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第二話 記憶は水鏡に映して
第五章 3
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轟音が山を揺るがした。先ほどの晶光珠による岩崩れよりも、はるかに大きい音だ。
雪煙が舞った。
息をするのも苦しいしばしの間――
「開いたぞ! 行け、アーク!」
トリバーの声が聞こえるよりも先に、アークは走り出していた。
精霊術の威力を上げるためにトリバーが“掃除”をしたその“通路”を介して、あの、役場の男が放った火術。予想以上の発破がかかった。アークとしては、精霊の故郷をこういった形で荒らすのは不本意だったが、この場合やむを得ないと思うしかない。
再び穿たれた、洞窟への道。
そこへ踏み込む直前に、刃のような視線を感じた。
傭兵イグズ。一体何を考えているのか知らないが、この男はトリバーたちの邪魔をする気はないようだった。面倒くさそうに曲刀を肩に担いだまま、アークを見つめている――半ば睨んでいるのに近い。
不満なのだろう。アークにはそれが分かっていた。
勝負の邪魔をされたことに、ではない――
そもそもアークと刃を交えている最中にも、その不満から来る苛立ちをアークはひしひしと感じ取っていたのだ。だから――
アークは立ち止まった。
ほんの少しだけ、イグズに半身を向けて。
「そんな顔されても困る。そもそも前提が間違ってるからな――俺を選んだのは、お前の見込み違いだよ」
俺は、弱いんだから。
特別な思い入れもなく、ただ、そう告げた。
雪煙の向こうで、イグズが表情を歪める。
アークは目を細めて、一言付け足した。
「だからって、もう俺はお前を許さないけどな。今はお預けだ」
それきり――
アークはイグズを見ることなく、洞窟へと飛び込んだ。
アークの姿が洞窟に消えた途端、突風が吹き荒れた。雪やら泥やら細かな切片やら、全てを巻きこむ竜巻のようなその動きは、まるで憤りを空気が体現しているかのようだ。
(妖精――今まで大人しかったのは、アークがいたからか)
トリバーは姿勢を低くし、腕で顔をかばう。
(ということは、まだアークを認識できる程度には、正気が残っているのか)
しかしそれも時間の問題だろう。精霊を人の血が侵食していくのを、止めるすべはない。妖精化を始めた精霊を、救えた記録など過去にないのだ。
もはや目はあてにできないと瞼を閉ざす。耳も、凍ったように機能がなくなってしまっている。それでも肌に当たる痛みで、風の動きを探る。流れの出所を探る。
と。
意識の片隅に閃光が奔った。
正しく言うなら、光ではなく炎だ。瞬時に高温で閃く炎。辺りの雪を蒸発させ、肌に障る痛いほどの寒さを相殺する。
トリバーは目を開けた。
吹き荒れる風によって拡散された炎が、風の動きをくっきりと形にする。
――狙うべき中心部を、浮き彫りにする。
(そこか!)
腕を突き出し、指を弾く。生まれた空気の振動を増幅させ、波へと変える。人工的に生み出した、風と同種の性質を持つそれを、精霊の操るそれに重ねる。同化させる。
トリバーが生み出した波と一体になった風は、トリバーの意思に応じて動きを止める。
しばしの間、音が消えた。
同時に、風の出所がくっきりと明瞭になる。
「……一体だけか」
少し離れた場所で、トリバーと同じように防御の姿勢を取っていたナズカが、呟くのが聞こえた。ほっとしたような声音を隠しきれていない。
トリバーたちの視線の先で――
小さな生体は、ふわふわと浮遊している。
平素ならば半透明に見えることが多い風の精霊は、いまやくっきりと輪郭を見せていた。それこそ人と変わらないほどの存在感だ。
その顔に浮かぶ憤怒の色は血を浴びた怒りなのか、それともこの場を荒らされた怒りなのか――
緊張が、時間の進みに絡みつく。
目に映る全てのものが、異常に緩慢に見え始める。火術の影響で今やほんのわずかとなった雪の欠片が空中を舞う姿さえ、つぶさに見えるほどに。
小さき妖精が、両手を大きく広げる。
来る。トリバーとナズカが揃って身構えた、その瞬間、
曲線の銀光が、妖精の背後を縦に薙いだ。
時計が止まった。空中で硬直した小さな生き物が、ほんの一瞬震えて。
「あ――」
声を上げたのはナズカだ。場違いなほどに呆けた男は、反射的に妖精に向かって手を伸ばした。しかし届くはずもない――
『―――ッ!』
声にならない一声で絶叫し、びりびりと辺りの空気を震わせた妖精は――
空中で弾けるように霧散した。
精霊の消滅は人間の死よりもさらにあっけない。残された静寂に、底冷えするような冷たさが広がっていく。やがてナズカの火術の余韻も消え、凍えるような寒さが舞い戻った。
ナズカが激した声を上げる。
「イグズ! お前は……っ!」
「……なーに怒ってんだ? お前さんは」
一撃で妖精を消し飛ばした傭兵は、再び肩に剣を担いだ体勢で腰に片手を当てる。
「妖精なんざためらわずに消すしかないのさ。そうだろう?」
「……っ」
ナズカが悔しげに口をつぐむ。
それを一瞥してため息をつき、トリバーは構えを解いた。
「……まあ、手間が省けて助かった」
イグズはトリバーを、面白そうに見る。
「そっちの兄さんは物分かりがいいな」
「単に優先順位をはっきりさせているだけだがな。だがお前は」
言いかけるトリバーを制するように、イグズはトリバーに向けて顎をしゃくった。
「そっちの兄さんはアークの知り合いだな?」
「――だから何だ?」
「妖精退治の報酬に教えてくれないかね。やつはなぜ、精霊を害した人間相手に本気を出さない?」
「さっき本人が言っていただろう。アレにはお前が望むほどの強さはない」
トリバーは即答した。
しかしイグズの表情は変わらない。仄暗く輝く目で、トリバーを見据える。
沈黙の代わりに聞こえてくるのは、耳の奥で唸るような風の音だ。
どこかにいる風精が、何かを訴えている。警告している――
ため息とともに、トリバーは告げた。
「……戦士としてのアークは本当に、お前ら力自慢が目の色変えなきゃならんような相手じゃない。だがアークは、そもそも戦士じゃない」
精霊術師か、と傭兵が低く問うのに、緩く首を横に振って。
「精霊術だろうがなんだろうが、戦うための人間じゃない。やつは――“背く者”だ。それが全てだ」
それは精霊保護協会が呼びならした名。
皮肉なことに、もっとも奴を表現するのに相応しい呼称。
ナズカがトリバーを見つめて、顔色を失う。どうやらナズカはアークの力について断片でも聞いたことがあるらしい。元々保護協会にいたなら、それも当然だ――
「あれは人に背く。あれが本気で人を憎めば、人は呪われる。……あれに好き放題に力を使わせるのは危険だ」
――だから、俺は奴と共にいる。吐き捨てるように、トリバーはそう言った。
* * *
「しっかりしろ、アリム・レン……!」
強く呼ぶ声が、アリムのまどろみの世界を引き裂いた。
同時にぐいと腕を引っ張り上げられ、アリムは夢うつつから覚醒した。
手首と肩に走る痛みが、急に現実的な感覚として襲いかかる。しかしそれに顔をしかめるより先に、
「――ッ」
アリムは一瞬、呼吸を忘れた。
目の前にある光景が信じられなかった。なぜ、こんなことになっているのか。ここは『水鏡の洞窟』、その最奥たる湖の前――それは変わっていない。
なのに、
なぜ――目の前で、ルクレが男に腕を掴まれ、拝礼の姿勢から強引に引き起こされているのか。
彼女の下半身は相変わらず地面に座り込んだまま、上半身だけ起こされて、しかしその体には力が入っていない。ぐったりとしたまま、腕だけで引っ張りあげられている。
がくりと落ちたその顔は髪に隠され、アリムにはよく見えなかった。それでも――どう見ても、意識があるようには思えないのだ。
否。それより何より一番恐ろしかったのは――。
「何を……してるの……?」
アリムはかすれた声で問うた。
ルクレの腕を掴んでいた男が、じろりとアリムを見た。保護協会の教師ではない。彼は――同行していた、役場の男の一人。
「黙ってろ、森の子」
乱暴に吐き捨てられた言葉に、アリムは激昂した。
ルクレの腕は露出して、白い肌がさらされている。その白さの間近に光っているのは、鈍い銀色――
「――どうしてッ! ナイフなんか持ちだしてるんですか……!!!」
怒りで体中の血が沸騰しそうな気がした。元々刃物は好きではなかった――好きなはずがない、何よりも簡単に<血を>流させるその凶器を、
なぜ、よりによってこの場所で。精霊の故郷で。
まして、ルクレの腕に押し付ける形で。
直前まで夢心地であったとは思えない勢いで、アリムは跳ねるように立ち上がった。
しかし、そんな彼の気迫を掬うように、背後から強い力が襲う。
はっと後ろを見ようとしても無駄だった。気づけばアリムは背後から、誰かに抱きとめられていた。太い腕を回され、痛みこそないものの、その力は凶暴なほどに強い。動けない。
「大人しくしていてくれ。君に怪我をされたら困るんだ」
耳元で低く囁く声がする。
顔は見えないけれど、声の感じは覚えていた。こちらもやはり役場の男――否、役場の男として、一緒に来ていた男――だ。
「そん、そんな、こんなことをしておいて、何を言って――」
「乱暴なことをしたのは悪かった。しかし君を目覚めさせるには仕方がなかったんだよ」
早口で、背後の男はそう言った。詫びてはいても、全くすまなそうに聞こえないその声は、有無を言わさずアリムの抵抗を拒絶している。
――この、感じは。
(この間襲ってきた傭兵たちと同じ……)
一度洞窟に来るのに失敗した、あの日と同じだ。自分は動けないままで、目の前にはぐったりとしたルクレがいて。
けれど同時に、あの日とは違うものもたくさんあった。ここは灯りに乏しい洞窟の中で、ルクレを捕らえている男はアリムではなく、湖の方へと顔を向けている。
そして湖面には――精霊が。
水の化身たる洞窟の主は、その揺らぎやすい面立ちで怪訝そうな顔をしていた。淡い淡い、今にも溶けてなくなりそうな表情だ。
透き通る輪郭が松明の火を照り返し、精霊にほのかな色を与えている。
その表情が意味する心を、アリムは推し量ることさえできなかった。全く状況を理解していないようにも見え――一方で、どこか怒っているようにも見え。
ルクレを捕らえたままのナイフの男が口を開く。
「そのまま話を聞け、洞窟の主殿。俺たちはお前の能力を買いにきた――」
ひたり、とどこかで水滴が落ちた。
雪煙が舞った。
息をするのも苦しいしばしの間――
「開いたぞ! 行け、アーク!」
トリバーの声が聞こえるよりも先に、アークは走り出していた。
精霊術の威力を上げるためにトリバーが“掃除”をしたその“通路”を介して、あの、役場の男が放った火術。予想以上の発破がかかった。アークとしては、精霊の故郷をこういった形で荒らすのは不本意だったが、この場合やむを得ないと思うしかない。
再び穿たれた、洞窟への道。
そこへ踏み込む直前に、刃のような視線を感じた。
傭兵イグズ。一体何を考えているのか知らないが、この男はトリバーたちの邪魔をする気はないようだった。面倒くさそうに曲刀を肩に担いだまま、アークを見つめている――半ば睨んでいるのに近い。
不満なのだろう。アークにはそれが分かっていた。
勝負の邪魔をされたことに、ではない――
そもそもアークと刃を交えている最中にも、その不満から来る苛立ちをアークはひしひしと感じ取っていたのだ。だから――
アークは立ち止まった。
ほんの少しだけ、イグズに半身を向けて。
「そんな顔されても困る。そもそも前提が間違ってるからな――俺を選んだのは、お前の見込み違いだよ」
俺は、弱いんだから。
特別な思い入れもなく、ただ、そう告げた。
雪煙の向こうで、イグズが表情を歪める。
アークは目を細めて、一言付け足した。
「だからって、もう俺はお前を許さないけどな。今はお預けだ」
それきり――
アークはイグズを見ることなく、洞窟へと飛び込んだ。
アークの姿が洞窟に消えた途端、突風が吹き荒れた。雪やら泥やら細かな切片やら、全てを巻きこむ竜巻のようなその動きは、まるで憤りを空気が体現しているかのようだ。
(妖精――今まで大人しかったのは、アークがいたからか)
トリバーは姿勢を低くし、腕で顔をかばう。
(ということは、まだアークを認識できる程度には、正気が残っているのか)
しかしそれも時間の問題だろう。精霊を人の血が侵食していくのを、止めるすべはない。妖精化を始めた精霊を、救えた記録など過去にないのだ。
もはや目はあてにできないと瞼を閉ざす。耳も、凍ったように機能がなくなってしまっている。それでも肌に当たる痛みで、風の動きを探る。流れの出所を探る。
と。
意識の片隅に閃光が奔った。
正しく言うなら、光ではなく炎だ。瞬時に高温で閃く炎。辺りの雪を蒸発させ、肌に障る痛いほどの寒さを相殺する。
トリバーは目を開けた。
吹き荒れる風によって拡散された炎が、風の動きをくっきりと形にする。
――狙うべき中心部を、浮き彫りにする。
(そこか!)
腕を突き出し、指を弾く。生まれた空気の振動を増幅させ、波へと変える。人工的に生み出した、風と同種の性質を持つそれを、精霊の操るそれに重ねる。同化させる。
トリバーが生み出した波と一体になった風は、トリバーの意思に応じて動きを止める。
しばしの間、音が消えた。
同時に、風の出所がくっきりと明瞭になる。
「……一体だけか」
少し離れた場所で、トリバーと同じように防御の姿勢を取っていたナズカが、呟くのが聞こえた。ほっとしたような声音を隠しきれていない。
トリバーたちの視線の先で――
小さな生体は、ふわふわと浮遊している。
平素ならば半透明に見えることが多い風の精霊は、いまやくっきりと輪郭を見せていた。それこそ人と変わらないほどの存在感だ。
その顔に浮かぶ憤怒の色は血を浴びた怒りなのか、それともこの場を荒らされた怒りなのか――
緊張が、時間の進みに絡みつく。
目に映る全てのものが、異常に緩慢に見え始める。火術の影響で今やほんのわずかとなった雪の欠片が空中を舞う姿さえ、つぶさに見えるほどに。
小さき妖精が、両手を大きく広げる。
来る。トリバーとナズカが揃って身構えた、その瞬間、
曲線の銀光が、妖精の背後を縦に薙いだ。
時計が止まった。空中で硬直した小さな生き物が、ほんの一瞬震えて。
「あ――」
声を上げたのはナズカだ。場違いなほどに呆けた男は、反射的に妖精に向かって手を伸ばした。しかし届くはずもない――
『―――ッ!』
声にならない一声で絶叫し、びりびりと辺りの空気を震わせた妖精は――
空中で弾けるように霧散した。
精霊の消滅は人間の死よりもさらにあっけない。残された静寂に、底冷えするような冷たさが広がっていく。やがてナズカの火術の余韻も消え、凍えるような寒さが舞い戻った。
ナズカが激した声を上げる。
「イグズ! お前は……っ!」
「……なーに怒ってんだ? お前さんは」
一撃で妖精を消し飛ばした傭兵は、再び肩に剣を担いだ体勢で腰に片手を当てる。
「妖精なんざためらわずに消すしかないのさ。そうだろう?」
「……っ」
ナズカが悔しげに口をつぐむ。
それを一瞥してため息をつき、トリバーは構えを解いた。
「……まあ、手間が省けて助かった」
イグズはトリバーを、面白そうに見る。
「そっちの兄さんは物分かりがいいな」
「単に優先順位をはっきりさせているだけだがな。だがお前は」
言いかけるトリバーを制するように、イグズはトリバーに向けて顎をしゃくった。
「そっちの兄さんはアークの知り合いだな?」
「――だから何だ?」
「妖精退治の報酬に教えてくれないかね。やつはなぜ、精霊を害した人間相手に本気を出さない?」
「さっき本人が言っていただろう。アレにはお前が望むほどの強さはない」
トリバーは即答した。
しかしイグズの表情は変わらない。仄暗く輝く目で、トリバーを見据える。
沈黙の代わりに聞こえてくるのは、耳の奥で唸るような風の音だ。
どこかにいる風精が、何かを訴えている。警告している――
ため息とともに、トリバーは告げた。
「……戦士としてのアークは本当に、お前ら力自慢が目の色変えなきゃならんような相手じゃない。だがアークは、そもそも戦士じゃない」
精霊術師か、と傭兵が低く問うのに、緩く首を横に振って。
「精霊術だろうがなんだろうが、戦うための人間じゃない。やつは――“背く者”だ。それが全てだ」
それは精霊保護協会が呼びならした名。
皮肉なことに、もっとも奴を表現するのに相応しい呼称。
ナズカがトリバーを見つめて、顔色を失う。どうやらナズカはアークの力について断片でも聞いたことがあるらしい。元々保護協会にいたなら、それも当然だ――
「あれは人に背く。あれが本気で人を憎めば、人は呪われる。……あれに好き放題に力を使わせるのは危険だ」
――だから、俺は奴と共にいる。吐き捨てるように、トリバーはそう言った。
* * *
「しっかりしろ、アリム・レン……!」
強く呼ぶ声が、アリムのまどろみの世界を引き裂いた。
同時にぐいと腕を引っ張り上げられ、アリムは夢うつつから覚醒した。
手首と肩に走る痛みが、急に現実的な感覚として襲いかかる。しかしそれに顔をしかめるより先に、
「――ッ」
アリムは一瞬、呼吸を忘れた。
目の前にある光景が信じられなかった。なぜ、こんなことになっているのか。ここは『水鏡の洞窟』、その最奥たる湖の前――それは変わっていない。
なのに、
なぜ――目の前で、ルクレが男に腕を掴まれ、拝礼の姿勢から強引に引き起こされているのか。
彼女の下半身は相変わらず地面に座り込んだまま、上半身だけ起こされて、しかしその体には力が入っていない。ぐったりとしたまま、腕だけで引っ張りあげられている。
がくりと落ちたその顔は髪に隠され、アリムにはよく見えなかった。それでも――どう見ても、意識があるようには思えないのだ。
否。それより何より一番恐ろしかったのは――。
「何を……してるの……?」
アリムはかすれた声で問うた。
ルクレの腕を掴んでいた男が、じろりとアリムを見た。保護協会の教師ではない。彼は――同行していた、役場の男の一人。
「黙ってろ、森の子」
乱暴に吐き捨てられた言葉に、アリムは激昂した。
ルクレの腕は露出して、白い肌がさらされている。その白さの間近に光っているのは、鈍い銀色――
「――どうしてッ! ナイフなんか持ちだしてるんですか……!!!」
怒りで体中の血が沸騰しそうな気がした。元々刃物は好きではなかった――好きなはずがない、何よりも簡単に<血を>流させるその凶器を、
なぜ、よりによってこの場所で。精霊の故郷で。
まして、ルクレの腕に押し付ける形で。
直前まで夢心地であったとは思えない勢いで、アリムは跳ねるように立ち上がった。
しかし、そんな彼の気迫を掬うように、背後から強い力が襲う。
はっと後ろを見ようとしても無駄だった。気づけばアリムは背後から、誰かに抱きとめられていた。太い腕を回され、痛みこそないものの、その力は凶暴なほどに強い。動けない。
「大人しくしていてくれ。君に怪我をされたら困るんだ」
耳元で低く囁く声がする。
顔は見えないけれど、声の感じは覚えていた。こちらもやはり役場の男――否、役場の男として、一緒に来ていた男――だ。
「そん、そんな、こんなことをしておいて、何を言って――」
「乱暴なことをしたのは悪かった。しかし君を目覚めさせるには仕方がなかったんだよ」
早口で、背後の男はそう言った。詫びてはいても、全くすまなそうに聞こえないその声は、有無を言わさずアリムの抵抗を拒絶している。
――この、感じは。
(この間襲ってきた傭兵たちと同じ……)
一度洞窟に来るのに失敗した、あの日と同じだ。自分は動けないままで、目の前にはぐったりとしたルクレがいて。
けれど同時に、あの日とは違うものもたくさんあった。ここは灯りに乏しい洞窟の中で、ルクレを捕らえている男はアリムではなく、湖の方へと顔を向けている。
そして湖面には――精霊が。
水の化身たる洞窟の主は、その揺らぎやすい面立ちで怪訝そうな顔をしていた。淡い淡い、今にも溶けてなくなりそうな表情だ。
透き通る輪郭が松明の火を照り返し、精霊にほのかな色を与えている。
その表情が意味する心を、アリムは推し量ることさえできなかった。全く状況を理解していないようにも見え――一方で、どこか怒っているようにも見え。
ルクレを捕らえたままのナイフの男が口を開く。
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