制止されたのです。
「だめ! ねえさん」
「ラケシス?」
 奥からはか細い猫の鳴き声がしています。町で見かけたときには、もっと元気な声をしていたのに。
 助けを求めてる?――
「いかなきゃ」
 わたくしは奥へ進もうとしました。けれど、手首は強く掴まれたまま。
「だめだってば。きこえないの?」
「え?」
「まものの声だ」
 言われてようやくわたくしは、が洞窟に吹くすきま風の音ではないことに気づきました。
 甲高く異様な声が、猫の声に重なっています。聞こえる方向が――同じです。
 にゃあ、にゃあと、猫の鳴き声が激しくなっていきます。
 だんだんと、切実な音色に。
 ――猫が魔物に掴まっている?
 そのことに気づいたとき、胸が押しつぶされそうになりました。
「助けなきゃ!」
 前に進もうとしたのに、ラケシスの力に勝てません。「放して! 放してラケシス!」
 渾身の力で手を振り払おうとしたのに、まったく通用しない――。
「逃げようねえさん!」
 やがてラケシスはわたくしの手を掴んだまま走り出しました。洞窟の外へと。
「待ってラケシス、お願い、猫が……!」
「だめだよ、ここからはなれるんだ!」
 ラケシスの手が熱い。まるでわたくしの手首を焼こうとしているかのよう。
 どうしたってラケシスのほうが力が強い。そのことが、たった今知ったことのように頭のてっぺんにどかんと降ってきて――。
 とたん、全身が冷水をかぶったように冷えました。
 なに? 何なのだろうこの感覚は。
 幼いわたくしには、ラケシスの気持ちは何一つ理解できなかったのです。誰より勇猛であるはずの妹が逃げの一手に出た上、こうしてわたくしを乱暴に引っ張っている――そのことがあまりに衝撃で。
 恐いと、思いました。
 たったひとつ、強く理解してしまった事柄があったのです。
 猫の鳴き声が遠くなるのを背中に聞き、やがて洞窟から出て町の景色が目に飛び込んできたとき。
 ……どれだけ、したいことがあったとしても。

 自分は力ある人には敵わないのだ、と。

(……それが原因、だったのかしら)
 長らく忘れていた出来事です。当時のわたくしにはつらすぎたのかもしれません。
 あ、でも、猫は無事でした! さすが自警団にも見放されている洞窟だけあって、相当弱い魔物しかいなかったようです。
 それに、町に戻ったラケシスが飛び込んだのはその自警団でした。
 結局、ラケシスのほうがずっと冷静で正しい判断だったのです。今ならわたくしにも分かります。分かりますが……
(……それでどうして、『男性』が苦手になったのかしら……)
 考えるにつけ、情けない思いが湧き上がります。
 恐い、と思ってしまった対象が大好きな妹だっただけに、それを認めるわけにはいかなかったのでしょうか。
 妹とはそれまで通り仲良くし続ける代わりに、わたくしは『もっと力を持つ存在』を勝手に恐がり始めたようです。対象の転化とでも言うのでしょうか?
 何にしても、相当ひねくれているような。我ながら呆れ果ててしまいます。

 ただ――。

 原因が分かったことが、わたくしの中でひとつの鍵を外してくれました。
 ラケシスは今や立派な討伐者ハンターですし、彼女の力はわたくしにとっては誇り。
 そして周囲の男性たちはいい方々ばかりです。例えいざとなれば力で敵わないとしても、そもそも暴力を振るおうという人がほとんどおりません。
 昨夜のヨーハン様にしたって、わたくしを害しようとしたわけではない。
 そんな、当たり前のこと。
 まるで視界が開けたような思いです。わたくしはこれからもちゃんと、彼らと付き合っていける――。
 ……ひとりの例外を除いて。
 
(騎士)

 時に力でもってわたくしを困らせる人。彼に対してだけがすっきりしません。
(……彼と、もっと向き合わないと)
 そしてこの心の中にわだかまるものすべての正体を知りたい。わたくしは顔を上げました。
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