暁の姫

瑞原チヒロ

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第五章 混迷の青年たち

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 牢獄という場所は、どうしてこうも冷たいのだろう――
 いや。冷たいのは、心に落ちてくる闇か。
 閉じ込められている内に光が失われていくからなのか。それとも、自分の内にある闇が引きずりだされてくるからなのか。
 フレデリックはぼんやりと石造りの牢を見渡した。彼に、枷はつけられていない。
 身体チェックを行われた際、その場にいたレイサルはフレデリックを見て一言つぶやいた。
『お前は、ティエラ人ではないな』
 その目つきにひそんでいた、明らかな無関心の色。
 エディレイドの親衛隊には、目を光らせていたというのに。
 ――ティエラ人ではないという事実は、ひょっとしたら彼を救ったのかもしれない。
 だが、フレデリックの心から闇が消えることはない。
 無関心。排除される存在。
 彼は、レイネンドランドからも必要とされることはなかった。
 ――必要とされることが、なかった……?
『フレッド』
 明るく、彼を呼ぶ声が耳の奥に響く。
 ティエラの第一王女の声。祖国から逃げ出した自分を、拾ってくれた声。そして誰もが怪しむ自分の存在を無条件に信じ、側近にまで上げてくれた少女。
「………」
 フレデリックは両手で顔を覆う。
 自分はかの少女に、何を言った……?

 ――レイネンドランドでは天然の紡石(ピエトラ)が出るんだよ
 ――あなたはこの国の王妃になるべきだ
 ――お前の堂々とした姿を覚えている
 ――あなたほど強くない
 ――お前はティエラ人ではないな

 ――お前はそんなに、弱くなかったはずだ

 頭の中をさまざまな言葉が駆け巡った。自分の言葉、他人の言葉。どれもこれもいびつで、鋭くて、心の奥底を貫くばかり。
 つつかれるままに、闇は膨れ上がる。
 のぞきこめば、深遠の淵が見える。
 いっそ落ちてしまえばいいのにと、彼は思った。自分はティエラ人のように――
 光を、生み出せない。
 うつむくと、奪われなかった眼鏡がずり落ちた。それさえも、気になることではなかった。
 ぼやけた視界。うずまいて見える暗黒。
 落ちてしまおうか。
 足を一歩踏み出せば、それですむ。
『フレッド、行くな』
『この馬鹿!』
 引き止めるのは主と呼んだ少女と、いつも自分を叱咤する歳下の上司。
 黙れ。
 お前たちに、俺を引き止める権利などない……!
 そう思った瞬間に、頭の隅に鋭い痛みが差して、フレデリックは頭を抱えた。
 忘れてしまったのか? と自分の声がどこからか聞こえる。
 忘れた? 何を?
 もうやめてくれ、気が狂いそうだ――

 ……ふと。
 甘い香りがして、フレデリックはかすかに顔を上げた。
 牢の前に気配を感じ、反射的に眼鏡を指で押し上げる。急激にはっきりとした世界。
「フレッド……?」
 信じられないと言いたげなその声は、確かに現実に聞こえた。
 フレデリックは目を見張った。
 そこに、全身血まみれのアンゼリスカが立っていた。

 アンゼリスカはその一瞬、全身の痛みを忘れた。
 目を疑った。別人かとも思った。
 しかし何度まばたいても、暗がりの中そこにいるのは、確かに見覚えのある若草色の髪と空色の瞳の青年で。
 ――自分の牢から兵士が離れた。それを利用した地道な紡石ピエトラの生成により、完全に枷を解いたアンゼリスカは、とりあえずの止血だけをして牢の鍵もはずした。
 そして目一杯の精神力を使って、レイネンドランドの兵士たちを一気に眠らせるだけの紡石ピエトラを生成した。
 今、兵士たちは全員床につっぷしたり壁にもたれかかったりした状態で眠りこけている。脱走するなら今の内だった。
 しかし脱走する前に――
 信じられない人物を、見つけてしまった。
「フレッド――」
 なぜここにいるんだ、と思わず声が出た。
 まさか、自分が行方不明になったために代わりに遣わされたスパイ?
 いや、フレデリックはレイネンドランド語に暗いはずだ。彼が、ここにいる必要性があると、すれば――
「まさか」
 アンゼリスカは、フレデリックの牢の鉄棒をつかんだ。
「シャール様がいらしているのか……?」
 フレデリックは牢の奥の壁にもたれて座ったまま、少し笑ったようだった。――引きつったように。
「フレッド、答えろ」
「……お前こそ、今頃何で姿を現すんだかな」
 返ってきた声はひどく冷え冷えとしていて。
 お前が見つかったら、王女は力を完全に取り戻すじゃないか――
 副官はそんなことを言った。
 王女。ひどく他人行儀な呼び方。
 何かあったのだ。そう悟った。
 こんな事態は予測していなかったから、兵士たちから鍵を奪っていなかった。アンゼリスカは紡石ピエトラの生成を始める。体が痛むが、それどころじゃない。
「願いよ届け、紡ぐここ――」
「やめろ!」
 フレデリックが叫んだ。思わずアンゼリスカは、「馬鹿、兵士が目を覚ます!」と言い返した。
 眼鏡の青年は暗い瞳で、
「……目を覚ませばいい。お前も、もう一度囚われればいいさ」
「フレッド……?」
 それきりフレデリックは額に手を当て、下を向いた。
(……願いよ届け、紡ぐ心となりて)
 アンゼリスカは構わず紡石ピエトラを生み出した。そして、フレデリックの牢の鍵を開けた。
「出て来いフレッド、逃げるぞ」
「余計なお世話だ。俺は、逃げる必要なんかない」
「何を言っている? お前が捕まっているということはシャール様の身にも何かあったのだろう、シャール様を助けなければ――」
「俺にはそんな義務はない!」
 悲痛な声だった。まるで、もうやめてくれと言いたげな。
 フレデリックは続けた。
「俺はティエラ人じゃない。俺には王女に尽くす義理はない。俺は」
「馬鹿を言え、シャール様のご恩を忘れたのか?」
「誰も助けてくれなんて言わなかっただろう!」
 あまりにも粗暴な言いように、アンゼリスカは呆然となる。
 フレデリックが、あの調子のいい軽妙な青年が、こんなに自棄になって。
 アンゼリスカは扉を開けた。そして中へすべりこみ、フレデリックの前に片膝をつく。
「何があった? 教えてくれ、何があったんだ?」
「――俺はこの縁組に賛成だ。それだけだ」
「なん――」
「そうすればあの姫は紡石ピエトラから解放される」
 フレデリックは吐き捨てた。
「そして、俺も解放される。傲慢なお前たちティエラ人から」
「フレッド……?」
「この国では天然の紡石ピエトラが出るそうだ」
 アンゼリスカは唾を飲み込んだ。フレデリックは片膝を立て、そこに腕をかける。
「エディレイド殿下が教えてくれた。天然石の話は魅力的だった……お前に分かるか? ティエラはどれだけ排他的な国かということが」
 空色の瞳が、闇の淵を見せながらアンゼリスカをねめつけた。
「あの姫が紡石ピエトラを生成できないためにどれほど周りから阻害されていたか。お前ならよく知っているだろう――だったら、理解できるだろうが?」
「シャール様は」
「いや、俺はもうあの姫のことはどうでもいい」
 フレデリックはつぶやいた。「……俺の居場所はどこにもない。それを思い知った。それがすべてだ」
「………」
 アンゼリスカは、うつむく副官を見つめる。
 彼が心に飼っていた――寂しさを、今さら知った。
 牢に沈黙が訪れる。肌寒い世界で、このままでは心まで凍ってしまいそうで。
「……シャール様が紡石ピエトラを生成できなくなった理由を、お前は知っているか? フレッド」
 アンゼリスカは口を開いた。
 フレデリックがかすかに身動きした。顔を上げることはない。
 副官の前、穏やかな声で彼は語りだす。
「シャール様は幼い頃、鳥を飼っていらした。学校にも行っていなかった頃だ。ティエラと名づけた鳥は、唯一のシャール様の友達だった。私の妹はシャール様と比べられるのが嫌でシャール様を避けていたし……私は乳兄妹でも、シャール様を主としてしか見られなかったから」
 今でも悔やむ。あの頃の少女は――孤独だった。
 その孤独を埋めていたのが、たった一羽の鳥で。
「だがシャール様の六歳の誕生日に、ティエラは死んだ」
 部屋に閉じこもって出てこなかった幼い姫。
 ようやく出てきた時の、あの表情。泣きながら無理して笑っていた、あの。
「私は、ティエラが死んだショックで紡石ピエトラの生成ができなくなったのだと思っていた。だが違った。……数年して、シャール様ご自身が語ってくれたよ。シャール様は」
 アンゼリスカは胸に痛みを覚えて、言葉を切った。
 しかし、語ることをやめてはいけない。――この副官には、知らせなくてはいけない。
「シャール様は……ティエラを、紡石ピエトラで生き返らせたんだ」
 フレデリックが反射的に顔を上げた。その目に、動揺の色が浮かんでいた。
 紡石ピエトラが起こした奇跡。そして――
「しかしその奇跡はほんの一瞬だった。ティエラは、すぐにまた眠りについた」
 あれは奇跡ではなく、愚だったのだと――
 幼い姫は寂しそうな顔で、そう語った。
 アンゼリスカが見たあの泣き笑いの顔は、その出来事があった後のことなのだ。
「シャール様は一人で泣いていたんだ。そしてようやく私の前に現れてくれたときも、泣いていた。奇跡を起こしてさらに悲しみを抱えた心で泣いていた」
 なあ――と、アンゼリスカは副官に語りかける。
「シャール様は、己の行動は愚だったと言った。紡石ピエトラを生成できなくなったのはその代償だと言った。だが、死んだ者を生き返らせたいと願うこと。一体誰がその心を責められる?」
 かつて自分も、父を喪った。
 そのときに何度父が生き返ったならと願ったことか。鉱山から掘り出されたときには、見るも無残な姿になっていた父。その姿を戻してあげたいとどれほど思ったことか。目を開けてくれたらとどれほど願ったことか。
 人の生死は自然の理。人の手でねじまげることはできない。
 蘇りを願うのは、愚だと言われても、願わずにいられないその心を、アンゼリスカは知っている。
 だから、彼の胸に響いたあの瞬間。
 奇跡と罪をその腕に抱き立っていた、愛しい少女の涙と笑顔……
「シャール様は私がお護りする……あの涙を見たときから、決めていたんだ」
 王族から阻害され、普通の王女とは違う扱いを強いられてなお。
 凛として立つ姫だったから。
 フレデリックの視線が揺れる。
「……なぜ、そんな話を俺にする?」
「シャール様はお前を必ず必要とする」
 声は心のままに強く。
「だから、お前も知っておくべきだ。シャール様が独りぼっちになった理由を。……もうこの先、独りにしないために」
 アンゼリスカは立ち上がった。
「アンゼ……?」
「ちょっと待っていろ」
 そのまま牢を出て、近場で眠っている守衛の剣をそっとその腰から抜き取る。重さや握りやすさを確かめて、使えそうだと判断すると、もう一人守衛を選んでもう一振りの剣を取った。
 そして、再びフレデリックの牢に戻った。
 その場で大きく深呼吸をすると、紡石ピエトラを紡ぎだす。
「――消せ」
 赤い閃光はフレデリックの牢全体に広がった。
 フレデリックもしばしば見たことがある紡石だった。――一定時間、周囲に結界を張り、範囲内のすべての気配を消すわざ。
 アンゼリスカは剣の一振りを副官に押し付けると、
「立て」
 左手で持った剣の切っ先をフレデリックに突きつけた。
「立て。――勝負だ」
 そのとき初めて、フレデリックはアンゼリスカの右手を見たようだった。
 その人差し指に爪がないのを、知ったようだった。
「待て、左で戦う気か? 正気か?」
「なめるな、左右両方で戦うすべくらい学んできた。立て、逃げることは許さん」
 フレデリックの得手は戦輪。
 だから、もし利き手同士の剣での勝負ならアンゼリスカの方が勝つのが当たり前だ。
 しかし左手なら――?
「そして、約束しろ。私が勝ったら私の言うことを聞け。私とともに……シャール様を助けに行くと誓え」
 アンゼリスカの低い声音は、空気をぴんと張り詰めさせた。
 牢が、一瞬にして戦場に変わる。
 フレデリックの体が、おのずと立ち上がった。――彼は兵士だ。
 戦場では戦わなくてはならない。そう、体が知っていたから。
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