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1巻
1-3
その言葉に、唯花は何も言葉が返せなかった。頭は半分以上思考を放棄しているし、残りの半分は処理が追いついていない。でも、それでいいのかもしれない。心の底を漂うわずかな喜びに、唯花はまだ気づきたくなかった。だってもう、今更も今更だ。
「愛花がいなくなったと知って、最初に思いついたのは唯花だった。代わりが必要なら呼び寄せてくれるかなと思って話を振ったら、案の定、お前は帰ってきた」
「……」
「正直、一目会えるだけで良かったんだ。こんなおかしな理由で呼び戻されたって知ったら、唯花のことだから怒ってすぐ帰ると思っていたしな。……だからまさか、結婚まで了承してくれるとは思わなくて、連絡もらった時は、自分の耳を疑ったよ」
「それは……」
「わかってる。親に言われて、渋々了承したって感じなんだよな? それか、姉妹としての責任、とかか?」
どちらも正解で、どちらも不正解だ。
本当に心から嫌な相手だったら、親に言われたって、愛花のためだからって、唯花は絶対に了承したりしなかった。唯花は昔からそういう性格で、そういうところも両親に面倒くさいと思われていたのだから……
(つまり、私が結婚を了承したのは――……)
「――っ!」
唯花は自分で自身の両頬を叩いた。パシン、という乾いた音が、部屋に広がる。そして、そのまま彼女は勢いよく立ち上がった。
「きょ、今日はもう、疲れました! 寝ます!」
唯花の突然の行動に、國臣は驚いたように目を見開く。そんな彼を視界に入れないようにしながら、彼女は先ほど使えと言われた部屋のほうにつま先を向けた。
「唯花?」
「これ以上ごちゃごちゃ考えてたら、変な結論にたどり着いちゃいそうなので、ちょっと一度頭を冷やしてきます!」
「あのな」
「今話しかけないでください!」
「だが……」
「頭冷やすって言ってるじゃないですか!」
「お前、床で寝るのか?」
「…………はい?」
唯花は怪訝な顔で國臣を振り返る。床で寝るとはどういうことだろうか。
「言い忘れてたが、この家にベッドは一つしかないんだ」
「へ?」
「とりあえず、あの部屋にベッドを買うまで、お前は俺の部屋で寝泊まりすればいい」
本当に彼は、いつも突拍子もないことを言う。
唯花が何も言えずに固まっていると、彼は続けて「安心しろ。なにもしないから」と口にした。
「えっと……」
唯花は戸惑うような声を出す。それをどう信用すればいいのだろうか。確かに國臣は昔から紳士的な性格だが、若い男女が一つのベッドで眠って、何もないなんてことがあり得るのだろうか。と言うか、何もなかったら何もなかったで、それはちょっとショックである。
「それに、俺はここで寝るつもりだしな」
そう言って彼が指したのは自身の真下だった。正確にはソファの座面である。
「毛布ぐらいあれば、ソファでも何とかなるだろ」
「そ、そんな、悪いです! それなら私がソファで!」
「男として、さすがにそれはできないだろ?」
彼はそう言って事もなげに笑うが、家の主人を差し置いてベッドで寝るだなんて、どうにも良心がとがめる。
(だけど、一緒に寝るわけにもいかないし……)
唯花は額を押さえながら、頭の中の自分と何度も話し合いを重ねる。しかし、何度脳内会議を繰り広げても、一向に國臣も唯花も安眠できるいい案は出てこなかった。
「そうだ。明日暇か?」
「まぁ、暇と言えば暇ですけど……」
脳内会議を一旦中断させて、唯花はそう答える。彼は懐から財布と、先ほど家に入る時に出したキーケースを取り出した。
「それなら明日、ベッドを買っておいてくれ。客間用のだが、しばらくはお前が寝るんだから好きなのを選んできたら良い。俺は仕事だからな。それとこれは、合鍵だ」
手を取られ、クレジットカードとカードキーを握らされる。あまりにも軽い感じで、とんでもないものを渡してきた國臣に、唯花は飛び上がった。
「な、な、な、なに渡してきてるんですか⁉」
「カードと鍵?」
「そうじゃなくて! 簡単にこういうの、渡しちゃダメですよ!」
「そうか?」
「そうです! それにクレジットカードって、本人しか使っちゃダメなんですよ!」
「そうか。それなら現金で……」
「ごめんなさい! そういう意味じゃないです‼」
ふたたび財布を取り出してきた國臣の手を押しとどめる。國臣は唯花が何に慌てているのかわかっていない様子で、首をひねった。そんな彼に、唯花はさらに声を大きくする。
「こういうの簡単に渡して、泥棒に入られたり、お金盗られたりしたらどうするんですか!」
「盗るのか?」
「盗りませんよ!」
「ならいいだろう?」
「いいだろうって……」
そこまで言われると、どう止めていいのかわからなくなる。國臣があまりにも堂々としているので、まるで間違っているのが自分のような気さえしてきてしまうのだから困りものだ。
「俺が俺の一存で、俺が信用している相手に俺の大切なものを渡すんだ。問題はない」
「ありますよ! ……というか、6LDKの件もそうですけど、國臣さんって本当に昔っからそういうところがありますよね。天然というか、なんというか……」
天然というよりは、大物という感じだ。彼はいつだって何に対しても大きくぶれることはないし、飄々と受け流してしまう。そういうところがとても魅力的で、素敵だと、学生時代は思っていた。
「いい加減にしないと、いつか絶対痛い目みぃ――」
『みますよ』と続けるはずだった言葉は、國臣が頬をつまんだことにより、中断された。
唯花が顔を上げると、彼は嬉しそうな顔で笑っている。
「やっと笑ったな」
「あ」
指摘されて初めて気がついた。頬が緩んでいる。唯花はあわてて自分の口元を覆った。指先に当たる自分の頬が熱を持っているのがわかる。
國臣は彼女の頭を一撫でした後、風呂場に向かった。
「俺もシャワー浴びてくる。眠たかったら先に寝てていいからな」
そう言って去っていくうしろ姿を、唯花はじっと見つめることしかできなかった。
◆ ◇ ◆
「それで本当に何もなかったの?」
「なかったわよ。國臣さん、結局ソファで寝たし……」
翌日、唯花は國臣に言われた通り、ベッドを買いに家具屋を回っていた。
そんな彼女の隣を歩くのは、双葉早苗である。ショートカットに、大きなクリクリとした目が特徴の女性だ。高校卒業以来会っていないので、実に九年ぶりの再会である。今は近くの幼稚園で、先生をしているらしかった。唯花がベッドを買うのにつき合ってくれている。
結局ベッドのお金は、一度唯花が立て替えておき、後で國臣が支払うという話になってしまった。唯花が寝るためのベッドなので彼に買わせるのはさすがに申し訳ないとは思ったのだが、『客間のベッドだから……』と結局は押し切られてしまった形だ。
唯花から昨晩の話を聞いた早苗は、両手で自身の頬を押さえた。
「でもいいなあ。両想いかぁ」
「りょ、両想いって! 私が彼のこと好きだったのは十年前の話で、今は何とも思ってないんだからね! それに國臣さんだって『昔、私のこと好きだった』って話で、今はどうだかわからないわけだし……」
「でもさ、一条さんは、唯花と結婚してもいいって言ってるんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「つまりそれは、そういうことなんじゃない?」
「そ、そんなの、わからないじゃない!」
唯花はほんのりと頬を染めたまま、唇を尖らせる。
國臣の気持ちは、よくわからない。というか昔から、わかった試しがないのだ。彼はいつだって、飄々と唯花のことを翻弄する。そうやって翻弄されること自体は嫌いではないけれど、気持ちが見えないことは不安だった。
「そういえばさ。どうして唯花は一条さんのこと好きになったの?」
「え?」
「あ、今じゃなくて、十年前の話ね。……というか、何で天文部入ったんだっけ? 唯花、別に星とか好きじゃなかったよね?」
「それは……」
星は嫌いではないが好きでもない。テレビで流星群がやってくると聞けば、空を見上げるぐらいはするが、改めて夜に星を見ようと思ったことはあまりない。
「私が天文部に入ったのは、……誘われたからかな」
「誰に?」
「……國臣さんに」
そう言って思い出すのは、やっぱり学生時代だった。
栄智学園の生徒は文武両道の精神のもと、初等部から高等部まで何かしらの部活動に入ることが義務付けられていた。したがって、初等部に入学する際と、初等部から中等部、中等部から高等部に上がる際、何部に所属したいかを紙に書かされる。幅広い年齢が集まる学校のため、部活によっては年齢制限があったり、同じ部活に所属していても初等部と中等部ではやることは別々だったりするのだが、それでも大体、初等部から高等部まで同じ部活をやり抜く生徒が大半だった。
高等部に上がりたての頃、唯花は吹奏楽部に入るつもりだった。吹奏楽部は中等部の頃からやっていたし、知っている部活の仲間もいて安心できる。しかし唯花は、入部届提出三日前にそれを取りやめた。理由は、愛花が吹奏楽部に入ると聞いたからだった。
愛花は中等部まで手芸部に所属していた。しかし、彼女が高等部に上がる際、人数が足りず廃部になってしまっていたのだ。そこで彼女は、双子の妹がいる吹奏楽部に入ることを決めたらしい。唯花がそれで吹奏楽部を諦めてしまうとは少しも思わずに……
もちろん、愛花がいても吹奏楽部を続けるという選択肢はあった。けれど、愛花はコンクールで賞を取るほどのフルートの腕前がある。比べて唯花は、吹奏楽部でも中の中だ。レギュラーの選抜でもギリギリ選ばれる程度の腕前。
もし、家だけでなく部活動でも愛花と比べられたら……
そう思うと、とても同じ部に入ろうとは思えなかった。
それから、何部に入るか決められないまま入部届の提出の期限を過ぎ、唯花は案の定、先生に呼び出しをくらったのである。
『吹奏楽部にしないのか? ずっとやってただろう? 今年からは姉もいるんだし、そこにすればいいじゃないか』
その先生の声に、唯花は何も答えられなかった。自分が吹奏楽部に入らない原因を愛花にしてしまいたくなかったし、たとえそれを言ったところで理解されないと思ったからだ。
そうして三十分ほど、じっとつま先を見つめたまま先生の声を受け流し、先生の声にも諦めが滲み始めた頃、突然うしろから男性の声がした。
『彼女、ウチで預かりましょうか?』
振り返れば、二十歳にいくかいかないかぐらいの男性がいた。短く切り揃えられた黒髪は艶やかで、足も長く、顔もびっくりするぐらい整っている。
その男性の言葉に先生は困った顔をした後、『本当に入りたい部活がないのなら、一条のところにするか?』とわけのわからないことを言ってきた。
『一条のところ、ってどういうことですか?』
『天文部に入るか? ってこと』
先生へと向けた疑問に、答えたのは背後にいる彼だった。
話を聞けば、彼はここの大学生で、さらには天文学部の顧問だという。大学生で『顧問』というのはおかしな話だとは思ったのだが、どうやら栄智学園では部活の顧問は先生でなくてもいいとのことらしい。なので先生の許可さえあれば、大学生でも部活の顧問になれるということだった。
確かに、吹奏楽部の顧問も実際に教員免許があるかどうかを確認していないし、野球部の顧問は元プロ野球選手だ。だからといって、大学生で顧問だなんて、本当にできるのだろうか。
一条と呼ばれていた彼は、『部室に連れて行きます』と言って、唯花を職員室から連れ出した。
彼女は何が何だかわからないまま、彼についていく。
『あの、誘われたところ申し訳ないんですが、私、星にあまり興味はなくて……』
『いいんだ。天文部っていうのは建前で、実際はただの帰宅部だからな』
『え?』
『ウチは伝統的に帰宅部を置けないからな。名前を借りてるんだ。あ、本当に天文部に入りたい人間がいたら活動はするつもりだぞ。まぁ、まだそんな生徒に巡り会ったことはないけどな』
とんでもないことを言いだした彼に、唯花は目を丸くする。
『そんな部が、うちにあったんですね』
『二年ほど前からな。……実は、俺が作った』
『えぇ⁉』
唯花の反応が面白かったのか、前を歩く彼は声を上げて笑う。
『部活動に入りたくないって後輩何人かとな。俺も静かに本が読める場所が欲しかったし、先生達も実質の帰宅部を作りたかったみたいで。まぁ、利害が一致した形だ』
そう言って彼は、部室の扉を開ける。
『来たかったらいつでも来たらいい。ここは今日からお前の部室だ』
それが一条國臣と梶唯花の出会いだった。
「なんか運命の出会いって感じでいいねー! 素敵!」
早苗のはしゃいだような声に、唯花は現実へと引き戻される。
「素敵、かな……?」
「素敵よ! つまり、一条さんにピンチを救われたってことでしょ?」
「ピンチってわけじゃなかったけど……」
でもそうだ。部活が義務付けられた高等部時代、放課後に行く場所をなくしてしまった唯花の居場所となってくれたのは、紛れもなく國臣だった。
早苗はさらにぐっと身を乗り出す。
「で、そこから唯花はどうして一条さんのことを好きになったの?」
「それは……」
唯花はそう口ごもった後、俯いた。頬が熱くなっているのが自分でもわかる。
「それは?」
「そ、そんなことより、ベッドを探さないと!」
「あ。はぐらかしたな」
「べつにいいでしょ!」
熱くなった顔をぷいっと逸らす。視界の端にはニヤニヤとした早苗が映っていたが無視をした。こういう話はあまり得意ではないのだ。
その後、無難でシンプルなベッドを選んだ二人は、家路につくことになった。
「ところでさ、唯花ってお正月休み中はこのままずっと一条さん家の予定?」
「え? うん。たぶん」
マンションに帰る道すがら早苗にそう聞かれ、唯花は一つ頷いた。
昨晩の國臣の様子を見るからに、彼はそのつもりのようだった。だからこそ『ベッドを買う』だなんて話になったのだから。それに唯花としても、もう少し彼の側にいて、昨日の話の続きをしたいと考えていた。
その返事に早苗はぐっと身を乗り出してきた。
「それならさ、お正月の初詣! 一緒にいかない? 一条さんも一緒にさ!」
「な、なんで⁉」
「ダブルデートしようよ!」
あまりにも突飛な提案に、唯花はひっくり返ったような声を上げた。
「ちょ、ちょっとまって! ダブルデートって!」
「私が思うに。二人に足りないのは、話し合う時間と、離れてた十年を埋める思い出だと思うんだよねー」
早苗はしたり顔でふむふむと頷く。
「一条さん、修二とも仲いいし! 私達となら気兼ねしないんじゃない? もしかしたら、コレがきっかけで何か関係が前に進むかもしれないし!」
「それは……」
「それとも、ずっとこのままの感じで、結婚まで行っちゃうつもりでいるの?」
それは確かに嫌だ。彼の気持ちがこちらに向いているか向いていないかぐらいは、はっきりさせておきたい。
そう唯花が頷きかけた、その時だ。
「こんなところで、何してるんだ?」
「へ?」
妙に聞き慣れたその声に振り向くと、そこには國臣が立っていた。仕事の最中なのか、再会した時と同じような和服姿だ。紺色の羽織がやけに人目を引く。寒いのか、手は組むように袖の中に入っていた。
「く、國臣さん⁉ どうしてここに⁉」
「懇意にしてくださってるお客様のお見送りにな」
そう言って彼はうしろを見た。歩道の側に黒い高級車が止まっている。客を見送った後、唯花達を見つけて、わざわざ車を停めてここまで来たのだろう。
突然現れた國臣に早苗は顔を覗かせる。
「一条さん、お久しぶりです!」
「あぁ君は、確か修二の……」
「はい。幼馴染やってます」
人の好い笑みを浮かべる早苗を見た後、國臣の視線はすぐさま唯花に戻ってきた。
「なんか『デート』って聞こえたんだが。唯花、誰かとデートでもする予定があるのか?」
「いや、それはあの……」
唯花は視線を彷徨わせた。いつもより声が低くなっている辺りがちょっと怖い。
なんだかそんな反応されると、ヤキモチを焼かれているみたいじゃないか。
「実はですね、ダブルデートとかどうかなぁって思いまして!」
「ダブルデート?」
「はい。一条さんと唯花。それと、私と修二で!」
狼狽える唯花の代わりに説明してくれたのは、早苗だ。彼女はいつもの明るいテンションそのままに、國臣に計画を話していった。
「俺は別にかまわないぞ」
早苗の『ダブルデート計画』を聞いた後、國臣はそう頷いた。
唯花は驚きで目を見開く。正直彼は、こういうのが苦手だと思っていたからだ。
「いいんですか?」
「あぁ、修二なら気兼ねもないしな。あと普通に結婚のことを伝えていなかった」
「あ、それ。私が伝えておきました! なんか『俺に言わないとか、どうなんだアイツ』って怒ってましたよ」
「はは、らしいな」
國臣は砕けたような笑みを見せる。
早苗は、立ち並ぶ唯花と國臣の顔を交互に見ながら、手を叩いた。
「んじゃ、決まりですね! また修二にも確認して、私から唯花に連絡します」
「あぁ、わかった」
「えっと。……はい」
まったく口を挟む暇なく決まったダブルデートの予定に、唯花は楽しみのような、不安のような、複雑な感情を胸に抱いていた。
◆ ◇ ◆
國臣が、唯花のことを好きだと自覚したのは、初めて彼女の唇に触れた時だった。
まるで吸い寄せられるように、重なる唇。柔らかくてしっとりとしたその感触に、なんでこんなことになっているのだろうと逡巡して、自分は彼女のことが好きなのだと、やっとそこで気がついた。
それまで彼女は、國臣にとっていずれ結婚する人の妹だという認識でしかなかった。初めて声をかけた時も、一緒に部室で過ごすようになってからも、ずっとそういう気持ちで彼女を見てきた。でも、たまにする泣き出しそうな表情や、綻ぶような笑みがどこか放っておけなくて、特に読みたい本がない時でもいつも部室に行き、彼女の側にいた。そして側にいるうちに、彼女の事情も透けて見えて、それでも弱音の一つも吐かない彼女にだんだんと惹かれていった。
その気持ちが露わになったのが、あのキスだった。
唇が離れて、目が合う。呆然とする彼女の頬には涙が流れていて、唇を押さえる指先は震えていた。輪郭から離れた涙が、二人の間にある机に跳ねる。
そこで初めて國臣は、自分がとんでもないことをしてしまったのだと自覚した。
『今の』
『悪い』
彼女の小さな声に、それだけしか返せなかった。なのに唯花は『どうして……?』とさらに追い打ちをかけてくる。
本当はここで正直に自分の気持ちを吐露してしまえばよかったのだ。けれど、嫌悪の涙を浮かべる彼女にそんなことを言う勇気はなくて、國臣は少し考えた後、こう口にした。
『愛花に似ていたから、かな……』
そう言うと彼女は目を見開いた後、『そっか……』と下唇を噛み締めながら小さく呟いた。彼女は、制服のスカートを握りしめて、精一杯頬を引き上げながら、続けてこう吐き出す。
『次は、間違えないでくださいね。愛花も傷ついちゃいますよ?』
その苦しげな表情の意味を、國臣は十年間、嫌悪だと思っていた。よく知らない、放課後だけ一緒に過ごしている男に、唇を奪われたことを気持ち悪がっているのだと。
(でももしかしたら、違ったのかもしれないな)
そう思うようになったのは、最近だ。
再会してからの彼女は、なんというか、國臣を嫌っているようには見えなかった。
戸惑っていたり、何か思いつめたような表情を浮かべるようなことはあっても、彼女が自分のことを嫌がっているようには、どうしても見えなかったのだ。特に十年前の話を持ち出してきた時の彼女は、なんというか、凄く可愛かった。
『もしかしてあの言葉、ショックだったのか?』
『だって……』
そう言葉を詰まらせた唯花の表情は、十年前の彼女の気持ちをいやというほどに表していた。
(両想いだったのか……)
傷つけてしまった当時のことを思い出して、申し訳ない気持ちになるのと同時に、なぜかそれが無性に嬉しかった。そして、彼女が帰郷するように仕向けた少し前の自分を、もの凄く褒めてやりたい気持ちにもなった。
唯花が今、國臣のことをどう思っているのか、それはわからない。けれど、悪いようには思われていないのではないかと思う。
だって――
「やっぱりこっちで寝ませんか?」
そうじゃなければこんな風に、ベッドには誘ってこないだろう。
唯花は先日買ってきたのだろう真新しいパジャマ姿で、もじもじと指先を合わせる。國臣はソファの側でそんな彼女を見下ろしていた。
彼女と一緒に暮らし始めてから、三日が経っていた。
十二月三十日。年の瀬も年の瀬である。年末に頼んだベッドの配達は三が日以降になるらしく、まだ届いてはいない。なので、相変わらず寝室は彼女に譲り、國臣は今日までずっとソファで寝起きしていた。それがきっと彼女の良心にとがめたのだろう。
羞恥で頬を染める唯花に、國臣は揶揄うような笑みを浮かべる。
「誘ってるのか?」
「な、なんでそうなるんですか!」
「男をベッドに誘うのはそういうことだろう?」
その言葉に彼女は毛を逆立てながらますます赤くなる。
「違います! 寝るだけです! なにもしません!」
「お前がしなくても、俺がするかもしれないぞ?」
「そ、それは――」
唯花は唇を震えさせた後、泣きそうな顔で俯いた。
「な? 俺と一緒だったら、安心して寝れないだろ?」
「それでも! そのままだと風邪ひいちゃいますよ! それに國臣さん、今日朝から眠そうでしたし……」
「よく見てるな」
気づいていないと思っていたことを指摘され、思わずそんな言葉が漏れた。
眠たかったのはソファで寝ていたからではなく、遅くまで仕事をしていたからなのだが、彼女はどうやら自分のせいで國臣が寝不足だと思っているらしかった。
「私は、明日も休みだからいいですけど、國臣さんは仕事ですよね? 私のせいでお仕事に支障をきたすのはあれなので……」
「愛花がいなくなったと知って、最初に思いついたのは唯花だった。代わりが必要なら呼び寄せてくれるかなと思って話を振ったら、案の定、お前は帰ってきた」
「……」
「正直、一目会えるだけで良かったんだ。こんなおかしな理由で呼び戻されたって知ったら、唯花のことだから怒ってすぐ帰ると思っていたしな。……だからまさか、結婚まで了承してくれるとは思わなくて、連絡もらった時は、自分の耳を疑ったよ」
「それは……」
「わかってる。親に言われて、渋々了承したって感じなんだよな? それか、姉妹としての責任、とかか?」
どちらも正解で、どちらも不正解だ。
本当に心から嫌な相手だったら、親に言われたって、愛花のためだからって、唯花は絶対に了承したりしなかった。唯花は昔からそういう性格で、そういうところも両親に面倒くさいと思われていたのだから……
(つまり、私が結婚を了承したのは――……)
「――っ!」
唯花は自分で自身の両頬を叩いた。パシン、という乾いた音が、部屋に広がる。そして、そのまま彼女は勢いよく立ち上がった。
「きょ、今日はもう、疲れました! 寝ます!」
唯花の突然の行動に、國臣は驚いたように目を見開く。そんな彼を視界に入れないようにしながら、彼女は先ほど使えと言われた部屋のほうにつま先を向けた。
「唯花?」
「これ以上ごちゃごちゃ考えてたら、変な結論にたどり着いちゃいそうなので、ちょっと一度頭を冷やしてきます!」
「あのな」
「今話しかけないでください!」
「だが……」
「頭冷やすって言ってるじゃないですか!」
「お前、床で寝るのか?」
「…………はい?」
唯花は怪訝な顔で國臣を振り返る。床で寝るとはどういうことだろうか。
「言い忘れてたが、この家にベッドは一つしかないんだ」
「へ?」
「とりあえず、あの部屋にベッドを買うまで、お前は俺の部屋で寝泊まりすればいい」
本当に彼は、いつも突拍子もないことを言う。
唯花が何も言えずに固まっていると、彼は続けて「安心しろ。なにもしないから」と口にした。
「えっと……」
唯花は戸惑うような声を出す。それをどう信用すればいいのだろうか。確かに國臣は昔から紳士的な性格だが、若い男女が一つのベッドで眠って、何もないなんてことがあり得るのだろうか。と言うか、何もなかったら何もなかったで、それはちょっとショックである。
「それに、俺はここで寝るつもりだしな」
そう言って彼が指したのは自身の真下だった。正確にはソファの座面である。
「毛布ぐらいあれば、ソファでも何とかなるだろ」
「そ、そんな、悪いです! それなら私がソファで!」
「男として、さすがにそれはできないだろ?」
彼はそう言って事もなげに笑うが、家の主人を差し置いてベッドで寝るだなんて、どうにも良心がとがめる。
(だけど、一緒に寝るわけにもいかないし……)
唯花は額を押さえながら、頭の中の自分と何度も話し合いを重ねる。しかし、何度脳内会議を繰り広げても、一向に國臣も唯花も安眠できるいい案は出てこなかった。
「そうだ。明日暇か?」
「まぁ、暇と言えば暇ですけど……」
脳内会議を一旦中断させて、唯花はそう答える。彼は懐から財布と、先ほど家に入る時に出したキーケースを取り出した。
「それなら明日、ベッドを買っておいてくれ。客間用のだが、しばらくはお前が寝るんだから好きなのを選んできたら良い。俺は仕事だからな。それとこれは、合鍵だ」
手を取られ、クレジットカードとカードキーを握らされる。あまりにも軽い感じで、とんでもないものを渡してきた國臣に、唯花は飛び上がった。
「な、な、な、なに渡してきてるんですか⁉」
「カードと鍵?」
「そうじゃなくて! 簡単にこういうの、渡しちゃダメですよ!」
「そうか?」
「そうです! それにクレジットカードって、本人しか使っちゃダメなんですよ!」
「そうか。それなら現金で……」
「ごめんなさい! そういう意味じゃないです‼」
ふたたび財布を取り出してきた國臣の手を押しとどめる。國臣は唯花が何に慌てているのかわかっていない様子で、首をひねった。そんな彼に、唯花はさらに声を大きくする。
「こういうの簡単に渡して、泥棒に入られたり、お金盗られたりしたらどうするんですか!」
「盗るのか?」
「盗りませんよ!」
「ならいいだろう?」
「いいだろうって……」
そこまで言われると、どう止めていいのかわからなくなる。國臣があまりにも堂々としているので、まるで間違っているのが自分のような気さえしてきてしまうのだから困りものだ。
「俺が俺の一存で、俺が信用している相手に俺の大切なものを渡すんだ。問題はない」
「ありますよ! ……というか、6LDKの件もそうですけど、國臣さんって本当に昔っからそういうところがありますよね。天然というか、なんというか……」
天然というよりは、大物という感じだ。彼はいつだって何に対しても大きくぶれることはないし、飄々と受け流してしまう。そういうところがとても魅力的で、素敵だと、学生時代は思っていた。
「いい加減にしないと、いつか絶対痛い目みぃ――」
『みますよ』と続けるはずだった言葉は、國臣が頬をつまんだことにより、中断された。
唯花が顔を上げると、彼は嬉しそうな顔で笑っている。
「やっと笑ったな」
「あ」
指摘されて初めて気がついた。頬が緩んでいる。唯花はあわてて自分の口元を覆った。指先に当たる自分の頬が熱を持っているのがわかる。
國臣は彼女の頭を一撫でした後、風呂場に向かった。
「俺もシャワー浴びてくる。眠たかったら先に寝てていいからな」
そう言って去っていくうしろ姿を、唯花はじっと見つめることしかできなかった。
◆ ◇ ◆
「それで本当に何もなかったの?」
「なかったわよ。國臣さん、結局ソファで寝たし……」
翌日、唯花は國臣に言われた通り、ベッドを買いに家具屋を回っていた。
そんな彼女の隣を歩くのは、双葉早苗である。ショートカットに、大きなクリクリとした目が特徴の女性だ。高校卒業以来会っていないので、実に九年ぶりの再会である。今は近くの幼稚園で、先生をしているらしかった。唯花がベッドを買うのにつき合ってくれている。
結局ベッドのお金は、一度唯花が立て替えておき、後で國臣が支払うという話になってしまった。唯花が寝るためのベッドなので彼に買わせるのはさすがに申し訳ないとは思ったのだが、『客間のベッドだから……』と結局は押し切られてしまった形だ。
唯花から昨晩の話を聞いた早苗は、両手で自身の頬を押さえた。
「でもいいなあ。両想いかぁ」
「りょ、両想いって! 私が彼のこと好きだったのは十年前の話で、今は何とも思ってないんだからね! それに國臣さんだって『昔、私のこと好きだった』って話で、今はどうだかわからないわけだし……」
「でもさ、一条さんは、唯花と結婚してもいいって言ってるんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「つまりそれは、そういうことなんじゃない?」
「そ、そんなの、わからないじゃない!」
唯花はほんのりと頬を染めたまま、唇を尖らせる。
國臣の気持ちは、よくわからない。というか昔から、わかった試しがないのだ。彼はいつだって、飄々と唯花のことを翻弄する。そうやって翻弄されること自体は嫌いではないけれど、気持ちが見えないことは不安だった。
「そういえばさ。どうして唯花は一条さんのこと好きになったの?」
「え?」
「あ、今じゃなくて、十年前の話ね。……というか、何で天文部入ったんだっけ? 唯花、別に星とか好きじゃなかったよね?」
「それは……」
星は嫌いではないが好きでもない。テレビで流星群がやってくると聞けば、空を見上げるぐらいはするが、改めて夜に星を見ようと思ったことはあまりない。
「私が天文部に入ったのは、……誘われたからかな」
「誰に?」
「……國臣さんに」
そう言って思い出すのは、やっぱり学生時代だった。
栄智学園の生徒は文武両道の精神のもと、初等部から高等部まで何かしらの部活動に入ることが義務付けられていた。したがって、初等部に入学する際と、初等部から中等部、中等部から高等部に上がる際、何部に所属したいかを紙に書かされる。幅広い年齢が集まる学校のため、部活によっては年齢制限があったり、同じ部活に所属していても初等部と中等部ではやることは別々だったりするのだが、それでも大体、初等部から高等部まで同じ部活をやり抜く生徒が大半だった。
高等部に上がりたての頃、唯花は吹奏楽部に入るつもりだった。吹奏楽部は中等部の頃からやっていたし、知っている部活の仲間もいて安心できる。しかし唯花は、入部届提出三日前にそれを取りやめた。理由は、愛花が吹奏楽部に入ると聞いたからだった。
愛花は中等部まで手芸部に所属していた。しかし、彼女が高等部に上がる際、人数が足りず廃部になってしまっていたのだ。そこで彼女は、双子の妹がいる吹奏楽部に入ることを決めたらしい。唯花がそれで吹奏楽部を諦めてしまうとは少しも思わずに……
もちろん、愛花がいても吹奏楽部を続けるという選択肢はあった。けれど、愛花はコンクールで賞を取るほどのフルートの腕前がある。比べて唯花は、吹奏楽部でも中の中だ。レギュラーの選抜でもギリギリ選ばれる程度の腕前。
もし、家だけでなく部活動でも愛花と比べられたら……
そう思うと、とても同じ部に入ろうとは思えなかった。
それから、何部に入るか決められないまま入部届の提出の期限を過ぎ、唯花は案の定、先生に呼び出しをくらったのである。
『吹奏楽部にしないのか? ずっとやってただろう? 今年からは姉もいるんだし、そこにすればいいじゃないか』
その先生の声に、唯花は何も答えられなかった。自分が吹奏楽部に入らない原因を愛花にしてしまいたくなかったし、たとえそれを言ったところで理解されないと思ったからだ。
そうして三十分ほど、じっとつま先を見つめたまま先生の声を受け流し、先生の声にも諦めが滲み始めた頃、突然うしろから男性の声がした。
『彼女、ウチで預かりましょうか?』
振り返れば、二十歳にいくかいかないかぐらいの男性がいた。短く切り揃えられた黒髪は艶やかで、足も長く、顔もびっくりするぐらい整っている。
その男性の言葉に先生は困った顔をした後、『本当に入りたい部活がないのなら、一条のところにするか?』とわけのわからないことを言ってきた。
『一条のところ、ってどういうことですか?』
『天文部に入るか? ってこと』
先生へと向けた疑問に、答えたのは背後にいる彼だった。
話を聞けば、彼はここの大学生で、さらには天文学部の顧問だという。大学生で『顧問』というのはおかしな話だとは思ったのだが、どうやら栄智学園では部活の顧問は先生でなくてもいいとのことらしい。なので先生の許可さえあれば、大学生でも部活の顧問になれるということだった。
確かに、吹奏楽部の顧問も実際に教員免許があるかどうかを確認していないし、野球部の顧問は元プロ野球選手だ。だからといって、大学生で顧問だなんて、本当にできるのだろうか。
一条と呼ばれていた彼は、『部室に連れて行きます』と言って、唯花を職員室から連れ出した。
彼女は何が何だかわからないまま、彼についていく。
『あの、誘われたところ申し訳ないんですが、私、星にあまり興味はなくて……』
『いいんだ。天文部っていうのは建前で、実際はただの帰宅部だからな』
『え?』
『ウチは伝統的に帰宅部を置けないからな。名前を借りてるんだ。あ、本当に天文部に入りたい人間がいたら活動はするつもりだぞ。まぁ、まだそんな生徒に巡り会ったことはないけどな』
とんでもないことを言いだした彼に、唯花は目を丸くする。
『そんな部が、うちにあったんですね』
『二年ほど前からな。……実は、俺が作った』
『えぇ⁉』
唯花の反応が面白かったのか、前を歩く彼は声を上げて笑う。
『部活動に入りたくないって後輩何人かとな。俺も静かに本が読める場所が欲しかったし、先生達も実質の帰宅部を作りたかったみたいで。まぁ、利害が一致した形だ』
そう言って彼は、部室の扉を開ける。
『来たかったらいつでも来たらいい。ここは今日からお前の部室だ』
それが一条國臣と梶唯花の出会いだった。
「なんか運命の出会いって感じでいいねー! 素敵!」
早苗のはしゃいだような声に、唯花は現実へと引き戻される。
「素敵、かな……?」
「素敵よ! つまり、一条さんにピンチを救われたってことでしょ?」
「ピンチってわけじゃなかったけど……」
でもそうだ。部活が義務付けられた高等部時代、放課後に行く場所をなくしてしまった唯花の居場所となってくれたのは、紛れもなく國臣だった。
早苗はさらにぐっと身を乗り出す。
「で、そこから唯花はどうして一条さんのことを好きになったの?」
「それは……」
唯花はそう口ごもった後、俯いた。頬が熱くなっているのが自分でもわかる。
「それは?」
「そ、そんなことより、ベッドを探さないと!」
「あ。はぐらかしたな」
「べつにいいでしょ!」
熱くなった顔をぷいっと逸らす。視界の端にはニヤニヤとした早苗が映っていたが無視をした。こういう話はあまり得意ではないのだ。
その後、無難でシンプルなベッドを選んだ二人は、家路につくことになった。
「ところでさ、唯花ってお正月休み中はこのままずっと一条さん家の予定?」
「え? うん。たぶん」
マンションに帰る道すがら早苗にそう聞かれ、唯花は一つ頷いた。
昨晩の國臣の様子を見るからに、彼はそのつもりのようだった。だからこそ『ベッドを買う』だなんて話になったのだから。それに唯花としても、もう少し彼の側にいて、昨日の話の続きをしたいと考えていた。
その返事に早苗はぐっと身を乗り出してきた。
「それならさ、お正月の初詣! 一緒にいかない? 一条さんも一緒にさ!」
「な、なんで⁉」
「ダブルデートしようよ!」
あまりにも突飛な提案に、唯花はひっくり返ったような声を上げた。
「ちょ、ちょっとまって! ダブルデートって!」
「私が思うに。二人に足りないのは、話し合う時間と、離れてた十年を埋める思い出だと思うんだよねー」
早苗はしたり顔でふむふむと頷く。
「一条さん、修二とも仲いいし! 私達となら気兼ねしないんじゃない? もしかしたら、コレがきっかけで何か関係が前に進むかもしれないし!」
「それは……」
「それとも、ずっとこのままの感じで、結婚まで行っちゃうつもりでいるの?」
それは確かに嫌だ。彼の気持ちがこちらに向いているか向いていないかぐらいは、はっきりさせておきたい。
そう唯花が頷きかけた、その時だ。
「こんなところで、何してるんだ?」
「へ?」
妙に聞き慣れたその声に振り向くと、そこには國臣が立っていた。仕事の最中なのか、再会した時と同じような和服姿だ。紺色の羽織がやけに人目を引く。寒いのか、手は組むように袖の中に入っていた。
「く、國臣さん⁉ どうしてここに⁉」
「懇意にしてくださってるお客様のお見送りにな」
そう言って彼はうしろを見た。歩道の側に黒い高級車が止まっている。客を見送った後、唯花達を見つけて、わざわざ車を停めてここまで来たのだろう。
突然現れた國臣に早苗は顔を覗かせる。
「一条さん、お久しぶりです!」
「あぁ君は、確か修二の……」
「はい。幼馴染やってます」
人の好い笑みを浮かべる早苗を見た後、國臣の視線はすぐさま唯花に戻ってきた。
「なんか『デート』って聞こえたんだが。唯花、誰かとデートでもする予定があるのか?」
「いや、それはあの……」
唯花は視線を彷徨わせた。いつもより声が低くなっている辺りがちょっと怖い。
なんだかそんな反応されると、ヤキモチを焼かれているみたいじゃないか。
「実はですね、ダブルデートとかどうかなぁって思いまして!」
「ダブルデート?」
「はい。一条さんと唯花。それと、私と修二で!」
狼狽える唯花の代わりに説明してくれたのは、早苗だ。彼女はいつもの明るいテンションそのままに、國臣に計画を話していった。
「俺は別にかまわないぞ」
早苗の『ダブルデート計画』を聞いた後、國臣はそう頷いた。
唯花は驚きで目を見開く。正直彼は、こういうのが苦手だと思っていたからだ。
「いいんですか?」
「あぁ、修二なら気兼ねもないしな。あと普通に結婚のことを伝えていなかった」
「あ、それ。私が伝えておきました! なんか『俺に言わないとか、どうなんだアイツ』って怒ってましたよ」
「はは、らしいな」
國臣は砕けたような笑みを見せる。
早苗は、立ち並ぶ唯花と國臣の顔を交互に見ながら、手を叩いた。
「んじゃ、決まりですね! また修二にも確認して、私から唯花に連絡します」
「あぁ、わかった」
「えっと。……はい」
まったく口を挟む暇なく決まったダブルデートの予定に、唯花は楽しみのような、不安のような、複雑な感情を胸に抱いていた。
◆ ◇ ◆
國臣が、唯花のことを好きだと自覚したのは、初めて彼女の唇に触れた時だった。
まるで吸い寄せられるように、重なる唇。柔らかくてしっとりとしたその感触に、なんでこんなことになっているのだろうと逡巡して、自分は彼女のことが好きなのだと、やっとそこで気がついた。
それまで彼女は、國臣にとっていずれ結婚する人の妹だという認識でしかなかった。初めて声をかけた時も、一緒に部室で過ごすようになってからも、ずっとそういう気持ちで彼女を見てきた。でも、たまにする泣き出しそうな表情や、綻ぶような笑みがどこか放っておけなくて、特に読みたい本がない時でもいつも部室に行き、彼女の側にいた。そして側にいるうちに、彼女の事情も透けて見えて、それでも弱音の一つも吐かない彼女にだんだんと惹かれていった。
その気持ちが露わになったのが、あのキスだった。
唇が離れて、目が合う。呆然とする彼女の頬には涙が流れていて、唇を押さえる指先は震えていた。輪郭から離れた涙が、二人の間にある机に跳ねる。
そこで初めて國臣は、自分がとんでもないことをしてしまったのだと自覚した。
『今の』
『悪い』
彼女の小さな声に、それだけしか返せなかった。なのに唯花は『どうして……?』とさらに追い打ちをかけてくる。
本当はここで正直に自分の気持ちを吐露してしまえばよかったのだ。けれど、嫌悪の涙を浮かべる彼女にそんなことを言う勇気はなくて、國臣は少し考えた後、こう口にした。
『愛花に似ていたから、かな……』
そう言うと彼女は目を見開いた後、『そっか……』と下唇を噛み締めながら小さく呟いた。彼女は、制服のスカートを握りしめて、精一杯頬を引き上げながら、続けてこう吐き出す。
『次は、間違えないでくださいね。愛花も傷ついちゃいますよ?』
その苦しげな表情の意味を、國臣は十年間、嫌悪だと思っていた。よく知らない、放課後だけ一緒に過ごしている男に、唇を奪われたことを気持ち悪がっているのだと。
(でももしかしたら、違ったのかもしれないな)
そう思うようになったのは、最近だ。
再会してからの彼女は、なんというか、國臣を嫌っているようには見えなかった。
戸惑っていたり、何か思いつめたような表情を浮かべるようなことはあっても、彼女が自分のことを嫌がっているようには、どうしても見えなかったのだ。特に十年前の話を持ち出してきた時の彼女は、なんというか、凄く可愛かった。
『もしかしてあの言葉、ショックだったのか?』
『だって……』
そう言葉を詰まらせた唯花の表情は、十年前の彼女の気持ちをいやというほどに表していた。
(両想いだったのか……)
傷つけてしまった当時のことを思い出して、申し訳ない気持ちになるのと同時に、なぜかそれが無性に嬉しかった。そして、彼女が帰郷するように仕向けた少し前の自分を、もの凄く褒めてやりたい気持ちにもなった。
唯花が今、國臣のことをどう思っているのか、それはわからない。けれど、悪いようには思われていないのではないかと思う。
だって――
「やっぱりこっちで寝ませんか?」
そうじゃなければこんな風に、ベッドには誘ってこないだろう。
唯花は先日買ってきたのだろう真新しいパジャマ姿で、もじもじと指先を合わせる。國臣はソファの側でそんな彼女を見下ろしていた。
彼女と一緒に暮らし始めてから、三日が経っていた。
十二月三十日。年の瀬も年の瀬である。年末に頼んだベッドの配達は三が日以降になるらしく、まだ届いてはいない。なので、相変わらず寝室は彼女に譲り、國臣は今日までずっとソファで寝起きしていた。それがきっと彼女の良心にとがめたのだろう。
羞恥で頬を染める唯花に、國臣は揶揄うような笑みを浮かべる。
「誘ってるのか?」
「な、なんでそうなるんですか!」
「男をベッドに誘うのはそういうことだろう?」
その言葉に彼女は毛を逆立てながらますます赤くなる。
「違います! 寝るだけです! なにもしません!」
「お前がしなくても、俺がするかもしれないぞ?」
「そ、それは――」
唯花は唇を震えさせた後、泣きそうな顔で俯いた。
「な? 俺と一緒だったら、安心して寝れないだろ?」
「それでも! そのままだと風邪ひいちゃいますよ! それに國臣さん、今日朝から眠そうでしたし……」
「よく見てるな」
気づいていないと思っていたことを指摘され、思わずそんな言葉が漏れた。
眠たかったのはソファで寝ていたからではなく、遅くまで仕事をしていたからなのだが、彼女はどうやら自分のせいで國臣が寝不足だと思っているらしかった。
「私は、明日も休みだからいいですけど、國臣さんは仕事ですよね? 私のせいでお仕事に支障をきたすのはあれなので……」
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