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1巻
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実は、小春の勤めているエトランゼ珈琲は、伯父の会社なのだ。つまり、世間一般的には社長令嬢なのである。しかし、小春は伯父の跡を継ごうとか経営陣に加わろうとは考えていなかった。弟は伯父の下で経営のことなどを学んでいるが、自分は経営や事業などは向いていないことがわかっていたからだ。しかし、伯父の仕事には興味があったため、小春は伯父の姓である『星川』は使わずに、元の『桐崎』で伯父の会社に入り、生活をしている。
そういうわけで、小春は伯父に感謝してもしきれない恩があるのだ。
「それでね、ブラジャーが……って、あれ?」
今日のことを一通り吐き出したあと、小春はスマホに伯父からのメッセージが来ていることに気がついた。
先週会った時に『来週あたり、一緒にご飯を食べに行こう』と言ってくれていたから、その話かもしれない。
小春はそんなふうに思いながらメッセージを確認した。
「へ?」
思わず呆けた声が出たのには、理由があった。
『小春、お見合いをする気はないかな?』
今まで結婚など一度もせっついたことがない伯父が、そんなメッセージを送ってきたのだった。
◆◇◆
その週末――
「姉さん、嫌なら断ってもいいんだからね」
「そういうわけにもいかないでしょう?」
突然、実家に戻ってきた弟――悠介にそう言われ、小春は困ったように眉を寄せた。
鏡に映る小春は、ワンピースにカーディガンといった、いつもよりかしこまった格好だった。髪の毛だって念入りにブローしてツヤツヤだし、毛先はコテで巻いている。化粧もいつもより色合いがはっきりしていて、全体的に華やかな印象だ。
そう、今日はお見合いの日だった。
一時間後には予約していたタクシーが小春を迎えにくる予定だ。
鏡を前に身支度を整える姉を引き留めるように、悠介は声を張る。
「いや、だって! お見合いって結婚相手を探す時にするものなんだよ?」
「それぐらい知ってるわよ」
「それならこれは知ってる? 今の日本で認められてる結婚相手って異性だけなんだよ? つまり姉さんの結婚相手は男ってこと」
「……馬鹿にしてるの?」
口をへの字に曲げながら声を低くすれば、悠介は肩をすくめる。
「馬鹿にしてるんじゃなくて、大丈夫かって心配してるだけ。姉さん、昔からあんまり男性得意じゃないでしょ?」
「それはまぁ、そうだけど……」
鏡越しに悠介を見ながら、小春は小さく頷いた。
小春は豊満すぎる胸のせいで、男性にあまりいい思い出がないのだ。だからこれまで男性とまともに付き合ったこともなければ、恋人だっていた試しがない。男性に身体を触れられた最初の記憶が、胸が大きくなり始めた小学生の頃、上級生に後ろから胸を掴まれたものなのだから、思い出としては最悪だ。
悠介や伯父は家族だからそういう嫌悪はないが、結局学生時代に男友達はできなかったし、会社の人には慣れるまで一年以上の時間を要した。愛想はいいほうだし、慣れれば仕事上のことは普通に話せるのであまり不便なことはないが、それでもやっぱり男性は好きじゃない。男性不信と言ってもいいぐらいだ。なので、プライベートで男性に関わりたいと思ったことはないし、恋人だっていらない。結婚なんて一生するつもりはなかったのだが……
「でも、伯父さんには恩があるでしょう?」
「だからって、知らない人と結婚するのは違うと思うんだけど」
「別に結婚するって話じゃないわよ。お見合いするだけ。お見合いだけすれば向こうの顔も立つって話だから、そのあとは断るつもりよ」
「本当に?」
「なんか、今回はやけに反対するのね」
今回のお見合い相手は、他でもない伯父からの紹介だ。相手は伯父が会社を作った時に資金を援助してくれた会社の社長子息で、伯父自身も面識のある人物らしい。伯父が言うには『どうして今まで浮いた話が出てこないのか不思議なほどいい男』で、『彼になら小春を任せられると思う』ということだ。相手側の父親であるその会社社長と伯父の仲もとても良好で、結婚した場合、親族間トラブルなどが起こらないのもこの結婚の利点らしい。
まぁ、だからこそ、『お互い、いい歳の息子と娘がいるんだから、見合いでもさせたらどうだろうか!』という話になったわけだが……
「今回の相手は、ちょっとやめといたほうがいいと思うんだよね」
「やめといたほうがいい?」
「相手の男、あんまりいい噂がないんだよ」
深刻な顔でそう言いながら、悠介は小春に身を乗り出してきた。
「姉さんがお見合いをするって聞いたから色々調べてみたんだけど、相手の男、ちょっとワケアリみたいでさ。なんていうか、その、女性が好きじゃないみたいなんだよね」
「へ。女性が好きじゃない?」
「だからその、つまり、恋愛対象が男性みたいで……」
その発言に、小春は悠介を振り返り、目を丸くした。そんな姉の反応を目に留めながら、悠介はさらに声を低くする。
「その男、今は会社の副社長をしているんだけど、どうやら自分の秘書と関係があるらしくて。今まで浮いた話がなかったのは、その男と恋仲だからって話みたいで……」
「じゃぁ、どうして見合いなんか……」
「それはわからなかったけど、カモフラージュなんじゃないかなって俺は考えてる」
「カモフラージュ?」
「そう。男の人と付き合っているのを隠すためにね。別に俺はなんとも思わないけど、恋愛対象が同性っていうのは気にする人は気にするだろうからさ。特にああいう大きな会社って、頭の固いご老人とも付き合っていかなきゃだろ? そういう人を納得させるために、とりあえず表向きは女性と結婚しとくってのはあり得る話だと思うよ?」
「そんなことって――」
あり得るのだろうか。
そう一瞬考えたが、結婚相手の他に愛人を持つ会社社長というのは聞いたことがある話だし、恋人と身分が釣り合わないからと結婚を反対されて、表向きはお金持ちのお嬢様と結婚し、その恋人と本当の愛を育む話というのもどこかで読んだことのある話だ。
小春にはよくわからないがある程度の富裕層になると、結婚相手と本当に愛する人は別なのかもしれない。
黙ってしまった小春に、悠介はさらに声を大きくする。
「だから俺は反対! 絶対に嫌! 結婚したって姉さんが幸せにならないのは目に見えてるからね!」
「でも逆を言うと、その人って私の胸にも興味がないってことでしょう? それならかえって気が楽かも……」
「姉さん!」
嗜めるように悠介が声を張る。しかし、小春はそれを苦笑一つでかわしつつ、スカートについていた埃を払った。
「それにほら、伯父さんの持ってきた話だからそこまでひどいものじゃないとも思うのよね」
「それは確かに、今まで来ていた他の縁談よりは全然いいほうだと思うけど……」
「え?」
悠介の言葉に、小春は驚いた声を出した。なぜなら、自分に縁談が来ていたということを、小春は今初めて知ったのだ。伯父からこんなふうに見合いを勧められたのだって今回が初めてだし、結婚をせっつかれたこともなかったのだ。育ての父親として「付き合っている人はいるのかな?」ぐらいは聞かれたことはあるが、本当にそれぐらいだ。
小春の反応に、悠介は口元を押さえながら「あー……」と声をもらした。そして、しばらく考えたのちに「伯父さんには黙っててほしいって言われてたんだけどさ……」と彼は語り出した。
「実は姉さんのところに見合いの話が来るのは初めてじゃないんだよね」
「そうなの?」
「うん。うちの会社、伯父さんが始めた頃より大きくなっててさ。業界でもちょっと有名になってきたらしくて。それでほら、縁作りにって義理の娘である姉さんにもそういう声がかかってるみたいで……」
それはつまり、政略結婚というやつなのだろうか。なんというかそういうものがあるというのは知っていたけれど、自分には縁遠い話だと思っていたので、正直、寝耳に水といった感じだ。
「と言っても、そのほとんどが役立たずの次男みたいな人を回してくるやつらばっかりなんだけどね。実力はないけど種馬には使えるだろう……みたいな?」
「種馬……」
「俺たちが養子ってこともあるんだろうけど、要するに舐められた縁談が多くて、その度に伯父さんが断ってくれてたんだよね」
「そんなことが……」
そんな話、初めて聞いた。
小春は驚きで目を大きく見開く。
「なんか、伯父さんにも悠介にも迷惑かけてたのね」
「迷惑なんて! ただ、おじさんも姉さんには幸せになってもらいたいんだよ」
そこまで言うと、悠介は「とにかく!」と口にした。
「俺は反対ってことだから! 姉さんの性格的にお見合いをドタキャンとかは無理な話だろうけど、ちゃんとそのあとは断りなよ!」
「はいはい」
そのぞんざいな答えに、諦めたのか、納得したのか、悠介は口を尖らせながら帰っていった。
小春は支度を整えてマンションの下に到着したタクシーに乗り込む。指定された料亭の名をいうと、すぐさま車は走り出した。
流れていく窓の景色を眺めながら、小春は先ほど聞いた悠介の話を思い出していた。
『その男、今は会社の副社長をしているんだけど、どうやら自分の秘書と関係があるらしくて。今まで浮いた話がなかったのは、その男と恋仲だからって話みたいで……』
『じゃぁ、どうして見合いなんか……』
『それはわからなかったけど、カモフラージュなんじゃないかなって俺は考えてる』
「カモフラージュ、か……」
幸いなのかなんなのか、小春もあまり異性が得意ではない。もし、本当に向こうの恋愛対象が女性でないのなら、これほど楽な相手もいないだろう。
伯父にも小春の縁談で手間をかけさせているみたいだし、これ以上手を煩わせるぐらいなら、もういっそのこと結婚したほうが誰にも迷惑をかけないのではないのだろうか。小春はそんなふうに思ってしまう。
(もしかしたらいい出会いになるのかもしれないわね……)
お互いの利害が一致するのならば、結婚してもいいのかもしれない。お互いのプライベートが守られるのならば、誰かと一緒に暮らすのもきっと悪くはないだろう。
(どんな人なのかしら……)
小春は目を閉じながらこれから会う人のことを考える。
内輪の見合いだからと、釣り書きのようなものはなかった。正式な見合いというよりは、顔合わせといった話だったのだ。なので相手のプロフィールもふんわりとしか知らないし、年齢も三十二歳としか聞いていない。
(そういえばあの人も三十代前半くらいだったな)
思い浮かべたのはあの酔っ払いの後輩から自分を助けてくれた彼だった。名前は最後まで知ることができなかったが、あのふわりと香ったコロンとこちらを見下ろす優しそうな瞳は今でもしっかりと思い出すことができる。
「そういえば、あの人はあんまり怖くなかったかも……」
最初に名前を呼ばれた時はさすがにびっくりしたが、それだけだった。むしろ彼に肩を抱かれている間は、なんだか守ってもらえているという安心感があったし、手が離れるまで終始、心地よさのようなものまで抱いていた。
(あんな感じの人だといいな……)
小春はまだ見ぬ見合い相手を少し楽しみにしながら、窓に頭を預けるのだった。
「うぅ、やっぱり緊張する!」
見合いの場として用意された料亭の一室で、小春はそう言って胃を押さえた。やっぱりどんな経緯だろうが、知らない男性と会うのは胃が痛い。しかも、いつのまにか二人っきりで会うことになっていたのだ。元々向こうの親は来ない予定だったのが、ついてくるはずだった伯父も急遽会社の予定が入り、来られなくなってしまったのである。しかも、それを小春が知ったのはここに着いてから。部屋も取ってあるし、料理も頼んであるこの状況で、まさか逃げるわけにもいかず、小春は腹を括るしかなかったのだ。
「はぁ……」
先ほどまでのちょっとウキウキとした気分はもうどこかに消し飛んでしまっている。ここから逃げ出せるものならば今すぐそうしたいし、相手の男性になにか用事が入ってお見合い自体が中止にならないかな……とさえ思ってしまう。
しかし、そんな小春の願いもむなしく、襖が開いて仲居が顔を覗かせた。
「お相手様がいらっしゃいました」
その言葉に小春の背筋が伸びた。そして、同時に視線は下を向く。
膝の上においた握った拳だけが見える状況で、小春はじっとその男性が目の前に座るのを待った。ややあって男性が一人入ってくる。そして、彼女の前にゆっくりと座った。
小春は観念したように顔を上げる。そして驚きの声を出した。
「あなたは――」
「君は――」
小春の声に重なるようにして、目の前の男性も声を上げる。きっと小春も同じような顔をしているのだろう、彼の両眼は見開かれ今にもこぼれ落ちそうだ。
そこにいたのはつい先日小春を助けてくれたあの男性だった。一瞬、見間違いだと思い自分の記憶を探ってみたが、どこからどう見てもやっぱりあの時の彼だ。間違いない。顔の造形も、雰囲気も、声だって記憶の中の彼そのものだ。
小春は最後の確認とばかりに恐る恐る声を出した。
「えっと。貴方が、堂脇涼さん、ですか?」
「はい。それじゃ、貴女が桐崎小春さん?」
「……はい」
その瞬間、時間が止まった。
小春は全身を赤く染め上げたあと「せ、先日はどうもありがとうございました!」と、勢いよく机に頭を打ちつけるのだった。
(な、なにを話せばいいの……)
再会して十分、二人は一言も喋っていなかった。
お互いに喋りあぐねているというか、話題を探っている感じで、空気も態度もぎこちない。
先にしびれを切らしたのは涼だった。
「そういえば、あの後大丈夫だった?」
あのあと、というのは山根から助けてもらったあとの話だろう。小春が走り去ってしまった、あのあとの話である。
涼の言葉に、小春は「はい!」と顔を跳ね上げた。
「あれから山根君、私にちゃんと謝りにきてくれたんです。なんか、ちょっと飲みすぎちゃったって言ってました。これから飲み方を考えるとも言ってくれて……」
「そうなんだ。……それならよかった」
「はい。大事になってしまう前でよかったです! 山根君、こっちに転勤してきたばかりだから、他の人にあんなことしてたら騒ぎになっていただろうし……」
そう言った小春に涼は少しだけ驚いたような顔つきになった。
「俺はその山根君とやらの心配をしたのではなくて、君のことを心配したんだけど……」
「あ、そうなんですね! 私も大丈夫でした! ありがとうございます」
そう慌ててお礼を言うと、涼は片眉を上げた。
「前会った時も思ったけど、そういうのは昔から?」
「そういうの?」
「小春ちゃんは、割と周りのことを優先させすぎるきらいがあるよね?」
「へ?」
小春が素っ頓狂な声を出したのは、彼の質問がわからなかったからでも、彼の言葉が意外だったからでもない。いきなり名前で呼ばれてちょっとドキッとしてしまったのだ。
いきなり固まった小春に、涼は「小春ちゃん?」と顔を覗き込んでくる。
間近に迫った彼の顔に、ちょっとだけ頬が熱くなった。
「あぁ、えっと! なんでしたっけ?」
「だから、小春ちゃんって、自分のことより相手のことを優先させすぎるよねって」
「あ、あぁ……!」
そんなふうに頷きながらも、自覚は今まであまりなかった。確かに友人には『小春は人に優しいよね』と褒められたり『あんまり自分をないがしろにしちゃダメだよ?』と叱られたりすることもあるが、そこまで気にしていなかったのだ。
小春が「そう、ですかね?」と首を傾げると、涼は少し困ったように笑う。
「だって、今日も嫌々来たんでしょう? 星川社長の顔を立てるためにさ」
「え?」
「だって、最初からあんまり乗り気じゃなさそうだし」
その指摘に、言葉が詰まった。これ以上ない図星である。隠す気があったのかと聞かれたらあまり自信はないが、本人にバレているのは想定外だった。
小春は慌てて言い繕う。
「えっと、これは堂脇さんが嫌とか、そういうわけではなくてですね! 私、あの、その。男性があまり得意じゃないんです! 男性と一緒にいてあんまりいい思い出がないというか、からかわれたりすることも多かったですし……」
そう言って、からかわれる原因になっている双丘を見下ろした。今日もたわわに実っている。
「そうなんだ。それじゃ、あの時もちょっと怖い思いをさせたかな? 勝手に肩を抱き寄せたりしたし……」
「そんな! あの時は全然! むしろ、いい匂いするなとか、手が大きいなとか、安心するなとか、そんなことを思ってた……ぐらい……で……」
自分がとんでもなく恥ずかしいことを言っていることに気がついて、小春は頬を染め上げた。その様子に、涼は「それならよかった」と笑ってくれる。
なんとなくそのやりとりが心地よかった。涼が自分を気遣ってくれているのもわかるし、自分も確かに緊張しているのだが、気持ちが落ち着くというか、一緒にいて安心するのだ。
そんなふうに思っていると、涼が口を開く。
「それに、実は俺も女性のことがあまり得意じゃないんだ」
「え?」
「俺も同じで、女性にあまりいい思い出がないんだよね。もちろん仕事で関わることもあるし、付き合いで話さなきゃいけない時もあるけど。でもそれもできるだけ他の人に任せているし、まぁ、必要最低限だよね」
「そう、なんですね」
小春はちょっと嬉しそうな声を出してしまう。なぜなら悠介が言っていたことが本当だとわかったからだ。あれは単なる弟の戯言だと思っていたので、小春にとってこの事実は思いもよらない朗報だった。
(なんかちょっとホッとしちゃったかも……)
見合い相手が女性に興味がなくてホッとすると言うのもおかしな話かもしれないが、小春にとっては安心できることなのだ。
しかし、ホッとしたのも束の間――
「あの、初対面で言うのもなんなんだけどさ」
「はい」
「今からうちに来ない?」
「え?」
まさか自宅に誘われると思っていなかった小春は、そう呆けたような声を出してしまった。
(どうして断れないかなぁ、私も……)
それから一時間後、小春は涼の車の助手席に乗っていた。ゴテゴテのスーパーカーではないが、誰でも知っている高級車のエンブレムをつけたその車は、小春と涼を乗せて軽やかに街の中を走る。小春は少し開けた窓から吹き込む風を浴びながら、息をついた。
正直、最初は断ろうと思った。いくら相手が女性に興味がないとはいっても、ほとんど初対面の相手の家に行くほど、小春は考えなしではなかったし。無鉄砲でもなかった。しかし――
『ちょっと、渡したいものがあるんだ。こういうところに持ってこれるものでもないから、できれば来てほしいんだけど……』と意味深に言われ、さらに――
『もし不安なら、マンションの前で待っていても平気だからさ』と言われ、頷いてしまったのだ。
涼には助けてもらった恩があるし、彼が変なことをするはずがないという気持ちがどこかにあったのも確かだ。それに、こんなに真剣な顔で言ってくるのだ。もしかしたら伯父に渡す予定だった会社同士の重大な書類という可能性もある。
そんなことを考えているうちに、小春は涼のマンションに連れてこられたのだが……
「これ、なんだけど……」
そう言って玄関先で渡されたものに小春は悲鳴を上げそうになった。
小さな紙袋に入っていたのはレースのついたピンク色の布の塊。小さなどんぶりが二つくっついたようなその形は、ある程度の年齢を経た女性ならばみんな見覚えのあるものだ。
「こ、これ――」
それは、小春の下着だった。ブラジャーだった。ももちゃんだった。
紙袋の中を覗き見るとやっぱりバック部分に安全ピンがついている。これは間違いない。あの彼に助けてもらった日になくした小春のものだ。
小春は真っ赤になりながら、その紙袋を抱きかかえた。本当にもう顔から火が出そうとはこのことだった。
「あのあと、道の真ん中に落ちてるのを拾って、どうしようかと思ったんだけど……。そのままにもしておけないし、警察に届けるわけにもいかないしで、持って帰ってきちゃったんだよね」
それもそうだ。警察に届けてしまったら、下着泥棒とかそれらの犯罪者の類に疑われてしまうだろう。正直に『女性を助けたらブラジャーを落としました』なんて言ってもますます怪しまれてしまうだけだ。
渡された小春も恥ずかしいが、渡した涼も恥ずかしいのだろう。彼の頬は少し赤い。
「な、なんか、すみません」
「洗濯とか、したほうがいいかとも思ったんだけど、その、許可なくべたべた触るのもどうかと思って。いや、持って帰る時はさすがに触ったんだけど、それ以外では触ってないから安心して」
「だ、大丈夫です! そんなことは疑ってませんから!」
真っ赤になりながら小春は首をブンブンと振る。『もしかしたら変なことをされるかも……』と一瞬でも考えてしまった自分をぶん殴ってやりたい気持ちだ。
涼は少し躊躇いがちに口を開いた。
「その。ちょっと聞きたいんだけど、あれは君の趣味?」
「え?」
「君はその、下着をつけずに街を歩いたりとかして快感を得るタイプの人間だったりするのかな?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
思わず大きな声が出た。はっとして口を覆うが、時すでに遅し。涼は驚いた顔で固まってしまっていた。小春は先ほどよりも声の大きさを落とし、それでも必死に言い募る。
そういうわけで、小春は伯父に感謝してもしきれない恩があるのだ。
「それでね、ブラジャーが……って、あれ?」
今日のことを一通り吐き出したあと、小春はスマホに伯父からのメッセージが来ていることに気がついた。
先週会った時に『来週あたり、一緒にご飯を食べに行こう』と言ってくれていたから、その話かもしれない。
小春はそんなふうに思いながらメッセージを確認した。
「へ?」
思わず呆けた声が出たのには、理由があった。
『小春、お見合いをする気はないかな?』
今まで結婚など一度もせっついたことがない伯父が、そんなメッセージを送ってきたのだった。
◆◇◆
その週末――
「姉さん、嫌なら断ってもいいんだからね」
「そういうわけにもいかないでしょう?」
突然、実家に戻ってきた弟――悠介にそう言われ、小春は困ったように眉を寄せた。
鏡に映る小春は、ワンピースにカーディガンといった、いつもよりかしこまった格好だった。髪の毛だって念入りにブローしてツヤツヤだし、毛先はコテで巻いている。化粧もいつもより色合いがはっきりしていて、全体的に華やかな印象だ。
そう、今日はお見合いの日だった。
一時間後には予約していたタクシーが小春を迎えにくる予定だ。
鏡を前に身支度を整える姉を引き留めるように、悠介は声を張る。
「いや、だって! お見合いって結婚相手を探す時にするものなんだよ?」
「それぐらい知ってるわよ」
「それならこれは知ってる? 今の日本で認められてる結婚相手って異性だけなんだよ? つまり姉さんの結婚相手は男ってこと」
「……馬鹿にしてるの?」
口をへの字に曲げながら声を低くすれば、悠介は肩をすくめる。
「馬鹿にしてるんじゃなくて、大丈夫かって心配してるだけ。姉さん、昔からあんまり男性得意じゃないでしょ?」
「それはまぁ、そうだけど……」
鏡越しに悠介を見ながら、小春は小さく頷いた。
小春は豊満すぎる胸のせいで、男性にあまりいい思い出がないのだ。だからこれまで男性とまともに付き合ったこともなければ、恋人だっていた試しがない。男性に身体を触れられた最初の記憶が、胸が大きくなり始めた小学生の頃、上級生に後ろから胸を掴まれたものなのだから、思い出としては最悪だ。
悠介や伯父は家族だからそういう嫌悪はないが、結局学生時代に男友達はできなかったし、会社の人には慣れるまで一年以上の時間を要した。愛想はいいほうだし、慣れれば仕事上のことは普通に話せるのであまり不便なことはないが、それでもやっぱり男性は好きじゃない。男性不信と言ってもいいぐらいだ。なので、プライベートで男性に関わりたいと思ったことはないし、恋人だっていらない。結婚なんて一生するつもりはなかったのだが……
「でも、伯父さんには恩があるでしょう?」
「だからって、知らない人と結婚するのは違うと思うんだけど」
「別に結婚するって話じゃないわよ。お見合いするだけ。お見合いだけすれば向こうの顔も立つって話だから、そのあとは断るつもりよ」
「本当に?」
「なんか、今回はやけに反対するのね」
今回のお見合い相手は、他でもない伯父からの紹介だ。相手は伯父が会社を作った時に資金を援助してくれた会社の社長子息で、伯父自身も面識のある人物らしい。伯父が言うには『どうして今まで浮いた話が出てこないのか不思議なほどいい男』で、『彼になら小春を任せられると思う』ということだ。相手側の父親であるその会社社長と伯父の仲もとても良好で、結婚した場合、親族間トラブルなどが起こらないのもこの結婚の利点らしい。
まぁ、だからこそ、『お互い、いい歳の息子と娘がいるんだから、見合いでもさせたらどうだろうか!』という話になったわけだが……
「今回の相手は、ちょっとやめといたほうがいいと思うんだよね」
「やめといたほうがいい?」
「相手の男、あんまりいい噂がないんだよ」
深刻な顔でそう言いながら、悠介は小春に身を乗り出してきた。
「姉さんがお見合いをするって聞いたから色々調べてみたんだけど、相手の男、ちょっとワケアリみたいでさ。なんていうか、その、女性が好きじゃないみたいなんだよね」
「へ。女性が好きじゃない?」
「だからその、つまり、恋愛対象が男性みたいで……」
その発言に、小春は悠介を振り返り、目を丸くした。そんな姉の反応を目に留めながら、悠介はさらに声を低くする。
「その男、今は会社の副社長をしているんだけど、どうやら自分の秘書と関係があるらしくて。今まで浮いた話がなかったのは、その男と恋仲だからって話みたいで……」
「じゃぁ、どうして見合いなんか……」
「それはわからなかったけど、カモフラージュなんじゃないかなって俺は考えてる」
「カモフラージュ?」
「そう。男の人と付き合っているのを隠すためにね。別に俺はなんとも思わないけど、恋愛対象が同性っていうのは気にする人は気にするだろうからさ。特にああいう大きな会社って、頭の固いご老人とも付き合っていかなきゃだろ? そういう人を納得させるために、とりあえず表向きは女性と結婚しとくってのはあり得る話だと思うよ?」
「そんなことって――」
あり得るのだろうか。
そう一瞬考えたが、結婚相手の他に愛人を持つ会社社長というのは聞いたことがある話だし、恋人と身分が釣り合わないからと結婚を反対されて、表向きはお金持ちのお嬢様と結婚し、その恋人と本当の愛を育む話というのもどこかで読んだことのある話だ。
小春にはよくわからないがある程度の富裕層になると、結婚相手と本当に愛する人は別なのかもしれない。
黙ってしまった小春に、悠介はさらに声を大きくする。
「だから俺は反対! 絶対に嫌! 結婚したって姉さんが幸せにならないのは目に見えてるからね!」
「でも逆を言うと、その人って私の胸にも興味がないってことでしょう? それならかえって気が楽かも……」
「姉さん!」
嗜めるように悠介が声を張る。しかし、小春はそれを苦笑一つでかわしつつ、スカートについていた埃を払った。
「それにほら、伯父さんの持ってきた話だからそこまでひどいものじゃないとも思うのよね」
「それは確かに、今まで来ていた他の縁談よりは全然いいほうだと思うけど……」
「え?」
悠介の言葉に、小春は驚いた声を出した。なぜなら、自分に縁談が来ていたということを、小春は今初めて知ったのだ。伯父からこんなふうに見合いを勧められたのだって今回が初めてだし、結婚をせっつかれたこともなかったのだ。育ての父親として「付き合っている人はいるのかな?」ぐらいは聞かれたことはあるが、本当にそれぐらいだ。
小春の反応に、悠介は口元を押さえながら「あー……」と声をもらした。そして、しばらく考えたのちに「伯父さんには黙っててほしいって言われてたんだけどさ……」と彼は語り出した。
「実は姉さんのところに見合いの話が来るのは初めてじゃないんだよね」
「そうなの?」
「うん。うちの会社、伯父さんが始めた頃より大きくなっててさ。業界でもちょっと有名になってきたらしくて。それでほら、縁作りにって義理の娘である姉さんにもそういう声がかかってるみたいで……」
それはつまり、政略結婚というやつなのだろうか。なんというかそういうものがあるというのは知っていたけれど、自分には縁遠い話だと思っていたので、正直、寝耳に水といった感じだ。
「と言っても、そのほとんどが役立たずの次男みたいな人を回してくるやつらばっかりなんだけどね。実力はないけど種馬には使えるだろう……みたいな?」
「種馬……」
「俺たちが養子ってこともあるんだろうけど、要するに舐められた縁談が多くて、その度に伯父さんが断ってくれてたんだよね」
「そんなことが……」
そんな話、初めて聞いた。
小春は驚きで目を大きく見開く。
「なんか、伯父さんにも悠介にも迷惑かけてたのね」
「迷惑なんて! ただ、おじさんも姉さんには幸せになってもらいたいんだよ」
そこまで言うと、悠介は「とにかく!」と口にした。
「俺は反対ってことだから! 姉さんの性格的にお見合いをドタキャンとかは無理な話だろうけど、ちゃんとそのあとは断りなよ!」
「はいはい」
そのぞんざいな答えに、諦めたのか、納得したのか、悠介は口を尖らせながら帰っていった。
小春は支度を整えてマンションの下に到着したタクシーに乗り込む。指定された料亭の名をいうと、すぐさま車は走り出した。
流れていく窓の景色を眺めながら、小春は先ほど聞いた悠介の話を思い出していた。
『その男、今は会社の副社長をしているんだけど、どうやら自分の秘書と関係があるらしくて。今まで浮いた話がなかったのは、その男と恋仲だからって話みたいで……』
『じゃぁ、どうして見合いなんか……』
『それはわからなかったけど、カモフラージュなんじゃないかなって俺は考えてる』
「カモフラージュ、か……」
幸いなのかなんなのか、小春もあまり異性が得意ではない。もし、本当に向こうの恋愛対象が女性でないのなら、これほど楽な相手もいないだろう。
伯父にも小春の縁談で手間をかけさせているみたいだし、これ以上手を煩わせるぐらいなら、もういっそのこと結婚したほうが誰にも迷惑をかけないのではないのだろうか。小春はそんなふうに思ってしまう。
(もしかしたらいい出会いになるのかもしれないわね……)
お互いの利害が一致するのならば、結婚してもいいのかもしれない。お互いのプライベートが守られるのならば、誰かと一緒に暮らすのもきっと悪くはないだろう。
(どんな人なのかしら……)
小春は目を閉じながらこれから会う人のことを考える。
内輪の見合いだからと、釣り書きのようなものはなかった。正式な見合いというよりは、顔合わせといった話だったのだ。なので相手のプロフィールもふんわりとしか知らないし、年齢も三十二歳としか聞いていない。
(そういえばあの人も三十代前半くらいだったな)
思い浮かべたのはあの酔っ払いの後輩から自分を助けてくれた彼だった。名前は最後まで知ることができなかったが、あのふわりと香ったコロンとこちらを見下ろす優しそうな瞳は今でもしっかりと思い出すことができる。
「そういえば、あの人はあんまり怖くなかったかも……」
最初に名前を呼ばれた時はさすがにびっくりしたが、それだけだった。むしろ彼に肩を抱かれている間は、なんだか守ってもらえているという安心感があったし、手が離れるまで終始、心地よさのようなものまで抱いていた。
(あんな感じの人だといいな……)
小春はまだ見ぬ見合い相手を少し楽しみにしながら、窓に頭を預けるのだった。
「うぅ、やっぱり緊張する!」
見合いの場として用意された料亭の一室で、小春はそう言って胃を押さえた。やっぱりどんな経緯だろうが、知らない男性と会うのは胃が痛い。しかも、いつのまにか二人っきりで会うことになっていたのだ。元々向こうの親は来ない予定だったのが、ついてくるはずだった伯父も急遽会社の予定が入り、来られなくなってしまったのである。しかも、それを小春が知ったのはここに着いてから。部屋も取ってあるし、料理も頼んであるこの状況で、まさか逃げるわけにもいかず、小春は腹を括るしかなかったのだ。
「はぁ……」
先ほどまでのちょっとウキウキとした気分はもうどこかに消し飛んでしまっている。ここから逃げ出せるものならば今すぐそうしたいし、相手の男性になにか用事が入ってお見合い自体が中止にならないかな……とさえ思ってしまう。
しかし、そんな小春の願いもむなしく、襖が開いて仲居が顔を覗かせた。
「お相手様がいらっしゃいました」
その言葉に小春の背筋が伸びた。そして、同時に視線は下を向く。
膝の上においた握った拳だけが見える状況で、小春はじっとその男性が目の前に座るのを待った。ややあって男性が一人入ってくる。そして、彼女の前にゆっくりと座った。
小春は観念したように顔を上げる。そして驚きの声を出した。
「あなたは――」
「君は――」
小春の声に重なるようにして、目の前の男性も声を上げる。きっと小春も同じような顔をしているのだろう、彼の両眼は見開かれ今にもこぼれ落ちそうだ。
そこにいたのはつい先日小春を助けてくれたあの男性だった。一瞬、見間違いだと思い自分の記憶を探ってみたが、どこからどう見てもやっぱりあの時の彼だ。間違いない。顔の造形も、雰囲気も、声だって記憶の中の彼そのものだ。
小春は最後の確認とばかりに恐る恐る声を出した。
「えっと。貴方が、堂脇涼さん、ですか?」
「はい。それじゃ、貴女が桐崎小春さん?」
「……はい」
その瞬間、時間が止まった。
小春は全身を赤く染め上げたあと「せ、先日はどうもありがとうございました!」と、勢いよく机に頭を打ちつけるのだった。
(な、なにを話せばいいの……)
再会して十分、二人は一言も喋っていなかった。
お互いに喋りあぐねているというか、話題を探っている感じで、空気も態度もぎこちない。
先にしびれを切らしたのは涼だった。
「そういえば、あの後大丈夫だった?」
あのあと、というのは山根から助けてもらったあとの話だろう。小春が走り去ってしまった、あのあとの話である。
涼の言葉に、小春は「はい!」と顔を跳ね上げた。
「あれから山根君、私にちゃんと謝りにきてくれたんです。なんか、ちょっと飲みすぎちゃったって言ってました。これから飲み方を考えるとも言ってくれて……」
「そうなんだ。……それならよかった」
「はい。大事になってしまう前でよかったです! 山根君、こっちに転勤してきたばかりだから、他の人にあんなことしてたら騒ぎになっていただろうし……」
そう言った小春に涼は少しだけ驚いたような顔つきになった。
「俺はその山根君とやらの心配をしたのではなくて、君のことを心配したんだけど……」
「あ、そうなんですね! 私も大丈夫でした! ありがとうございます」
そう慌ててお礼を言うと、涼は片眉を上げた。
「前会った時も思ったけど、そういうのは昔から?」
「そういうの?」
「小春ちゃんは、割と周りのことを優先させすぎるきらいがあるよね?」
「へ?」
小春が素っ頓狂な声を出したのは、彼の質問がわからなかったからでも、彼の言葉が意外だったからでもない。いきなり名前で呼ばれてちょっとドキッとしてしまったのだ。
いきなり固まった小春に、涼は「小春ちゃん?」と顔を覗き込んでくる。
間近に迫った彼の顔に、ちょっとだけ頬が熱くなった。
「あぁ、えっと! なんでしたっけ?」
「だから、小春ちゃんって、自分のことより相手のことを優先させすぎるよねって」
「あ、あぁ……!」
そんなふうに頷きながらも、自覚は今まであまりなかった。確かに友人には『小春は人に優しいよね』と褒められたり『あんまり自分をないがしろにしちゃダメだよ?』と叱られたりすることもあるが、そこまで気にしていなかったのだ。
小春が「そう、ですかね?」と首を傾げると、涼は少し困ったように笑う。
「だって、今日も嫌々来たんでしょう? 星川社長の顔を立てるためにさ」
「え?」
「だって、最初からあんまり乗り気じゃなさそうだし」
その指摘に、言葉が詰まった。これ以上ない図星である。隠す気があったのかと聞かれたらあまり自信はないが、本人にバレているのは想定外だった。
小春は慌てて言い繕う。
「えっと、これは堂脇さんが嫌とか、そういうわけではなくてですね! 私、あの、その。男性があまり得意じゃないんです! 男性と一緒にいてあんまりいい思い出がないというか、からかわれたりすることも多かったですし……」
そう言って、からかわれる原因になっている双丘を見下ろした。今日もたわわに実っている。
「そうなんだ。それじゃ、あの時もちょっと怖い思いをさせたかな? 勝手に肩を抱き寄せたりしたし……」
「そんな! あの時は全然! むしろ、いい匂いするなとか、手が大きいなとか、安心するなとか、そんなことを思ってた……ぐらい……で……」
自分がとんでもなく恥ずかしいことを言っていることに気がついて、小春は頬を染め上げた。その様子に、涼は「それならよかった」と笑ってくれる。
なんとなくそのやりとりが心地よかった。涼が自分を気遣ってくれているのもわかるし、自分も確かに緊張しているのだが、気持ちが落ち着くというか、一緒にいて安心するのだ。
そんなふうに思っていると、涼が口を開く。
「それに、実は俺も女性のことがあまり得意じゃないんだ」
「え?」
「俺も同じで、女性にあまりいい思い出がないんだよね。もちろん仕事で関わることもあるし、付き合いで話さなきゃいけない時もあるけど。でもそれもできるだけ他の人に任せているし、まぁ、必要最低限だよね」
「そう、なんですね」
小春はちょっと嬉しそうな声を出してしまう。なぜなら悠介が言っていたことが本当だとわかったからだ。あれは単なる弟の戯言だと思っていたので、小春にとってこの事実は思いもよらない朗報だった。
(なんかちょっとホッとしちゃったかも……)
見合い相手が女性に興味がなくてホッとすると言うのもおかしな話かもしれないが、小春にとっては安心できることなのだ。
しかし、ホッとしたのも束の間――
「あの、初対面で言うのもなんなんだけどさ」
「はい」
「今からうちに来ない?」
「え?」
まさか自宅に誘われると思っていなかった小春は、そう呆けたような声を出してしまった。
(どうして断れないかなぁ、私も……)
それから一時間後、小春は涼の車の助手席に乗っていた。ゴテゴテのスーパーカーではないが、誰でも知っている高級車のエンブレムをつけたその車は、小春と涼を乗せて軽やかに街の中を走る。小春は少し開けた窓から吹き込む風を浴びながら、息をついた。
正直、最初は断ろうと思った。いくら相手が女性に興味がないとはいっても、ほとんど初対面の相手の家に行くほど、小春は考えなしではなかったし。無鉄砲でもなかった。しかし――
『ちょっと、渡したいものがあるんだ。こういうところに持ってこれるものでもないから、できれば来てほしいんだけど……』と意味深に言われ、さらに――
『もし不安なら、マンションの前で待っていても平気だからさ』と言われ、頷いてしまったのだ。
涼には助けてもらった恩があるし、彼が変なことをするはずがないという気持ちがどこかにあったのも確かだ。それに、こんなに真剣な顔で言ってくるのだ。もしかしたら伯父に渡す予定だった会社同士の重大な書類という可能性もある。
そんなことを考えているうちに、小春は涼のマンションに連れてこられたのだが……
「これ、なんだけど……」
そう言って玄関先で渡されたものに小春は悲鳴を上げそうになった。
小さな紙袋に入っていたのはレースのついたピンク色の布の塊。小さなどんぶりが二つくっついたようなその形は、ある程度の年齢を経た女性ならばみんな見覚えのあるものだ。
「こ、これ――」
それは、小春の下着だった。ブラジャーだった。ももちゃんだった。
紙袋の中を覗き見るとやっぱりバック部分に安全ピンがついている。これは間違いない。あの彼に助けてもらった日になくした小春のものだ。
小春は真っ赤になりながら、その紙袋を抱きかかえた。本当にもう顔から火が出そうとはこのことだった。
「あのあと、道の真ん中に落ちてるのを拾って、どうしようかと思ったんだけど……。そのままにもしておけないし、警察に届けるわけにもいかないしで、持って帰ってきちゃったんだよね」
それもそうだ。警察に届けてしまったら、下着泥棒とかそれらの犯罪者の類に疑われてしまうだろう。正直に『女性を助けたらブラジャーを落としました』なんて言ってもますます怪しまれてしまうだけだ。
渡された小春も恥ずかしいが、渡した涼も恥ずかしいのだろう。彼の頬は少し赤い。
「な、なんか、すみません」
「洗濯とか、したほうがいいかとも思ったんだけど、その、許可なくべたべた触るのもどうかと思って。いや、持って帰る時はさすがに触ったんだけど、それ以外では触ってないから安心して」
「だ、大丈夫です! そんなことは疑ってませんから!」
真っ赤になりながら小春は首をブンブンと振る。『もしかしたら変なことをされるかも……』と一瞬でも考えてしまった自分をぶん殴ってやりたい気持ちだ。
涼は少し躊躇いがちに口を開いた。
「その。ちょっと聞きたいんだけど、あれは君の趣味?」
「え?」
「君はその、下着をつけずに街を歩いたりとかして快感を得るタイプの人間だったりするのかな?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
思わず大きな声が出た。はっとして口を覆うが、時すでに遅し。涼は驚いた顔で固まってしまっていた。小春は先ほどよりも声の大きさを落とし、それでも必死に言い募る。
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