2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟む
あまりにもあっさりと身を引いた山根は、その場から一目散に去っていく。
残された小春は一拍置いたあと、未だ肩を掴んだままの男性を見上げた。
「えっと、もしかして助けてくれたんです、かね?」
「そのつもりで声をかけたんだけど。もしかして、余計なお世話だったかな?」
「いいえ、そんなことは!」
小春は男性に向き合うと、深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました!」
「いえいえ、どういたしまして」
なんてことない様子で彼は感謝を受け止める。そして、先ほどと同じようなしょうがない子を見るような目を彼女に向けた。
「君、ガードが緩そうだからああいうのには気をつけてね」
「ああいうの?」
「ああいう強引に関係を迫ってくるような男、ってこと」
その瞬間、驚きと同時に「やっぱり」とも思った。
最初、山根が送ってくれると言った時は本当に気遣いだと思っていたのだが、突然『俺の家』『休憩できるところ』と話を変えてきたので、おかしいな……と思っていたのだ。
「やっぱりあれってそういう意味だったんですかね?」
「そういう意味だったと思うし、そういう意味だってわかってたからあんなに嫌がってたんじゃないの?」
「そういうわけじゃ……」
そこまで口にしたが、『ブラジャーをしていなかったので、あまり他の人と一緒にいたくなかった』とは言えなかった。
言葉に詰まった小春をどう取ったのか、彼はふっと表情を崩した。
「上司に相談してみたら? 彼、同じ会社の後輩とかでしょう?」
「それは……。もうちょっとなにかあったら考えてみます。彼、こっちに来たばかりなんですよ。だから少し寂しかっただけなのかもしれないし。お酒を飲んでいたから気も大きくなっていたのかもしれないし……」
「君は優しいね」
「そうですかね?」
困ったような顔で笑うと、彼は小春の頭を優しく撫でた。
「ま、本当に気をつけて。次もこんなふうに助けてあげれるわけじゃないから」
そう言って微笑んだあと、「それじゃぁね」と彼は片手を上げて小春に背を向けた。そして、そのまま歩き出す。
小春は少しずつ遠くなっていく彼の背中をじっと見つめた。
(このまま帰してもいいの? もしかして、ちゃんとお礼したほうがいいんじゃない? せめて名刺ぐらいは渡しておいたほうが……)
ここまで親切にしてもらったのに、なにも返せず終わるのはどうなのだろうか。
そう思い、小春は立ち去ろうとする彼に駆け寄った。
「ちょっと待ってください!」
「え?」
いきなり腕を引っ張ったからだろうか、彼の身体がふらりと後ろに傾いた。
突然自分のほうに倒れてきた男性の身体に、小春もたたらを踏む。
「きゃ――」
「危ない!」
振り返った男性がそう叫ぶ。小春は思わず目を瞑った。
後頭部に添えられる何者かの手。それのおかげで少しだけ地面に落ちる速度が遅くなるが、彼女が後ろに倒れるのを完全に止めることはできなかった。
「――っ!」
背中に衝撃が走る。コンクリートの地面に身体を打ちつけたのだ。しかし、頭がコンクリートの地面に接することはなかった。後頭部に回っていた手が彼女の頭を守っていたからだ。
「いたたたた……」
小春は自分の頭に回っていた手に気がつくことなく身体を起こした。すると――
「ん――」
近くで男性のくぐもった声が聞こえる。まるで枕に顔を押しつけながら声を発した時のような声だ。その声がどのようにして発せられているのか、誰が発しているのか、それを疑問に思う前に、小春はその全てを目撃した。
――自分の胸元で。
「――っ!!」
思わず声にならない悲鳴を上げる。
自分の胸に顔を押しつけるような形で、男性がいた。彼は紛れもなく自分のことを救ってくれたあの男性で――
「ご、ごめんなさい!」
小春は飛び上がりながら彼から距離を取ったあと、その場で深々と頭を下げた。視線がこれでもかと泳ぐ。
(は、恥ずかしい! 恥ずかしすぎる!!)
『男の人が自分の胸元に顔を埋めていた。しかも、原因は自分』というだけでもすごく恥ずかしいのに、さらに小春は『ノーブラ』というオプション付きだ。『ノーブラの胸を男性に押しつける』なんて、完全に痴女の所業である。
そのことを認識した瞬間、小春の身体は頭のてっぺんから足の小指の先に至るまで真っ赤になった。
「わ、私、その! すみませんでした!」
「あ、おい! ちょっと!」
気がついた時には、小春は走り出していた。その動力源は『羞恥』である。
駆け出した小春の背中に男性がなにやら言っていた気もしたが、その言葉に答えるだけの余裕は、今の彼女には存在しなかった。
◆◇◆
占い師には『女難の相が出ている』と言われたことがある。
堂脇涼の女運は最悪だ。
どう最悪なのか、具体的な例を挙げると。学生時代、バレンタインデーにもらったチョコレートには必ずと言っていいほど髪の毛か、切った爪か、体液が混入していた。好きだと言い寄ってきた女性が、実はメンヘラの勘違い女で『少し考えさせてほしい』と言っただけで付き合っている認定をされ、手も握っていないのに子供を妊娠したと周りに触れ回っていたこともある。『付き合ってくれないと死んじゃうから!』なんて脅しは日常茶飯事で、無理やり連れ込まれた部屋が人も住めないようなとんでもない汚部屋だったというのは、社会人になってからの話だ。
涼の見た目がいいので、常に女性が言い寄ってくるのだが、その女性の誰もが一癖も二癖もある地雷女ばかり。SM好きの超絶ドM女や、いつもブランド品で身を固めている借金女。悲劇のヒロインを常に演じて自分を美化する女などなど、あらゆる難あり女だ。
そんなことの積み重ねで、涼はすっかり女性と関わるのが嫌になっていた。仕事でも自分の周りは男性ばかりで固めていたし、少しでも女性と関わるような時は他の者に任せていたぐらいだ。
だから、あの声を聞いた時も、本当は全く助けるつもりなんてなかったのだが……
「ちょ、ちょっと、離して!」
そんな悲鳴じみた声が聞こえたのは、会社役員との食事を終え、駐車場まで少し歩こうとした時だった。狭い路地で揉み合う男女を痴話喧嘩かと思って放っておこうとも思ったのだが、女性のほうは明らかに嫌がっているように見えた。そのままにしておくのも寝覚めが悪く、数十秒悩んだ末にとうとう声をかけてしまった。
「小春、待たせたね」
そう声をかけると、女性はこちらを振り向きびっくりしたように目を大きくさせた。おそらくだが、名前を知っていたことに驚いたのだろう。彼女の名前は、目の前の男が先ほどから叫んでいたので知っていただけなのだが、どうやら彼女はそのことにも頭が回っていないようだった。
「貴方は――」
「ごめん。待ち合わせ場所になかなか来ないから迎えにきちゃった」
適当な嘘をつきながらそう微笑むと、彼女はますます困惑した表情を浮かべた。
そんな彼女を男から奪うように抱き寄せる。そして、少しだけ威嚇するような声を出した。
「すみませんが、会社の方ですか?」
「えっと……」
「小春がいつもお世話になっています」
「えっと、桐崎先輩……誰?」
「誰って……」
誰なのだろう。
彼女の顔はそう語っているようだった。こちらを仰ぎ見るくりくりとした目が可愛らしかったけれど、 なにもわかっていなさそうなその顔に少し困ってしまう。ここまできたら助けにきたということがわかると思っていたのに、彼女は少しもその可能性に思い至っていないようだった。
しょうがないのでアイコンタクトで「話を合わせて」と伝えてみたのだが、彼女はやっぱり首を傾げるばかりで、それがちょっとおかしくて笑ってしまった。
なんというか、可愛らしい子だな、と思ってしまったのだ。
くりくりとした大きな瞳に、彼女のまとう雰囲気と同じようなふわふわの髪の毛。身長は低く、小柄で。だけどその下には……
(大きいな……)
予想以上に大きな果実が成っていた。二つも。
思わず視線がそちらに行って、ハッとした直後、涼は慌てて視線を逸らした。
女性の胸をジロジロ見るなんて、そんなのセクハラだろう。
それから嘘八百を並べて彼女に絡んでいた男性を追い返した。追い返すのは実に簡単で、関係性を匂わせれば男は怖気づいたように踵を返した。元々そんなに気が強い人間でもないのだろう。おそらく酒の力で常日頃いいなと思っている女の先輩に声をかけたとか、そういう経緯なのかもしれない。
「えっと、もしかして助けてくれたんです、かね?」
ようやくその事実に思い至った彼女に笑みがもれた。
「そのつもりで声をかけたんだけど。もしかして、余計なお世話だったかな?」
そう返すと「いいえ、そんなことは!」と、彼女は大げさに首を振ったあと、深々と頭を下げてくる。
「本当にありがとうございました!」
「いえいえ、どういたしまして」
本当はそれだけ言って帰ろうと思ったのだが、彼女のこちらを見上げる目が小動物というか、幼子のようで、さらにこう忠告してしまう。
「君、ガードが緩そうだからああいうのには気をつけてね」
「ああいうの?」
「ああいう強引に関係を迫ってくるような男、ってこと」
そこで彼女の瞳が大きく見開かれた。あの男性が下心を持っているという可能性にようやく気づいたという感じだ。
どこまでも危なっかしいその反応に、眉をひそめる。そしてしまいには「やっぱりあれってそういう意味だったんですかね?」と確認されて、ちょっと放っておけなくなってしまった。
「上司に相談してみたら? 彼、同じ会社の後輩とかでしょう?」
だから、こうアドバイスしてみたのに……
「それは……。もうちょっとなにかあったら考えてみます。彼、こっちに来たばかりなんですよ。だから少し寂しかっただけなのかもしれないし。お酒を飲んでいたから気も大きくなっていたのかもしれないし……」
彼女のそんな答えにどう反応すればいいのかわからなくなって、「君は優しいね」と思ったままのことを言えば「そうですかね?」と彼女は困ったような顔で微笑んだ。
その笑みになぜか胸がじわりと温かくなる。
「ま、本当に気をつけて。次もこんなふうに助けてあげれるわけじゃないから」
自分の手が彼女の頭を撫でていると気がついたのは、その言葉を発した直後だった。そして同時に、これはまずい……とも思ってしまう。彼女のことを放っておけなくなっている自分に気がついたからだ。このままでは彼女に『家まで送ろうか?』などと声をかけてしまうかもしれないし、そこからうっかり惚れられて関わりを持ってしまうかもしれない。今は純真無垢で、可愛らしい女性のように見えているが、本性もどんな難を持っているかもわかったものじゃない。
目の前の女性が信じられないとか、そういう話ではない。自分はそういう女性を引き寄せてしまう性質を持っているのだ。
(変に踏み入ってしまう前にここを離れないと……)
涼は人のいい笑みを顔に貼りつけると、彼女の頭から手を離した。そして「それじゃぁね」と片手を上げて彼女に背を向ける。
後ろ髪を引かれる気持ちはあったけれど、それはわざと見ないふりをした。彼女の容姿は可愛いなとも思うし、おっとりとしたあの反応も自分好みだ。涼が変に怯えてしまっているだけで、もしかしたら彼女に地雷などないのかもしれない。
しかし、だからといって、悪漢から助けたお礼に連絡先を聞こうとは到底思えないし、そんなことをすれば彼女が怯えてしまうだろうということも想像にたやすい。
それに、自分はもう恋人など作る気がないのだ。結婚は親からせっつかれているし、親の気持ちもわかるのでいつかはするかもしれない。けれどそれは明日明後日の話ではないし、それが彼女に声をかける理由にはならない。
(しかし……)
バレないように視線だけで後ろを振り返ると、先ほどの女性がオロオロと困惑したように視線をさまよわせていた。もしかしたら一人で帰るのが恐ろしいのかもしれない。そう思ったらますます彼女から遠ざかるための歩幅が小さくなる。
女性とは関わり合いになりたくない。
これは涼の本心だ。しかし――
(彼女を放っておけない……)
これも彼の本心に違いなかった。
もう本当にどうしたらいいのかわからない。
(とりあえず、タクシーに乗せるか。名前は……聞く必要はない、よな)
これっきり。彼女と関わるのはこれっきり。
そう決意をして振り返ろうとした時だった。
「ちょっと待ってください!」
「え?」
振り返った瞬間、駆け寄ってきた彼女にいきなり腕を引かれた。重心がすでに偏っていたからだろうか、涼の身体はあっさりと彼女のほうに傾いてしまう。それは彼女にとっても予想外だったようで、彼女の身体も同時に後ろに傾いた。
「きゃ――」
「危ない!」
このままいけば後頭部が地面に打ちつけられてしまう。
そこまで理解するのが早いか遅いか、涼の手は彼女の後頭部に回った。しかし、漫画やアニメや小説のようにきれいに抱きとめるというわけにはいかず、そのまま二人はもつれ合うような形で、倒れてしまった。
(目の前が真っ黒だ)
それが転げた直後の涼の感想だった。
彼女の頭を支えて地面に打ちつけられた手の甲はジンジンと痛かったが、それ以外、特に顔は柔らかいクッションに包まれるような形で事なきを得ていた。
しかし、こんなクッション、どこにあったのだろう。彼女のカバンがふわふわのモコモコだったという記憶はないし。これはふわふわのモコモコというよりは、もっちりふわふわといったほうが正しい気がする。それになんだか温かいし、いい香りがする。
「ん――」
(しかし、なんか苦し――)
口元がちょうど塞がれていたため、涼は耐えきれず「ぷはぁ」と顔を上げた。すると、真っ正面に大きな宝石が見えた。それが彼女の瞳だと気づいた時には、自分がしでかした過ちを理解し、青ざめた。
初対面の女性の胸に(事故とはいえ)顔を埋めていた。
事実だけを並べたらこうだ。とんだ変態野郎である。しかも、彼女の後頭部を支えていないほうの手は、しっかりと彼女の胸を掴んでいる。
むに。
(やばい……)
揉んだわけではない。立ち上がろうとした瞬間に手に力が入ってしまっただけで、断じて揉もうと思って揉んだわけではない。
「ご、ごめんなさい!」
彼女は真っ赤になり飛び上がった。そんなに早く動けたのかと驚くほどの速さで、彼女は涼から距離を取る。
「いや、あの、これは……」
涼の口からはそんな言い訳にもならない言葉がこぼれたが、彼女には届いていないようだった。
彼女は視線を泳がせたあと、なぜか涼に向かってしっかりと頭を下げた。
「わ、私、その! すみませんでした!」
「あ、おい! ちょっと!」
彼女のカバンからなにかが転がり落ちたのに気がついて慌てて声をかけたが、それも彼女には届かないようだった。
「どうして君が謝るんだ……」
地面に座り込んだまま、涼はそんな感想をもらす。
走り去った彼女の背中は、もう見えなかった。
涼は立ち上がるとスラックスについた砂を払う。
「しかし、いい子だったな」
それに可愛い子だった。一般的にどうかはわからないが、少なくとも彼女のおっとりとした表情は、涼の心を動かすものであったし、少し話しただけでもわかるあの真面目な性格には好感が持てた。
(それに、やっぱり放っておけないしな……)
あんな男性を引き寄せそうな身体をしているのに、危機感が薄いのはちょっとどうなのだろうか。あまりにも無防備でちょっと守ってやりたくなる。庇護欲というものがどういうものか今までわからなかったが、今回のことで少しわかったような気がする。
(というか、胸は今関係ないだろう。胸は――!)
大きいほうがいいか小さいほうがいいかと聞かれれば、それはもう大きいほうだが。大きければいいというものではないし、そもそも胸なんてものは誰についているのかが一番大切なわけで。しかしながら男性の性としてああいうものに惹かれてしまう自分がいるのもまた事実で……
「あぁもう!」
混乱し始めた頭に、涼は天を仰いだ。全く思春期の子供じゃあるまいし、胸一つでこうも狼狽たえるなんてどうかしている。
それに、彼女とはもう会うこともないだろう。
一期一会。人との出会いは基本的にそういうものだ。
「はぁ……」
無意識に気落ちしたため息がもれた。
やっぱり、内心は少し惜しいと思っているらしい。
しかも彼女は、今まで出会ってきたどの地雷女とも違う気がしたのだ。なんというか、まともそうというか。少し話しただけでなにがわかるんだと言われればそうだが、今まで付き合いがあったどの女性よりも普通な感じがした。
(まぁ、こうしていても仕方がないか)
そう思いながら立ち去ろうとした時、涼は「そうだ」と顔をわずかに上げた。彼女は先ほど走り去る時になにかを落としていったのだ。なにを落としていったかわからないが、もしかしたら彼女にとってなにか大切なものかもしれないし、そうじゃなくても警察には届けておいたほうがいいだろう。
そう思いつつ、涼は彼女の落としていったものに近づいた。暗がりに見えるそれは、なんだか布の塊に見える。
「ハンカチにしては大きいし、タオルか?」
しかし、タオルにしてはなんというかヒラヒラしている。わかりやすい表現をすれば、まるで女性の下着のよう……とでも言えばいいのだろうか。
「え?」
というか、それは女性の下着だった。ブラジャーだ。
涼はそれを片手に固まった。なんというか、なにも悪いことなどしていないのに、すごく犯罪者めいた気持ちになってくる。
手に持っているものを今すぐ隠したいのに、隠してしまったら、まるで自分がそれを持って帰ろうとしているように見られてしまう気がして動けない。放り投げるのも論外だ。『女性の下着を投げる男』というのもなかなかに変態だ。
「えっと、ちょっと待てよ。これを彼女が落としたということは……」
涼は冷静に言葉を紡ぎながら、下着を掴んでいないほうの手で前髪を後ろに撫でつける。
「彼女はあの時、下着をつけていなかったというわけで」
ふわりと香った甘い匂いに柔らかい感触。指の隙間から溢れ出るほどの大きさに、心地のいい体温。
そのどれもが一瞬にして蘇り、涼の体温は上がる。しかし、すぐに冷静な思考回路に戻ると彼は首を振った。
今はそんなことなど重要じゃない。確かに彼女の肉体は魅力的だったが、そうじゃない。
「というか、今度は痴女か……」
良い子そうだと思っていたのに、というか好みの女性だと思っていたのに、痴女なんてトリプルSの地雷を抱えた女性だったなんて、なんだかもう本当についていない。
涼はそう言いながら自分の女運のなさを呪うのだった。
◆◇◆
知らない男性に己の痴女っぷりを披露してしまった一時間後。小春は、なんとか自宅にたどり着いた。都心から少し離れた郊外のマンションで、間取りは3LDK。交通の便もそこそこ良いその場所は、小春の実家だった。
「お父さん、お母さん。ただいまー」
和室に置いてある仏壇、その前に置いてある位牌と写真に、小春はそう声かをけた。そのまま仏壇の前に置いてある座布団に座り、手早くろうそくに火をつけ線香をあげる。そうして手を合わせた。
「聞いてー。今日は本当に最悪だったのー! ももちゃんもなくしちゃってさ」
こうやって亡くなった両親に、その日あった出来事の報告をするのが、彼女の日課だった。
小春の両親が亡くなったのは彼女が高校生の時だった。原因は居眠り運転をしていたトラック。赤信号で止まっていたところに、後ろから追突されたらしい。小春と弟はそれぞれバイトと部活に出ており、父の運転する車に乗っていなかったので難を逃れた。
両親を失ったと知った時、最初に胸に込み上げてきたのは悲しみだったが、悲しみつくした後に出てきたのは、言い表せないほどの不安だった。一つ下の弟はまだ中学生だったのだ。心のケアももちろんそうだが、学費や生活費、これからの住まいのこと、考えなくてはならないことは山ほどあった。
そんな彼女たちを救ってくれたのは、母の兄――伯父だった。
子供のいなかった伯父夫婦は小春たちを引き取り、自分の子供として大切に育ててくれた。本当の親のように生活費だって、学費だって、全て出してくれたし、悪いことをすれば叱ってくれて、良い成績を収めれば褒めてくれた。そのおかげで両親が死んだあと、抜け殻のようになっていた弟は時間がかかったがちゃんと立ち直ったし、小春も弟も大学までちゃんと卒業させてもらえた。しかも、今は仕事までお世話になっているのだ。
残された小春は一拍置いたあと、未だ肩を掴んだままの男性を見上げた。
「えっと、もしかして助けてくれたんです、かね?」
「そのつもりで声をかけたんだけど。もしかして、余計なお世話だったかな?」
「いいえ、そんなことは!」
小春は男性に向き合うと、深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました!」
「いえいえ、どういたしまして」
なんてことない様子で彼は感謝を受け止める。そして、先ほどと同じようなしょうがない子を見るような目を彼女に向けた。
「君、ガードが緩そうだからああいうのには気をつけてね」
「ああいうの?」
「ああいう強引に関係を迫ってくるような男、ってこと」
その瞬間、驚きと同時に「やっぱり」とも思った。
最初、山根が送ってくれると言った時は本当に気遣いだと思っていたのだが、突然『俺の家』『休憩できるところ』と話を変えてきたので、おかしいな……と思っていたのだ。
「やっぱりあれってそういう意味だったんですかね?」
「そういう意味だったと思うし、そういう意味だってわかってたからあんなに嫌がってたんじゃないの?」
「そういうわけじゃ……」
そこまで口にしたが、『ブラジャーをしていなかったので、あまり他の人と一緒にいたくなかった』とは言えなかった。
言葉に詰まった小春をどう取ったのか、彼はふっと表情を崩した。
「上司に相談してみたら? 彼、同じ会社の後輩とかでしょう?」
「それは……。もうちょっとなにかあったら考えてみます。彼、こっちに来たばかりなんですよ。だから少し寂しかっただけなのかもしれないし。お酒を飲んでいたから気も大きくなっていたのかもしれないし……」
「君は優しいね」
「そうですかね?」
困ったような顔で笑うと、彼は小春の頭を優しく撫でた。
「ま、本当に気をつけて。次もこんなふうに助けてあげれるわけじゃないから」
そう言って微笑んだあと、「それじゃぁね」と彼は片手を上げて小春に背を向けた。そして、そのまま歩き出す。
小春は少しずつ遠くなっていく彼の背中をじっと見つめた。
(このまま帰してもいいの? もしかして、ちゃんとお礼したほうがいいんじゃない? せめて名刺ぐらいは渡しておいたほうが……)
ここまで親切にしてもらったのに、なにも返せず終わるのはどうなのだろうか。
そう思い、小春は立ち去ろうとする彼に駆け寄った。
「ちょっと待ってください!」
「え?」
いきなり腕を引っ張ったからだろうか、彼の身体がふらりと後ろに傾いた。
突然自分のほうに倒れてきた男性の身体に、小春もたたらを踏む。
「きゃ――」
「危ない!」
振り返った男性がそう叫ぶ。小春は思わず目を瞑った。
後頭部に添えられる何者かの手。それのおかげで少しだけ地面に落ちる速度が遅くなるが、彼女が後ろに倒れるのを完全に止めることはできなかった。
「――っ!」
背中に衝撃が走る。コンクリートの地面に身体を打ちつけたのだ。しかし、頭がコンクリートの地面に接することはなかった。後頭部に回っていた手が彼女の頭を守っていたからだ。
「いたたたた……」
小春は自分の頭に回っていた手に気がつくことなく身体を起こした。すると――
「ん――」
近くで男性のくぐもった声が聞こえる。まるで枕に顔を押しつけながら声を発した時のような声だ。その声がどのようにして発せられているのか、誰が発しているのか、それを疑問に思う前に、小春はその全てを目撃した。
――自分の胸元で。
「――っ!!」
思わず声にならない悲鳴を上げる。
自分の胸に顔を押しつけるような形で、男性がいた。彼は紛れもなく自分のことを救ってくれたあの男性で――
「ご、ごめんなさい!」
小春は飛び上がりながら彼から距離を取ったあと、その場で深々と頭を下げた。視線がこれでもかと泳ぐ。
(は、恥ずかしい! 恥ずかしすぎる!!)
『男の人が自分の胸元に顔を埋めていた。しかも、原因は自分』というだけでもすごく恥ずかしいのに、さらに小春は『ノーブラ』というオプション付きだ。『ノーブラの胸を男性に押しつける』なんて、完全に痴女の所業である。
そのことを認識した瞬間、小春の身体は頭のてっぺんから足の小指の先に至るまで真っ赤になった。
「わ、私、その! すみませんでした!」
「あ、おい! ちょっと!」
気がついた時には、小春は走り出していた。その動力源は『羞恥』である。
駆け出した小春の背中に男性がなにやら言っていた気もしたが、その言葉に答えるだけの余裕は、今の彼女には存在しなかった。
◆◇◆
占い師には『女難の相が出ている』と言われたことがある。
堂脇涼の女運は最悪だ。
どう最悪なのか、具体的な例を挙げると。学生時代、バレンタインデーにもらったチョコレートには必ずと言っていいほど髪の毛か、切った爪か、体液が混入していた。好きだと言い寄ってきた女性が、実はメンヘラの勘違い女で『少し考えさせてほしい』と言っただけで付き合っている認定をされ、手も握っていないのに子供を妊娠したと周りに触れ回っていたこともある。『付き合ってくれないと死んじゃうから!』なんて脅しは日常茶飯事で、無理やり連れ込まれた部屋が人も住めないようなとんでもない汚部屋だったというのは、社会人になってからの話だ。
涼の見た目がいいので、常に女性が言い寄ってくるのだが、その女性の誰もが一癖も二癖もある地雷女ばかり。SM好きの超絶ドM女や、いつもブランド品で身を固めている借金女。悲劇のヒロインを常に演じて自分を美化する女などなど、あらゆる難あり女だ。
そんなことの積み重ねで、涼はすっかり女性と関わるのが嫌になっていた。仕事でも自分の周りは男性ばかりで固めていたし、少しでも女性と関わるような時は他の者に任せていたぐらいだ。
だから、あの声を聞いた時も、本当は全く助けるつもりなんてなかったのだが……
「ちょ、ちょっと、離して!」
そんな悲鳴じみた声が聞こえたのは、会社役員との食事を終え、駐車場まで少し歩こうとした時だった。狭い路地で揉み合う男女を痴話喧嘩かと思って放っておこうとも思ったのだが、女性のほうは明らかに嫌がっているように見えた。そのままにしておくのも寝覚めが悪く、数十秒悩んだ末にとうとう声をかけてしまった。
「小春、待たせたね」
そう声をかけると、女性はこちらを振り向きびっくりしたように目を大きくさせた。おそらくだが、名前を知っていたことに驚いたのだろう。彼女の名前は、目の前の男が先ほどから叫んでいたので知っていただけなのだが、どうやら彼女はそのことにも頭が回っていないようだった。
「貴方は――」
「ごめん。待ち合わせ場所になかなか来ないから迎えにきちゃった」
適当な嘘をつきながらそう微笑むと、彼女はますます困惑した表情を浮かべた。
そんな彼女を男から奪うように抱き寄せる。そして、少しだけ威嚇するような声を出した。
「すみませんが、会社の方ですか?」
「えっと……」
「小春がいつもお世話になっています」
「えっと、桐崎先輩……誰?」
「誰って……」
誰なのだろう。
彼女の顔はそう語っているようだった。こちらを仰ぎ見るくりくりとした目が可愛らしかったけれど、 なにもわかっていなさそうなその顔に少し困ってしまう。ここまできたら助けにきたということがわかると思っていたのに、彼女は少しもその可能性に思い至っていないようだった。
しょうがないのでアイコンタクトで「話を合わせて」と伝えてみたのだが、彼女はやっぱり首を傾げるばかりで、それがちょっとおかしくて笑ってしまった。
なんというか、可愛らしい子だな、と思ってしまったのだ。
くりくりとした大きな瞳に、彼女のまとう雰囲気と同じようなふわふわの髪の毛。身長は低く、小柄で。だけどその下には……
(大きいな……)
予想以上に大きな果実が成っていた。二つも。
思わず視線がそちらに行って、ハッとした直後、涼は慌てて視線を逸らした。
女性の胸をジロジロ見るなんて、そんなのセクハラだろう。
それから嘘八百を並べて彼女に絡んでいた男性を追い返した。追い返すのは実に簡単で、関係性を匂わせれば男は怖気づいたように踵を返した。元々そんなに気が強い人間でもないのだろう。おそらく酒の力で常日頃いいなと思っている女の先輩に声をかけたとか、そういう経緯なのかもしれない。
「えっと、もしかして助けてくれたんです、かね?」
ようやくその事実に思い至った彼女に笑みがもれた。
「そのつもりで声をかけたんだけど。もしかして、余計なお世話だったかな?」
そう返すと「いいえ、そんなことは!」と、彼女は大げさに首を振ったあと、深々と頭を下げてくる。
「本当にありがとうございました!」
「いえいえ、どういたしまして」
本当はそれだけ言って帰ろうと思ったのだが、彼女のこちらを見上げる目が小動物というか、幼子のようで、さらにこう忠告してしまう。
「君、ガードが緩そうだからああいうのには気をつけてね」
「ああいうの?」
「ああいう強引に関係を迫ってくるような男、ってこと」
そこで彼女の瞳が大きく見開かれた。あの男性が下心を持っているという可能性にようやく気づいたという感じだ。
どこまでも危なっかしいその反応に、眉をひそめる。そしてしまいには「やっぱりあれってそういう意味だったんですかね?」と確認されて、ちょっと放っておけなくなってしまった。
「上司に相談してみたら? 彼、同じ会社の後輩とかでしょう?」
だから、こうアドバイスしてみたのに……
「それは……。もうちょっとなにかあったら考えてみます。彼、こっちに来たばかりなんですよ。だから少し寂しかっただけなのかもしれないし。お酒を飲んでいたから気も大きくなっていたのかもしれないし……」
彼女のそんな答えにどう反応すればいいのかわからなくなって、「君は優しいね」と思ったままのことを言えば「そうですかね?」と彼女は困ったような顔で微笑んだ。
その笑みになぜか胸がじわりと温かくなる。
「ま、本当に気をつけて。次もこんなふうに助けてあげれるわけじゃないから」
自分の手が彼女の頭を撫でていると気がついたのは、その言葉を発した直後だった。そして同時に、これはまずい……とも思ってしまう。彼女のことを放っておけなくなっている自分に気がついたからだ。このままでは彼女に『家まで送ろうか?』などと声をかけてしまうかもしれないし、そこからうっかり惚れられて関わりを持ってしまうかもしれない。今は純真無垢で、可愛らしい女性のように見えているが、本性もどんな難を持っているかもわかったものじゃない。
目の前の女性が信じられないとか、そういう話ではない。自分はそういう女性を引き寄せてしまう性質を持っているのだ。
(変に踏み入ってしまう前にここを離れないと……)
涼は人のいい笑みを顔に貼りつけると、彼女の頭から手を離した。そして「それじゃぁね」と片手を上げて彼女に背を向ける。
後ろ髪を引かれる気持ちはあったけれど、それはわざと見ないふりをした。彼女の容姿は可愛いなとも思うし、おっとりとしたあの反応も自分好みだ。涼が変に怯えてしまっているだけで、もしかしたら彼女に地雷などないのかもしれない。
しかし、だからといって、悪漢から助けたお礼に連絡先を聞こうとは到底思えないし、そんなことをすれば彼女が怯えてしまうだろうということも想像にたやすい。
それに、自分はもう恋人など作る気がないのだ。結婚は親からせっつかれているし、親の気持ちもわかるのでいつかはするかもしれない。けれどそれは明日明後日の話ではないし、それが彼女に声をかける理由にはならない。
(しかし……)
バレないように視線だけで後ろを振り返ると、先ほどの女性がオロオロと困惑したように視線をさまよわせていた。もしかしたら一人で帰るのが恐ろしいのかもしれない。そう思ったらますます彼女から遠ざかるための歩幅が小さくなる。
女性とは関わり合いになりたくない。
これは涼の本心だ。しかし――
(彼女を放っておけない……)
これも彼の本心に違いなかった。
もう本当にどうしたらいいのかわからない。
(とりあえず、タクシーに乗せるか。名前は……聞く必要はない、よな)
これっきり。彼女と関わるのはこれっきり。
そう決意をして振り返ろうとした時だった。
「ちょっと待ってください!」
「え?」
振り返った瞬間、駆け寄ってきた彼女にいきなり腕を引かれた。重心がすでに偏っていたからだろうか、涼の身体はあっさりと彼女のほうに傾いてしまう。それは彼女にとっても予想外だったようで、彼女の身体も同時に後ろに傾いた。
「きゃ――」
「危ない!」
このままいけば後頭部が地面に打ちつけられてしまう。
そこまで理解するのが早いか遅いか、涼の手は彼女の後頭部に回った。しかし、漫画やアニメや小説のようにきれいに抱きとめるというわけにはいかず、そのまま二人はもつれ合うような形で、倒れてしまった。
(目の前が真っ黒だ)
それが転げた直後の涼の感想だった。
彼女の頭を支えて地面に打ちつけられた手の甲はジンジンと痛かったが、それ以外、特に顔は柔らかいクッションに包まれるような形で事なきを得ていた。
しかし、こんなクッション、どこにあったのだろう。彼女のカバンがふわふわのモコモコだったという記憶はないし。これはふわふわのモコモコというよりは、もっちりふわふわといったほうが正しい気がする。それになんだか温かいし、いい香りがする。
「ん――」
(しかし、なんか苦し――)
口元がちょうど塞がれていたため、涼は耐えきれず「ぷはぁ」と顔を上げた。すると、真っ正面に大きな宝石が見えた。それが彼女の瞳だと気づいた時には、自分がしでかした過ちを理解し、青ざめた。
初対面の女性の胸に(事故とはいえ)顔を埋めていた。
事実だけを並べたらこうだ。とんだ変態野郎である。しかも、彼女の後頭部を支えていないほうの手は、しっかりと彼女の胸を掴んでいる。
むに。
(やばい……)
揉んだわけではない。立ち上がろうとした瞬間に手に力が入ってしまっただけで、断じて揉もうと思って揉んだわけではない。
「ご、ごめんなさい!」
彼女は真っ赤になり飛び上がった。そんなに早く動けたのかと驚くほどの速さで、彼女は涼から距離を取る。
「いや、あの、これは……」
涼の口からはそんな言い訳にもならない言葉がこぼれたが、彼女には届いていないようだった。
彼女は視線を泳がせたあと、なぜか涼に向かってしっかりと頭を下げた。
「わ、私、その! すみませんでした!」
「あ、おい! ちょっと!」
彼女のカバンからなにかが転がり落ちたのに気がついて慌てて声をかけたが、それも彼女には届かないようだった。
「どうして君が謝るんだ……」
地面に座り込んだまま、涼はそんな感想をもらす。
走り去った彼女の背中は、もう見えなかった。
涼は立ち上がるとスラックスについた砂を払う。
「しかし、いい子だったな」
それに可愛い子だった。一般的にどうかはわからないが、少なくとも彼女のおっとりとした表情は、涼の心を動かすものであったし、少し話しただけでもわかるあの真面目な性格には好感が持てた。
(それに、やっぱり放っておけないしな……)
あんな男性を引き寄せそうな身体をしているのに、危機感が薄いのはちょっとどうなのだろうか。あまりにも無防備でちょっと守ってやりたくなる。庇護欲というものがどういうものか今までわからなかったが、今回のことで少しわかったような気がする。
(というか、胸は今関係ないだろう。胸は――!)
大きいほうがいいか小さいほうがいいかと聞かれれば、それはもう大きいほうだが。大きければいいというものではないし、そもそも胸なんてものは誰についているのかが一番大切なわけで。しかしながら男性の性としてああいうものに惹かれてしまう自分がいるのもまた事実で……
「あぁもう!」
混乱し始めた頭に、涼は天を仰いだ。全く思春期の子供じゃあるまいし、胸一つでこうも狼狽たえるなんてどうかしている。
それに、彼女とはもう会うこともないだろう。
一期一会。人との出会いは基本的にそういうものだ。
「はぁ……」
無意識に気落ちしたため息がもれた。
やっぱり、内心は少し惜しいと思っているらしい。
しかも彼女は、今まで出会ってきたどの地雷女とも違う気がしたのだ。なんというか、まともそうというか。少し話しただけでなにがわかるんだと言われればそうだが、今まで付き合いがあったどの女性よりも普通な感じがした。
(まぁ、こうしていても仕方がないか)
そう思いながら立ち去ろうとした時、涼は「そうだ」と顔をわずかに上げた。彼女は先ほど走り去る時になにかを落としていったのだ。なにを落としていったかわからないが、もしかしたら彼女にとってなにか大切なものかもしれないし、そうじゃなくても警察には届けておいたほうがいいだろう。
そう思いつつ、涼は彼女の落としていったものに近づいた。暗がりに見えるそれは、なんだか布の塊に見える。
「ハンカチにしては大きいし、タオルか?」
しかし、タオルにしてはなんというかヒラヒラしている。わかりやすい表現をすれば、まるで女性の下着のよう……とでも言えばいいのだろうか。
「え?」
というか、それは女性の下着だった。ブラジャーだ。
涼はそれを片手に固まった。なんというか、なにも悪いことなどしていないのに、すごく犯罪者めいた気持ちになってくる。
手に持っているものを今すぐ隠したいのに、隠してしまったら、まるで自分がそれを持って帰ろうとしているように見られてしまう気がして動けない。放り投げるのも論外だ。『女性の下着を投げる男』というのもなかなかに変態だ。
「えっと、ちょっと待てよ。これを彼女が落としたということは……」
涼は冷静に言葉を紡ぎながら、下着を掴んでいないほうの手で前髪を後ろに撫でつける。
「彼女はあの時、下着をつけていなかったというわけで」
ふわりと香った甘い匂いに柔らかい感触。指の隙間から溢れ出るほどの大きさに、心地のいい体温。
そのどれもが一瞬にして蘇り、涼の体温は上がる。しかし、すぐに冷静な思考回路に戻ると彼は首を振った。
今はそんなことなど重要じゃない。確かに彼女の肉体は魅力的だったが、そうじゃない。
「というか、今度は痴女か……」
良い子そうだと思っていたのに、というか好みの女性だと思っていたのに、痴女なんてトリプルSの地雷を抱えた女性だったなんて、なんだかもう本当についていない。
涼はそう言いながら自分の女運のなさを呪うのだった。
◆◇◆
知らない男性に己の痴女っぷりを披露してしまった一時間後。小春は、なんとか自宅にたどり着いた。都心から少し離れた郊外のマンションで、間取りは3LDK。交通の便もそこそこ良いその場所は、小春の実家だった。
「お父さん、お母さん。ただいまー」
和室に置いてある仏壇、その前に置いてある位牌と写真に、小春はそう声かをけた。そのまま仏壇の前に置いてある座布団に座り、手早くろうそくに火をつけ線香をあげる。そうして手を合わせた。
「聞いてー。今日は本当に最悪だったのー! ももちゃんもなくしちゃってさ」
こうやって亡くなった両親に、その日あった出来事の報告をするのが、彼女の日課だった。
小春の両親が亡くなったのは彼女が高校生の時だった。原因は居眠り運転をしていたトラック。赤信号で止まっていたところに、後ろから追突されたらしい。小春と弟はそれぞれバイトと部活に出ており、父の運転する車に乗っていなかったので難を逃れた。
両親を失ったと知った時、最初に胸に込み上げてきたのは悲しみだったが、悲しみつくした後に出てきたのは、言い表せないほどの不安だった。一つ下の弟はまだ中学生だったのだ。心のケアももちろんそうだが、学費や生活費、これからの住まいのこと、考えなくてはならないことは山ほどあった。
そんな彼女たちを救ってくれたのは、母の兄――伯父だった。
子供のいなかった伯父夫婦は小春たちを引き取り、自分の子供として大切に育ててくれた。本当の親のように生活費だって、学費だって、全て出してくれたし、悪いことをすれば叱ってくれて、良い成績を収めれば褒めてくれた。そのおかげで両親が死んだあと、抜け殻のようになっていた弟は時間がかかったがちゃんと立ち直ったし、小春も弟も大学までちゃんと卒業させてもらえた。しかも、今は仕事までお世話になっているのだ。
0
あなたにおすすめの小説
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです
沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
独占欲全開の肉食ドクターに溺愛されて極甘懐妊しました
せいとも
恋愛
旧題:ドクターと救急救命士は天敵⁈~最悪の出会いは最高の出逢い~
救急救命士として働く雫石月は、勤務明けに乗っていたバスで事故に遭う。
どうやら、バスの運転手が体調不良になったようだ。
乗客にAEDを探してきてもらうように頼み、救助活動をしているとボサボサ頭のマスク姿の男がAEDを持ってバスに乗り込んできた。
受け取ろうとすると邪魔だと言われる。
そして、月のことを『チビ団子』と呼んだのだ。
医療従事者と思われるボサボサマスク男は運転手の処置をして、月が文句を言う間もなく、救急車に同乗して去ってしまった。
最悪の出会いをし、二度と会いたくない相手の正体は⁇
作品はフィクションです。
本来の仕事内容とは異なる描写があると思います。
偽りの婚約者のはずが、極上御曹司の猛愛に囚われています
冬野まゆ
恋愛
誕生日目前に恋人に裏切られた舞菜香は、行きつけの飲み屋で顔見知りだった男性・裕弥と誘われるままに一夜を過ごしてしまう。翌朝も甘く口説かれ、動揺のあまりホテルから逃げ出した舞菜香だったが、その後、彼が仕事相手として再び舞菜香の前に現れて!? すべて忘れてなかったことにしてほしいと頼むが、彼は交換条件として縁談を断るための恋人役を提案してくる。しぶしぶ受け入れた舞菜香だったが、本当の恋人同士のように甘く接され、猛アプローチを受け……!?
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。