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第一部第一章 アーテ王女の冒険における奇跡をおこなう国 すなわち「人間」・大学・企業および社会システム 社会システムの一般放送関係批判1
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アーテ王女の冒険における奇跡をおこなう国
すなわち「人間」・大学・企業および社会システム
社会システムの一般放送関係批判1
暗闇の中に基礎世界あるいはアーテ王女の基礎哲学について ~この世は基本的暗闇である基論?
アーテ王女の日記
『闇、世界状態、社会、現実、悪魔の行動原理』
より
二×二十四年二月二十三日
哲学、神の観念とその一般的な内容理解のためのもの
基本的にはすべてそうであるが、誰も気づかないものがある。しかし、気が付かないという概念は、それ自体なにを意味するものでもない。それは、常に解釈と認識におけるところの問題であり、気づかない、それ自体は、気づかないという言葉、常にそれ自体が存在するものである。
それ、すなわち「感慨深いもの」をどう呼ぼうと、それは関係ない。それは、現実に、人間の生活にきたし、そうして、ある一定の価値付けを、それに対しておこなっている、ものである。
何人も、そこからは、逃れることは、出来ないし、事実そのように呼ばれている。それは主として、抽象的な概念、その理論に際して抵抗不可能であり、純粋に理論的に考えられている歴史的な展開、それ自体として、扱われている。出来るのは、だた、それを甘んじて受け、そうしてある一定の回答を、社会に反映させる程度のことである。
種々の社会的概念と、学者が提出した社会理論的な問題、その構造の形式性、実質性主観の問題はあまり考えないとして、人間、あるいは人間性が生きている以上、その本質性は、常に存在することになる。しかし、基本的にそれは、ある種の学問の体系において、問題にされているごとく、その通俗性は否めない。シュムペーターがいうように、思想は必然的にゆがめられながら、あるいは誤解されながら、力強く一般民衆の間に広まっていくものである。もちろん、それら素人の頭に描かれた、「科学的」であるとされるそれら本質性の側面の、漫画のような通俗性は、いずれはその他の要因に席を譲るものである(シュムペーター『経済学史 学説ならびに方法の諸段階』中山伊知郎・東畑精一訳 岩波文庫 p.138~139)。
そのため、そのような本質的な制約と、社会関係が存在しているために、いつもは誰も、それを見ようとは、しない。それには基本的には努力が必要であり、斜めから見られる目線その他、その基礎的な科学の問題、そうして、認識という名の一般性、また、人間が日常生活において気にかけるべき、物事の視野の問題、あるいはその他があり、・・・・・・しかし、それは、繰り返そう、いつでも存在しているのである。
鳥が飛べるのは、なぜか。それは、神が、それを望んだからか。社会にうごめきがあるのは、なぜか、それは、神が、それを望んだからか。もちろんそのように考えることはできるし、それは通俗でも何でもない、それもまた正当な主張であろう。そうしてそれには、このような、説明が付随することになる。「そのように思い、そうして、それを正当に思う人間、そうして、解決に至る道のりの問題その他が、果てしない存在として、世界の果てを形成しているのである」。
歴史には、載らないものがある。それは、人間社会の現象のうちで、もっとも、根幹に存在するものである。社会には、それが存在するだろうか。するだろう。しかし、その存在が認められることは、ほとんどない。それは、誰も、見ようとはしないからである。しかし、人間一般的な生き方として、その側面としての事実、また、その発展、あるいは、その他の社会状態と、一般社会状態、また、システムに対する姿勢とは、常にそれを必要とするものである。
それに目を向けなければならないときがある。それは、神がその人間に、その理性をあたえるためである。理性の存在は、人間の欲望に対する見方であると同時に、その基礎的な概念に対する、それとは異なる側面の抽出である。それが社会状態、社会システムに関係性を持たせる可能性の問題としては、理性による確認作業は、その循環、起源、そうして、複合的に連関しているその要因の問題に帰着することになる。また、簡単な部分に対しての思考の問題としては、目線の回避の可能性とは、人間という存在が、あまりにも、ちっぽけなものであるから、という、可能な事実に由来するようになる。
誰もそれを見ないのである。しかし、それは、繰り返すそう、確かに存在している。
この問題に関しての、重要な理解の観点とは、なんだろう。主としては、理神論、それ自体に存在しているというのが、その感想であろう。つまり、理知によって理解することができるという神の存在(∃)に対して、それを可能にする関係の基礎、おもには、それに由来することになるだろう、その起こりの問題において、それは意図されることになる。すべてを理解するということの問題の転換、つまりは、神それ自体に対する信仰に由来した世界観の主としたあり方の、その、近代の幕開けにおいて批判された、神の権威、それは、ローマ・カトリックに対して向けられたその信仰の不審の偽善の関係、それから起こることになる、宗教改革、また、合理主義の勝利にあり、その酔いしれに関係することになる、主としては、神それ自体に対する、複雑な関係からくる、そのプロセスの解明がほぼ不可能なものとされるところの、神総体としての権威の否定、その、現実的な問題、王国、封建衆、それに伴う農民たちからの、その精神と、精神の搾取、そうして、その搾取の総体としての、金額の問題に、由来することになった。
問題を挙げようと思えば簡単であり、神を理知によって分かつ能力の、能力なき普遍化、主には大衆化であり、ローマ・カトリックの権威それ自体に形骸的に付随していた、漠然とした共同意識、また、聖書の世界観、それらに対する、その保護者と、祭司に対する不審からなった、それへの失望であった。
その保護に対する失望は、ディバイン、セイント、それ自体であるところの、影、そうして、その主たるものに対する、主として神の国と呼ばれる政治論に対するもの。もちろんそれ自体もまた、単に、その姿を投影したものであり、偶像崇拝としてのあり方を否定するものではなかったのであるが、その無きにしも非ずや・・・・・・。つまり、私見としてそれを述べれば、神性、その真性に対してもたらされた不安が、その宗教心の真実であったところにおいてもたらされた、救いの観念、それへのおびえ(子羊)にも似た、不安の概念によって、不安それ自体が満たされることなく、それが、その宗教それ自体に対する、反抗の概念に依拠したのであろう。つまり、確かなもの、救いへの欲望、それがあるがために、この宗教心とは、それを成す方向性へと向けられたのである。その成立それは、その破壊の観念へと、常につながるものでもあった。極端な思想、救いへの、それは不安として、信者に要求されるのが、普通の考え方になるのが、その意図に由来するものであるが、そのでっち上げられた感のある、その窮屈な感想は、それへの排他的な欲望が、常に包含されている。ジャンセニズム、カルヴィニズム。宗教、また、神に対する帰依とは、それが自己の滅失にあるという。自身を神にゆだねるという、他に対してそれを任せるという名の、あり方、そうして、同時に、他力であろうと、自力であろうと、その本質にあるところの、神、それ自体への、何らかの同化である。
キルケゴールは言っているが、神とのつながりとは、常に個々のものとして、存在するものである。それに基づくものとして、他のものとの関係は成立するのであり、そこには、他の、それ以外のものとしての救いの概念は、存在(∃)しないことになる。牧師、神父。その助けとは、常にそれとの牽引を意味するものであり、つながりそれ自体としての神の観念がある限り、それら役職との断絶は、否めないだろう。常にそのつながりにおいて、他との関係を維持するものであるとの考え方は、宗教メディアの発想であり、そのあり方に対する信頼は、他を考えるものである物事に等しい。
A=E=b
その由来するところの観念は、他、それ自体の、神それ自体としてのあり方であり、イコール関係に結ばれるそれは、常にそのもの自体と同一であるとの発想を持って、人々に受け入れられることになる。Aは自個人。bは他者としての人。作用の限界となるだろう。
A=E≡b=E
それは、まさに他との同一であり、主としては、世界観それ自体との、共有、そうして、世界観それ自体において、いる(∃)ということの確認を意味する。
A=W'(E)=b
A=G'(E)=b
A=B'(E)=b
A=C'(E)=b
Wは世界観。Gは神。Bは聖書。Cは教会組織をあらわす。r=1,2,・・・・・・,N。
同化の存在が、基本的にはこれにおいて、証明されるが、それは、神それ自体というよりも、あるいは、神としての存在、そうして、他のものとの関係性としての、内部に存在している、他人それ自体のものであると、考えられるだろう。つまりは、レヴィナスや、ハイデッガーとの論理の食い違いであり、しいてはニーチェの哲学にあるような、神との関係、そうして、そのため、他の社会関係(主としてそれは人間関係)とのあり方の、規定に等しいものである。・・・・・・(アーテ王女メモ:道徳の系譜!)
それは、人と人とのつながりを意味するところの哲学であった。神と生きることそれ自体が、いかに他の人間と生活をともにするかの意味合いをもたらすものであり、社会、そうして、その後の経済的な関係の重要性の認識それ自体が、神学とのあり方において主張されることになったのは、その意味合いを濃厚に示しているといえるものだった。
(アーテ王女メモ:Aとは人間のこと。bとは他者である。然るに、その関係それ自体としてのあり方の関係とは、自己それ自体としてのものが存在するのか、それとも、他者としてのあるべき姿が、それを自己として達成しているのかの、複雑な、二者間のあり方に依存することになる。対峙のイコール関係が成立することそれ自体において、その媒介としてのもの、それ自体。つまりは、世界(∃)が在介しているということが、それを示している。そのイコール関係は、実はなんらの意味を持ってはいないし、何も説明はしてはいないのである! それ自体としての媒介、それが、社会における複雑な関係、本来只中にあり、対して違いの認められるべきものではない関係、A=Bの、明快であり、しかし混沌としたあり方に対する、封鎖をもたらしているものなのだ! 追記:Aを大文字にしたのは、ニーチェに対する愛着と敬意である。わたしはニーチェが好きだ。ドイツ語は読めないけど)
基本的な部分において述べておこう。それは恐怖についてである。世界観、それに基づくところのあり方、そうして、それがあるべきところのもの、そのものとしての、社会、そうして、それに対する不知。
不知とは、その関係として、それに対して、理解、または、その社会それ自体として関係において、関係それ自体としてのものに対して、その理解を及ぼさないことである。
分からないもの。それが存在(∃)していることに対して、分からないという理解を及ぼさない物事。物事とは、常に、そうしたものである。分からないということが、基本的には、きわめて矛盾した問題であるが、そのものの構成要因の基礎的な分野を成しているのである。これは、ほとんどカントの哲学において出現したものであろう。
つまり、理解に対する視野の関係において、それは理解されるのである。視覚に存在しているものに対する、そのあり方、そうして、そのあり方を理解しているのは、認識できないという名の、思考の現象それ自体である。物がないということ。わたしはドイツ語が読めないが、そのあり方とは、見ているということに、明らかに矛盾した問題であった。現象。それは、本質をあるがゆえにおいて理解される、それ以外のものに対する問題の認識である。見ているのに、それがないということは、それは確かにおかしなことである。それならば、見ているものそれ自体には、ありえない関係に対して、何らかの意図のようなものが、存在しているのだろうか。∃、∃、∃・・・・・・。
恐怖それ自体としてありえるものは、本質それ自体に対して、向けられるもの、それ自体であった。基本的には、そのことは、歴史がそれを証明しているし、それによって明らかになるのは、分からないもの、明らかではないもの、そうして、ありえないものに対する、恐怖の概念それ自体であった。
幽霊、お化け、怪物、魔物、吸血鬼、死神、雪女、魔王、そうして、社会。∃、∃、∃・・・・・・。
恐ろしいのは、それを見ることでは、ありえない。存在し、しかし、見ることができないという事実。つまりは、それにたいして、盲目に、服従することである。誰も、それが存在しながら、実際には、認めようとしないことが、事実として、恐ろしいのである。あるということ自体に対して、しかし、それがないという事実。その、否定の論理に存在するのは、何であるのか。むしろ、それ自体に対することである。現象それ自体に対する信頼である。そうして、現象それ自体が、むしろ存在そのものとしての扱いとして、あるべきものの、あり方である。
Ar=br-1
Aは自個人。bは他のもの。r=1,2,・・・・・・,N。
気づいているだろうか。おそらく、少数の限られた人間にだけ、見えるのではないだろか。それは、神が、その人間に、それを行なうことを、希求するからである。その希求がおこなわれるのは、どういう理由に由来するものであるのだろうか。つまりは、その理由それ自体が、それが存在するということを、物語っている。
Ci≦Ci-1≦Ci-2...≦Ci-n
それは、確かに存在する。つまり、闇である。この世の背後に存在し、それに対して、なんらの疑問も考えず、生きてる、人間たちの背後に存在する、闇である。
誰も、それを見ようとは、思わない。また、基本的にはそれが存在しているという事実についても、あまり気にかけることは、ないだろう。それは、基本的には、社会において、必要のある内容のものでは、ありえない。あるから問題であるのではなくて、むしろ、それがないからこそ、あると述べられる内容のものなのである。しかし、それは、確かに存在しているのである。
その否定の関係において、それは、基本的には、あるとのものが、ないという関係において、述べられるのが、基本である。誰も、それを見ようとはしない。
同日記より
二×二十四年二月二十九日
神の観念後日の覚書(社会システムにおけるそのひとの関係論考)
神の社会における関係の続き。社会においては、神との関係において、その主体たる人間関係が完結していると見られるだろう。それにおいて、その主体たる事実のようなもの、そうして、その理解について、・・・・・・。
(恐怖とは、常に人間が隠しているものであろう! ・・・・・・)
その後ろにある、この上もなく、恐ろしいものの存在を、かれは、かくしている。その存在が、恐ろしいというのは、社会の盲目さである。闇。それは、目の前にある、光輝くすばらしいものによって、それを覆い隠す、ベールを持っている。
見られるべきものはない。あるのは、かがやく太陽のようなもの。それは、しかし、背後に存在している闇のなかにこそ、あるものである。ひかりがある限り、闇もまた、ある。これは、常に述べられ続けることである。内包されるものの関係には、常にそれ自体としての、あり方、そうして、その主体たる事実の存在が横たわっていて、その関係の上に、その主な事実の存在が、揺らいでいるのである。
S(E)⇔L(E)
S(E)(1⇔2⇔3...⇔N)
L(E)(1⇔2⇔3...⇔N)
それは、何らかの意図を持つものであるのだろうか。恐ろしいものだ。基本的には、それは恐ろしいものである。
その、ひかりかがやく背後に存在する、闇である。闇が恐ろしいのは、なぜか。それは、それに対して、対者たる人間が、その相互の関係として、介在しているからである。闇とのつながりそれとしての関係が、社会や、その他の関係としてのあり方に対して、関係の観念を持っているからである。わからないのは、それとのつながりそれ自体としての、理解不能な現象が、その、自己とその関係のあり方に、基本的に変わることのない、物とを、理解不能なものにしている点にも、上げられる。それがひとつである。そうして、闇にたいして、探索の手を加えない。
恐ろしいものそれ自体として存在しているのは、その、光り輝く表面だけをみて、喜んでいる、人間たち。喜びを持っている、かれらの、顔である。(アーテ王女メモ:「ヴィサージュ!」)
血の流れる川があり、その根拠となるものが、見える形として、ある。それは、基本的には彼らが言う名の現象それ自体としての、ものである。見える可能性のある関係、それは、本質でもないし、本質に隠されることになる、単なる未知のものでもありえない。
At=bt
At=E≠bt
Aは自個人となる。bは作用物。その在介としての∃が、その干渉の役割を果たしているだろう。
常に身近に存在していながら、しかし、その可能性として、成り立ついわれのない物事である。しかし、関係のないことに、あり、その顔には、目の前にある、極度にすばらしい面だけをみて、安心する、人間たちの顔があるのである。
闇のオーラは、そのすぐ後ろに存在しているものである。それは、常に存在しているとの認識が、常に存在しているものとして、その可能性を停滞させている。しかし、その顔のすぐ後ろには、黒き輝きをもたらす、この世の無我が存在するのである。
恐ろしいことだ。
なにが。
みんな、それに気づかない。ある、表面だけを見て、それを、正当なものであるかのように、考えている。
しかし、その背後には。存在。
それに気がついたものがいた。その人間は、それら背後に存在する事象の影に、襲われ、二度と、もとには戻ることの出来ない、影を、踏んだのである。
それに気がついたものは、その背後に存在する、無限の悪夢に翻弄され、押し流され、そうして、社会の背後に後ずさる。
つまり、そのかがやきだけをみて、喜んでいる人間の存在を恐れ、恐怖するのである。
かくしてこの世には、闇が存在する。そうしてその闇は、それとは異なるものを包含し、飲みこみ、社会をある方向へと、動かす力をもっているものなのである。
アーテ王女の博物学としてのあり方、分類学的考察
最近、十歳の誕生日を迎えたばかりのアーテ王女にとって、とりわけ重要であったのは、重要なものと、そうではないものを、分類することだった。分類という名の問題を知って、それについていろいろ考えるところには、美学、倫理、自然、論理の関係の、主とした主題としてのあり方が、深く影響を与えていると、考えられている。アーテ王女は、あまりそうした関係については、深く考えるほうではないし、それ以上に問題のあり方には、柔軟に考え、もっともその基礎的な部分に対しては、尊敬と、その他の敬意との関係において、それを問題と使用と考えていた。
もちろん、分類という問題は、単に思考上の問題であって、現実の社会においては、その問題は、対して関係のないものであるとの理解は、常に成されるものであるとの認識に、アーテ王女も立っていた。そのため、その日常生活の関係としての、アーテ王女の生活には、それ以外のこと、重要なものと、そうではないものを分ける以外にも、大事なことはあった。しかし、それらは、単に人間の考えの、基本的な部分にあるとされる、行事、誕生日プレゼント、トイレ、食事、御祭り事、そのため、これらは換算外であった。
問題としては常に面倒なものではあるが、しかし、これ、分類を行わないと、どうなるだろうか。物事に価値付けをして、やるべきことと、そうではないことを、あらかじめ決めるのは、問題をすばやく処理するためにもっとも重要なものであることは、確かであった。そのようなことは、すでに時代遅れになった感のある、二次記憶装置においても、述べられることである。コンピュータ関係については、アーテ王女もある程度の関心を持ってあたっていたことは、ある。つまり、いろいろ調べることがあり、参考となる図書、そうして、情報をいろいろと手短にまとめることができるので、それを活用することは、すでにアーテ王女の生活上、必要不可欠な事実になっていたのである。ワードプロセッサはそうであったし、それでA4版を大量に生産することは、一応の物事に対して調査を重んじているアーテ王女にとっても、必要なことのように思われた。
とにかく、そのように、アーテ王女は問題を、いろいろとまとめ、分類することに、努力を払うことにしていたのである。フォルダは具体的に、しかし、細かすぎないように。細かすぎると逆に、元の木阿弥になる。とにかく、自身のあるべきように、それらを辞書として、自身の使いやすいもののように、まとめるのである。
まとめることは、いいことである。アーテ王女の周りの人々は、そうしたことに対しては、関心がないし、まとめる必要があることに対しても、あまり関心がなかった。データベースはエクスプローラで製作してもいいが、その言葉を知っている人間が、アーテ王女の周りには、ほとんどいないのが、現状でもあった。
とにかく、アーテ王女は、何かがあると、それらの内容を、いろいろ整理していった。別にいいのだが、知ったことに対しても、必要があるものでは、ない。それらは、いつか使用することになる可能性は皆無だし、「いつか」という言葉は、日常言語においては、一生訪れないということを、意味しているのである。それは、アーテ王女も知っていた。
それはともかくとして、デジタルデータは希少であるから、使用価値がないので、そのためもったいなくは、ない。とにかくまとめるのが、アーテ王女の必要を、そのため満たしていたのである。スケジュール帳などという、女子供が使用するような、ピンク色の水生ペンによるばかげたものは、容易に記憶していた。もっとも、それはアーテ王女の強がりに根拠していた。暇で暇でしょうがないアーテ王女には、そのためやるべきことがないから、スケジュールがないのだが、スケジュールにあがらないことこそが、しかし基本的にはスケジュールの核であるということは、すでに誰もが認める事実でも、あった。
とにかく、そのことをしないと、物事すべてがごっちゃになって、はじめに何をすべきかをすることを決められないし、なにより、その基準の問題が基本的になければ、生活経済上、社会経済学にそれが包含される関係から、その不合理が否めない。分類することができなかったら、どっちを優先的に扱うかわからなくなって、きわめて不便、不合理なのである。
そのため、アーテ王女にとってこのころ重要であったのは、重要なものと、そうではないものを、詳しく分類することだった。
メモはいろいろ詰まっていた。基本的にはアーテ王女の左のポケットには、金具でまとめられた紙の束があり、右にはボールペンが常に入れられていた。
人の話を聞いたり、何か、特に気が付いたこと、ひらめきなどは、常にメモ帳に記載して、忘れないようにしていたし、メモは取るたびに、それらの内容は日記に記載されることになっていた。日記は物事の分類における、アーテ王女の基礎であり、考えがまとまると、それらの内容を、一定の作文にすることが、アーテ王女の日課にも、なっていた。
すなわち「人間」・大学・企業および社会システム
社会システムの一般放送関係批判1
暗闇の中に基礎世界あるいはアーテ王女の基礎哲学について ~この世は基本的暗闇である基論?
アーテ王女の日記
『闇、世界状態、社会、現実、悪魔の行動原理』
より
二×二十四年二月二十三日
哲学、神の観念とその一般的な内容理解のためのもの
基本的にはすべてそうであるが、誰も気づかないものがある。しかし、気が付かないという概念は、それ自体なにを意味するものでもない。それは、常に解釈と認識におけるところの問題であり、気づかない、それ自体は、気づかないという言葉、常にそれ自体が存在するものである。
それ、すなわち「感慨深いもの」をどう呼ぼうと、それは関係ない。それは、現実に、人間の生活にきたし、そうして、ある一定の価値付けを、それに対しておこなっている、ものである。
何人も、そこからは、逃れることは、出来ないし、事実そのように呼ばれている。それは主として、抽象的な概念、その理論に際して抵抗不可能であり、純粋に理論的に考えられている歴史的な展開、それ自体として、扱われている。出来るのは、だた、それを甘んじて受け、そうしてある一定の回答を、社会に反映させる程度のことである。
種々の社会的概念と、学者が提出した社会理論的な問題、その構造の形式性、実質性主観の問題はあまり考えないとして、人間、あるいは人間性が生きている以上、その本質性は、常に存在することになる。しかし、基本的にそれは、ある種の学問の体系において、問題にされているごとく、その通俗性は否めない。シュムペーターがいうように、思想は必然的にゆがめられながら、あるいは誤解されながら、力強く一般民衆の間に広まっていくものである。もちろん、それら素人の頭に描かれた、「科学的」であるとされるそれら本質性の側面の、漫画のような通俗性は、いずれはその他の要因に席を譲るものである(シュムペーター『経済学史 学説ならびに方法の諸段階』中山伊知郎・東畑精一訳 岩波文庫 p.138~139)。
そのため、そのような本質的な制約と、社会関係が存在しているために、いつもは誰も、それを見ようとは、しない。それには基本的には努力が必要であり、斜めから見られる目線その他、その基礎的な科学の問題、そうして、認識という名の一般性、また、人間が日常生活において気にかけるべき、物事の視野の問題、あるいはその他があり、・・・・・・しかし、それは、繰り返そう、いつでも存在しているのである。
鳥が飛べるのは、なぜか。それは、神が、それを望んだからか。社会にうごめきがあるのは、なぜか、それは、神が、それを望んだからか。もちろんそのように考えることはできるし、それは通俗でも何でもない、それもまた正当な主張であろう。そうしてそれには、このような、説明が付随することになる。「そのように思い、そうして、それを正当に思う人間、そうして、解決に至る道のりの問題その他が、果てしない存在として、世界の果てを形成しているのである」。
歴史には、載らないものがある。それは、人間社会の現象のうちで、もっとも、根幹に存在するものである。社会には、それが存在するだろうか。するだろう。しかし、その存在が認められることは、ほとんどない。それは、誰も、見ようとはしないからである。しかし、人間一般的な生き方として、その側面としての事実、また、その発展、あるいは、その他の社会状態と、一般社会状態、また、システムに対する姿勢とは、常にそれを必要とするものである。
それに目を向けなければならないときがある。それは、神がその人間に、その理性をあたえるためである。理性の存在は、人間の欲望に対する見方であると同時に、その基礎的な概念に対する、それとは異なる側面の抽出である。それが社会状態、社会システムに関係性を持たせる可能性の問題としては、理性による確認作業は、その循環、起源、そうして、複合的に連関しているその要因の問題に帰着することになる。また、簡単な部分に対しての思考の問題としては、目線の回避の可能性とは、人間という存在が、あまりにも、ちっぽけなものであるから、という、可能な事実に由来するようになる。
誰もそれを見ないのである。しかし、それは、繰り返すそう、確かに存在している。
この問題に関しての、重要な理解の観点とは、なんだろう。主としては、理神論、それ自体に存在しているというのが、その感想であろう。つまり、理知によって理解することができるという神の存在(∃)に対して、それを可能にする関係の基礎、おもには、それに由来することになるだろう、その起こりの問題において、それは意図されることになる。すべてを理解するということの問題の転換、つまりは、神それ自体に対する信仰に由来した世界観の主としたあり方の、その、近代の幕開けにおいて批判された、神の権威、それは、ローマ・カトリックに対して向けられたその信仰の不審の偽善の関係、それから起こることになる、宗教改革、また、合理主義の勝利にあり、その酔いしれに関係することになる、主としては、神それ自体に対する、複雑な関係からくる、そのプロセスの解明がほぼ不可能なものとされるところの、神総体としての権威の否定、その、現実的な問題、王国、封建衆、それに伴う農民たちからの、その精神と、精神の搾取、そうして、その搾取の総体としての、金額の問題に、由来することになった。
問題を挙げようと思えば簡単であり、神を理知によって分かつ能力の、能力なき普遍化、主には大衆化であり、ローマ・カトリックの権威それ自体に形骸的に付随していた、漠然とした共同意識、また、聖書の世界観、それらに対する、その保護者と、祭司に対する不審からなった、それへの失望であった。
その保護に対する失望は、ディバイン、セイント、それ自体であるところの、影、そうして、その主たるものに対する、主として神の国と呼ばれる政治論に対するもの。もちろんそれ自体もまた、単に、その姿を投影したものであり、偶像崇拝としてのあり方を否定するものではなかったのであるが、その無きにしも非ずや・・・・・・。つまり、私見としてそれを述べれば、神性、その真性に対してもたらされた不安が、その宗教心の真実であったところにおいてもたらされた、救いの観念、それへのおびえ(子羊)にも似た、不安の概念によって、不安それ自体が満たされることなく、それが、その宗教それ自体に対する、反抗の概念に依拠したのであろう。つまり、確かなもの、救いへの欲望、それがあるがために、この宗教心とは、それを成す方向性へと向けられたのである。その成立それは、その破壊の観念へと、常につながるものでもあった。極端な思想、救いへの、それは不安として、信者に要求されるのが、普通の考え方になるのが、その意図に由来するものであるが、そのでっち上げられた感のある、その窮屈な感想は、それへの排他的な欲望が、常に包含されている。ジャンセニズム、カルヴィニズム。宗教、また、神に対する帰依とは、それが自己の滅失にあるという。自身を神にゆだねるという、他に対してそれを任せるという名の、あり方、そうして、同時に、他力であろうと、自力であろうと、その本質にあるところの、神、それ自体への、何らかの同化である。
キルケゴールは言っているが、神とのつながりとは、常に個々のものとして、存在するものである。それに基づくものとして、他のものとの関係は成立するのであり、そこには、他の、それ以外のものとしての救いの概念は、存在(∃)しないことになる。牧師、神父。その助けとは、常にそれとの牽引を意味するものであり、つながりそれ自体としての神の観念がある限り、それら役職との断絶は、否めないだろう。常にそのつながりにおいて、他との関係を維持するものであるとの考え方は、宗教メディアの発想であり、そのあり方に対する信頼は、他を考えるものである物事に等しい。
A=E=b
その由来するところの観念は、他、それ自体の、神それ自体としてのあり方であり、イコール関係に結ばれるそれは、常にそのもの自体と同一であるとの発想を持って、人々に受け入れられることになる。Aは自個人。bは他者としての人。作用の限界となるだろう。
A=E≡b=E
それは、まさに他との同一であり、主としては、世界観それ自体との、共有、そうして、世界観それ自体において、いる(∃)ということの確認を意味する。
A=W'(E)=b
A=G'(E)=b
A=B'(E)=b
A=C'(E)=b
Wは世界観。Gは神。Bは聖書。Cは教会組織をあらわす。r=1,2,・・・・・・,N。
同化の存在が、基本的にはこれにおいて、証明されるが、それは、神それ自体というよりも、あるいは、神としての存在、そうして、他のものとの関係性としての、内部に存在している、他人それ自体のものであると、考えられるだろう。つまりは、レヴィナスや、ハイデッガーとの論理の食い違いであり、しいてはニーチェの哲学にあるような、神との関係、そうして、そのため、他の社会関係(主としてそれは人間関係)とのあり方の、規定に等しいものである。・・・・・・(アーテ王女メモ:道徳の系譜!)
それは、人と人とのつながりを意味するところの哲学であった。神と生きることそれ自体が、いかに他の人間と生活をともにするかの意味合いをもたらすものであり、社会、そうして、その後の経済的な関係の重要性の認識それ自体が、神学とのあり方において主張されることになったのは、その意味合いを濃厚に示しているといえるものだった。
(アーテ王女メモ:Aとは人間のこと。bとは他者である。然るに、その関係それ自体としてのあり方の関係とは、自己それ自体としてのものが存在するのか、それとも、他者としてのあるべき姿が、それを自己として達成しているのかの、複雑な、二者間のあり方に依存することになる。対峙のイコール関係が成立することそれ自体において、その媒介としてのもの、それ自体。つまりは、世界(∃)が在介しているということが、それを示している。そのイコール関係は、実はなんらの意味を持ってはいないし、何も説明はしてはいないのである! それ自体としての媒介、それが、社会における複雑な関係、本来只中にあり、対して違いの認められるべきものではない関係、A=Bの、明快であり、しかし混沌としたあり方に対する、封鎖をもたらしているものなのだ! 追記:Aを大文字にしたのは、ニーチェに対する愛着と敬意である。わたしはニーチェが好きだ。ドイツ語は読めないけど)
基本的な部分において述べておこう。それは恐怖についてである。世界観、それに基づくところのあり方、そうして、それがあるべきところのもの、そのものとしての、社会、そうして、それに対する不知。
不知とは、その関係として、それに対して、理解、または、その社会それ自体として関係において、関係それ自体としてのものに対して、その理解を及ぼさないことである。
分からないもの。それが存在(∃)していることに対して、分からないという理解を及ぼさない物事。物事とは、常に、そうしたものである。分からないということが、基本的には、きわめて矛盾した問題であるが、そのものの構成要因の基礎的な分野を成しているのである。これは、ほとんどカントの哲学において出現したものであろう。
つまり、理解に対する視野の関係において、それは理解されるのである。視覚に存在しているものに対する、そのあり方、そうして、そのあり方を理解しているのは、認識できないという名の、思考の現象それ自体である。物がないということ。わたしはドイツ語が読めないが、そのあり方とは、見ているということに、明らかに矛盾した問題であった。現象。それは、本質をあるがゆえにおいて理解される、それ以外のものに対する問題の認識である。見ているのに、それがないということは、それは確かにおかしなことである。それならば、見ているものそれ自体には、ありえない関係に対して、何らかの意図のようなものが、存在しているのだろうか。∃、∃、∃・・・・・・。
恐怖それ自体としてありえるものは、本質それ自体に対して、向けられるもの、それ自体であった。基本的には、そのことは、歴史がそれを証明しているし、それによって明らかになるのは、分からないもの、明らかではないもの、そうして、ありえないものに対する、恐怖の概念それ自体であった。
幽霊、お化け、怪物、魔物、吸血鬼、死神、雪女、魔王、そうして、社会。∃、∃、∃・・・・・・。
恐ろしいのは、それを見ることでは、ありえない。存在し、しかし、見ることができないという事実。つまりは、それにたいして、盲目に、服従することである。誰も、それが存在しながら、実際には、認めようとしないことが、事実として、恐ろしいのである。あるということ自体に対して、しかし、それがないという事実。その、否定の論理に存在するのは、何であるのか。むしろ、それ自体に対することである。現象それ自体に対する信頼である。そうして、現象それ自体が、むしろ存在そのものとしての扱いとして、あるべきものの、あり方である。
Ar=br-1
Aは自個人。bは他のもの。r=1,2,・・・・・・,N。
気づいているだろうか。おそらく、少数の限られた人間にだけ、見えるのではないだろか。それは、神が、その人間に、それを行なうことを、希求するからである。その希求がおこなわれるのは、どういう理由に由来するものであるのだろうか。つまりは、その理由それ自体が、それが存在するということを、物語っている。
Ci≦Ci-1≦Ci-2...≦Ci-n
それは、確かに存在する。つまり、闇である。この世の背後に存在し、それに対して、なんらの疑問も考えず、生きてる、人間たちの背後に存在する、闇である。
誰も、それを見ようとは、思わない。また、基本的にはそれが存在しているという事実についても、あまり気にかけることは、ないだろう。それは、基本的には、社会において、必要のある内容のものでは、ありえない。あるから問題であるのではなくて、むしろ、それがないからこそ、あると述べられる内容のものなのである。しかし、それは、確かに存在しているのである。
その否定の関係において、それは、基本的には、あるとのものが、ないという関係において、述べられるのが、基本である。誰も、それを見ようとはしない。
同日記より
二×二十四年二月二十九日
神の観念後日の覚書(社会システムにおけるそのひとの関係論考)
神の社会における関係の続き。社会においては、神との関係において、その主体たる人間関係が完結していると見られるだろう。それにおいて、その主体たる事実のようなもの、そうして、その理解について、・・・・・・。
(恐怖とは、常に人間が隠しているものであろう! ・・・・・・)
その後ろにある、この上もなく、恐ろしいものの存在を、かれは、かくしている。その存在が、恐ろしいというのは、社会の盲目さである。闇。それは、目の前にある、光輝くすばらしいものによって、それを覆い隠す、ベールを持っている。
見られるべきものはない。あるのは、かがやく太陽のようなもの。それは、しかし、背後に存在している闇のなかにこそ、あるものである。ひかりがある限り、闇もまた、ある。これは、常に述べられ続けることである。内包されるものの関係には、常にそれ自体としての、あり方、そうして、その主体たる事実の存在が横たわっていて、その関係の上に、その主な事実の存在が、揺らいでいるのである。
S(E)⇔L(E)
S(E)(1⇔2⇔3...⇔N)
L(E)(1⇔2⇔3...⇔N)
それは、何らかの意図を持つものであるのだろうか。恐ろしいものだ。基本的には、それは恐ろしいものである。
その、ひかりかがやく背後に存在する、闇である。闇が恐ろしいのは、なぜか。それは、それに対して、対者たる人間が、その相互の関係として、介在しているからである。闇とのつながりそれとしての関係が、社会や、その他の関係としてのあり方に対して、関係の観念を持っているからである。わからないのは、それとのつながりそれ自体としての、理解不能な現象が、その、自己とその関係のあり方に、基本的に変わることのない、物とを、理解不能なものにしている点にも、上げられる。それがひとつである。そうして、闇にたいして、探索の手を加えない。
恐ろしいものそれ自体として存在しているのは、その、光り輝く表面だけをみて、喜んでいる、人間たち。喜びを持っている、かれらの、顔である。(アーテ王女メモ:「ヴィサージュ!」)
血の流れる川があり、その根拠となるものが、見える形として、ある。それは、基本的には彼らが言う名の現象それ自体としての、ものである。見える可能性のある関係、それは、本質でもないし、本質に隠されることになる、単なる未知のものでもありえない。
At=bt
At=E≠bt
Aは自個人となる。bは作用物。その在介としての∃が、その干渉の役割を果たしているだろう。
常に身近に存在していながら、しかし、その可能性として、成り立ついわれのない物事である。しかし、関係のないことに、あり、その顔には、目の前にある、極度にすばらしい面だけをみて、安心する、人間たちの顔があるのである。
闇のオーラは、そのすぐ後ろに存在しているものである。それは、常に存在しているとの認識が、常に存在しているものとして、その可能性を停滞させている。しかし、その顔のすぐ後ろには、黒き輝きをもたらす、この世の無我が存在するのである。
恐ろしいことだ。
なにが。
みんな、それに気づかない。ある、表面だけを見て、それを、正当なものであるかのように、考えている。
しかし、その背後には。存在。
それに気がついたものがいた。その人間は、それら背後に存在する事象の影に、襲われ、二度と、もとには戻ることの出来ない、影を、踏んだのである。
それに気がついたものは、その背後に存在する、無限の悪夢に翻弄され、押し流され、そうして、社会の背後に後ずさる。
つまり、そのかがやきだけをみて、喜んでいる人間の存在を恐れ、恐怖するのである。
かくしてこの世には、闇が存在する。そうしてその闇は、それとは異なるものを包含し、飲みこみ、社会をある方向へと、動かす力をもっているものなのである。
アーテ王女の博物学としてのあり方、分類学的考察
最近、十歳の誕生日を迎えたばかりのアーテ王女にとって、とりわけ重要であったのは、重要なものと、そうではないものを、分類することだった。分類という名の問題を知って、それについていろいろ考えるところには、美学、倫理、自然、論理の関係の、主とした主題としてのあり方が、深く影響を与えていると、考えられている。アーテ王女は、あまりそうした関係については、深く考えるほうではないし、それ以上に問題のあり方には、柔軟に考え、もっともその基礎的な部分に対しては、尊敬と、その他の敬意との関係において、それを問題と使用と考えていた。
もちろん、分類という問題は、単に思考上の問題であって、現実の社会においては、その問題は、対して関係のないものであるとの理解は、常に成されるものであるとの認識に、アーテ王女も立っていた。そのため、その日常生活の関係としての、アーテ王女の生活には、それ以外のこと、重要なものと、そうではないものを分ける以外にも、大事なことはあった。しかし、それらは、単に人間の考えの、基本的な部分にあるとされる、行事、誕生日プレゼント、トイレ、食事、御祭り事、そのため、これらは換算外であった。
問題としては常に面倒なものではあるが、しかし、これ、分類を行わないと、どうなるだろうか。物事に価値付けをして、やるべきことと、そうではないことを、あらかじめ決めるのは、問題をすばやく処理するためにもっとも重要なものであることは、確かであった。そのようなことは、すでに時代遅れになった感のある、二次記憶装置においても、述べられることである。コンピュータ関係については、アーテ王女もある程度の関心を持ってあたっていたことは、ある。つまり、いろいろ調べることがあり、参考となる図書、そうして、情報をいろいろと手短にまとめることができるので、それを活用することは、すでにアーテ王女の生活上、必要不可欠な事実になっていたのである。ワードプロセッサはそうであったし、それでA4版を大量に生産することは、一応の物事に対して調査を重んじているアーテ王女にとっても、必要なことのように思われた。
とにかく、そのように、アーテ王女は問題を、いろいろとまとめ、分類することに、努力を払うことにしていたのである。フォルダは具体的に、しかし、細かすぎないように。細かすぎると逆に、元の木阿弥になる。とにかく、自身のあるべきように、それらを辞書として、自身の使いやすいもののように、まとめるのである。
まとめることは、いいことである。アーテ王女の周りの人々は、そうしたことに対しては、関心がないし、まとめる必要があることに対しても、あまり関心がなかった。データベースはエクスプローラで製作してもいいが、その言葉を知っている人間が、アーテ王女の周りには、ほとんどいないのが、現状でもあった。
とにかく、アーテ王女は、何かがあると、それらの内容を、いろいろ整理していった。別にいいのだが、知ったことに対しても、必要があるものでは、ない。それらは、いつか使用することになる可能性は皆無だし、「いつか」という言葉は、日常言語においては、一生訪れないということを、意味しているのである。それは、アーテ王女も知っていた。
それはともかくとして、デジタルデータは希少であるから、使用価値がないので、そのためもったいなくは、ない。とにかくまとめるのが、アーテ王女の必要を、そのため満たしていたのである。スケジュール帳などという、女子供が使用するような、ピンク色の水生ペンによるばかげたものは、容易に記憶していた。もっとも、それはアーテ王女の強がりに根拠していた。暇で暇でしょうがないアーテ王女には、そのためやるべきことがないから、スケジュールがないのだが、スケジュールにあがらないことこそが、しかし基本的にはスケジュールの核であるということは、すでに誰もが認める事実でも、あった。
とにかく、そのことをしないと、物事すべてがごっちゃになって、はじめに何をすべきかをすることを決められないし、なにより、その基準の問題が基本的になければ、生活経済上、社会経済学にそれが包含される関係から、その不合理が否めない。分類することができなかったら、どっちを優先的に扱うかわからなくなって、きわめて不便、不合理なのである。
そのため、アーテ王女にとってこのころ重要であったのは、重要なものと、そうではないものを、詳しく分類することだった。
メモはいろいろ詰まっていた。基本的にはアーテ王女の左のポケットには、金具でまとめられた紙の束があり、右にはボールペンが常に入れられていた。
人の話を聞いたり、何か、特に気が付いたこと、ひらめきなどは、常にメモ帳に記載して、忘れないようにしていたし、メモは取るたびに、それらの内容は日記に記載されることになっていた。日記は物事の分類における、アーテ王女の基礎であり、考えがまとまると、それらの内容を、一定の作文にすることが、アーテ王女の日課にも、なっていた。
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