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1巻
1-1
【和装男子・一条國臣の場合】
プロローグ
これは事故だ。
不意に重なった唇の理由を、私――梶唯花はそう結論付けた。
十年前――
彼の大学卒業を半年後に控えた、九月の末。いつものように部室で彼と一緒にオセロをしている時にその事故は起こった。
静かな室内に突然鳴ったスマホ。驚いた私が足を滑らせて、座っていたパイプ椅子とともにうしろにひっくり返る。
ふわりと浮いた身体。崩れるオセロの盤面。まるで助けを求めるように、無意識に伸ばした腕。
目の前に座っていた彼がその腕を掴んで、私の身体をぐっと引き寄せる。
「あ……」
気がついた時には、彼の顔はもう目の前にあった。鼻先がツン、と触れ合う。掴まれた手首が、熱くて溶けてしまいそうだった。
しばらくそうやって見つめ合った後、彼は私の身体をさらに引き寄せる。
そうして、唇が重なった。
「ん」
意味がわからなかった。どうしてこんなことになったのか、理解できなかった。
でも、それと同時に嬉しくもあったのだ。だって当時の私は、彼のことが大好きで、大好きで、仕方がなかったから。
彼が姉の許嫁で、将来自分の義兄になるということは理解していたし、叶わぬ恋だというのは承知していた。でもだからこそ、重なった唇に驚きながらも嬉しくて、瞳は潤み、涙を流してしまったのだ。
やがて小さなリップ音を残して離れる唇。私は唇を撫でた後、涙で濡れた瞳を彼に向けた。
「今の」
その瞬間、彼がはっとして息をのむ。まるで自分がしてしまったことに、そこで初めて気がついたような顔だった。あるいは私の涙に驚いたか。
「悪い」
「どうして……?」
その質問に当時の私がどう返してほしかったのか、それは今でもよくわからない。『好きだから』なんて返答は、夢見がちな少女でもあるまいし、さすがに考えていなかっただろう。だけど、唇に残る彼の感触に、まったく期待しなかったと言ってもきっと嘘になる。
「それは……」
彼はその質問に固まる。そして、私の顔を見ないように視線を落とし、数十秒何かを考えた後、絞り出すようにこう吐き出した。
「愛花に似ていたから、かな……」
彼から出てきた双子の姉の名前に、呼吸が止まった。同時に心臓が嫌な音を立てる。
考えてみればそれしかないだろう。彼と姉は許嫁同士なのだから。
何を不相応に、わずかでも期待していたのだろうか。胸を踊らせていたのだろうか。
「そっか……」
下唇を噛むと血の味がした。さっきはもっと甘い味がしていたのに、それももう思い出せない。
あの頃からずっと、私は愛花の陰で生きている。
第一章 身代わりの婚約
『愛花のことで話があります。今年の年末は帰ってくるように。
特に、二十六日は必ず家にいるようにしなさい』
年の瀬も迫り、会社も長期休暇に入ったとある日。唯花は久しぶりに訪れた地元の駅で、スマホの画面に映ったメールを見下ろしながら、ため息をついた。送り主は、もう半分縁を切った状態の母親だ。
「今更、一体何の用だろう」
お互いに連絡をするのは九年ぶりだというのに『元気にしてる?』『最近はどう?』なんて伺いや心配は一切ない、至極簡素なメールだ。あまりの簡素さに意味がわからず、『どうしたの?』『愛花に何かあったの?』と返信してみたが、案の定というかなんというか、質問に対する回答は返ってこなかった。返ってきたのは『いいから帰ってきなさい』と言う一文のみである。
「はぁ……」
唯花は今日何度目かわからないため息をつきながら、必要最低限の荷物だけ入ったキャリーケースを持ち上げた。三段だけの階段を乗り越え、そのまま駅から出る。大型バスがいくつも並んでいるロータリーのタクシー乗り場に並びながら、彼女はふたたびスマホに視線を落とした。
(無視するわけにもいかないから帰ってきたけど、愛花、どうしたのかな……)
唯花は画面に映った、『愛花』の文字を指先でなぞった。その瞬間、愛花のおっとりとした笑みが脳裏に蘇ってくる。
愛花というのは、梶姉妹の『できるほう』だ。
勉強も器量の良さも対人関係も、二卵性とはいえ双子なのにもかかわらず、唯花よりも愛花のほうが一枚も二枚も上手だった。テストの点数で勝ったことはないし、楽器を弾かせても、料理を作らせても、裁縫をさせても、愛花はそつなく完璧にこなしてしまう。唯花がすぐに習うのをやめてしまった絵画では賞を取り、先生からは美大を勧められるほどだった。
だから梶姉妹の『できるほう』と言えば愛花で、それは二人を知る人達の共通認識だった。
親戚内でも、学校内でも、……もちろん家庭内でも。
「帰りたくないなぁ……」
唯花はスマホのバックライトを落としながら、そう独りごちる。
実家にいた頃、家に彼女の居場所はなかった。両親は『できるほう』である愛花だけを溺愛し、それと同じだけの愛情を唯花には注いでくれなかったからだ。特別酷い扱いを受けてきたというわけではなかったけれど、比べられ『出来損ない』と罵倒される日々は、それなりに辛いものがあった。
そんな両親に嫌気がさしたのが高校二年生の秋。その頃にはもう進学する大学もある程度は決まっていたのだが、唯花はそれを蹴って地元から離れた大学を受験した。当然親の反対もあったが、見事合格。そしてなかば家出をするような形で、唯花は実家を離れることになったのである。
(でも結局、私は愛花を差し出して逃げたってことになるんだよね)
共通の友人から聞いた話だが、愛花は両親の勧めた通りの大学に行き、両親の会社に入社したらしい。従順に、期待されるまま。
それが不満だったのかどうかは本人に聞いてないのでわからないが、唯花はそのことをずっと申し訳ないと思っていた。なぜなら、あの針のむしろのような家の中で、愛花だけは常に唯花の味方だったからだ。
おっとりとした彼女がとりたてて両親に反抗するということはなかったけれど、それでも、彼女はずっと唯花の存在を認めてくれていた。同じ土俵に立ってくれていた。
それは当時の唯花にとって、凄く大きな意味を持っていた。
(愛花に何かあったんなら、私がなんとかしなくっちゃ……)
贖罪の気持ちも込めてそう思う。だからこそ、二度と足を踏み入れるつもりのなかったこの地に、こうしてもう一度帰ってきたのだ。
「今日、何があるんだろう……」
会社がなかなか連休に入らなかったので、今日が母からのメールにあった二十六日だ。『家にいるように』と書かれていたあの日付である。
「なにもないといいけどな……」
言い知れぬ不安を抱えたまま、彼女はやってきたタクシーに乗り込むのだった。
そうして一時間後。
唯花はなぜか知らない男性の前に座らされていた。しかも、愛花のワンピースを無理矢理着せられた状態で。
場所は、地元の人間ならば誰でも知っている高級料亭。隣には不気味なほど良い笑顔の両親がいた。
(意味が、わからない……)
実家に帰った直後、唯花は何の説明も受けることなく、ここまで連れてこられた。ここに来るまでに両親からかけられた言葉は『もう、遅いじゃないの!』『これを着なさい』『いいから黙ってついて来なさい!』の三つだけである。これでは状況がまったくわからない。
(しかも、愛花もいないし……)
唯花は『愛花のこと』で呼び戻されたはずである。なのに、肝心の彼女は家のどこにもいなかった。彼女は一体どこに行ったのだろうか。
質問なんてさせてくれなさそうな雰囲気の両親を唯花はチラリと見た後、今度は目の前に座る男性に視線を移す。
男は三十代前半という感じだった。しかも、和服姿。通った鼻筋に、にこりともしない唇。感情の起伏が少なそうな切れ長の目に、濡れた烏のような黒髪。着物を着ているからか背筋がしゃんと伸びていて、それがちょっと唯花の目には威圧的に映る。
(つまり二人は、私をこの人に会わせたかったってことよね。――でも、あれ……?)
唯花は目を瞬かせた。知らない人のはずなのに、妙な既視感があるのだ。
一番近いのは『似た人を知っている』という感覚だ。目の前に座る彼に重なるように、おぼろげな男性の姿が頭の中でちらつく。しかし、その『似た人』が誰なのかも唯花はなかなか思い出せない。
(もしかして、会社の人? ……いやでも、会社にこんな人いたっけ?)
同じ会社に勤めている人間を全員知っているわけではないが、こんなに顔の整った人はあんまり見たことがなかった。
(でも、他に男性の知り合いなんていないし……)
いくら首をひねっても、目の前の男に似ている人間は見つからない。
唯花が混乱しているのが伝わったのだろうか、最初に口を開いたのは目の前に座る男だった。
「久しぶりだな」
(久し、ぶり?)
まるで会ったことがあるかのような台詞に、唯花は首をひねる。その反応に、彼は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。そしてふたたび口を開く。
「一条だ。一条國臣」
「一条って――」
名前を聞いてハッとした。唯花は確かに、その男の名前を知っていたからだ。
一条國臣、老舗旅館の五代目。唯花とは五つほど歳が離れていたので、今は三十二、三歳ぐらいのはずである。
彼の運営する一条庵は元々華族だった一条家の別邸を旅館として改築したもので、大正ロマン溢れる内装と、伝統の和風建築が特徴の老舗旅館だ。旅行のために泊まる旅館ではなく、旅館のために旅行に来る客が絶えない場所で、KAJIツーリストにとってはどんな時でも絶対に予約が埋まってくれる、ありがたい宿だった。つまり、KAJIツーリストにとってはお得意様中のお得意様である。
目の前に座る彼は、そんな老舗旅館の次期当主。そりゃ、両親だってピリピリもする。
(最後に会ったのが高校二年生の時だから、もう十年も前の話になるのか……)
唯花が國臣のことを知っていたのには、実はもう一つ理由があった。
二人は学友だったのだ。正確に言えば、愛花を含めた三人は学友だった。
彼女達の通っていた栄智学園は、小学校から大学まで通えるエスカレーター式の私立学校。一般枠ももちろんあるが、基本的には幼稚園や小学校から私立に行ける、ある程度裕福な家庭の子達が通う学校だった。
その学校の天文部で、國臣と唯花は二年間をともに過ごした。
(あの頃は、家に帰りたくなくて、ずっと部室に入り浸ってたな……)
小さな一室の、二人だけの天文部。正確に言えば幽霊部員があと三人はいたらしいけれど、彼らを見たことはほとんどなく、部室ではずっと二人っきりだった。天文部だったのに天文部らしい活動は何一つせず、彼は部室で本を読んでばかりだったし、唯花は唯花で勉強をしたり、友人に手紙を書いたり、國臣に付き合ってもらってオセロやチェス、将棋などをしたりしていた。
(だからどこかで会ったような気がしたのか……)
唯花は目を瞬かせながら、國臣をじっと観察した。言われてみれば、面影がある気がしなくもない。ピンと伸びた背筋も、整った顔立ちも、アンニュイな表情も、思い返してみれば、全部十年前のままだ。当時の彼の服装は洋服だったし、本を読んでいる時は眼鏡をかけていたから、その印象が強かったのも気づかなかった要因だろう。
そして、もう一つ忘れてはならないことを彼女は思い出す。
(そういえば、國臣さんは愛花の許嫁……のはずよね……)
KAJIツーリストが、放っておいても予約がくる一条庵の予約業務を任せてもらっているところからもわかるように、一条家と梶家は昔から仲が良い。祖父や曽祖父の代から両家は交流があったようで、だからこそ愛花と國臣の結婚は生まれる前から決まっていた話だった。
(ま、私が実際に國臣さんに会ったのは、高校生になってからだけどね……)
結婚相手である愛花とは随分前から交流を深めていたようだが、唯花はその場に一緒にいたことはない。最初に会ったのは校内で、名前を聞いて初めて、彼が愛花の許嫁だと知ったのだ。
「いい加減、思い出したか?」
そんな國臣の低い声で、唯花は現実に引き戻された。そして慌てて頭を下げる。
「お、お久しぶりです!」
「元気にしてたか?」
「元気です! ……たぶん」
十年前と変わらない低くて安定した声に、懐かしさがこみ上げる。けれど、気になるのはその再会した理由だった。
(愛花との結婚報告ってわけじゃなさそうよね……)
それならば、今ここに愛花がいなくてはおかしい。唯花は改めて辺りを見渡すが、やはり愛花の姿は見当たらない。部屋の中には唯花と両親、そして國臣の四人だけだ。
彼の正体がわかったぶんだけ深まった謎に、唯花は視線を彷徨わせる。そしてとうとう耐えきれず口を開いてしまった。
「えっと、……私ってどうしてここに呼ばれたんですか?」
絞り出したような小さな声に、國臣は大きく目を見開いた。まるでその問いが予想外だったかのような反応だ。
「言ってなかったんですか?」
彼の言葉は唯花の両親に向けてのものだった。その言葉に父親は額の汗をハンカチで拭いながら、「なにぶん、唯花の到着が遅れたものでして……」と理由を話さなかった言い訳をする。
「言ってなかったって、なに? 私に関係あること?」
「それは……」
父親はしどろもどろになりながら、視線を彷徨わせる。どうにもはっきりとしない。それだけ唯花に伝えづらい話なのだろうか。
狼狽える父親に代わって、彼女の問いに答えたのは母親だった。
「唯花、喜びなさい。貴女は國臣さんの婚約者になったの」
「は?」
あまりの言葉に、呆けたような声が出てしまう。言葉は耳に入ってきているのに、ちゃんと頭で理解ができない。咀嚼ができない。
「どういうこと? 婚約者? 國臣さんって愛花の許婚じゃなかったの?」
「愛花は、今ちょっといないの」
「『ちょっといない』ってどういうこと⁉」
「愛花は……失踪したんだ」
「は⁉ 失踪⁉」
引き継ぐような父親の言葉に、唯花は思わず声を荒らげてしまう。
「失踪ってなに⁉ 警察に連絡とかしたの?」
「アナタ、妙なことを言わないでちょうだい! あれは失踪ではなくて、ただのマリッジブルーよ!」
國臣の手前だからか、本当にそう思っているのかはわからないが、唯花と同じタイミングで母親も声を上げた。
話を聞けば、愛花がいなくなったのは二週間ほど前のことらしい。その日は結婚式の打ち合わせということで、愛花は國臣と会う約束になっていたようなのだが、待てど暮らせど彼女は待ち合わせ場所にやって来なかった。國臣の連絡を受けた両親が彼女の部屋を捜索したところ、着替えなどの荷物が一通りなくなっており、その代わりに置き手紙があったのだという。
その手紙には……
『お父さん、お母さん、ごめんなさい。私は國臣さんと結婚することはできません。
私は私の人生を生きることにします』
と書かれていたらしい。
これを見た両親は大混乱。結婚式は半年後の予定だったが、面子や体面を考えれば、今更結婚式をしませんというわけにもいかない。親戚一同にはもちろんのこと、それ以外の来賓にだって、一応話は通してあるのだ。それに小さい話かもしれないが、今式をやめればキャンセル料だってかかってしまう。
そんな困った状態の時、國臣が両親にこう言ったらしいのだ。
『そういえば、愛花さんには双子の妹さんがいましたよね』
と。その言葉を聞いて、慌てて母親は唯花に連絡を取ったということだった。
「えっと、じゃあ、私が呼ばれたのって……」
唯花は震える唇を開いた。先ほどの母親の言葉が頭をかすめる。
(もしかして、本当に……?)
大きく目を見開く唯花に、母親は呆れたようなため息を一つ吐く。
「さっきから言ってるでしょ。貴女は本当に理解が遅い子ね」
そこで彼女は、初めて唯花に向き直った。
「貴女は愛花の代わりに國臣さんと婚約して、結婚するの。これは決定で、貴女に拒否権はないわ」
その言葉を聞いた瞬間、まるで時間が止まったような心地がした。
「絶対無理! 私、あの人と結婚なんてできない!」
それから二時間後。家に帰った唯花は、両親に向かって勢いよくそう言い放った。
時刻はもう四時を過ぎており、家の中にも強い西日が差してきている。
「『あの人』って。貴女、國臣さんと部活で一緒だったんでしょう?」
「確かに一緒だったけど! でも、すごく仲良くしてたとかそういうわけじゃないし!」
「國臣さん言っていたわよ。『もしかしたら、気心が知れているぶん、愛花さんより楽かもしれませんね』って」
「國臣さんが?」
先ほど会った彼ではなく、十年前の彼の姿が頭をかすめた。
あの頃の彼はいつも窓際に椅子を置いて本ばかり読んでいた。本のラインナップは小説からビジネス本まで様々で、唯花は勉強をする振りをしながら彼が何を読んでいるかを観察したり、その綺麗な横顔を眺めたりしていた。窓から差し込む光で、彼の輪郭と眼鏡の奥のまつ毛が際立つ。その光景は、ゾッとするほど絵になっていて、何度か見惚れてしまったのを今でも鮮明に覚えている。
「何がそんなに嫌なの? 貴女にはもったいないぐらいじゃない?」
「そうかも、しれないけど! 私は――」
「本当に、貴女は反抗してばかり! 双子なのに、愛花とは似ても似つかないのね! 出来損ないなら出来損ないらしく、たまには親の言うことを聞いたらどう?」
古傷がえぐられる痛みに、言葉が出なくなる。
この家から出ていくまでは毎日のように、こんなことばかり聞かされていた。自分は出来損ないだと、愛花の出涸らしだと。自尊心は育つ前に潰されて、自己肯定感は地べたを這いずり回っていた。
親の元から離れて九年。やっと人並みに自分のことが好きになれたのに、たった一言で昔の自分に逆戻りだ。
唯花は拳を握って自分を奮い立たせる。
「とにかく無理! 愛花がいなくなったんなら、結婚自体を取りやめればいいじゃない! お母さん達から言えないなら、私が言ってくるから!」
そう言って家から出ようとした瞬間、今度は父親が目の前に立ちはだかった。そして聞いたこともないような大声を上げる。
「お前は、うちの会社を潰す気か!」
「潰す気って……」
いつも気弱な父親のありえない剣幕に、唯花は一歩後ずさった。
「今うちの会社は、一条さんのところだけが頼りなんだ! なのに、康隆さんは近々國臣くんに全権を譲ると言っている! もし、このまま國臣くんと何の繋がりもないまま代替わりしてしまったら、もしかしたらうちは切られるかもしれないんだぞ!」
父親は血走った目を唯花に向ける。康隆というのは、國臣の父親のことだ。
ひるんだ唯花に父親はぐっと身を乗り出してくる。
「そうなった場合の責任を、お前が取れるのか!」
それこそ知った話ではない。KAJIツーリストは今の唯花に関係がないのだ。そんなことで潰れるなら、潰れてしまえとさえ思う。
(だけど……)
会社には幼い頃にお世話になった社員さん達もいるだろう。小さな会社なので、全員が全員、親戚のおじちゃんおばちゃんのような感覚だ。小学生の頃は会社に行くと、よくみんなが待ってましたとばかりにお菓子をポケットに詰めてくれた。それが嬉しくて、週に何度かはお菓子をもらいに、会社を訪れていた。
その時の彼らの嬉しそうな顔が頭をかすめる。
ここで自分が拒否をしたせいで、彼らが路頭に迷うのは確かに避けたい事態だった。
「とりあえず、これは向こう側からの提案でもあるの。さっきも言ったけど、貴女に拒否権はないのよ」
父親と唯花の間に入った母親は凛とした声でそう言う。
「貴女、いい加減諦めて少しは親孝行したらどう? 大体、愛花が出ていったのだって、貴女があの子にすべて押しつけて出て行ったからじゃないの?」
「それは……」
母親の言葉に唯花はぎゅっと拳を握りしめた。
確かにそれは考えていた。自分のせいで愛花は追い詰められ、家を出て行ってしまったのではないかと。唯花が十年間自由に生きている間、彼女はもしかしたら自分を押し殺して苦しんでいたのかもしれない。
それならば、愛花の失踪は唯花の責任でもある。尻拭いはするべきなのかもしれない。
唯花は唇を噛み締める。
「……わかった。とりあえず、婚約はする」
そう頷くと、母親は満足そうにフン、と鼻を鳴らした。
第二章 十年間のすれ違い
『えぇ⁉ それで、あの一条さんと婚約することになったの?』
「うん。まぁ、一応ね。無事に結婚したとして、仮面夫婦一直線だろうけど」
唯花はビジネスホテルのベッドに大の字になりながら、友人の声が流れるスマホを耳にあてる。
電話相手は友人の双葉早苗だ。唯花が地元を離れてからはあまり会うことはなくなっていたが、学生時代はそれなりに仲良くしていた子である。明るくて、元気で、いつも人を笑わせてくれる、気のいいムードメーカーだ。
たまたまホテルに帰ってきたところで、共通の友人の結婚式に参列するかどうか早苗から連絡があり、その流れで地元に帰っていることを彼女に話したのだ。もちろんその理由も愚痴のような形で吐き出した。
降って湧いた友人の結婚話に、早苗は興味津々といった感じで声を高くする。
『一条さんって、あのクールで何考えてるかよくわかんない人でしょう? 女性人気はすごいけど、どんな美女に言い寄られても、にこりともせず追い返すっていう噂の……』
「早苗、よく知ってるね」
『まあ、一条さんと修二が仲良かったからね。私はそれ経由で少し話したことがあるって感じ?』
「……そうなんだ」
修二というのは早苗の幼馴染のことだ。年齢は確か、國臣と同じだったので三十二歳。
一般枠ながら、二人とも高校から唯花と同じ学校に通っており、修二とは早苗を通じて何度か会ったことがあった。
『でもさ、なんで唯花は一条さんとの結婚がそんなに嫌なわけ? 一条さんかっこいいし、唯花も当時は仲良かったんでしょ?』
「そりゃ、悪くはなかったと思うけど……」
『それならなんで? 向こうに恋人でもいるの? それとも、嫌なことされた?』
「そういうわけじゃないけど……」
歯切れの悪い言葉に、早苗は『じゃないけど?』と続きを促す。
唯花は一つため息をついたあと、小さな声を絞り出した。
「私はちゃんと、私のことを見てくれる人と結婚したいだけ……」
そう言う唯花の頭に蘇ったのは、あの高校二年生の時に起こった例の事故だった。
唯花を助けるために伸ばされた腕。偶然触れ合った鼻先。意図的に合わされた唇。
高鳴る心臓。浮きたつ心。流れた涙。そして、直後に放たれた國臣の言葉。
『愛花に似ていたから、かな……』
唯花はその言葉に心臓が裂かれるような痛みを受けたけれど、彼はどんな思いでそれを口にしたのだろうか。あの日、惨めで苦しくてどうしようもなくて、歩きながら泣いたことなんて、彼はきっと知らない。
(あの頃からずっと、國臣さんにとって私は愛花の代用品なのよね……)
今回のことだってそうだ。何が『そういえば、愛花さんには双子の妹さんがいましたよね』だ。馬鹿にしているにも程がある。それとも、二年間ずっと一緒にいた唯花の名前も、彼は覚えていないのだろうか。
『まぁ、あまり思い詰めないでね? 相談事ならいつでも聞くから』
「うん。ありがとう」
早苗の心配そうな声に、唯花は我に返る。思いの外心配させてしまったようだ。
そのまま早苗と一時間ほど雑談をして、彼女は電話を終えた。
プロローグ
これは事故だ。
不意に重なった唇の理由を、私――梶唯花はそう結論付けた。
十年前――
彼の大学卒業を半年後に控えた、九月の末。いつものように部室で彼と一緒にオセロをしている時にその事故は起こった。
静かな室内に突然鳴ったスマホ。驚いた私が足を滑らせて、座っていたパイプ椅子とともにうしろにひっくり返る。
ふわりと浮いた身体。崩れるオセロの盤面。まるで助けを求めるように、無意識に伸ばした腕。
目の前に座っていた彼がその腕を掴んで、私の身体をぐっと引き寄せる。
「あ……」
気がついた時には、彼の顔はもう目の前にあった。鼻先がツン、と触れ合う。掴まれた手首が、熱くて溶けてしまいそうだった。
しばらくそうやって見つめ合った後、彼は私の身体をさらに引き寄せる。
そうして、唇が重なった。
「ん」
意味がわからなかった。どうしてこんなことになったのか、理解できなかった。
でも、それと同時に嬉しくもあったのだ。だって当時の私は、彼のことが大好きで、大好きで、仕方がなかったから。
彼が姉の許嫁で、将来自分の義兄になるということは理解していたし、叶わぬ恋だというのは承知していた。でもだからこそ、重なった唇に驚きながらも嬉しくて、瞳は潤み、涙を流してしまったのだ。
やがて小さなリップ音を残して離れる唇。私は唇を撫でた後、涙で濡れた瞳を彼に向けた。
「今の」
その瞬間、彼がはっとして息をのむ。まるで自分がしてしまったことに、そこで初めて気がついたような顔だった。あるいは私の涙に驚いたか。
「悪い」
「どうして……?」
その質問に当時の私がどう返してほしかったのか、それは今でもよくわからない。『好きだから』なんて返答は、夢見がちな少女でもあるまいし、さすがに考えていなかっただろう。だけど、唇に残る彼の感触に、まったく期待しなかったと言ってもきっと嘘になる。
「それは……」
彼はその質問に固まる。そして、私の顔を見ないように視線を落とし、数十秒何かを考えた後、絞り出すようにこう吐き出した。
「愛花に似ていたから、かな……」
彼から出てきた双子の姉の名前に、呼吸が止まった。同時に心臓が嫌な音を立てる。
考えてみればそれしかないだろう。彼と姉は許嫁同士なのだから。
何を不相応に、わずかでも期待していたのだろうか。胸を踊らせていたのだろうか。
「そっか……」
下唇を噛むと血の味がした。さっきはもっと甘い味がしていたのに、それももう思い出せない。
あの頃からずっと、私は愛花の陰で生きている。
第一章 身代わりの婚約
『愛花のことで話があります。今年の年末は帰ってくるように。
特に、二十六日は必ず家にいるようにしなさい』
年の瀬も迫り、会社も長期休暇に入ったとある日。唯花は久しぶりに訪れた地元の駅で、スマホの画面に映ったメールを見下ろしながら、ため息をついた。送り主は、もう半分縁を切った状態の母親だ。
「今更、一体何の用だろう」
お互いに連絡をするのは九年ぶりだというのに『元気にしてる?』『最近はどう?』なんて伺いや心配は一切ない、至極簡素なメールだ。あまりの簡素さに意味がわからず、『どうしたの?』『愛花に何かあったの?』と返信してみたが、案の定というかなんというか、質問に対する回答は返ってこなかった。返ってきたのは『いいから帰ってきなさい』と言う一文のみである。
「はぁ……」
唯花は今日何度目かわからないため息をつきながら、必要最低限の荷物だけ入ったキャリーケースを持ち上げた。三段だけの階段を乗り越え、そのまま駅から出る。大型バスがいくつも並んでいるロータリーのタクシー乗り場に並びながら、彼女はふたたびスマホに視線を落とした。
(無視するわけにもいかないから帰ってきたけど、愛花、どうしたのかな……)
唯花は画面に映った、『愛花』の文字を指先でなぞった。その瞬間、愛花のおっとりとした笑みが脳裏に蘇ってくる。
愛花というのは、梶姉妹の『できるほう』だ。
勉強も器量の良さも対人関係も、二卵性とはいえ双子なのにもかかわらず、唯花よりも愛花のほうが一枚も二枚も上手だった。テストの点数で勝ったことはないし、楽器を弾かせても、料理を作らせても、裁縫をさせても、愛花はそつなく完璧にこなしてしまう。唯花がすぐに習うのをやめてしまった絵画では賞を取り、先生からは美大を勧められるほどだった。
だから梶姉妹の『できるほう』と言えば愛花で、それは二人を知る人達の共通認識だった。
親戚内でも、学校内でも、……もちろん家庭内でも。
「帰りたくないなぁ……」
唯花はスマホのバックライトを落としながら、そう独りごちる。
実家にいた頃、家に彼女の居場所はなかった。両親は『できるほう』である愛花だけを溺愛し、それと同じだけの愛情を唯花には注いでくれなかったからだ。特別酷い扱いを受けてきたというわけではなかったけれど、比べられ『出来損ない』と罵倒される日々は、それなりに辛いものがあった。
そんな両親に嫌気がさしたのが高校二年生の秋。その頃にはもう進学する大学もある程度は決まっていたのだが、唯花はそれを蹴って地元から離れた大学を受験した。当然親の反対もあったが、見事合格。そしてなかば家出をするような形で、唯花は実家を離れることになったのである。
(でも結局、私は愛花を差し出して逃げたってことになるんだよね)
共通の友人から聞いた話だが、愛花は両親の勧めた通りの大学に行き、両親の会社に入社したらしい。従順に、期待されるまま。
それが不満だったのかどうかは本人に聞いてないのでわからないが、唯花はそのことをずっと申し訳ないと思っていた。なぜなら、あの針のむしろのような家の中で、愛花だけは常に唯花の味方だったからだ。
おっとりとした彼女がとりたてて両親に反抗するということはなかったけれど、それでも、彼女はずっと唯花の存在を認めてくれていた。同じ土俵に立ってくれていた。
それは当時の唯花にとって、凄く大きな意味を持っていた。
(愛花に何かあったんなら、私がなんとかしなくっちゃ……)
贖罪の気持ちも込めてそう思う。だからこそ、二度と足を踏み入れるつもりのなかったこの地に、こうしてもう一度帰ってきたのだ。
「今日、何があるんだろう……」
会社がなかなか連休に入らなかったので、今日が母からのメールにあった二十六日だ。『家にいるように』と書かれていたあの日付である。
「なにもないといいけどな……」
言い知れぬ不安を抱えたまま、彼女はやってきたタクシーに乗り込むのだった。
そうして一時間後。
唯花はなぜか知らない男性の前に座らされていた。しかも、愛花のワンピースを無理矢理着せられた状態で。
場所は、地元の人間ならば誰でも知っている高級料亭。隣には不気味なほど良い笑顔の両親がいた。
(意味が、わからない……)
実家に帰った直後、唯花は何の説明も受けることなく、ここまで連れてこられた。ここに来るまでに両親からかけられた言葉は『もう、遅いじゃないの!』『これを着なさい』『いいから黙ってついて来なさい!』の三つだけである。これでは状況がまったくわからない。
(しかも、愛花もいないし……)
唯花は『愛花のこと』で呼び戻されたはずである。なのに、肝心の彼女は家のどこにもいなかった。彼女は一体どこに行ったのだろうか。
質問なんてさせてくれなさそうな雰囲気の両親を唯花はチラリと見た後、今度は目の前に座る男性に視線を移す。
男は三十代前半という感じだった。しかも、和服姿。通った鼻筋に、にこりともしない唇。感情の起伏が少なそうな切れ長の目に、濡れた烏のような黒髪。着物を着ているからか背筋がしゃんと伸びていて、それがちょっと唯花の目には威圧的に映る。
(つまり二人は、私をこの人に会わせたかったってことよね。――でも、あれ……?)
唯花は目を瞬かせた。知らない人のはずなのに、妙な既視感があるのだ。
一番近いのは『似た人を知っている』という感覚だ。目の前に座る彼に重なるように、おぼろげな男性の姿が頭の中でちらつく。しかし、その『似た人』が誰なのかも唯花はなかなか思い出せない。
(もしかして、会社の人? ……いやでも、会社にこんな人いたっけ?)
同じ会社に勤めている人間を全員知っているわけではないが、こんなに顔の整った人はあんまり見たことがなかった。
(でも、他に男性の知り合いなんていないし……)
いくら首をひねっても、目の前の男に似ている人間は見つからない。
唯花が混乱しているのが伝わったのだろうか、最初に口を開いたのは目の前に座る男だった。
「久しぶりだな」
(久し、ぶり?)
まるで会ったことがあるかのような台詞に、唯花は首をひねる。その反応に、彼は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。そしてふたたび口を開く。
「一条だ。一条國臣」
「一条って――」
名前を聞いてハッとした。唯花は確かに、その男の名前を知っていたからだ。
一条國臣、老舗旅館の五代目。唯花とは五つほど歳が離れていたので、今は三十二、三歳ぐらいのはずである。
彼の運営する一条庵は元々華族だった一条家の別邸を旅館として改築したもので、大正ロマン溢れる内装と、伝統の和風建築が特徴の老舗旅館だ。旅行のために泊まる旅館ではなく、旅館のために旅行に来る客が絶えない場所で、KAJIツーリストにとってはどんな時でも絶対に予約が埋まってくれる、ありがたい宿だった。つまり、KAJIツーリストにとってはお得意様中のお得意様である。
目の前に座る彼は、そんな老舗旅館の次期当主。そりゃ、両親だってピリピリもする。
(最後に会ったのが高校二年生の時だから、もう十年も前の話になるのか……)
唯花が國臣のことを知っていたのには、実はもう一つ理由があった。
二人は学友だったのだ。正確に言えば、愛花を含めた三人は学友だった。
彼女達の通っていた栄智学園は、小学校から大学まで通えるエスカレーター式の私立学校。一般枠ももちろんあるが、基本的には幼稚園や小学校から私立に行ける、ある程度裕福な家庭の子達が通う学校だった。
その学校の天文部で、國臣と唯花は二年間をともに過ごした。
(あの頃は、家に帰りたくなくて、ずっと部室に入り浸ってたな……)
小さな一室の、二人だけの天文部。正確に言えば幽霊部員があと三人はいたらしいけれど、彼らを見たことはほとんどなく、部室ではずっと二人っきりだった。天文部だったのに天文部らしい活動は何一つせず、彼は部室で本を読んでばかりだったし、唯花は唯花で勉強をしたり、友人に手紙を書いたり、國臣に付き合ってもらってオセロやチェス、将棋などをしたりしていた。
(だからどこかで会ったような気がしたのか……)
唯花は目を瞬かせながら、國臣をじっと観察した。言われてみれば、面影がある気がしなくもない。ピンと伸びた背筋も、整った顔立ちも、アンニュイな表情も、思い返してみれば、全部十年前のままだ。当時の彼の服装は洋服だったし、本を読んでいる時は眼鏡をかけていたから、その印象が強かったのも気づかなかった要因だろう。
そして、もう一つ忘れてはならないことを彼女は思い出す。
(そういえば、國臣さんは愛花の許嫁……のはずよね……)
KAJIツーリストが、放っておいても予約がくる一条庵の予約業務を任せてもらっているところからもわかるように、一条家と梶家は昔から仲が良い。祖父や曽祖父の代から両家は交流があったようで、だからこそ愛花と國臣の結婚は生まれる前から決まっていた話だった。
(ま、私が実際に國臣さんに会ったのは、高校生になってからだけどね……)
結婚相手である愛花とは随分前から交流を深めていたようだが、唯花はその場に一緒にいたことはない。最初に会ったのは校内で、名前を聞いて初めて、彼が愛花の許嫁だと知ったのだ。
「いい加減、思い出したか?」
そんな國臣の低い声で、唯花は現実に引き戻された。そして慌てて頭を下げる。
「お、お久しぶりです!」
「元気にしてたか?」
「元気です! ……たぶん」
十年前と変わらない低くて安定した声に、懐かしさがこみ上げる。けれど、気になるのはその再会した理由だった。
(愛花との結婚報告ってわけじゃなさそうよね……)
それならば、今ここに愛花がいなくてはおかしい。唯花は改めて辺りを見渡すが、やはり愛花の姿は見当たらない。部屋の中には唯花と両親、そして國臣の四人だけだ。
彼の正体がわかったぶんだけ深まった謎に、唯花は視線を彷徨わせる。そしてとうとう耐えきれず口を開いてしまった。
「えっと、……私ってどうしてここに呼ばれたんですか?」
絞り出したような小さな声に、國臣は大きく目を見開いた。まるでその問いが予想外だったかのような反応だ。
「言ってなかったんですか?」
彼の言葉は唯花の両親に向けてのものだった。その言葉に父親は額の汗をハンカチで拭いながら、「なにぶん、唯花の到着が遅れたものでして……」と理由を話さなかった言い訳をする。
「言ってなかったって、なに? 私に関係あること?」
「それは……」
父親はしどろもどろになりながら、視線を彷徨わせる。どうにもはっきりとしない。それだけ唯花に伝えづらい話なのだろうか。
狼狽える父親に代わって、彼女の問いに答えたのは母親だった。
「唯花、喜びなさい。貴女は國臣さんの婚約者になったの」
「は?」
あまりの言葉に、呆けたような声が出てしまう。言葉は耳に入ってきているのに、ちゃんと頭で理解ができない。咀嚼ができない。
「どういうこと? 婚約者? 國臣さんって愛花の許婚じゃなかったの?」
「愛花は、今ちょっといないの」
「『ちょっといない』ってどういうこと⁉」
「愛花は……失踪したんだ」
「は⁉ 失踪⁉」
引き継ぐような父親の言葉に、唯花は思わず声を荒らげてしまう。
「失踪ってなに⁉ 警察に連絡とかしたの?」
「アナタ、妙なことを言わないでちょうだい! あれは失踪ではなくて、ただのマリッジブルーよ!」
國臣の手前だからか、本当にそう思っているのかはわからないが、唯花と同じタイミングで母親も声を上げた。
話を聞けば、愛花がいなくなったのは二週間ほど前のことらしい。その日は結婚式の打ち合わせということで、愛花は國臣と会う約束になっていたようなのだが、待てど暮らせど彼女は待ち合わせ場所にやって来なかった。國臣の連絡を受けた両親が彼女の部屋を捜索したところ、着替えなどの荷物が一通りなくなっており、その代わりに置き手紙があったのだという。
その手紙には……
『お父さん、お母さん、ごめんなさい。私は國臣さんと結婚することはできません。
私は私の人生を生きることにします』
と書かれていたらしい。
これを見た両親は大混乱。結婚式は半年後の予定だったが、面子や体面を考えれば、今更結婚式をしませんというわけにもいかない。親戚一同にはもちろんのこと、それ以外の来賓にだって、一応話は通してあるのだ。それに小さい話かもしれないが、今式をやめればキャンセル料だってかかってしまう。
そんな困った状態の時、國臣が両親にこう言ったらしいのだ。
『そういえば、愛花さんには双子の妹さんがいましたよね』
と。その言葉を聞いて、慌てて母親は唯花に連絡を取ったということだった。
「えっと、じゃあ、私が呼ばれたのって……」
唯花は震える唇を開いた。先ほどの母親の言葉が頭をかすめる。
(もしかして、本当に……?)
大きく目を見開く唯花に、母親は呆れたようなため息を一つ吐く。
「さっきから言ってるでしょ。貴女は本当に理解が遅い子ね」
そこで彼女は、初めて唯花に向き直った。
「貴女は愛花の代わりに國臣さんと婚約して、結婚するの。これは決定で、貴女に拒否権はないわ」
その言葉を聞いた瞬間、まるで時間が止まったような心地がした。
「絶対無理! 私、あの人と結婚なんてできない!」
それから二時間後。家に帰った唯花は、両親に向かって勢いよくそう言い放った。
時刻はもう四時を過ぎており、家の中にも強い西日が差してきている。
「『あの人』って。貴女、國臣さんと部活で一緒だったんでしょう?」
「確かに一緒だったけど! でも、すごく仲良くしてたとかそういうわけじゃないし!」
「國臣さん言っていたわよ。『もしかしたら、気心が知れているぶん、愛花さんより楽かもしれませんね』って」
「國臣さんが?」
先ほど会った彼ではなく、十年前の彼の姿が頭をかすめた。
あの頃の彼はいつも窓際に椅子を置いて本ばかり読んでいた。本のラインナップは小説からビジネス本まで様々で、唯花は勉強をする振りをしながら彼が何を読んでいるかを観察したり、その綺麗な横顔を眺めたりしていた。窓から差し込む光で、彼の輪郭と眼鏡の奥のまつ毛が際立つ。その光景は、ゾッとするほど絵になっていて、何度か見惚れてしまったのを今でも鮮明に覚えている。
「何がそんなに嫌なの? 貴女にはもったいないぐらいじゃない?」
「そうかも、しれないけど! 私は――」
「本当に、貴女は反抗してばかり! 双子なのに、愛花とは似ても似つかないのね! 出来損ないなら出来損ないらしく、たまには親の言うことを聞いたらどう?」
古傷がえぐられる痛みに、言葉が出なくなる。
この家から出ていくまでは毎日のように、こんなことばかり聞かされていた。自分は出来損ないだと、愛花の出涸らしだと。自尊心は育つ前に潰されて、自己肯定感は地べたを這いずり回っていた。
親の元から離れて九年。やっと人並みに自分のことが好きになれたのに、たった一言で昔の自分に逆戻りだ。
唯花は拳を握って自分を奮い立たせる。
「とにかく無理! 愛花がいなくなったんなら、結婚自体を取りやめればいいじゃない! お母さん達から言えないなら、私が言ってくるから!」
そう言って家から出ようとした瞬間、今度は父親が目の前に立ちはだかった。そして聞いたこともないような大声を上げる。
「お前は、うちの会社を潰す気か!」
「潰す気って……」
いつも気弱な父親のありえない剣幕に、唯花は一歩後ずさった。
「今うちの会社は、一条さんのところだけが頼りなんだ! なのに、康隆さんは近々國臣くんに全権を譲ると言っている! もし、このまま國臣くんと何の繋がりもないまま代替わりしてしまったら、もしかしたらうちは切られるかもしれないんだぞ!」
父親は血走った目を唯花に向ける。康隆というのは、國臣の父親のことだ。
ひるんだ唯花に父親はぐっと身を乗り出してくる。
「そうなった場合の責任を、お前が取れるのか!」
それこそ知った話ではない。KAJIツーリストは今の唯花に関係がないのだ。そんなことで潰れるなら、潰れてしまえとさえ思う。
(だけど……)
会社には幼い頃にお世話になった社員さん達もいるだろう。小さな会社なので、全員が全員、親戚のおじちゃんおばちゃんのような感覚だ。小学生の頃は会社に行くと、よくみんなが待ってましたとばかりにお菓子をポケットに詰めてくれた。それが嬉しくて、週に何度かはお菓子をもらいに、会社を訪れていた。
その時の彼らの嬉しそうな顔が頭をかすめる。
ここで自分が拒否をしたせいで、彼らが路頭に迷うのは確かに避けたい事態だった。
「とりあえず、これは向こう側からの提案でもあるの。さっきも言ったけど、貴女に拒否権はないのよ」
父親と唯花の間に入った母親は凛とした声でそう言う。
「貴女、いい加減諦めて少しは親孝行したらどう? 大体、愛花が出ていったのだって、貴女があの子にすべて押しつけて出て行ったからじゃないの?」
「それは……」
母親の言葉に唯花はぎゅっと拳を握りしめた。
確かにそれは考えていた。自分のせいで愛花は追い詰められ、家を出て行ってしまったのではないかと。唯花が十年間自由に生きている間、彼女はもしかしたら自分を押し殺して苦しんでいたのかもしれない。
それならば、愛花の失踪は唯花の責任でもある。尻拭いはするべきなのかもしれない。
唯花は唇を噛み締める。
「……わかった。とりあえず、婚約はする」
そう頷くと、母親は満足そうにフン、と鼻を鳴らした。
第二章 十年間のすれ違い
『えぇ⁉ それで、あの一条さんと婚約することになったの?』
「うん。まぁ、一応ね。無事に結婚したとして、仮面夫婦一直線だろうけど」
唯花はビジネスホテルのベッドに大の字になりながら、友人の声が流れるスマホを耳にあてる。
電話相手は友人の双葉早苗だ。唯花が地元を離れてからはあまり会うことはなくなっていたが、学生時代はそれなりに仲良くしていた子である。明るくて、元気で、いつも人を笑わせてくれる、気のいいムードメーカーだ。
たまたまホテルに帰ってきたところで、共通の友人の結婚式に参列するかどうか早苗から連絡があり、その流れで地元に帰っていることを彼女に話したのだ。もちろんその理由も愚痴のような形で吐き出した。
降って湧いた友人の結婚話に、早苗は興味津々といった感じで声を高くする。
『一条さんって、あのクールで何考えてるかよくわかんない人でしょう? 女性人気はすごいけど、どんな美女に言い寄られても、にこりともせず追い返すっていう噂の……』
「早苗、よく知ってるね」
『まあ、一条さんと修二が仲良かったからね。私はそれ経由で少し話したことがあるって感じ?』
「……そうなんだ」
修二というのは早苗の幼馴染のことだ。年齢は確か、國臣と同じだったので三十二歳。
一般枠ながら、二人とも高校から唯花と同じ学校に通っており、修二とは早苗を通じて何度か会ったことがあった。
『でもさ、なんで唯花は一条さんとの結婚がそんなに嫌なわけ? 一条さんかっこいいし、唯花も当時は仲良かったんでしょ?』
「そりゃ、悪くはなかったと思うけど……」
『それならなんで? 向こうに恋人でもいるの? それとも、嫌なことされた?』
「そういうわけじゃないけど……」
歯切れの悪い言葉に、早苗は『じゃないけど?』と続きを促す。
唯花は一つため息をついたあと、小さな声を絞り出した。
「私はちゃんと、私のことを見てくれる人と結婚したいだけ……」
そう言う唯花の頭に蘇ったのは、あの高校二年生の時に起こった例の事故だった。
唯花を助けるために伸ばされた腕。偶然触れ合った鼻先。意図的に合わされた唇。
高鳴る心臓。浮きたつ心。流れた涙。そして、直後に放たれた國臣の言葉。
『愛花に似ていたから、かな……』
唯花はその言葉に心臓が裂かれるような痛みを受けたけれど、彼はどんな思いでそれを口にしたのだろうか。あの日、惨めで苦しくてどうしようもなくて、歩きながら泣いたことなんて、彼はきっと知らない。
(あの頃からずっと、國臣さんにとって私は愛花の代用品なのよね……)
今回のことだってそうだ。何が『そういえば、愛花さんには双子の妹さんがいましたよね』だ。馬鹿にしているにも程がある。それとも、二年間ずっと一緒にいた唯花の名前も、彼は覚えていないのだろうか。
『まぁ、あまり思い詰めないでね? 相談事ならいつでも聞くから』
「うん。ありがとう」
早苗の心配そうな声に、唯花は我に返る。思いの外心配させてしまったようだ。
そのまま早苗と一時間ほど雑談をして、彼女は電話を終えた。
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